【コラム】大原雄の『流儀』

大統領と役者(1)

大原 雄


★クロニクル: フィクションの政治の終焉を

 アメリカのトランプ大統領は、マスメディアで報じるニュースのうち、自分に不利になるニュースはフェイクニュース(嘘のニュース、軍事なら「謀略放送」など)と決めつけて、事実を否定し、無視を決め込む。そして、ポストトゥルース(客観的な事実や真実を重視せずに、感情的な訴えを強弁すれば、した方が勝ちという政治状況のこと)、オルタナティブトゥルース(真実とは違うのに、もう一つの別の真実があるという論法。真実はひとつだろうに!)など自分の都合の良い情報だけで身の周りを固めて政策判断をして行く。この判断は虚偽の、あるいは現実とは乖離した結論を導く。

 権力を監視し、ファクトを検証してリアルな真実の世界を国民に伝えるのは、マスメディアの仕事。マスメディアの報道ぶりを監視し、権力に都合の悪い報道はフェイクニュースと決めつけ、国民に知らせないようにと妨害するのは、全く逆転している。これって、すでに全体主義ではないのか。
 トランプ大統領は選挙戦中から始まった「逆転の認識」を積み重ね続け、大統領当選後もその典型例を幾つも見せてくれる。その結果、フィクションの政治をリアルな社会に無理無理当てはめて行くという政治手法をゴリ押しすることになる。移民制限の大統領令は司法の厚い壁に阻まれているほか、オバマケアの否定も頓挫、大統領選挙前からのロシアとの対応は、それを実行した側近連中にFBIの捜査の手が伸びてくるかもしれない、という状況になっている。いずれ、個々の事実からの大逆襲が、「大統領になりすました男」に襲い始まるのではないか。そうなれば、この先には、いずれ、大統領弾劾という絶壁が待ち構えているかもしれない。

 このトランプ大統領とアメリカで一緒にゴルフをやり、逸早く「フレンドリーな関係」(一国の責任者として、距離感の取り方がおかしくはないか。権力者の勝手な距離感は国家の不適切な距離感になってしまう危険性があることを責任者は考えなければいけない)を築いた、という日本の安倍首相は、一強多弱な国会状況と党内状況を二重に作り上げ、「下がらない」支持率という世論調査をバックに菅官房長官ほかの取り巻きと共に長期政権を展望し、特定秘密保護法、安保法制化、共謀罪法制化などの憲法上も無理筋の政策判断をして、強行採決(デモクラシーの空洞化)などを連発していきた。

 日経新聞が5月に実施した世論調査によると安倍政権の支持率は、26・7パーセントだという(6・7付記事)。ほかの新聞社などの調査結果では、どうなのだろうか。

 大阪の森友学園での国有地の格安な値引き払い下げ問題、今治の国家戦略特区での加計学園の獣医学部開設認可問題では、韓国の朴前大統領が知人の利益を優先して、政治を歪め、弾劾訴追されたのと似たような状況に安倍政権の周辺もなってきたように見える。その結果、森友学園では、利益共同体、イデオロギー共同体だったはずの籠池前理事長の反乱、加計学園問題では、文部科学省の前事務次官という有能な官僚の反乱勃発ということで、いわば安倍ファーストのフィクションの政治がリアルな社会から拒否反応を引き出し始めた、という実相が浮き上がってきたのではないか。

 「国家戦略特区」という仰々しい表現は、市民には違和感がある。今回に現実を見せつけられると、これは「安倍戦略特区」なのではないのか。安倍政権は、菅官房長官という「壊れた」としか思えないメディアを使って、この前理事長や前事務次官を個人攻撃、それも人格攻撃までするという卑劣なデマゴーグを続けている。事実を捻じ曲げてまでのフェイクニュースを発信しているのはどっちだろうか。前事務次官の話ぶりと官房長官の話ぶりを見比べれば、自ずから品格の有無が私には透けて見える。誰でもそう感じるのではないか。その後の様々な続報から、特に前次官の真っ当な性根が浮き上がってきているように思う。
 安倍政権を「補導・善導」するためには世論調査の支持率を下げることが、今のところの日本を健全化させるための「戦略」にとって唯一の特効薬ではないだろうか。マスメディアは、壊れて、もう腐りかけている。Y新聞など鼻を抓まなければならない。窒息しそうだ。酸素ボンベが必要になりそう。

