【コラム】
神社の源流を訪ねて(10)

出雲の神々② 大国主命(おおくにぬし)

栗原 猛


新羅色を薄めた日本神話

 大国主命を祭る出雲大社は豪壮な建物で、特に正面に飾る太いしめ縄が印象的だ。広い境内には外国人の善男善女も含めて観光客がひっきりなしに訪れ、人気の高さがうかがえる。

 出雲を見に行くことになり大急ぎで『古事記』、『日本書紀』、『出雲国風土記』を読み直した。記紀と『出雲国風土記』とでは、同じ神でもかなり様相が異なっていることが気になっていたからだ。記紀神話の素戔嗚尊は、八岐大蛇退治をするなど荒々しい神だが、『出雲国風土記』では、出雲が舞台になった話であるにもかかわらず、この話はなく、静かな一地方神に過ぎない。一方『風土記』では主役は大国主命で、「天の下造らしし大神」として活躍する。

 「栲衾(たくぶすま)、志羅紀(しらき)の三埼を、国の余りありやと見れば、国の余りあり」と詔(の)りたまひて、「童女(おとめ)の胸鉏(むなすき)取らして……三身(みつみ)の綱うち挂(か)けて、霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来々々(くにこくにこ)と引き来縫へる国は、去豆(こづ)の折絶(をりたえ)より、八穂爾支豆支(やほにきづき)の御埼(日御碕)なり」

 これは八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)が、新羅の岬に綱をかけて、国引きをする有名な場面だが、『風土記』にはあるが記紀には全くない。
 それぞれ編集方針が異なるという見方がされているが、もう一点、記紀神話には、高天原から国譲りの交渉の使者として地上に降りた天穂日命(あめのほひのみこと)が、3年間、大国主命のところが気に入って報告を怠ったとある。ところが出雲国造神賀詞では逆に十分任務を果たしたとなっている。この神賀詞は大和から出雲に派遣された、天穂日命の子孫の出雲国造家が書いたとされるので、差し引いて読む必要があるだろう。

 大国主命は名前が多いことでも知られる。出雲大社由緒略記は、大己貴命(おおなむち)、大穴持命(おおあなもち)、大物主神(おおものぬし)、葦原醜男神(あしはらしこおのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、大名持神(おおなもちのかみ)、国作大己貴命(くにつくりおおなむち)などを紹介する。大国主命はまた多くの女神と結ばれ、古事記によると子供の数は180柱だ。記紀神話は大国主命が、天津神(あまつかみ)に国土を譲ることが筋になっていることなどから、瀧音能之駒沢大教授は、「大国主命は、多くの地方神を統合する象徴としてつくられた名前ではないか」とみる。

 朝鮮半島にあった三国との関係だが、出雲は伽耶、新羅に近く、古代から製鉄や焼き物など最先端技術の交流が盛んだ。一方大和朝廷は新羅と対立関係にあった百済と良好だった。しかし当時、朝鮮半島は新羅が統一しており、出雲に脅威を抱いた大和朝廷は出雲の新羅色を薄めたかったのではないか。朝鮮半島との国際関係が神話の人物像にも微妙に影を落としているように思われる。

 (元共同通信編集委員)

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