【国民は何を選んでいるのか】

国政選挙から読み解く日本人の意識構造(4)

ポピュリズムが目立った「小泉劇場」~郵政民営化選挙に見られた逆転劇の謎

宇治 敏彦


 2016年の米大統領選で政治家経験ゼロのドナルド・トランプ氏(当選時70歳)が当選したあたりから、欧米ではポピュリズム(大衆迎合主義)が流行(はや)り出した。大衆を味方に付けてエスタブリッシュメント(既存の権威・支配層)を打ち破ろうという政治行動だ。別に新しい動きではなく、ヒトラーがドイツの中央政界で主導権を握った1933年(昭和8年)当時も、国民車(フォルクスワーゲン)の製造や高速道路の建設などを手掛けて失業に苦しんでいた国民に大歓迎されるポピュリストぶりを発揮した。ポピュリストには右派もいれば左派もいる。心理学的にいえば「大衆の希望や悩みなど心を捉えるのが巧みな政治家(ないしは政治手法)」である。いま世界で「テロの脅威」「移民の増大」「貧富の格差拡大」といった現象が加速していることもポピュリズム政治が流行り出したことと緊密に関連しているのではないか。

 わが国でも「一強政治」を誇示してきた安倍晋三首相が2017年の東京都議選での自民惨敗を受けて、ポピュリズムを軽視できないと再認識したようだ。南スーダン国連平和維持活動(PKO)部隊の日報隠ぺい問題や学校法人「加計(かけ)学園」の獣医学部新設計画と「森友学園」への国有地払い下げ問題などで、内閣支持率が急落したことも大きく影響した。重用してきた稲田朋美防衛相を更迭したのをはじめ8月3日の内閣改造・党役員人事では野田聖子総務相、河野太郎外相、林芳正文部科学相など首相と距離を置き、「反安倍」色の強い政治家を採用したり、自民党の筆頭副幹事長に国民的人気の高い小泉進次郎氏を起用したのも、ポピュリズム無視では政権基盤が崩壊することを恐れたからであろう。
           ◆           ◆           ◆
 日本でのポピュリズム政治、ポピュリストといえば平成期では5年5か月、内閣総理大臣を務めた小泉純一郎氏が代表格である。どういうところがポピュリズムであったか、個人的な感想も含めて「小泉劇場」に関する分析を列記してみよう。

1、<巧みだった言葉使い>
 「自民党が小泉の改革をつぶそうというのなら、私が自民党をぶっ壊す」(2001年7月8日、参院選遊説で)。言葉のアヤとはいえ、自民党の総理総裁になってわずか3か月余の人物が母体の自民党を「ぶっ壊す」というのだから、穏やかではない。

 2001年4月の自民党総裁選挙に出馬したのは小泉氏のほか橋本龍太郎、麻生太郎、亀井静香の各氏(亀井氏は最終的には辞退し、小泉支持に回った)。4月18日に日本記者クラブで総裁候補の討論会があり、筆者は企画委員として質問団の代表を務めた。「日本経済の再建」「国民の将来不安」「政治のリーダーシップ」の3点が討論会の主たるテーマだったが、一番驚いたのは小泉氏に経済政策を尋ねた時の彼の答弁だった。「(持参した自民党の分厚い3冊の政策提言集を高く掲げて)すべてはここに書いてある。必要なことは、現在の自民党を変え、本気でこれを実行することだ」

 他の候補が具体的プランを披露する中で、小泉候補は「実行あるのみ」と橋本元首相らとは対照的な表現を使った。マスコミの間では「小泉氏にオフレコなし」とか、「ワンフレーズポリティックス(短い言葉で明言する政治)」などと評されたが、ともかく曖昧さを残さず断言することが国民大衆から歓迎された。

 首席総理秘書官を務めた飯島勲氏は「首相官邸秘録」(2006年、日本経済新聞社刊)の中で「自民党をぶっ壊す」発言に関して「私に言わせれば当たり前のことを言っただけである。しかしその当たり前のことを言うこと、言えることが小泉の凄いところであり、さらに言えばそれを本当に実行してしまうことが政治家小泉の真骨頂なのである」と書いている。