 大統領職の特権乱用でお友達の利益誘導政策をした、という容疑で弾劾、訴追された韓国の朴前大統領、同じくファミリーのビジネス優先で、いずれ弾劾されるかもしれないアメリカのトランプ大統領、そして、「お友だち内閣」から「お友だちの利益優先」へと、大きく政治の舵を独裁的に切ってきた安倍政権。これらは、いずれもリアルな社会に自己ファーストの本音を隠し、デモクラシーを装ったフィクショナルな政治を無理無理当てはめて行こうとする手法という点で共通しているのではないか。デモクラティックな手続きを印籠替りに突きつけて「天下の為政者」に「なりすました権力者」たち。いま、世界のあちこちに出現していないか。その結果、彼らには三者三様にリアル社会からの反発の大波が押し寄せ始めてきているのではないか。

 日本のデモクラシーの成熟度は、このところ国際的な評価を著しく下げている。4月から6月までだけでも、以下のような切実な情報が伝えられたので、記録しておきたい。

 第二次安倍政権になってから急落した国際的な報道の自由ランキングは、今年の4月に公表された2017年度についても、日本は72位と去年と同順位で低迷したままであった。特定秘密保護法、安保法制化などが安倍政権によって強行採決される事態が続き、これについて日本のマスメディアが十全に報道できなくなっている状況が急激な順位の転落を招いている。

 ふたりの国連特別報告者が日本の現況を憂いて、国連人権理事会にスペシャルリポートを提出している、または、することになっている。ひとりは報道の自由というテーマで、日本のマスメディアの実情に危惧の念を表明する報告をまとめた。もうひとりはプライバシー権というテーマで、安倍政権が強行採決をしながら暴走的に推し進めている共謀罪法制化をやめるようにという報告をまとめた。おふたりとも、報告の内容には一字一句とも自信を持っているようだ。

 このうち、報道の自由を担当したデービッド・ケイ教授(アメリカのカリフォルニア大学)の講演を衆院議員会館で直接拝聴する機会(6・2)を得た。
 教授の報告に対して日本政府は、報告に記された事実を全面的に否定する、国際的にも恥になるようなお粗末な反論をしている。これに対して、ケイ教授は事実関係には自信を持っており、それを元にした提言も揺るがないという態度で対峙している。その上で、教授は言う。

 報告をまとめた私の役割はここまでだ。報告を国連に提出した後は、国連がこれをどう扱うか、国連からのアクションを受けて日本政府が正式にどうするかは、それぞれの問題だ。それは、日本政府の問題というだけでなく、市民社会の問題だ、と強調した。

 つまり、試されているには日本政府ばかりではなく、日本の市民社会だ。市民社会の中でデモクラシーがどれだけ成熟しているかが問われるということだろう。放送の独立を守り、報道の自由を守り、取材者の自由と連帯を守るだけに民主主義的な成熟が日本の市民社会にあるかどうかを安倍政権は逆説的に私たちに突きつけている、という問題状況をケイ教授の報告は私たちに訴えている、と私は思う。
 もしそうであるなら、フィクションの政治は、いずれ終焉を迎えるのであろう、と期待したい。それほど、あちこちで展開される21世紀のフィクションの政治は見苦しい。

 国連のもうひとつの特別報告。ジョセフ・カナタチ教授(地中海にあるマルタ大学)は、共謀罪を中心に人権、特にプライバシーの侵害への危惧について安倍首相宛に既に書簡を出し、秋には国連人権理事会に報告を提出する予定だ。書簡では、「法案の成立を急いでいるために十分に公の議論がされておらず、人権に有害な影響を及ぼす危険性がある」と立法過程の問題性を指摘している。

 国際社会から日本の現況への危惧の念の表明は相次いでいる。6・5には、共謀罪の危惧を懸念する国際ペン会長の声明が日本ペンクラブで浅田次郎日本ペン会長から公表された。

 《国際ペンは、いわゆる「共謀罪」という法律を制定しようという日本政府の意図を厳しい目で注視している。 同法が成立すれば、日本における表現の自由とプライバシーの権利を脅かすものとなるであろう。私たちは、日本国民の基本的な自由を深く侵害することとなる立法に反対するよう、国会に対し強く求める。
  2017年6月5日  国際ペン会長 ジェニファー・クレメント》

