【学術会議 任命拒否問題】

学術会議の「排除」をめぐる「負」の歴史
――強権発動のもたらすもの

羽原 清雅

 日本学術会議の新メンバー105人のうち、発足後初めて6人の学者が排除された。戦前の科学者たちによる戦争加担の反省から生まれた日本学術会議は、再びそのような事態を繰り返さないよう、その反省のもとに、日本のすぐれた学者、研究者が網羅されている。
 だが、菅義偉新首相のもとで初めて、6人の社会科学系の学者が任命されなかった。政治権力が、政権批判や政府提出の法案などを批判、反対する顔ぶれに限って除外した。

 たしかに、権力に逆らうものはいないほうが好都合、との思いはあるのだろう。だが、権力に対して批判、反対はあるのが健全な社会であって、批判者を排除するなどの権力行使は民主主義を害するものなのだ。

 その後の展開を見ると、さらに奇怪である。
 菅首相は、学術会員の任命責任を負う立場だが、排除した6人の名前は見ていなかった、と説明した(9日)。とすれば、6人についての任命は検討されずに、除外したのか。とすれば、任免権を持つ首相以前に、6人を外した者はだれか。なぜか。

 学術会議を担当する内閣府の事務局長は、6人排除の事実を知り「驚愕した」と証言するのだから、首相以前、事務局長以降に除外されたことになる。とすれば、元警察官僚で、安倍政権時代の菅官房長官のもとで長く幹部官僚の人事などを握ってきた現官房副長官か。とすれば、法律の定めた首相の任命権を、権限もない下僚が最初から奪ったのか。とすれば、職権の逸脱行為であり、法的に罰せられなければなるまい。内閣府の参事官は、105人の名簿も添付して首相に提出した、という。とすれば、首相は任免権者として、誠実に職務を果たさず、単なる通過機関にすぎなかったのか。
 首相として、学問、思想に対する敬意や理解、意義といった理念に欠けるのではないか。

 もう一点の不可解は、学術会議の「非」を見つけたとして虚偽をアピールするメディア(例えば、フジテレビ上席解説委員ら)、よく調べずにコメントを発する学者、あるいはそれらに便乗して声を大にする国会議員らの存在。世論は動揺するだろう。

 さらに、本来の「思想、学問の自由」に端を発した問題でありながら、これ幸いとばかりに、学術会議を予算、組織などの面から締め付けようとする閣僚や自民党幹部ら。河野太郎行政・規制改革相は、行革の名を借りて制圧を試みようとする。また、同党の下村博文政調会長は、おのれの閣僚時代を含めて、学術会議に諮問したこともないにも拘らず、「学術会議はこの10年間答申もしていない」と発言する。諮問しなければ、答申が出ることはない。実際には、学術会議はこの3年間に約7、80件の提言をしているという。
 萩生田光一文科相も、この騒ぎに便乗してか、大学学長の任命拒否も「ないとは言えない」と発言した。

 学問研究が軍事や戦争に加担しないという学術会議の理念から、例えば戦争を目的とする科学研究は行わないとの声明(1950、67年)を出している。また、防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」への反対声明(17年)を出した。原子力の平和利用については「自主・民主・公開」3原則を示して原子力基本法(55年)に盛り込まれた。これが、学術会議が気に入らない事情なのか。

 学術会議は、政府とは独立した組織であり、その運営などは学術会議自体の問題であるし、政治の立場はとくに慎重でなければならない。菅首相の本質を避けた逃げの手法ばかりではない。河野、下村氏はともに総理総裁の座を求めようとしており、この狭隘な姿勢で国政にあたることの危惧は大きく、将来にわたって懸念される。

 この問題に類似する、戦前の権力に異論を唱えた学者、思想家たちが排除されたケースを見ていくと、菅首相の手口はある意味で、戦前以上に強権的、反憲法的であり、論拠や説明を排除し、しかも「排除」をめぐる議論が出る以前の一方的処断である。
 学者、研究者の対応次第では、政権を揺るがしてもおかしくないほどの、歴史的に大きな問題なのだ。この重さを軽視してはなるまい。「権力」は、戦前戦後も一貫して批判されることを好まない。だが、許容することはできない。悪い芽ははびこらないうちに早期に取り除かなければならない。
 まず、菅手法の無茶ぶりを示したあと、戦前の歴史を垣間見ていきたい。