 「当たり前のことを新鮮に見せる表現力が凄い」と私は思う。それは彼が新人代議士時代から付き合っていた選挙広報のプロ、宮川隆義氏(元政治広報センター社長)などから学んだことの一つだったろう。1960年代から70年代初頭にかけては「代議士ソング」といって政治家や候補者が宣伝のための演歌を作成したり、業績を宣伝する伝記を刊行することが流行った時期があった。宮川氏や飯島清氏(政治評論家で、藤原あきさんや石原慎太郎氏の選挙コンサルタントを務めた)などが、そうした職業の代表格だった。「やさしく、分かりやすく、大胆に」というのが選挙広報プロのうたい文句で、小泉氏は宮川氏らとの交遊を通じて、それを自然に身につけていったではないか。

2、<「変人」だから大衆受けした>
 小泉純一郎氏は、1969年に急逝した父・小泉純也氏(第3次池田勇人内閣の防衛庁長官)の跡を継いで第32回衆院選(1969年12月の沖縄解散)に自民党公認で立候補したが、4,000票差で次点に終わった。2年間、福田赳夫氏(後に首相)邸で秘書を務め、1972年12月の第33回衆院選(田中角栄内閣の日中正常化解散)で初当選を果たした。

 彼は衆院大蔵委員会などのメンバーになり、政界では「大蔵族」「厚生族」とみられていた。当選を重ねて大蔵政務次官の後、竹下登内閣では厚生大臣を務めた。1992年、宮澤喜一改造内閣で郵政大臣に就任した際、その会見の席で「郵政民営化」論をぶった。郵政官僚にしてみれば「郵政行政を守るべき郵政大臣が郵政事業の民営化を打ち出すとは何たることか」と思ったに違いない。

 まさに田中真紀子さんが述べた「凡人の小渕(恵三)」「軍人の梶山(静六)」「変人の小泉」という人物評そのものだった。小泉内閣誕生後に同首相は真紀子女史を外務大臣に起用した。その当時は田中真紀子ブームの絶頂期で、私たちマスコミが新聞紙上で外務大臣の言動を批判する記事を書くと、読者から「なぜ真紀子さんをいじめるのか」と抗議が殺到したものだった。真紀子さん自身も多分に「変人」的側面を持ち合わせており、外務省の官僚たちとしばしば衝突した。このため「変人首相」も翌年1月には外務省の機密費問題で「変人外相」の田中真紀子氏を更迭せざるを得なくなった。内閣発足当初は70~80%の高支持率は40%台に急落した。

3、<グライダーと対照的に風に逆らって飛ぶ「凧型」政治>
 拙著『政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年』(2015年、新評論社)にも書いたことだが、小泉純一郎という政治家は反対派が多いほどファイトが湧くというタイプだった。念願の「郵政民営化」に取り組んだ時は、それが特に目立った。この姿勢は、国民の支援を追い風にして国鉄など3公社の民営化を推進した中曽根康弘首相(当時)とは、真逆だった。中曽根氏は第2次臨時行政調査会(土光敏夫会長)の答申を受けて、まず国鉄民営化に取り組んだ際、次のように言っていた。

 「自分はグライダーのようなものだ。土光さんを筆頭に『増税なき財政再建』という国民運動の追い風に乗っかって国鉄民営化に向けて飛んでいく」
 これが政治リーダーの一般的手法だろう。それとは対照的に小泉氏は「(郵政民営化に)反対論が強いほどファイトが湧く。自民党をぶっ壊す覚悟で進む」とアゲンスト(逆風)を活かして凧を天高く上げる手法を採用した。郵政解散(2005年9月)では民営化に反対した議員の選挙区に「刺客」と呼ばれた対抗馬も擁立したほどの徹底ぶりだった。
 これは凡人にはなかなか出来ない芸当だ。