 ジェニファー・クレメント会長はメキシコ出身で、国際ペンで最初の女性会長である。国際社会からは、表現の自由や人権への意識の問題で、トランプ大統領や安倍首相の政治手腕への危惧の念の表明が相次いでいることは極めて異常だ。ある新聞のコラムが国際ペン会長声明に噛みついた。国際ペンの事務所があるロンドンのテロや記者への弾圧を続けているメキシコの国情などを挙げて、国際ペンはダブル・スタンダードだと訳のわからないことを書いている。ジャーナリストとして情けない。それぞれの政府と在野のペンクラブは関係ないではないか。公権力から表現の自由を守ろうとするのは、ジャーナリストに限らず表現者なら誰でも原点にしているはずだ。

 さて、気分を変えて。「大統領」と言えば、対句は「役者」ではないか。そのココロは? このオチは、最後に書きたい。

 今回の「大原雄の『流儀』」「大統領と役者・第一部」では、大統領になりすました男、アメリカのトランプ大統領を念頭においている。まずは、なりすましの大統領を離れて、その対極にある歌舞伎役者の「襲名」(歴史の中で代々積み重ねて来た「なりすましの美学」とでも、言おうか)という、いわば目標とする名跡の先達になりすます歌舞伎役者「代々」というフィクション機能について解き明かしを試みてみたい。

★歌舞伎と役者

1)團菊祭とは?

 歌舞伎座5月興行は、恒例の團菊祭であった。「團菊祭」とは、徳川幕藩体制の下で育ってきた歌舞伎が明治期の近代化路線の大波の中で危機に瀕したときに、歌舞伎の近代化に果敢に取り組んだ、九代目團十郎(成田屋)と五代目菊五郎(音羽屋)に因んで、戦前の1936(昭和11)年、両雄の功績を顕彰しながら歌舞伎の活性化を目指すという目的で第一回團菊祭が始まった。彫刻家・朝倉文夫作の團菊ふたりの胸像が歌舞伎座に飾られたのを記念して始まった、という。

 第一回團菊祭に出演したのは、五代目歌右衛門、七代目幸四郎、十五代目羽左衛門、六代目菊五郎、初代吉右衛門など、夢のような顔ぶれであった。團菊祭が開かれた1936年と言えば、陸軍の青年将校らが2月にクーデターを起こし、クーデターは未遂に終わったが、事件は、2・26事件として記録された。翌1937年は、日中戦争に突入し、日本は1945年の敗戦まで、国民生活を圧迫する戦争の時代が続くことになる。

 坂道を転げ落ちるように軍国主義化に傾斜する世相にもまれながら、團菊祭は途中中断もあった。戦時色が強まり1944(昭和19)年に歌舞伎座が休座するまで團菊祭はなんとか続いたが、その後、中断。戦災で歌舞伎座が消失したため、東劇で開かれたこともある。さらに、戦後のGHQ(国連軍最高司令官総司令部)による歌舞伎への危惧(江戸時代の封建的な芝居で、日本の軍国主義を鼓舞したのではないか。特に「忠臣蔵」などの仇討ちものは危険視しされた)にもめげず、歌舞伎座が戦災復興の傷を癒し新築再開場した後、1958(昭和33)年に15年ぶりに團菊祭は復活した。当時は劇団制だったので、菊五郎劇団に海老蔵(当時)が出演する形だった。2013年2月に十二代目團十郎が逝去するまでのような形で團菊祭が復活したのは、1977(昭和52)年であった。1985(昭和60)年、十二代目として團十郎が復活した。その後、成田屋十二代目、音羽屋七代目の二枚看板が主軸となって、歌舞伎座で30年近く團菊祭は興行されてきた。最近では歌舞伎座が建て替えられることになり、この期間中、大阪の松竹座で團菊祭が開かれたこともある。2013年5月には、新歌舞伎座再開場の特別興行が続き、團菊祭はなかった。

 こうした幾たびかの中断期を含めて團菊祭は断続的に継続され、今年、2017年は團菊祭の第一回の年から数えて81年目を迎えた。3年前、2014年5月、新歌舞伎座再開場後初めての團菊祭が復活した。
 しかし、十二代目團十郎がいない中で、七代目菊五郎だけの、いわば片肺團菊祭であった。菊五郎は、昼の部で「魚屋宗五郎」、夜の部で「極付幡随長兵衛」の主役を演じたが、菊五郎が昼夜軸になって演じる舞台は、これが最後になった。

