【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

半世紀前のベルファスト暴動を描く映画が今、心を捕らえるのはなぜ

荒木 重雄

 濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』が国際長編映画賞を受賞して日本のマスコミを湧かせた今春の米国アカデミー賞で、地味な作品ながら、別な意味で注目を集めた映画があった。
 脚本賞に輝いた、英国のケネス・ブラナー脚本・監督の『ベルファスト』である。
 この映画は、シェイクスピア劇の名優として評価が高く、俳優・監督・演出家として映画や舞台で活躍するケネス・ブラナーが、自身の幼少期を、モノクロで描き出される1969年の北アイルランド・ベルファストを舞台に、主人公の無邪気な少年バディに託して描いた映画である。

 誰もが顔なじみで、街全体が一つの家族のような、賑やかな労働者街の路上。バディが自宅の前で遊んでいると、視線の先に、凶暴な気配を漂わせた大人の一団が現れた。呆然とする少年の眼前で突然、炎が上がる。慌てて家の中に隠れると、外からは怒号や窓ガラスが叩き割られる音。そして爆薬が仕込まれた自動車が爆発。
 平和だった日常が、身の毛もよだつ暴力で突如覆される衝撃。
 彼らが去った後、不安にあおられた人々は次の襲撃に備えてバリケードを築き、親しかった住民同士の間に分断と疑心がひろがり、街に警官と兵士の姿が溢れて、世界は一変する。

 北アイルランドの20世紀を覆ったカトリックとプロテスタントの宗派対立、「北アイルランド紛争」の一場面である。

 ◆ 北アイルランド紛争、発端と経緯

 英国(大ブリテン島)の隣に位置するアイルランド島は、ケルト文化とカトリックの伝統をもち、古来、英国の干渉を受けながらも独自性を保ってきた。ところが、16世紀、イングランド王ヘンリー8世は自らの離婚問題をきっかけにカトリックと離反し、プロテスタントのイングランド国教会(聖公会)を興すと、アイルランドへ自国プロテスタントの入植を進めた。
 以後、プロテスタント植民者が先住のカトリック住民から土地を奪い、権力を握って、支配・抑圧する構造が定着する。18世紀後半には大規模な反乱が起きるが、3万人余の犠牲者を出して英軍が鎮圧。1801年には英国に併合される。

 アイルランド・カトリック住民の自治復権をめざす闘争は、その後も、武装蜂起と弾圧、ゲリラ戦を繰り返す、血みどろの戦いとして続いたが、1921年、独立派住民は英国政府と講和条約を締結し、翌年、アイルランドは、「アイルランド自由国」となって、英自治領の範囲内ながら自治権を獲得した。

 しかし、アイルランド島全体が自由国となったのではない。アイルランド独立に猛反対するプロテスタントが多数派の北部6州は、「北アイルランド」として自由国から分離され、英国領に留められることとなった。
 ここに改めて「北アイルランド問題(紛争)」が発生した。

 アイルランド自由国は1949年、英国関与を脱して「共和国」として完全独立するが、一方、北アイルランドでは、依然としてプロテスタント優位の下で、カトリックは差別・抑圧されていた。60年代に入ると、カトリックへの差別撤廃を求める運動が盛んになり、プロテスタントにも賛同者はいたが、やがて、英国の支配を脱して共和国との統一をめざすカトリックの「アイルランド共和軍暫定派(IRA)」と、英国帰属維持を主張するプロテスタントの「アルスター防衛協会(UDA)」の、二つの武装組織の対決を軸に、カトリック、プロテスタント各内部でのイデオロギー対立、そこに、北アイルランド政府と英国政府の治安部隊が加わって、約30年間に3,500人以上が犠牲になる、血で血を洗う暴力の応酬が、98年の和平合意まで続いた。

 ◆ 今に残る両教徒を隔てる分離壁

 映画『ベルファスト』に戻ろう。不穏な空気が漂う中でも、純朴な庶民の父母と祖父母の愛情に包まれたバディ少年は、家族揃って映画を見にいったり、クラスメートに恋をしたり、年上の女友達に誘われて万引きをしたりと、少年らしい幸福な日々を満喫している。しかし、再び襲った暴動の恐怖の渦に巻き込まれたバディ一家は、ついに、ベルファストを去る決意をする。
 住み慣れた愛する街、かつては街中の皆が家族のように賑やかに笑いあい親しみあった故郷を、恐怖に追われて離れる痛み、悲しみ。

 だがそれは、ベルファストだけではなく、宗教や民族の対立があるところ、インドで、スリランカで、コソボで、ルワンダで、スーダンで、イエメンで、そしていま、最も切実にはウクライナで、繰り返されてきた、また、繰り返されていることである。

 映画では、バディ少年が、恋する少女の家を訪れ別れを告げたあと、ポツリという。「僕がまた街に戻っても、彼女とは結婚できないだろう。僕はプロテスタントで、彼女はカトリックだから」。それに対して父が応える。「できるよ。優しくてフェアで、お互いを尊敬しあえば……」。
 この言葉がこの映画のメッセージだろう。

 現在の北アイルランドは、98年の合意を踏まえ、対英分離・帰属両派が協同して政府を運営するシステムを保っているが、決して安定はしていない。英国のEU離脱に際しても、英国・北アイルランドとアイルランド共和国との間に発生する国境管理の問題を巡って、2021年3~4月には北アイルランド各地で分離派カトリックと帰属派プロテスタントの間に暴動が再発し、多数の警官が負傷する事件が続いた。

 また、映画で描かれた69年の暴動から建設されたカトリックとプロテスタントのコミュニティーを隔てる分離壁は、総延長34キロに及び、2023年までに解体される計画であったが、暮らしの安全のためにまだ必要だと考える市民が多い。
 壁は「平和の壁(Peace lines、Peace walls)」と名づけられ、壁の側面はさまざまな絵画やスローガンで埋め尽くされていて、近年は「平和の壁巡り」をする観光ツアーも行われているというから、皮肉である。

 (元桜美林大学教授)

※編集部注)映画『ベルファスト』公式サイト: https://belfast-movie.com/

(2022.5.20)
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