【コラム】
大原雄の『流儀』

報道の自由度67位という、日本の「不自由度」

大原 雄


●「報道の自由度」キャンペーンの仕組み

 国際NGO「国境なき記者団」(本部・パリ)は、毎年、世界各国の「報道の自由度ランキング(Press Freedom Ranking)」を発表している。自由度ランキングは、「国境なき記者団」の駐在員などがいる国と地域の「ジャーナリストに与えられている自由」を推し量るというもの。14団体、130人の特派員、ジャーナリスト、調査員、法律家、人権活動家などが、50項目のアンケートに回答をして、その結果を数値化している。0点から100点までの数値化は、マイナス採点で点数が低いほど、自由度が高い、ということになる。

 ただし、こういう「定性」(本来数値化できない)的な評価に基づく数値化は、ランキングをつける人たちの「価値観」が反映される、という嫌いがあり、客観性を疑わせる可能性があることは、予め注意すべきだろう。
 特に、日本の記者クラブ制度は、日本人に限らず、外国人のフリーのジャーナリストや独立系のジャーナリズムなどの取材活動を困難にしている、という日本のメディアの構造的な事情がある。こういう調査でも、外国人の特派員やジャーナリストから日本の報道の不自由は、不評だということは、容易に推察されうる。そういう点を予め承知の上で、私は、今月のコラムでは、以下、書いて行きたい。

 「報道の自由度ランキング」は、数値化に基いて、5つのゾーンに分けている。
 例えば、1)0点から15点は、「良好な状況」。2)15.01から25点は、「満足できる状況」。3)25.01から35点は、「顕著な問題あり」。4)35.01から55点は、「困難な状況」。5)55.01から100点は、「深刻な問題あり」。調査対象となる国・地域は、全部で180。

●19年の「報道の自由度」

 2019年(今年)の調査結果が4月18日に公表された。日本は、前年と同じで、67位だった。ただし、同順位とは言え、前年の数値化は、28.64で、19年の数値化は、29.36である。いくらか悪くなっている。先に触れた5つのゾーニングでは、第二次安倍政権後は、毎回、いずれも「3」のゾーンにランクされ続けている。「国境なき記者団」によると、19年は、日本では、メディアの多様性は尊重されているものの、沖縄の米軍基地の問題性などを取材するジャーナリストたちが、ネット・メディアでは、攻撃されている、などと指摘・特記している。

 自由度の高さを示す上位は、1位がノルウェー、7.82 。2位がフィンランド、3位がスウェーデン、以下、オランダ、デンマークなど例年通り北欧の国々が占めている。トルコのサウジアラビア総領事館内で殺害されたジャマル・カショギ記者の出身地、サウジアラビアは、172位と順位を3つ下げた。これについて、「国境なき記者団」では、「中東では、多くの記者が命を失うことを恐れて自己規制しているか、記者を辞めている」と指摘している。

 前年、45位だったアメリカは、48位と、順位を3つ下げている。アメリカは、43位、45位、48位と、3年連続のランクダウンとなった。アメリカの評価が下がったことについて、「国境なき記者団」では、「(アメリカのメディアに対するフェイクニュースという)トランプ大統領のコメントに止まらず、「ジャーナリストに対する敵対的な風潮が増している」のは、問題があるとしている。
 トランプ政権のジャーナリストに対する個別的な様々な妨害行為も批判している。例えば、CNNのジム・アコスタ記者が、一時、記者章を取り上げられた件、同じくCNNのケイトリン・コリンズ記者が記者会見から締め出された件なども含まれている。アメリカとメキシコの国境で取材するジャーナリストの電子機器が検査された事例も取り上げられている。

●「敵対感情」が民主主義を危機に陥らせる

 こうしたマスメディアの世界的な現状に対し、「国境なき記者団」のクリストフ・ドロワール事務局長は次のように話している。
 「政治的な論争が敵対感情を煽り、その中でジャーナリストが、いわば『生け贄』にされるようなことになれば、民主主義は重大な危機に陥るだろう。(略)この恐怖と萎縮の悪循環を食い止めることが、自由の価値を認めるすべての人々にとって、最も緊急の課題となっている」。