 2015年は、昼の部で「天一坊大岡政談」に出演したが、主役の天一坊を菊之助に譲り、菊五郎は大岡越前守に廻る。夜の部では、「神明恵和合取組 め組の喧嘩」の鳶・辰五郎を演じた。菊五郎世話ものの一つである。音羽屋の中でも、主役は菊五郎から菊之助に移行を始めている。さらに、團十郎亡き後の海老蔵は、團菊祭でも影が薄い。1958(昭和33)年に15年ぶりに復活した團菊祭を観たわけではないが……。当時は劇団制だったので、菊五郎劇団に当時の海老蔵(後の十一代目團十郎)が「出演」する形だったが、現在の團菊祭では、海老蔵の立ち位置はこれに近いのではないか。

 今年の團菊祭では、次世代を睨む團菊祭の色合いがいちだんと深まった。若い菊之助は昼の部で、「梶原平三誉石切」のごちそう役、奴・菊平、「吉野山」では、海老蔵を相手に静御前、夜の部では、「伽羅先代萩」の立女形の重要な役どころの乳人・政岡を演じた。これに対して、若い海老蔵は、昼の部で、「吉野山」の狐・忠信、夜の部で、「伽羅先代萩」の「国崩し」という藩政転覆を狙う敵役の役どころの仁木弾正を演じた。

 菊之助は現在の歌舞伎界の大黒柱となっている吉右衛門の娘と結婚したことで藝の上で「父親という師匠」をふたり持った。歌舞伎役者として最高の環境を持ったことになる。従来の音羽屋の家の藝に加えて、播磨屋の藝を継承することになった。立役などに芸域を広げ、女形も藝を深めるチャンスが増えたと思う。いずれ、今の七代目菊五郎とは一味違う新しい八代目菊五郎を作り出さなければいけない。否、既に、その目標に向かって着実に進んでいるように見える。海老蔵も若くして父親の團十郎を亡くした。十三代目團十郎を襲名するのを急ぐよりも、團十郎襲名にあまり拘らなかった偉大な祖父を目標に今の、十一代目海老蔵という名跡を長く勤める方が良いかもしれない。

2)團菊祭で、なぜ、坂東彦三郎家の三世代襲名披露をしたのか

 今年の團菊祭の特色は、もう一つある。昼の部のハイライトともなったのは、坂東彦三郎家三代の襲名披露。歌舞伎座の場内に入ると、祝幕が目に飛び込んでくる。襲名披露などの祝い事に際し、贔屓筋から贈られるひと張りの幕。襲名披露興行の劇場で使われる。今回の祝幕は、茶色地。真ん中の上部に坂東彦三郎家の家紋「鶴の丸」が濃い茶色で染め抜かれている。日本航空のマークに似ている。幕の上手に「のし(熨斗)」。下手に4人の役者名が連記される。各自の名前の下に「丈江」を付けて、初代坂東楽善、九代目坂東彦三郎、三代目坂東亀蔵、六代目坂東亀三郎、とある。幕の下手下の端から時計回りに旋回飛翔する鶴の群れ。数えると7羽のようだ。幕の地には何羽かの鶴の影が写っている。影は4羽か。幕の上手には、地上の松とゆったりと歪曲して流れる川がある。幕を提供した後贔屓筋は、「株式会社西原衛生工業所」と明記されていた。給排水衛生、消火、水処理、空調換気設備の整備などの事業をする会社、ということだ。水の活用を通じて社会に貢献する、というのが社是らしい。川は、水のシンボル。六代目亀三郎(4歳)は、夜の部「曽我対面」で劇中襲名披露で、「初舞台」として紹介される。

 そもそも、歌舞伎の「襲名」とは何か。物故している名優たちの名前、役者の家代々に受け継がれている祖先の名前など、その名前を○代目として受け継ぐことで、名優の藝や風格に少しでも近づこうとするシステムとでも定義しようか。家代々の名前を受け継いだ場合、舞台で演技する役者にとって、「親父そっくり」「先代そっくり」などという掛け声が「大向う」(常連の見巧者)から掛かるのは役者冥利であろう。

