【コラム】神社の源流を訪ねて(29)

天日槍の巡回経路の謎

栗原 猛

◆「天」(あま)は「海」か

 その昔、新羅から渡来して大きな足跡を残した天日槍については、巡回経路も含めて謎が多いとされる。上田正昭氏は「古語拾遺に海檜槍来帰(あめのひほこまいけ)」とあり、天日槍のアマも本来の意味は「天」ではなく「海」であったと考えられるとして、「海」から渡来した「日槍」ということであろう、とする。
 また天日槍の巡回の経路が、気比神社の祭神の都怒賀阿羅斯等に似ていることから、同一人物ではないかとの見方もある。

 三品彰英氏は『増訂日鮮神話伝説の研究』で、天日槍と母系の系譜でつながる神功皇后の巡回地が稲作文化を源流にしていたことで似ている、また対馬・壱岐・北九州海岸地帯では神功皇后の系譜と応神の出誕伝説は広く、天日槍伝説とも相通じるように語り継がれている―という。
 林屋辰三郎氏は「日本の中の朝鮮文化41号」で、神武天皇と天日槍の巡回した経路が似ていることから、両者を重ねようとする試みをしている。

 神武天皇でいえば『新撰姓氏録』に、「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)後也。是出於新良国。即為国王。稲飯命出於新羅国王者祖合。日本紀不見」とある。この稲飯命(いないのみこと)は、神武天皇の次兄で、神武の一行が熊野灘に差し掛かった時、海が荒れ「嗟乎、吾が祖は天神、母は海神なり。如何ぞ我を陸に厄(たしな)め、復我を海に厄むや」と叫んで、剣を抜いて海に飛び込んだとある。

 『日本書紀』古典文学大系はこの個所について、3つの読み方を紹介する。そのうち1つは「稲飯命は新良国王より出たが、稲飯命の系が新羅国より出たというのは紀にみえない」とする。次兄が新羅出身なら同母の弟の神武も同じになるのではなかろうか。

 岡谷公二氏は 『神社の起源と古代朝鮮』で、「新撰姓氏録が編纂された815年(弘仁6年)のころまで、神武天皇が新羅とかかわりがあるという事実が知られていなければ、このような付会自体成り立たないに違いない」としている。
 韓国の歴史書、三国史記によると紀元4年に新羅の初代、朴赫居世王が亡くなり許曽(こそ)を作って祭ったとある。許曽(こそ)とは神社のことといわれるから、朝鮮半島にも神社が存在したと考えられる。また神、神社、神宮、唯神(かんながら)という漢字があるということは、形のあるものもあったのだろう。

 数年前の8月、中国の山東省曲阜の孔子廟と孔子の墓を訪ねた。林は蝉しぐれで、子供が母親に連れられて大勢来ている。
 孔子が亡くなり弟子たちは、儒教の教えに従って3年間墓のそばに住んで喪に服す。子貢はさらに3年墓を守ったとされる。墓のそばの砕けかかったレンガ造りの小さな家に、「子貢の家」と掲示があった。2500年前のものか聞いても分からなかったが、その後、孔子廟を見たら、廟とお墓は神社と古墳の関係に思えた。神社は日本固有のものと考えがちだが、東アジアの大きな流れの中で見ることが大事だと思われた。

 (元共同通信編集委員)
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