 今、世界では、具体的には、「ベネズエラの警察や情報機関による恣意的な逮捕や暴力行為が、これまでで最も多くなった」と述べる。エルサルバドルでは、記者が嫌がらせや攻撃を受け、モロッコでは、メディア側の有力者ふたりが、「テロ行為を扇動した」とか、「国家の安全を脅かした」とか、などの罪状で訴追されている」という。

 一方、ランクアップした国もある。韓国は前年より2ランクアップして、41位になった。韓国は、06年に31位を記録して以降、10年間低迷していたが、近年は再び上昇傾向をみせている。16年に70位まで落ち込んだが、17年には、63位、18年に43位、19年は、41位に上がってきた。マスメディアと市民が力を合わせて盛り上げた「ろうそくデモ・集会」、李明博、朴槿恵の保守系の両大統領の失政・失脚(朴槿恵は、弾劾された)への運動の高まり、革新的な文在寅大統領の登場などを踏まえると、韓国のマスメディアの復調の背景が見えてくるだろう。
 映画『共犯者たち』、『1987、ある闘いの真実』などについてのメルマガ『オルタ広場』に連載している「大原雄の『流儀』」の、拙稿の映画批評でも、そういう背景の一端を分析しているので、参考にしてほしい。

 北朝鮮は全体の調査対象国・地域180のうち、179位/83.40であった。北朝鮮は17年、18年と2年連続で、最下位の180位だったが、19年のランキングでは、最下位を脱出した。だからと言って、北朝鮮のメディア状況が変わった、というわけではないだろう。ちなみに、180位は、トルクメニスタン。85.44。中央アジア南西部にある国。国土の85%は、砂漠という国。しかし、この地下には、豊富な天然ガスが埋蔵されている、という。大統領制を敷いているが、白い色以外の車を所有することは禁止されているなど、大統領優先の独裁国家である、という。

 メディア規制の厳しい中国は、前年の176位から一つ下がって、177位/78.92。このほか、著しく順位を下げた国・地域では、33ダウンの中央アフリカ共和国、25ダウンのタンザニア、24ダウンのニカラグアが、下げ幅のワースト3に上げられている。世界のメディアは、相対的な順位づけという尺度で報道の自由度を推し量られているが、報道の自由度は、絶対(量)的には、総体として不自由度を増やし続けているのかもしれない。それは、この調査では判らない。

●トランプ流 → 安倍流

 例えば、日本はどうか。
 19年は、18年同様に、相対的な順位では、日本は67位で変わらないが、絶対的には、どうなのだろうか。アメリカのトランプ流の「フェイクニュース」キャンペーンは、日本での「フェイクニュース」キャンペーン現象に繋がっているのではないか、などの疑問があり、トレースを試みてみたらどうだろうか。

 日本の政治状況。まず、安倍政権。自民党の総裁兼首相という権力者・安倍晋三。当初自民党の規則によると、総裁の任期は、2期6年だったのを、規則を改定して、現行では3期9年に延長。3期目に入っている。ここへきて、さらに規則を改定(改悪)して、4期12年論まで飛び出してきた。
 政治は、思惑で動くから、どういうことになるか判らないが、自由度ランキングで言えば、安倍第二次政権では、政権発足初年の13年の53位から下がり始め、14年、59位。15年、61位。16年、17年、ともに72位。18年、19年、ともに67位ということだ。ちなみに、短命だった第一次安倍政権の時は、37位/11.75だった。ただし、先に触れた5つのゾーニングでは、第二次安倍政権後でも、ゾーニングでは、いずれも「3」のゾーンにランクされ続けていることも記憶にとどめておく必要がある。

贅言;ちなみに、「報道の自由度ランキング」の調査開始の02年には、日本は26位、民主党政権時代だった2010年(鳩山政権)には、11位を記録し、「良好な状況」で、世界の中でも報道の自由が保たれているという「1」のゾーンに入っていた。

 最近の厳しい順位は、改憲への目論見を始め、第二次安倍政権継続の時代が続く中で、右傾化を強めていったことへの警戒感が外国の特派員、ジャーナリストに強く現れているのではないのか。1990年代以降の資本主義経済の長期低落傾向をベースに資本主義は、富を生み出す力を弱体化させてきた。その結果、民主主義の最も重要な要素である寛容性が劣化し始め、不景気になれば、ナショナリスティックなモードが強まることになり、右翼的な政党が支持を広げることになる。第二次安倍政権の諸政策は、そのことを明白に示しているし、寛容性の劣化は、社会全体に蔓延している。