 さて、今回の襲名披露の演目「梶原平三誉石切」では、新しい彦三郎が主役。九代目となる。なぜ、團菊祭で坂東彦三郎家の三代の襲名披露をするのか。
 坂東彦三郎一家の屋号は、「音羽屋」。普通、坂東家の屋号は、坂東玉三郎や坂東三津五郎(今は、息子の巳之助)、坂東秀調がそうであるように、「大和屋」ではないのか。大和屋は、初代三津五郎に因む。坂東彦三郎を取り囲む家系は、実は、3つある。江戸三座の市村座の座元、市村羽左衛門の系統。新しく襲名をした九代目彦三郎の祖父は、十七代目市村羽左衛門。つまり、どの役者でも似たり寄ったりで、実際の血筋が繋がっているかどうかは別としても、市村羽左衛門家は江戸歌舞伎の名望家のひとつなのだ。羽左衛門といえば、華のある藝で一世を風靡した戦前の立役、外国人の血が混じっている十五代目が歴史に燦然と輝くが、私もいぶし銀のごとき演技を堪能した大正生まれの十七代目も素晴らしい役者だった。屋号は、「橘屋」。間に挟まった十六代目羽左衛門は十五代目の養子として迎えられたが、歌舞伎役者としては脂がのる前、48歳の若さで亡くなってしまった。今では、歌舞伎通の間でもあまり話題にならないのではないか。十七代目羽左衛門は六代目坂東彦三郎(六代目菊五郎の弟)の長男(つまり、五代目菊五郎の孫、六代目菊五郎の甥)であり、この十六代目羽左衛門の養子となった。

 六代目坂東彦三郎は、五代目尾上菊五郎の三男、六代目尾上栄三郎から襲名。五代目の長男・六代目尾上菊五郎の弟ということで、当代の坂東彦三郎家の周りには、五代目尾上菊五郎の家系が極めて近しい関係になっている。五代目菊五郎は、明治期の主要な役者で、九代目市川團十郎、初代市川左團次と並んで、「團菊左」と愛称され、明治期の歌舞伎界を支えた。次いで、当代彦三郎の祖父の市村羽左衛門家とも縁が深い。当代の尾上菊五郎家は、六代目菊五郎と初代中村吉右衛門と並んで、「菊吉」と愛称され、大正期の歌舞伎界を支えた六代目尾上菊五郎の養子・尾上梅幸の家系。

 代々の彦三郎と屋号。
  初代から三代目彦三郎までの屋号は「萬屋」。
  三代目は、八代目市村羽左衛門の三男。
  四代目彦三郎から屋号は「音羽屋」。
  四代目は養子。三代目の甥、市村座の帳元の子。
  五代目彦三郎は、養子。屋号は音羽屋。
  六代目彦三郎は、五代目菊五郎の三男。屋号は音羽屋。
  七代目彦三郎は、六代目彦三郎の長男。屋号は音羽屋。
    その後、十六代目市村羽左衛門の養子になり、最後は十七代目羽左衛門になり、屋号は橘屋。
  八代目彦三郎は、十七代目羽左衛門の長男。屋号は音羽屋。
  当代の九代目彦三郎は、八代目彦三郎の長男。屋号は音羽屋。

 そこで、坂東彦三郎家は、屋号が「音羽屋」となった。團菊祭での坂東彦三郎家の三代襲名というのは、菊五郎一座の軒先を借りてというような軽い関係ではなく、これら家系の中軸に近い位置にいるようである。

 「梶原平三誉石切」は、今回で17回目の拝見。私がこれまでに見た梶原平三役は、6人いる。幸四郎(5)、吉右衛門(5)、富十郎(3)、仁左衛門(2。1回は、巡業興行)、團十郎、そして今回は、初役の彦三郎。この顔ぶれを見ると、九代目彦三郎が初々しい。

 「石切」の場面には、型が3つある。初代吉右衛門型、初代鴈治郎型、十五代目羽左衛門型。その違いは、石づくりの手水鉢を斬るとき、客席に後ろ姿を見せるのが吉右衛門型で、鴈治郎型は、客席に前を見せるが、場所が鶴ヶ岡八幡ではなく、鎌倉星合寺。羽左衛門型は、六郎太夫と娘の梢のふたりを手水鉢の両側に立たせて、手水鉢の水にふたりの影を映した上で、鉢を斬る場面を前向きで見せた後、ふたつに分かれた手水鉢の間から飛び出してくる。桃太郎のようだと批判された。