4、<「二分法の政治」が無党派層を引き付けた>
 これも小泉流タクティスだが、物事をプラス(+)かマイナス(-)と二つに分けて問題提起し、聞き手の態度を引き出す政治手法が無党派層を引き付けた側面があった。たとえば「官か民か」「改革か現状維持か」「敵か味方か」「勝ち組か負け組か」「親米か反米か」「靖国参拝か中韓関係優先か」といった具合である。以前、日本新聞協会から「小泉政治」についての論評を依頼された時、筆者は「政治には普段関心が薄い国民層まで引き寄せる“魔力”を包含している。この二分法政治が、金権スキャンダルが少なかったことと併せて政権の最後まで高い内閣支持率を維持できた秘密だったといっていいい」(月刊「新聞研究」2006年8月号)と書いた。

5、<「反田中」もエネルギーの源だった>
 2003年7月9日のことだが、筆者が東京新聞代表に就任した挨拶もかねて政治部長とともに、新築されて間もない首相官邸に小泉首相を訪ねた。素肌にワイシャツを直に着る小泉スタイルで面談に応じた首相がまず発した言葉は、次のような内容だった。

 「どうだ、君らマスコミは就任後2年足らずで、こんなに自民党を変えられるとは思わなかっただろ。『改革なくして成長なし』だよ。道路関係4公団の改革もこの秋には日本道路公団の分割民営化に目途をつけられるだろうし、次は本丸の郵政民営化だ」

 言外には「旧田中派の政権が続いていたら、こんな大改革は出来なかったはずだ」という本意が読み取れた。つまり田中派こそが日本改革を阻む元凶だったと言いたかったのだろう。田中角栄―竹下登―羽田孜―橋本龍太郎―小渕恵三といった歴代の田中系総理では「改革出来ないことが証明された」と言わんばかりで、小生は「旧田中派に対する旧福田派の怨念は、本当に根深いなあ」と改めて思った。その怨念が皮肉にも小泉政権の政治パワーになったのだ。

6、<個人的人気が郵政民営化を後押しした>
 小泉政権誕生直後の2001年夏、箱根・芦ノ湖湖畔のホテルで小泉首相と進次郎親子がキャッチボールに興じている場面に遭遇した。当時、筆者が箱根プリンスとか仙石原プリンスを家族で利用した際に両ホテルで小泉氏を見かける機会が何回かあったので、別に驚くことではなかったが、この時の箱根プリンスの庭での光景は違っていた。たまたま私たち家族も同ホテルで短い夏休みも過ごしたので、昼食前に庭を散歩していたら、多くのお客さんたちに囲まれて笑顔で球を投げ合う2人に行き会ったのだ。宿泊客は拍手をしたり、カメラを向けたりして新総理大臣を大歓迎していた。勿論、秘書官や警備の人達もすぐ近くにいたが、首相はキャッチボールの合間にお客さんと写真撮影に応じるなどサービスも怠らなかった。こうした大衆の人気が後年の郵政民営化実現にもつながっていった一因だろう。

 その光景を見た後、ダイニングルームで昼食をとったが、案内された席の隣では森喜朗前首相夫妻がランチをとっていた。「おやおや」ということで食事しながらの雑談になったが、大勢の人々に囲まれて楽しむ人気者の首相と「えひめ丸事件」(2001年2月、ハワイ沖で起きた米原潜による漁業実習船「えひめ丸」との衝突・沈没事故で宇和島水産高校実習生8人が死亡1人行方不明になった。この時、森首相はゴルフ場でプレーを続行し、国民から不評を買った)で内閣支持率が10%を割り込んだことなどから退陣して、奥様と2人だけの夏休みをとる前首相とでは「天と地の開きがあるなあ」と実感した。間もなく小泉首相らが大勢の人を引き連れてレストランの個室に消えていった。