*権力のターゲット 明治政府の発足最初の弾圧は、宗教界に向かった。神道を国教化して、国民の意識を統一する狙いから、それまで長く定着していた仏教の影響を廃仏毀釈政策によって抑え込もうとした。1870・明治3年の大教宣布の詔勅である。だが、これは長くは続かなかった。キリスト教を異端視する政策も、明治初期に終わっていった。

 次に言論統制。当時の主要メディアである新聞統制で、讒謗律、新聞紙条例(1875・同8年)。これは、いろいろと変化しながら、出版物、映画、放送など時代とともに、抑圧策が講じられた。大本営、憲兵、特高などの戦時下では、とくにひどかった。権力というものは内外を問わず、いつの時代にも、彼らに都合の悪い時に威圧的、一方的に発してくる。戦前はもちろん、戦後、そして今も形態を変えながら、個人情報の保護といった必要な措置に名を借りながら、多様に迫っている。

 さらに戦前は、共産主義、社会主義等の思想的、あるいは体制的な面での弾圧が、これも手を変え、品を変えて、武力、暴力をもって行われた。幸徳秋水ら処刑の大逆事件(1911・明治44年)、関東大震災時の戒厳令下の虐殺事件(1923・大正12年)、治安維持法による共産主義者ら検束の3・15事件(1928・昭和3年)、翌年の4・16事件、共産、社会主義者、知識人ら大量検挙の第1次人民戦線事件(1937・同12年)、翌年の第2次人民戦線事件など、政府に逆らう者だと判断したら次々に根こそぎ捕まえた。

 権力は強く、都合のいい法令をつくり、武力・暴力を用いる軍や警察を擁し、心身を痛めつけて、意に添わない人物や集団を抑え込む。理由は、ただ権力の握るシステムを批判させず、損壊させず、存続させていくために、である。
 それは、社会の変動が大きく揺れ動くときに、発動されがちだ。

*新たな問題点 今度の菅政権の出方は、戦前の状況とは法制度的にも、社会的にもかなり異なる面がある。その一方で、より大きな類似点もある。

 ① 学問、思想、表現、報道の自由は、戦前よりも憲法の保障のもとではるかに尊重されてきた。戦前は法制度や機構が抑圧したが、今はそうした環境がないにも拘わらず、論拠も示すことなく、直截に事を進め、確保された「自由」に挑戦する、という点である。

 ② 戦前は個々の学者について、著作などの具体例を引き、内容的に攻撃を仕掛けていたが、今回はこれまでのところ、問題の論証や排除の理由などが示されていない。

 ③ さらに、日本学術会議という独立機関の総体の意思を否定する形で、しかも社会科学系という多様な研究成果があるべきジャンルにおいて、6人というまとめた形で説明なしに排除している。本来は、学者一人ひとりについて、正当な排除の理由が明らかにされるべきだ。戦前は、論外ながらも、抑圧する理屈をつけていた。

 ④ 6人の学者は、いずれも安倍政権が重視した集団的自衛権関連、特定秘密保護法、「共謀罪」の立法について、国会、メディアなどで反対の意思表示をしている。どう見ても、安倍政権の後継を標榜する菅首相の意趣返しではないか。だからこそ、排除の理由としての説明をすることができない。戦前は露骨に陽性ですらあったが、今は極めて陰湿である。

 ⑤ 戦前は、対立、反発する学者らの問題提起があり、それに乗る形で政府、軍部、右翼などが議会などで取り上げて輪を広げていったが、今回は首相自身が先手を打つ形で、一方的に問題を提起してきている。しかも、任命責任を負うべき首相が、一部官僚に追随、状況をあいまいにして学術会議の組織改革などに焦点をずらそうとする。

 ⑥ かつては一部の権力者の判断のもと、議会や警察権などが「合法化」を謀ることで弾圧的行為を容認した。この反省のもとに戦後は、「形式的な任命に過ぎない。学問の自由、独立はあくまで保証される」(中曽根康弘首相、1983年)という基本姿勢が守られてきたが、内閣法制局は「推薦の通りに任命すべき義務があるとまでは言えない」として、学術会議の推薦と首相の任命との間に「義務」の有無なる概念をさしはさんで、逃げ道を開いた。これも、安倍時代に広がった忖度官僚による法解釈の変更、なのか。