 アベノミクスという金融緩和政策は、後世代の人々が消費、投資すべきものを「前倒し」させてみせる効果を狙った。本来は自分たちが向き合うべき負担や不寛容を、財政のみならず(消費税「増税」の2度にわたる延期、3度目の延期論も取りざたされ始めた。それも、夏の参議院選挙に加えて目論まれ始めた「ダブル選挙」対応の大義名分づくりという、このイデオロギー性のお粗末さ)、金融政策という側面でも後世の世代にツケを送り続けている。「我が亡き後に洪水よ、来たれ」とばかりに、唱える無責任な預言者たち。

 安倍政権は、自らの支持層(こういう人たち)には、「アンダー・コントロール」、羽の下に休ませる優しさを示すが、それ以外には安倍政権から見れば、「アウト・オブ・コントロール」で、「ああいう人たちには、負けられない」と、支持層でない人たち(ああいう人たち)には敵意(ヘイト)をむき出しにして、排他的になるというのは、この政権が典型的なポピュリズム政権という実相を顕しているということなのだろう。欧米では、「異民」として「移民」をターゲットにして排他的になったが、日本では、投票権のない後の世代を「異民」として、いわば、時空を前倒しで、排他したのである。

 安倍政権は日米同盟強化策でも、平気で禁じ手を使った。集団的自衛権行使の一部容認。歴代保守政権が護持してきた憲法9条という「縛り」を勝手に解き、一定の条件を付けながらも他国軍・米軍を守るための戦争を可能にしてしまった。さらにそれだけではない。米軍に対する弾薬などの後方支援については、地球の裏側まで対応が可能なように新法制を作ってしまった。アメリカの歓心を買い、アジア地域における米軍の対中軍事プレゼンスを維持・強化しようとしているのだ。

 こうした多くの国民に背を向けた政策を続けながら、安倍政権は、自民党内では、官邸システムを改造して、1強多弱体制を敷き、国会内では、野党を弱体化させて、やはり、1強多弱体制を再構築した。この辺りは、言い尽くされているように思えるので、詳しくは述べない。政界内の1強多弱体制をバックに、安倍官邸のコントローラーである菅官房長官は、今や、安倍政権の後継者として、その存在感を党内外に強めているように思える。安倍流 → 菅流。ヘイト意識をベースに、両者は平気でフェイクニュースを垂れ流しているように思える。

 冒頭で触れた報道の自由度ランキングのアメリカ編を思い出してほしい。アメリカのトランプ政権のジャーナリストに対する個別的な様々な妨害行為である。例えば、アメリカの報道の自由度を落としめた要因の一つには、CNNのジム・アコスタ記者が、一時、記者章を取り上げられた件、同じくCNNのケイトリン・コリンズ記者が記者会見から締め出された件なども含まれている、ということだ。今、日本の官邸でも同じようなことが既に起こっている。菅官房長官が、東京新聞の女性記者に嫌がらせを続けているのである。

●官邸での菅流「フェイクニュース」キャンペーン

 東京新聞社会部の女性記者が、官邸の記者クラブ(内閣記者会)で、菅官房長官を相手に、粘り強く丁々発止の闘いをしているのをご存知だろう、と思う。

 この女性記者は、東京新聞の紙面だけでなく、著作や講演などの活動で、堂々と情報発信しているので、マスメディアに関心のある人は、よく知っているかもしれない。私も、彼女の話(シンポジウム、セミナー、講演会など)を直接的に3回は、聞いている。

 女性記者は2000年に東京新聞社に入社。首都圏の支局勤務を経て、警察・検察などの事件取材を経験してきた。現在は、入社19年のベテラン記者になっている。2017年、政治部の管轄である官邸の記者クラブの菅官房長官定例会見で、加計学園問題で「総理のご意向」と書かれた文書の所在を元官僚らが認めた問題を巡って、菅官房長官が、「文科省の調査では確認できなかった」という答えばかりを繰り返していた時、この女性記者は、官房長官によるフェイクニュースを疑って、「もう一度、真摯に受け止めて、文書の公開、第三者による調査をするというお考えはないのですか」などと食い下がった。