 この余談がある。当時、私は北村公彦学習大教授、冨田信男明大名誉教授、金指正雄・元日経新聞論説副主幹など6人で『首相列伝』(2001年、東京書籍)という本を執筆中で、その編者も務めていた。「刊行されたらお送りします」と約束して森氏と別れた。そして9月、同氏から次のような自筆のお手紙をいただいた。

 「『首相列伝』頂戴しました。立派な体裁の本ですが、内容的にも立派かどうか肯んじられません。それぞれの先輩諸氏の評価は長い歴史の中で時代の流れと共に変化してきたものもあります。棺を覆って、はじめて見えた功績もあります。私の場合は昨年から今春とつい先頃であります。その結果を判断するには時期尚早でありましょう。就任時の正統性云々を強調するあまり、だからすべては悪いのだとする週刊誌やTVワイドショー的視点からの評伝にされてしまった嫌いがあります。私が全身全霊を傾けて成し遂げた仕事や緒につかせたものについては一切触れていないのはアンフェアではなかろうか。少なくとも私の話を一度は直接聞いて判断して貰いたかった。新聞記者は如何なる時も必ず自分自身で調べた確かな裏付けがない限り書いてはいけないと私自身が記者の頃叩き込まれたジャーナリストの心得です。多くの人たちの目に止まる本です。私を直接知らぬ人たちに更に誤解を強めるようなこの本は極めて不愉快であり、折角送って頂いても本当に残念な思いばかりが湧いているのです」

 私信をあえて公表したのは、森元首相の怒りが読者の皆さんに直接伝わるからと思ったためで、森さん、お許しください。実は森元首相の個所は宇治の執筆ではなく、担当者名は文末に付記してあるのですが、編纂責任は私にあるので「担当者が直接取材しなかったとしたら申しわけありませんでした」などと返信した。ただ「森喜朗」の個所には「政権の正統性が問われ低支持率に泣いた」とあり、評伝の内容も「神の国」発言や「えひめ丸」事件などで「森では選挙を戦えない」などの声が連立を組む公明党から一斉にあがったと結んでおり、編集責任者としては特に違和感のない原稿と思った。俗世間における森首相の不評と小泉首相人気との落差。それが政権担当期間の長短にも連動したのではないだろうか。

7、<YKKの順番が逆転した>
 自民党内でYKK(山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎)という3人の若手政治家による会合が始まったのは海部俊樹内閣当時の1991年初めのことだった。いずれも1972年12月の日中解散に伴う第33回総選挙の初当選組で、山崎氏が36歳、加藤氏が33歳、小泉氏が30歳の若手だった。当選回数を重ねるにつれ3人とも閣僚、党役員を経験するが、政治家やマスコミの間では「3人のうちで誰が総理総裁になるか?」との問いに対しては加藤、山崎、小泉の順だろうとの見方が大勢だった。山崎、加藤両氏もそう思っていたようだ。山崎氏は「YKK秘録」(2016年、講談社)にこう書いている。

 「YKKの会合では、いつも加藤が上座、小泉が末座に座り、酒の準備までしてくれた。(中略)小泉はその頃(1995年)、『俺は総理大臣になれない。今後も独身を貫くのでファーストレディがいない』と言っていた。後年、本心でないことが証明されたが、当時は加藤も私も、その言葉を信じていた。ある時、小泉が『君たちが総理になる順番は、じゃんけんで決めろ』とまで言ったからだ」

 ところが小泉氏は3度、総裁選にチャレンジした。1回目は1995年9月、橋本龍太郎氏に敗れた。2回目は1998年7月の総裁選で小渕恵三、梶山静六についで3位。そして2001年4月、3度目の挑戦で橋本氏らを破って総理総裁になった。