 ⑦ 戦前の言論弾圧の歴史を見るとき、対象とされた大半の学者は教職に復帰、しかも学長、総長などに返り咲いている。これは、当時の言動が正しいからこそ、教育現場、とくにそのリーダーとして復活してきた、と言って過言ではない。

 安倍政権時代に定着していった官僚群の首相官邸の人事権への追従、迎合、忖度といった、本来の筋目を狂わす姿勢。安倍時代常套の出世の要件。これが新政権に踏襲された。内閣法制局長の首のすげ替え、検事総長人事での恣意的扱い、局長クラスの国会答弁でのまやかし、あるいは文書の改ざん、隠ぺい、といった官僚機能の不全をもたらした悪例が、そのまま菅政権に引き継がれた。一時的なマイナスではなく、この風潮が持続すれば、政府内はもちろん、政治や行政のあり方にまでゆがみやひずみが底流になりかねない。

 このような状況から、この学術会議問題はこれまでの為政者批判にとどめることなく、徹底的なブレーキと反省を具体化しなければならない。それは、野党ばかりのターゲットではなく、自民党にも学者、研究部門出身の議員も少なくなく、政党政派を超えた取り組みを求めたい。
 一強という政治状況、法制度を建前とした逃げ口上、うやむやな時間切れ、といったこれまでのような扱いではなく、学問・研究・思想の自由の擁護、多様性を生かせる民主主義の保証、という視点から、広範な論議を期待する。

*学者たちの抑圧 歴史は「反省」「教訓」をくれる。それが、未来への改革になる。
 ただ、状況が変わってくると、反省や教訓が薄れてくる。そして「後悔」をもたらす。
 早い時期の改革に手を付けておきたいし、過ちは繰り返さないほうがいい。そのような意味で、もう一度、<思想、言論、学問の自由>を考えたい。

 戦前のあってはならない学問、思想弾圧の事例の代表的なものを拾っておこう。当時の権力は、戦争遂行という課題の設定に成功、国民をその壺中に押し込めるために傍若無人の振る舞いをし、多様な意見の存在自体を封じ込めた。今日の憲法下では、まさかの権力行使が現実に行われていたのだ。権力には、そのような無理を押し通し、批判や反対の意見を上から抑え込んで、定着させる力があった。

1> 森戸辰男事件 ロシア革命後の1920(大正9)年、東京帝国大助教授の森戸辰男が、経済学部機関紙「経済学研究」に「クロポトキンの社会思想の研究」なる論文を掲載した。クロポトキンはロシア革命当時、相互扶助を重視する無政府主義を説き、マルクス主義を批判、ボルシェビキズムに反対した人物。だが、学内右翼の上杉慎吉教授らをはじめその集団から、危険思想の宣伝だとして攻撃を受ける。東大は休職。さらに新聞紙法の朝憲紊乱罪に問われ、禁固3ヵ月、罰金70円の判決を受ける。同誌の編集発行人だった大内兵衛助教授も同じ罪に問われるが、2年の執行猶予となった。森戸は戦後文相に就任した。

2> 滝川幸辰事件 京都帝国大法学部教授滝川幸辰は1932年10月、中央大学で「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」の講演をしたところ、「犯罪は国家の組織が悪いから出る」といった内容が無政府主義的だとして、文部省、司法省が問題視したが、いったんは収まった。

 だが、このころに司法官の赤化事件が起き、滝川が司法試験の委員だったことから、問題が再燃、右翼の蓑田胸喜(原理日本社)、貴族院の菊池武夫(陸軍出身)、衆院の宮沢裕(政友会、宮澤喜一の父)らが帝国議会などで攻撃し、赤化教授の追放を叫んだ。
 33年4月、鳩山一郎文相(戦後に首相、この処分問題で戦後公職追放にあったとされた)が滝川の著作等が共産主義的だとして、小西滋直京大総長に滝川の罷免を求めたが、結局文部省は休職処分とする。同時に内務省は、滝川の『刑法講義』『刑法読本』が国体の思想に反し、内乱罪などについての見解も出版法違反だとして発禁処分にした。