 私は、社会部記者だったので、政治部管轄の内閣記者会(官邸)の会見に出たことは無いが、例えば、役所など行政を相手の記者会見では、その役所を担当する各社の記者で構成する記者クラブの幹事(当番で交代する制度)が、一応、自主的なのリーダーシップの下、行政側の責任者と質疑応答(取材)をする。行政側から見れば、記者会見では、国民の知る権利を背後に背負った記者の質問に答えるということになる。答えは、基本的に役所の政策の説明であり、その説明が不十分だと感じた記者は、自分が取材で得た知識や情報をもとに、自分の意見(理想的には、取材の蓄積の成果)を踏まえて、行政のありようや疑問点などについても、継続して質問をすることになる。行政は、記者の意見を「拝聴」するわけではなく、質問する記者が事実誤認をしていると思えば、そもそも質問そのものが成り立たない、として誤りを指摘し、正せば良いだけだ。

 爾来、女性記者は、森友・加計学園問題や、沖縄の米軍普天間基地(飛行場)の移設先として安倍政権が強引に推し進めている名護市辺野古沿岸部の埋め立て工事問題などを巡って執拗に質問を続けているが、これを煙たがる菅官房長官の意向を汲んでか、忖度してか、18年12月28日には、官邸は、記者クラブの対応窓口になっている報道室長名で、内閣記者会に対して文書を出した。

 文書の内容の概略は、次の通りである。事実に基づかない質問は慎むようにお願いしてきたが、当該記者による度重なる質問は、総理大臣官邸・内閣広報室として深刻なものと捉えているので、内閣記者会には、「このような問題意識の共有」をお願いしたい、と要請している。
 つまり、東京新聞の女性記者の質問は、長く、その上、自分の意見の開陳だから記者クラブとして止めさせてほしい、と要請した。「同調圧力」を記者クラブサイドから、(お仲間の)当該記者にかけてほしい、と要請した、というわけだ。嫌らしい対応ではないか。あたかも、女性記者をターゲットにした意図的なフェイクニュースキャンペーンのように、私の目には映る。行政と記者クラブ制度の関係を象徴するようなエピソードでは無いのか。恥ずかしい。

 ここで、思い出すのは、アメリカのトランプ政権のジャーナリストに対する個別的な様々な妨害行為。菅官房長官の意向を踏まえて内閣広報室の報道室長名での要請、さらに、菅官房長官自身の言動もジャーナリズムや記者に対するトランプ流「妨害」を実践しているように、私には見える。菅流記者会見は、「日本の不自由度」という風潮を明確に「可視化」しているだけのように思える。つまり、官房長官には、菅流こそ、今の日本の「本流」のあり方だという自負でもあるのだろうか。
 だが、そこには、権力者という公人でありながら、抗(あらが)うという人を私的に敵対(ヘイト)する意識があるのでは無いか。ヘイトベースにしたフェイク(虚偽)の対応が菅流にはあるように見受けられる。それを如実に見せてくれたのは、東京に住む一人の女子中学2年生であった。

●菅流は、パワーハラスメント? いや「いじめ」?

 こうした大人同士のやりとりをインターネットで見た東京在住の女子中学生が、女性記者を支援しようとインターネット上で署名活動をした。女子中学生は、菅官房長官の記者会見で質問する女性記者に対して、官邸の報道室長が数秒おきに「簡潔にお願いします」など、と「妨害」と受け取れる発言を繰り返す様子をテレビやインターネットの画面で見て、心を痛めていて、署名活動を思いついた、という。子どもの素直な感性には、菅流は、どう映っているか。官邸あげてのパワーハラスメントとでも映ったのだろうか。
 この活動がインターネットなどで紹介されると、ツイッターなどで、匿名者たちから中学生は誹謗中傷のマト(的)にされた、という。こうした体験をした女子中学生は、「子どもが何か意見しちゃいけないんだという偏見が(日本には)すごくあると感じました」と話している、という。この女子中学生は、「同調圧力」を敏感に感じ取っている。