 逆に加藤氏は1999年の総裁選に出馬したものの小渕氏に大差(小渕350票、加藤113票、山崎拓51票)で敗れた。橋本内閣当時、自民党幹事長を務めた加藤氏は「親橋本、反小渕」で一貫していた。小渕氏もまた加藤氏を敬遠する態度を貫いた。同氏にすれば「加藤は橋本べったりで、俺になびいてこない」との不満があった。そのことが2000年4月、小渕首相急死後の政局に大きく響き、森喜朗政権の誕生―「加藤の乱」へと発展していった。特に森首相誕生劇では「参院のドン」と言われた青木幹雄参院自民党幹事長らの根回しが功を奏し、加藤、山崎両氏らは完全に後継選びの舞台から外されていた。当時から加藤氏は「ネット社会が到来している。それを見ていると、森内閣批判は強く、世の中の大半が私を支持してくれている」と私などにも豪語していた。その自信過剰が森内閣不信任案への同調にもつながった。しかし、このクーデター的な「加藤の乱」は自滅し、彼の足場になっていた宏池会も分裂した。

 この騒動が一段落した後、六本木の小料理屋に加藤氏を招いて慰労会をした。「この後、どうするつもりですか」と聞いたら「後藤田(正晴副総理)さんみたいになりたいなあ」という答えが返ってきた。加藤氏は2012年の衆院選で落選し、2016年9月、77歳で亡くなった。終始「リベラルな政治」を目指していた加藤氏の失敗は惜しまれてならない。そして常にYKKの長兄を自認していた彼が政権を取れず、末弟だった小泉氏が5年5か月の長期政権を担ったというのは、つくづく「政治家は実力半分、運半分」ということを痛感させる。

 脇道にそれ過ぎた。「なぜ自民党内や郵政関係者、さらには国民の間でも反対論が強かった郵政民営化が実現し、小泉人気が高まったのか」。それを論証しておきたい。
 小泉首相が自民党総裁に再選(2003年9月20日)された直後の第43回衆院選挙(マニフェスト解散。投票は11月9日)では民主党が前回の127議席から177議席へと躍進した。この時は政治学者たちもマニフェスト(政権を取ったら実現を誓う「数値」「期限」「財源」付きの公約で、19世紀に英国で誕生した)作成を各党に推奨し、「マニフェスト」と「政権交代」が民主党に追い風になった。

 これに対して小泉自民党は237議席で単独過半数(241議席)を逃したが、公明党(34議席)、保守新党(4議席)との連立で絶対安定多数を確保した。このころから民主党の躍進ぶりが目立ち、翌2004年7月11日の第20回参院選でも自民党は改選51議席に届かず、安倍晋三幹事長は責任を取って辞任した。一方、民主党が50議席を獲得して改選第1党に躍り出たことで、政権交代に期待する声は一層高まりを見せた。

 ところが、その機運が2005年の「小泉劇場」で一挙に激変する。同年8月、小泉首相が政治生命を賭けた郵政民営化関連法案が参院で否決された。その瞬間をテレビニュースで見て筆者が直感したのは「これで小泉内閣の寿命は尽きたな」という思いだった。自民党内でも亀井静香、綿貫民輔、堀内光雄氏ら有力政治家で民営化に反対していたからだ。ところが、小泉首相は「(郵政民営化は)俺の信念だ。殺されてもいい」(同年8月6日)、「国会で郵政民営化は必要ないとの結論が出たが、私は(衆院解散で)もう一度国民に聞いてみたい」(同8日)などと強気姿勢を崩さず、衆院解散に踏み切った。

 そればかりではない。郵政民営化に反対の候補は公認せず、そこへ「刺客」と称して対抗馬を送り込んだのだ。近畿の比例代表から東京10区に送り込まれて小林興起氏(郵政民営化に反対した元自民党代議士。解散当時は日本新党)を蹴落とした小池百合子氏(自民。現東京都知事)などはその代表格だった。郵政民営化法案の衆院採決に反対して自民党非公認になったのは34人。うち27人は自民県連推薦で無所属立候補(例えば岐阜1区の野田聖子氏。現総務相)したほか国民新党から4人(広島6区の亀井静香氏など)、新党日本から3人が立った。このうち当選者と落選者は半々の17人ずつに割れた。いまでも、この時のしこりがあり、山梨県などに火種を残している。