 京大法学部はこうした措置に強く反対、31人の教授全員が辞表を提出するが、他学部は同調しなかった。7月、小西総長が辞め、後任の松井元興総長が鳩山と折り合い、辞表提出の滝川、佐々木惣一、末川博ら6教授が免職、当局の決定に反発する恒藤恭ら2教授、5助教授、さらに数人の講師が辞任することになって、問題を残した。
 戦後、滝川は京大総長になり、佐々木、末川は立命館大学の学長に就任した。

 大学という学問・研究の府のありように大きな教訓を残し、権力に甘えることと、甘えずに闘うことの大切さを後世に残す重要な動きでもあった。
 権力は強い、だが真実を追う力はそれ以上に強い。この深い意味合いを理解できるかどうか、そのことを考える政治家、官僚群であってほしい。歴史はそのような教訓を残しており、それを汲み上げる能力を持ち合わせない権力者周辺の姿勢を問い直したい。

3> 天皇機関説問題 この問題は、政治的に2回の論議を呼んだ。当時の日本社会は、精神的にいわば鎖国状態にあり、皇国第一、天皇の意思に逆らうものは排除だ、という論理が国家権力を動かしていた。その思想がすべての基調にあり、国民はみなその論を信じる環境に置かれた。その思考を覆そうとする志向は、おかしい、異端、さらには天皇批判、天皇制打倒に結び付けられた。

 まず、第1段階。東京大学の美濃部達吉は1912(大正元)年、自著『憲法講話』で天皇機関説を公表した。天皇が単なる国家の機関とはなんだ、無礼な学者め・・・・このような印象を持ったのが、当時の右翼勢力の中軸でもあった東京帝国大学の上杉慎吉で、論争が行われた。美濃部の天皇機関説は、君主は国家のひとつの最高の機関、天皇は統治権の主体であり、統治機構の一機関だと主張して、君権絶対主義に立つ上杉と対立した。ただ、昭和天皇は天皇機関説の立場にあった。
 上杉は、大正期の代表的な右翼系思想家だった穂積八束の弟子で、東大生らの右翼グループを組織、また興国同志会(のちの国本社)結成の契機を設け、弟子には岸信介、安岡正篤らがいた。

 第2段階は、その20年ほどのちに再発した。
 成人男子だけながら普通選挙法が初めて実施され、共産党員らが多く逮捕され(1928・昭和3年)、統帥権干犯問題が起こり、浜口雄幸首相が狙撃され(30年)、満州事変(31年)、満州国建国、要人の井上準之助、団琢磨と、5・15事件での犬養毅首相殺害(32年)、国際連盟脱退、ワシントン海軍軍縮条約破棄(33年)と内外の緊迫を増し、日中戦争、日独伊防共協定(37年)と第2次世界大戦への歩みの続く時代であった。ナチスドイツでは、美濃部達吉が影響を受けたユダヤ人ゲオルグ・イェリネックの著作が焚書、発禁の対象になっていた。

 問題の提起こそ、一応論争の形ではあったが、誹謗中傷が多く、それが便乗的な攻撃ムードとなり、さらに世相の軍事・戦争ムードに乗って輪を広げていき、さらに政争にまで発展していった。
 1935年、菊池武夫議員が貴族院で、同僚議員である美濃部の天皇機関説について「叛逆思想、謀叛人、学匪」とののしり、それが政友会、軍部、右翼などに火をつけ、美濃部に対して反ファシズム、反ナチズムのレッテルを張り、不敬罪として告訴した。『憲法撮要』など3点は発禁となった。美濃部は貴族院で「一身上の弁明」に立ち、菊池発言に反発したが、9月には議員を辞任することになった。
 美濃部はそのあと、真相は不明確ながら右翼に銃撃され、重傷を負っている。

 問題は、論争ではなく政争の具にされたのだった。多数派の政友会はこの時とばかりに倒閣に動き、時の岡田啓介内閣は各面でファッショ化を強めていたが、同年8月と10月の2度にわたり「国体明徴声明」を出すことになった。最初の声明は天皇機関説の否定、ついで「芟除(除外、排除)」となった。岡田内閣は2・26事件(36・同11年)の勃発によって、広田弘毅内閣に代わる。

