【コラム】神社の源流を訪ねて(41)
天神多久頭魂神社(あまのたくずたま)、多久頭魂神社(たくずたま)
◆ 記紀神話に豊富な対馬の神々
対馬には天道(天童)信仰と呼ばれる固有の信仰がある。神殿がなく石を積み上げて祭祀をする神社の最も古い形式とされる。
天道信仰は太陽信仰で、弥生時代からの自然信仰が基本にあって、天照大神の原型は、天道信仰の祭祀から発生したとされる。それはのちに触れることになるが、天道信仰の代表とされる対馬北端にある上県町佐護の天神多久頭魂神社と、南端の厳原町豆酘の多久頭魂神社を訪ねることにした。神社といってもどちらも社(やしろ)はなく、ご神体は天道山と龍良山(たてらさん)と呼ばれる整った姿の山で、祭場がそれぞれの山の麓にある。
まず天神多久頭魂神社は、佐護の佐護川を望む森の中に、磐境形式の祭場が作られている。この祭場の入り口に、2メートルぐらいの高さの二基の自然石を積んだ石塔が立ち、東と北側に石の鳥居が立っている。鳥居をくぐって少し行くと、大きな木の元に土が盛られた簡単な祭壇があり、したがって祭祀は露天で行なわれる。建物類は見当たらない。簡素で素朴なところは、何年か前に韓国で見た堂(たん)という祭祀形式に似ていると思われた。ただ堂と違ってこちらは常設の施設である。
対馬出身の古代史家、永留久恵氏は、『対馬国志』(第一巻 原始・古代編 ヤマトとカラの狭間で)で、多久頭魂について「タマは玉、魂、霊で、タクツは祭祀から考えると、天道菩薩と尊称され、対馬固有の神道とされる天道信仰の象徴。天道の本質は『天ノ神』であり、天童であると同時に穀霊であり、…日本神道の原点に通じる点が多い」という。
一方、島南部の厳原町豆酘にある多久頭魂神社は、龍良山(たてらさん、558メートル)にあり一帯が聖地である。山麓の原生林の中に石を積み上げた石搭が立ち、ここで祭礼が行われる。もっと奥まで行きたいと思ったが、あいにく大粒の雨が降り出し、難所のようなので割愛せざるを得なかった。
対馬の天道信仰は、日光感精神話を原型とし、太陽によって孕んだ子供を天神として、母神と子神を祀る形式になっている。兵庫県出石市の出石神社の祭神、天日槍の生誕神話に似ている。天日槍はすでに何度か登場しているが、新羅王の皇子とされ日本各地を回って稲作、灌漑、米作り、医療、養蚕、焼き物などを広めたとされる。
永留氏によると、山を神体とする天道信仰は、原初の形としてあり、祖霊神だから太陽神としても人々に祀られていた。その後、対馬の祖霊=わだつみ=天道神=日の神は、昔からあった対馬の祖と仏教などが結びつき、その後に朝鮮半島、大陸との外交上重要な接点である対馬に注目した大和政権の神統譜に組み込まれていったのだろう―というのである。
つまり母子神信仰の基層には、原初には海神や山神の祭祀があり、太陽を祀る天道信仰と融合し、やがて歴史上の人物に仮託され、神話の再解釈が導入され、明治時代になると国家神道の展開によって、祭神も日本神話の神々に読みかえられ、朝廷の先祖につながるように系列化されていったというわけだが、実際にもそういうことだったのだろうと思われる。例えば母子神信仰は、母神(神功皇后)と子神(応神天皇)を祀る八幡信仰が重なり、また豊玉姫と鵜茅草葺不合命とも解釈されていく。
天神と天道の違いについては、国語学者の鈴木棠三氏は『神道体系神社編 46 壱岐・対馬国』で、「同じ根から生じた信仰である。発生的には天道が先で、この天道の聖地に社殿を営み神社の形式を備えるようになったのではないか」という。
対馬では赤米が作られている。赤米を祀る「タク」という言霊は丈(たく)長(たく)と考えられ、稜威高く尊い穀霊神には、その年に神田で収穫された最初の赤米を捧げて感謝する。赤米は縄文時代に日本に最初に伝えられた米とされる。
大林太良氏は「日本の神話のうち、その王権の神聖性と由来を語る神話が、朝鮮神話、ことに扶余・高句麗系の神話と著しい類似性を持っている。これは古代日本の支配文化の系統を示唆しているのである」と、はっきり言っている。
(元共同通信編集委員)
(2022.4.20)
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