 この自民分裂選挙の結果は、どうだったか? 「自民圧勝」「小泉首相の独り勝ち」だった。2005年9月11日投票の第44回衆院選結果は下記の通り。
 (与党は自公で327議席)内訳は自民296、公明31。
 (野党は民主など134議席)内訳は民主113、共産9、社民7、諸派など5。
 (その他は19議席)内訳は自民系無所属14、国民新党4、新党日本1。
 自民党は1986年の衆参同日選挙(中曽根内閣で300議席)に次ぐ圧勝で、単独で過半数(241議席)を確保したのは15年ぶりだった。郵政民営化法案は10月に成立し、翌2006年1月に民間企業としての「日本郵政」が発足した。

 2003年の衆院選、2004年の参院選で自民党は振るわず、民主党を軸にした政権交代ムードが盛り上がったにも拘わらず、わずか1年余の短期間のうちに逆転してしまった謎は、どこにあるのだろうか。

 ひとえに小泉純一郎という政治家の手腕と人気と言わざるを得ない。まさに「逆風を利用して凧を高く揚げた」のだ。マスコミは「小泉劇場」とも表現したが、私は小泉首相の「オセロゲームでの逆転勝利」とみる。郵政民営化に自民党も国民の多くも首をかしげていた黒優勢の勝負をたった一石の白で大逆転させたのだ。

 「投票用紙は銃弾より強し」というリンカーン米大統領の言葉を前回までの小論で「政治近代化の象徴的表現」と紹介したが、この小泉時代の「オセロ総選挙」を振り返ると、国政選挙をもって全てが理想の形態というのは軽率のそしりをまぬがれまい。現に日本郵政は2017年3月期決算で400億円強の赤字を計上した。地方においては「郵便配達のおじさんに保険のことも頼めた時代が便利だった」と旧郵政省時代を懐かしむ声も結構耳にする。小泉首相が経済財政政策担当大臣・金融相に重用した竹中平蔵氏の「市場原理主義」「新自由主義」だけでは世の中は回らない。
 日本郵政から頼まれて筆者は一時期、同社主催の地域貢献事業懇談会の委員を務めた。民営化はしたが、「郵政」という2字に拘っているのが強く感じられた。斉藤次郎社長(元大蔵省事務次官)にも会議の席で申し上げたが、「依然として郵政省当時の官僚体質から抜け出していないのではありませんか。いっそのこと『郵便局』とか『郵政』というネーミングはやめて、『地域貢献センター』とか『共助会社』に改めてはどうですか」。国鉄の分割民営化と違って郵政の民営化は、さまざまな問題をなお残している。そういうことは忘れて小泉オセロ術にはまってしまった有権者は、果たして本当に賢明だったのだろうか。

 時事通信の世論調査によると、2005年8月までは30~40%だった内閣支持率が郵政選挙後には50%台に跳ね上がった。「劇場型政治」と言われた小泉流に有権者が酔いしれてしまったのだ。

 その一方、外交面では中国、韓国との関係が悪化した。特に日中関係は「政冷経熱」(政治関係は冷却化。経済関係は活発化)という言葉が生まれたように、小泉政権中に5年連続で靖国神社を参拝したことが中国を刺激し、日中正常化―日中平和友好条約締結当時の蜜月ムードは吹っ飛んでしまった。前記の「YKK秘録」によると、2001年8月の場合は武大偉駐日中国大使からの「15日の参拝中止要請」を受けて、山崎拓氏が読売新聞の渡邊恒雄主筆に「小泉首相を説得してほしい」と頼み、13日の前倒し参拝が実現したと明かしている。山崎氏によれば、渡邊氏は「明日(13日)決行なら今から編集局長と政治部長を呼んで、社説で支持声明を出すよう指示する」と首相を説得したという。

 もしこれが事実とすれば、「社会の公器」といわれる新聞として妥当な行為であったのか、同じ新聞界の一員としてはなはだ疑問に思っている。

 (東京新聞相談役)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