4> 矢内原忠雄事件 東京帝国大学教授の矢内原忠雄は、帝国主義的植民政策の研究者で『満州問題』『南陽群島の研究』『帝国主義下の印度』などを執筆している。無教会派のクリスチャンとしても知られる。

 ことの発端は1937年、「中央公論」に「国家の理想」を寄稿。「国家が目的とすべき理想は正義であり、正義とは弱者の権利を強者の侵害圧迫から守ること」などというもので、時代を超えて民主主義の当然の理を説いたといえるだろう。
 時代は盧溝橋事件、つまり日中戦争勃発直後で、かねて矢内原の論調に対して批判的だった同じ経済学部教授土方成美ら国家主義傾向の強い教授たちが反戦的だと批判、彼の辞職を求めた。さらに、文相が長与又郎総長に矢内原追放の圧力を掛け、結局12月に辞職を強制された。矢内原は戦後、東大教授から総長に復帰している。

5> 河合栄治郎事件 東京帝国大学経済学部教授の河合栄治郎は、マルクス主義、ファシズムを批判、理想・人格・教養主義を説く自由主義的な社会思想家だった。筆者も大学時代、河合が大学追放後に書いた社会思想社の『学生に与う』など一連の学生の啓発書を何冊か読んだことがある。

 国家主義的な立場をとる経済学部教授の土方成美のグループは、河合ら自由主義的な学者たちを数において次第に凌駕、批判を強めていた。このような、いわば身内からの攻撃もあって、1938(昭和13)年、河合の『ファッシズム批判』など4点が、内務省によって発禁となり、安寧秩序を紊乱するものとして出版法違反として起訴された。
 翌年1月には、総長の裁定によって休職に。

 矢内原にしても、河合にしても、共産主義を批判する立場の自由主義者だったが、権力者は次第に取り締まりの範囲を拡大、また理由を次第に緩和させて厳戒態勢を強めてくる。
 
6> 津田左右吉事件 早稲田大学教授の津田左右吉は、1939(昭和14)年、日本書紀の聖徳太子について批判的な考察があったとして、右翼の蓑田胸喜、歌人の三井甲之らの攻撃を受けた。「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する無比凶悪思想家」として不敬罪にあたるとした。当然、右翼勢力、内務省、軍部などが同調する。内容についての議論などはなく、レッテルを張り、付和雷同組を引き付けるのだ。そのため、『古事記及び日本書紀の研究』など4冊が発禁とされる。文部省の要求に従い、早大は津田を辞職させた。

 皇室の冒涜を理由に出版法違反に問われ、1942年に津田は禁固3ヵ月、出版元に岩波茂雄は同2ヵ月、執行猶予付きの有罪判決を受けた。
 だが、津田の皇国史観批判は戦後、再評価されて主流的な史観とされた。彼もまた共産主義批判の立場であった。

7> 人民戦線事件 1930年代の滝川、矢内原、河合、津田事件と相次いだ言論弾圧は、満州事変、国際連盟脱退、日中戦争という日本の戦争に進む流れに沿って進められた。政府、軍部、その尻馬に乗る右翼的団体などは、戦争を進めるための世論の支援的統一が必要だった。それが、異論と思われる学問、思想、その言論活動は理由の如何を問わず、抑圧する必要があった。
 その一環が、この1937、8年の2度にわたる人民戦線事件だった。この稿では、学問、研究、思想、出版などに対する弾圧を中心に取り上げているが、この事件は1928、9年の共産党をターゲットとした3・15、4・16両事件に次いで、さらに取り締まりの範囲を広げた措置だった。

 第1次は、1937(昭和12)年12月、コミンテルンによる反ファショ人民戦線の扇動を策したとの名目で、加藤勘十(日本無産党委員長)、鈴木茂三郎(同党書記長)、高津正道(同党)、黒田寿男(社会大衆党代議士)、その理論的指導にあたった山川均、大森義太郎、猪俣津南雄、向坂逸郎らの学者を含めて約400人が検挙され、日本無産党、日本労組全国評議会が結社禁止とされた。この年7月、日中戦争が始まり、この戦争に世論の反発が出ることを恐れたと思われる。