 女子中学生の目には、女性記者に対する官邸側の行為が、学校での「いじめ」と同様に映り、署名活動を始めた。学校などでも、「いじめ」はよくないと言ったら、言った子がいじめられる。「いじめはよくない」と言えない社会は怖い、と中学生が感じた。そこで、インターネット上の署名活動サイトを利用し、「特定の記者の質問を制限する言論統制をしないで下さい」などとするキャンペーンを始めたのだ。2月初めから実施し、2月末までに、1万7,000人を超える賛同者の署名を集めた、という。民主主義とは、本来こういうものではなかったのか。

●安倍流・菅流 → 「社会化」現象

 1強多弱現象は、今や、日本では「社会化」現象になっている。日常的な、安倍流・菅流は、今や、あちこちで見受けられるように思う。社会全体に蔓延しているように思える。安倍流の政権運営、菅流の会見運営などに象徴される1強多弱は、要するに、オール・オア・ナッシングという思考方法。1強=オール(全て、我が世の春、味方、こういう人たち)。多弱=ナッシング(無し、無視すべきもの、敵対、ああいう人たち)という、二分化した思考方法に陥っているのでは無いか。
 敵対したら、相手には、ヘイト意識しか持たない。権力・権限を持ったら、全勝。負けたら、全敗。ナチズムの政治学者。カール・シュミットの「政治原理は敵対関係」論。そういう思考方法が、今の社会に蔓延しているように見える。企業、団体など、グループの生成形態の違いにかかわらず、1強主義がまかり通っている。その一つの具体例を示したい。例えば、NHKで明るみに出た役員人事問題があるが、ご存知だろうか。一枚の申し入れ書を見て欲しい。

 申し入れ書は、NHKOBやマスメディア論の専門家、市民などで構成する団体名になっている。宛先は、NHKの会長と経営委員会委員になっている。概要のみだが、記録しておきたい。

●NHKの場合

 申し入れ書の表題は、「板野裕爾氏をNHK専務理事に任命する決定の撤回を要求します」と書いてある。

 それによると、板野裕爾(65)という人物は、問題な言動が目立った籾井勝人前会長時代に専務理事・放送総局長まで上り詰め、その後、NHKを退職し、関連会社の社長に就任した。その人物が、このほどのNHK役員人事で再び専務理事として返り咲く(出戻りする)ことを上田良一会長が決め、先の経営委員会で同意を得られた、という。
 これは、「籾井会長時代のNHK報道への市民の批判にたいし無反省であることを示すものであり、政府からの独立を建て前とするNHKの在り方を損なうものです。私たちは板野氏の専務理事就任を認めることができません。発令前にこの人事を撤回されるよう強く要求します。同時に、このような人事に同意された経営委員会にたいし、厳しく抗議するものです」と、申し入れ書にはある。

 この人物が放送総局長を務めたのは、2014年4月からの2年間。この時代は、2014年の集団的自衛権容認の閣議決定、2015年、安保法の成立などがあり、安倍政権が、一気に軍事色を強めた時期である。この間、この人物は、NHKの政治報道全体に対し責任がある(報道方針の最終判断をする権限を持っている)立場にいた。
 その結果、集団的自衛権閣議決定に関する報道では、報道現場に指示を出して、政府与党の主張や動きを長時間伝えさせた。その一方で、批判的な議論や反対運動はほとんどとりあげようとしなかった。安保法国会審議報道では、「日本への攻撃の意思のない国も攻撃できる」「核兵器の運搬も可能」「同盟国の攻撃の後方支援も可能」といった法案の重要な審議ポイントとなる問題点を伝えずに、ニュースの締めくくりには、必ず安倍首相の答弁で終わるというニュース編集方針をとり続けて、事実上安倍政権の「宣伝放送」に貢献した、と訴えている。

 このような一連の報道姿勢は、「NHKは『アベチャンネル(安倍政権の御用放送)』」という市民やNHKOBなどの批判を招き、2015年8月には約1,000人の市民が放送センターを包囲して、抗議の声を上げる、というNHK史上、前代未聞の事態を引き起こした。その一方で、安倍流や菅流の人たちからは、大いに賞賛されたのであろう。

