加藤宣幸さんのこと

羽原 清雅

 2月18日午後、加藤さんの急逝を知り、信じがたくも九段の自宅に伺った。
 すでに身綺麗になって横たわる加藤さんは、まことにおだやかで、生前と全く変わらない表情に見えた。

 2003年か04年のころ、勉強会に招かれて、加藤さんと知り合うことになった。結党時から社会党書記局に入った加藤さんは、朝日新聞記者として社会党を取材していた梁田浩祺さん、一柳東一郎さん、中瀬信治さん、深津真澄さんといった先輩たちをよく知っておいでで、小生も時折お会いするようになった。
 04年の秋ごろ、「オルタ」に原稿を書かないか、とのお誘いを受けて、その11月号に初めて、小泉政権下の民主党についての稿を掲載して頂いた。
 新聞記者時代、主観や自説を書く機会は少なかったが、書き始めるとその種の執筆も結構楽しくなって、ほぼ毎月のように出稿させて頂いた。ときに注文の題材もあったが、もっぱら自由に書かせてもらった。

 加藤さんに権力志向はなく、個人を大切にし、リベラルに徹していた。自らの考えをもちながらも、それを語るよりは、見事に聞き上手、引き出し上手に対応されていた。
 「オルタ」同人には、おのれの見解を持つ各界の人々が集う。従って、まとめたり、方向付けをしたりの点に、難しさもあった。それでも、加藤さんはそれぞれに言いたいことを述べてもらい、さて結論をまとめて、となると、その必要もなく、なんとなく加藤さんの判断に吸収され、各位とも満足げに終わるのだった。
 それは、加藤さんが連日のように多様な方々に合い、人脈を広げ、「オルタ」の執筆者を開拓していく姿に「納得」があったからではなかったか。
 それは93歳という人生経験の重さばかりでなく、なにかおさまりやすい空気を発散させていたのだった。いまになって、そのことを強く感じている。

 加藤さんのいなくなった「オルタ」はどこに行くのだろうか。
 高齢者の多い執筆陣なので、もう目いっぱいだとの意向もあるようだが、やはり若い人たちに語り継ぐミニメディアであってほしい。
 加藤さんは急逝時に、「オルタ」3月号のメニューを手にしていた、という。これは、加藤さんの遺志だったのではないか。誰かにバトンタッチしようと、メニューを記したファイルを握っていたのではあるまいか。

 加藤さんとは大阪に行き、大阪社会運動協会の荒木傳さんの案内で、労働運動など大量の資料を見せてもらったことがある。長野・別所温泉に遊んだときには、農民運動などに尽くしたタカクラ・テル、暗殺直前にこの地で演説した山本宣治の記念碑を訪ねた。
 それぞれに、父親・加藤勘十への想いをかみしめていたのではなかったか。
 市井の一寓に、静かだが勁く生きた人材が惜しまれてならない。

 (元朝日新聞政治部長・「オルタ」編集委員)

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