 幸四郎、吉右衛門のふたりは、母方の祖父という家系から言っても初代吉右衛門型であった。富十郎は、上方歌舞伎の系統して、初代鴈治郎型だったが、場所は鶴ヶ岡八幡であった。仁左衛門と團十郎は、十五代目羽左衛門型で、手水鉢の向うから飛び出してきた。今回の彦三郎は、当然ながら、十五代目羽左衛門型であった。型通りに地道に丁寧に演じていた。先代の派手さは望むべくもなかろうが、どこまで十五代目に迫るか。今後の彦三郎の梶原平三の精進ぶりが楽しみだ。

 坂東彦三郎の系統の役者で「梶原平三誉石切」の主役を演じたのは、松竹演劇制作部作成の上演記録を見ると以下のようになる。彦三郎改め、十七代目羽左衛門が、1955年10月の襲名披露の舞台で歌舞伎座、同年11月の大阪歌舞伎座、1961年3月の歌舞伎座、1988年4月の大阪新歌舞伎座で、それぞれ演じている。4回。また、今回、初代楽善になった十七代目の長男が、薪水の時代の1965年6月に東横ホールで、1972年5月に薪水改め、二代目亀蔵の襲名披露の舞台で演じている。2回。こういう記録をチェックして行くと、亀三郎改め、九代目彦三郎の襲名披露の舞台で、独特の華があった十五代目羽左衛門型の梶原平三に初役で挑戦する意味が判るというものだ。

3)「大統領」という掛け声と歌舞伎の大向うの掛け声

 私は、在日フランス人協会を主体としたフランス人たちを対象にした歌舞伎や人形浄瑠璃の講演を定期的に実施している。国立劇場の会議室などを借り切って観劇前に、歌舞伎入門的な知識とその時上演する演目についての解説、見逃してはならない見所などを逐語通訳を含めて、事前に1時間ほど講演をすることになっている。フランス人に実際に日本の伝統芸能に触れてもらうボランティア活動を続けている「フランス語検定1級合格者の会」に依頼されて、もう10年になる。観劇後、フランス人から疑問に答える時間を設けている。聞かれる疑問で目立つのは、初めて歌舞伎を観たフランス人が一様に驚くのは会場の客席から、突然聞こえてくる「あの大声」は、なんなのだ、という疑問である。私は「大向う」という常連の歌舞伎ファンがご贔屓の役者の「屋号」などを叫んでいるのだと説明をする。役者への激励の掛け声なのだと説明を続ける。「大向う」について、「屋号」とは何か、屋号以外に大向うがかける「言葉」などについて説明をする。

 例えば、大向うから掛かる歌舞伎の屋号では、「成田屋」「播磨屋」「高麗屋」「音羽屋」「大和屋」「成駒屋」「橘屋」「高島屋」「山城屋」「松嶋屋」「京屋」「高砂屋」「加賀屋」などがある。屋号以外の掛け声では、「代数(○代目、例えば、「十五代目」、「二代目」など)」、居住地(住所地、例えば「紀尾井町」など)、そのほか、先代に芸域が近づいてきたという褒め言葉の「親父そっくり」、場面に即して、あるいは、病気休演恢復明けや芝居の見所などを「待ってました」、名場面の科白、演技などでは、「タップリ」、立役と女形のお揃いのカップルには、「ご両人」など。役者に演技や科白に邪魔にならないタイミングで声を掛けるようになるには、修業がいる。

 歌舞伎では、私は聞かないが、大衆的な芝居や芸能では、役者や芸人への激励や賞賛の意味を込めて、「大統領」、「いよ!? 大統領」などという掛け声を聞いたことがある。大統領の上は無いが、役者は、「役者が違う」、「役者が一枚上」(一枚とは、芝居小屋に掲げる看板の位置)や「役者が上」などという言葉があるように、役者稼業はゴールが無窮である。アメリカの大統領と日本の首相、どっちが政治家として一枚上か、いま、彼らは正念場の舞台に立たされている。大統領と役者は、やはり縁がある。  《以下、次号に続く》

 (ジャーナリスト・元NHK社会部記者・日本ペンクラブ理事。)

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