 これでは、まるで、韓国映画『共犯者たち』に登場する政権(李明博・朴槿恵大統領の時代)の「共犯者(KBSやMBCの当時の社長たち)」と同じでは無いのか。その傾向は、今もNHKでは続いている。そういう状況下での問題の人物の返り咲き(出戻り)である。

 NHKにある記者クラブ(複数ある)などマスメディアでは、ほとんど報道されていないが、NHKの労組の動きを申し入れ書から見ておこう。「(局内からの情報によれば、)ニュースや番組現場の組合員が所属する日放労放送系列が、2015年秋から冬にかけての交渉で当時の板野放送総局長らに申し入れをしています。放送系列はこの交渉の中で、「理由が示されないまま放送延期になった番組が複数ある」「制作プロセスの意思決定の理由が現場十分に示されていない」「政権と距離感が近づきすぎという世間の批判がある」などと指摘し、改善を求めた」とある。

 板野という人物は、安倍政権と近い人物が多い政治記者出身ではなく、経済記者一筋で、経済部長、経営委員会事務局長などを経て理事になった。マスメディアの伝えるところでは、「官邸と太いパイプがある」、「官邸に近い人物」(つまり、この人物の背後に、安倍や菅の影が見えやしないか)、「籾井前会長を支えた人物」などという人物評がある、という。何かと、NHKをアンダー・コントロール状態にしたい菅官房長官からの「派遣人事」の匂いを嗅ぎ取るのは、私だけでは無いかもしれない。

 この返り咲き人事について、次のような情報が伝えられている。

 NHK経営委員会の複数の委員が人事案の審議中に懸念を示した、というのだ。これについて、NHKの上田良一会長は「私の方でもそういう懸念をしっかり踏まえてやっていく」と約束していた、とメディアが伝えている(上田会長の任期も残り1年という中で、今回の人事は、あの菅官房長官が石原経営委員長を通じて、上田会長に伝えられた、ともいう。会長の言う「懸念」の中に、こういう「経緯」も含まれているのかもしれない)。

 4月9日の経営委員会では、板野氏を含む人事案承認に対し、ふたりの女性委員が棄権した、という。関係者によると、棄権した委員は、「板野氏が就任した場合、いろいろと反発がある」、「(言動に)これはどうかと思うことが過去にいくつかあった」などと懸念を述べた、という。反対しなかった別の委員も、「慎み深い行動をお願いしたい」と釘を刺した、という。

贅言;経営委員も懸念する言動の人。この人物は、前回、NHKを辞める時、マッカーサー元帥のように「アイ・シャル・リターン」と言った、という。「私は必ず帰ってくる、会長として」と豪語していた、という噂が伝えられている。今回の専務理事出戻りをその第一歩にならせないようにしなければならないだろう。主権者・国民たる視聴者のために。

 市民が反対し、NHKOBが反対し、労組が懸念を表明し、経営委員会の委員まで棄権や懸念を示す。でも、権力者たちは、どこ吹く風かと思っているように見える。この人事をNHKが強行すれば、「安倍チャンネル化」が、さらに進むことは、火を見るより明らかだろう。それは、何よりも、市民にとって、不幸なことだ。何年か先に、ほぞを噛むのは、私たち市民なのだから。

 だが、悲観論もある。ああいう感性の鈍い人たちに正面から問題提起をしても理解される可能性は低いかもしれない。彼らをオーソドックスに攻めても、彼らの態度を硬直化させ、彼我の溝が深まるだけかもしれない。そうなれば、問題は容易に解決しない。時間をかけて、こうした「構造」を変えるしかないだろう。こちら側(少数派)の持ち味である多様化を許容する場・空間をあちら側にも構築する必要がある。そのためには、ゆっくりとあちら側に近づき、あちら側の人たちの顔ぶれを変えてしまいような作戦を立てる必要がある。

 そういう懸念がNHKの内外から表明されながらも、オール・オア・ナッシング(1強多弱)の思考構造が、結局は、まかり通る、としたら……。

 日本の民主主義は、既に、死んでしまったのかもしれない、と悲観的になる日も、私にはある。しかし、私たちは、まだ少しは生き続けつづけなければならないし、安倍流、菅流のように、私たちの後も生きる若い世代に平気でツケ(不良債権)を残すような真似だけはしたく無い。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、『オルタ広場』編集委員)
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