宗教・民族から見た同時代世界
天安門車突入事件にみるウイグル族の怒り
秋も暮れようとする頃、中国政府の中枢であり国威の象徴である北京の天安門を狙って車が突入し炎上した事件が、世界の耳目を集めた。
中国政府は間髪を入れず、突入して炎上、死亡した3人はウイグル族の家族であり、刃物やイスラム原理主義の文言を記した旗を持っていたと発表し、さらに、事件発生後10時間を経ずして、5人のウイグル族住民を共犯容疑者として拘束した。
捜査のあまりの迅速さは違和感をもたらしたが、中国当局はこれをもって、この事件を東トルキスタン独立勢力による「綿密に計画された組織的なテロ」と断定し、一層の「テロとの戦い」を宣告した。
一方、突入して死亡した家族については、地方政府の不公平な措置に抗議するため政府へ陳情を繰り返していたとか、約2千人の死傷者が出た2009年のウルムチ騒乱で家族を失った報復だった、などの情報もあり、ウイグル族側は組織的な関与を否定しているが、中国政府がこの事件を口実にさらに弾圧を強めてくるものと警戒している。
ではそもそも、中国政府とウイグル族との関係はどのようなものなのだろうか。
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◇◇ 新疆という地名が示す歴史
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ウイグル族の故地・新疆ウイグル自治区は、中国の最西部に位置し、住民の45%を占めるウイグル族をはじめ、3分の2が、カザフ族、キルギス族などを含むトルコ系のイスラム教徒である。
アジアの内陸部には広い範囲に亙ってトルコ系の諸民族が居住し、ここは、その東部地域に当たることから「東トルキスタン」ともよばれる、中央アジア文化圏の一角である。
同時にまた中国側からは「西域」ともよばれるように、この地域は、その歴史において、中央アジアの勢力と中国の勢力との拮抗・興亡の舞台だった。18世紀に清の支配下に入り、清朝から「新しい領土」を意味する「新疆」とよばれたのが、現在の地名の起源である。
辛亥革命後は、清の版図を継いだ中華民国に属しながらも、1933年と44年、二度に亙って「東トルキスタン共和国」の独立を図ったが、49年の共産党政権確立とともに人民解放軍の進駐により抑え込まれた。
新中国の下に1955年、新疆ウイグル自治区が設置された。しかし、直後に開始された大躍進政策(58〜60年)は住民の経済と生活を破壊し、数十万といわれる餓死者を出したり数万人がソ連領に逃亡したりする事態となった。
つづく文化大革命(66〜76年)ではイスラム禁圧が徹底されてモスクの破壊や宗教指導者への迫害が行われ、また、紅衛兵同士の武装闘争に巻き込まれて住民数千人が死傷するなど、混乱を極めた。
この大躍進から文化大革命の期間を通じて自治区のイスラム住民たちは、弾圧に抗して幾度もの大規模な蜂起・反乱を繰り返していた。
80年代、中国政府は民族政策を転換し、破壊されたモスクの修復やアラビア文字によるウイグル語正書法の策定など民族文化の振興を図って治安は小康状態を保ったが、90年代、ソ連の崩壊にともない同じトルコ系イスラム民族の中央アジア諸国が独立したこともあずかって、再び、自治区住民に政治的な独立を求める機運が高まった。
警察・政府施設への襲撃や治安部隊との衝突などが頻発し、政府はこれに対して「厳打」とよばれる容赦のない弾圧と、モスクに住民の分離主義や「極端宗教主義」を監視し阻止する責任を負わせたり、高等教育における民族語の禁止・漢語の義務化など、文化的締めつけで応じた。
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◇◇「テロ組織」に封じ込まれて
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新疆ウイグル自治区の状況は、同じ「人権」や「自由」の問題でありながら、チベット問題に比べ、私たちの関心は薄い。それには、中国政府の情報統制に加え、イスラムであるゆえに欧米社会の感情移入が乏しいことや、チベットにおけるダライ・ラマのようなスパースターがいないことが挙げられよう。
国際的な認知と共感が薄いなかで、中国政府はウイグルの民の主張を、「イスラム過激主義」として圧殺を図り、9・11以降は米国政府が唱える「対テロ戦争」に便乗して、国内外で権利の主張や独立運動を展開する「東トルキスタン・イスラム運動」ほか4組織を「テロ組織」に指定した。
米国と国連安保理もまた、かつてアルカイダと関連があったとの憶測から同組織を「テロ組織」と認定して、中国の「厳打」にお墨付きを与えた。
経済政策もこの地域の危機を深めている。中国政府は、砂漠がちのこの地域の民生向上のために巨額を投じたとよく言挙げするのだが、その殆どは、かつてこの地域に集中した核実験の関連や、中国の全埋蔵量のほぼ3分の1を占めると推定される石油と天然ガスの開発、さらに90年代末から急速にすすんだ「西部大開発」による市場経済拡大のための大規模基盤整備などであり、これらはむしろ地域住民にとっては資源の収奪と環境破壊にほかならず、開発にともなって大量に流入してきた漢族とのあまりに開いた経済格差ともあいまって、住民の怒りの源となっている。
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◇◇ 後を絶たぬ暴力と憎しみの連鎖
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こうして日々に蓄積される格差と貧困への不満や、差別や侮辱への反発、宗教抑圧への憤りから、住民の抵抗は続いた。北京オリンピック前後の警察や政府施設への攻撃。これに対して政府は、過剰取り締まりに加えて、イスラム教徒の宗教的義務である断食月の断食や、女性がスカーフをかむり男性が髭を蓄えることや、メッカ巡礼にまで規制の手を広げた。
2009年には、出稼ぎ先でのウイグル族労働者と漢族労働者とのトラブルが発端で自治区首都のウルムチで抗議行動が起こり、治安部隊の過剰警備と日頃の憤懣から暴動化したが、このときは、すでに同市の大半を占める漢族移住民が攻撃に転じて、2千人に及ぶ死傷者を出す騒乱に発展した。
自治区内での襲撃や衝突はその後も後を絶たず、こうしたなかで起こったのが今回の天安門前突入・炎上事件であった。冒頭に述べたように直接の動機は個人的な怨嗟にあったとしても、その背景にはこのような中国政府・漢族とウイグル族の確執の歴史と現状がある。
民族や宗教のアイデンティティーに根差す住民感情のしこりは、治安強化や経済政策だけで解決できるものではない。80年代の小康期にみたように住民の尊厳の尊重と宥和政策が必要である。天安門前突入事件に際して政府が宣言したように今後、治安強化と宗教・文化領域のさらなる引き締めで臨むならば、民族対立が一層危険な状況に至ることは避けられまい。
(筆者は元桜美林大学教授)