 第2次は、翌38年2月で、大内兵衛(東大教授)、有沢広巳、脇村義太郎(同助教授)、美濃部亮吉、阿部勇(法政大学)、宇野弘蔵(東北大学)ら労農派教授グループ、渡辺惣藏、吉川守圀(社会大衆党)ら45人が検挙された。
 まさに大量制圧で、学者たち個々の問題ではなく、戦争遂行上障害になりそうな危険思想と判断したグループを一括して捕まえたのだった。政情が緊迫すると、権力は論理を超えて、一網打尽の手法でリーダー格を抑え込むのだ。

 このように再三にわたって、言論、表現、学問、思想の抑圧が暴力的に行われた。逆らうことを許さない歴史でもあった。今日では思いもよらないが、小さく表面化したことが、抑制につながり、その連鎖において、次第に抑圧のシステムが拡散していくことは常に警戒しなければなるまい。
 つまらない些末なこととみて、事の本質を軽視することが、のちに悔いを残すことになる。権力のごまかしの論法も許すべきではなく、その背後の闇を読み取りたい。世の中の「まあ、いいじゃないか」といった許容や黙認はおおらかでは済まされず、将来に禍根を残すことにもなりかねないことに気を留めておくべきだろう。

 今度の学術会議の問題は、悲惨な歴史を繰り返さないことへの第一歩であり、単に行政改革や予算削減の問題にすり替えたり、科学技術の範疇には民生と軍事の両面があって境界線が設けにくい、従って学術会議の声明のような旧態依然の発想は改めるべきだと批判したり、惑わしの論理に乗るべきではない。問題を矮小化しないことだ。
 過去の言論弾圧のひとこまひとこまが、今の時代に警告を発し始めているのではないか。

*菅的排除の問題点 菅首相はこの問題について「総合的、俯瞰的な判断」「前例踏襲の打破」「学問の自由とは無関係」と繰り返す。加藤勝信官房長官は「行政権は内閣に属する」「一定の監督権の行使」「国家公務員として、憲法15条に基づく選定・罷免権の行使」という。これらの弁は、問題の本質を避けているにすぎない。

 首相が姑息なのは、この「総合的、俯瞰的な判断」という言葉自体、総合科学技術会議による学術会議の改革案で使われた言葉で、首相の「パクリ」である。学術会議の会長を6年間務めた大西隆氏は「任命を拒否された人文社会科学系の6候補は、人や社会を総合的、俯瞰的に捉えることを学問の特性としているのだから、任命拒否はなおさら疑問だ」(朝日新聞、10月13日)という。とすれば、首相のいう「総合的、俯瞰的な判断」とは真逆ではないか。首相とその周辺の、学問や思想に対する、そして民主主義への姿勢は、大きな間違いを犯している。そこに政治の狭隘さ、発想の貧困、知的水準の低さがのぞく。

 なぜ6人を除外したか、その説明がない。学術会議は連携会員2,000人に会員候補2人の推薦を求め、選考委員会が候補者名簿をつくり、総会で承認して首相に上げている。これまでは、歴代の首相もそのまま任命してきた。安倍政権になって、会員補充の際に2人を推薦したところ、下位のほうを選んだために欠員のままにした。また、求めがあって定員を超える推薦をしたが、学術会議の推薦通りの人が任命されたこともある。安倍氏にはかねて、会議のメンバーに異議があった、と思われる。菅首相はその事情を知っており、今度の措置をとったのだろう。

 問題はあくまでも、手を付けないはずの人事に介入した以上、その理由を明らかにすることが当然である、学問、思想の自由に関する重要な事態であり、いわゆる個人情報云々といったレベルのことではないからこそ、正面からの説明が求められるのだ。
 学術会議の改革問題にしても、政治が介入することではなく、仮に指摘すべき課題があるとするなら、その具体的措置は会議自体にゆだねるべきで、政治権力をかさに着て手を突っ込むような無法をしてはならない。
 狭く、小さい政治姿勢と判断に堕し、その権力をもって、広範な理念に基づく社会発展に寄与すべき機能を貶めてはならない。 <10月14日>
 (元朝日新聞政治部長)

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