安倍政権—その手法への不安と疑問

羽原 清雅

 安倍政権が取り組む長期的な課題は多岐にわたっている。これらの課題への取り組みによって政治的なカーブが切られた場合、日本の社会は大きく変わるだろう。戦後70年にして、日本のありようが変わる、そのさなかに、我々の「いま」がある。

 秘密保護法にしても、集団的自衛権の問題にしても、それぞれ個別の「不安」や「疑問」にとどまらず、トータルの政治、あるいは社会全般に及ぼす影響はきわめて大きく、これからの日本がどのように変容していくか、にかかってくる。多角・多様な論議もなく、安直で特定勢力の思い込みによる方向の設定は、そのカーブの切り方が大きいだけに、日本全体の今後をゆがめてしまうこともありうる。

 しかも安倍政権を支える環境は、そうした変革を進めうる好機に恵まれている。「長期間、政権の座にとどまれそうな時間的環境」「衆参両院の多数議席の保持」「一強多弱の与野党の状況」「歴史教育の不足する中での若い世代の台頭」「メディアの二極化と鋭角化」などである。この政治環境を逃せば、彼らの望む変革は当分の間は達成できなくなるからこそ、安倍政権は強気にことを急ぐ。

 このような状況にある「いま」の時点で、大まかな変容の行方と、変革をもたらそうとする特徴的な「安倍手法」を見ていきたい。

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≪「戦後レジームからの脱却」のあとに来るもの≫
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 安倍的グループは「戦後レジームの脱却」の旗を掲げる。現状の社会のひずみについて、長期政権を担った彼ら自身の自民党政治を問いただすことも、歴史から学ぶこともせず、ひたすら「過去からの脱却」と「将来の創造」をうたう。そこに求めているものはなにか。

■1.憲法改定

 戦後保守勢力、そして自民党結党以来の念願である。部分改定が主流だが、石原慎太郎グループのように全面的に書き換えて第三の憲法(自主憲法)を求める声もある。
 改憲を可能にさせる国民投票など、一歩ずつの改革に取り組む。それでも、容易ではないと思われているが、戦争を知る世代が消えていき、「平和ボケ」の批判が一般化するような日本周辺の緊迫状態が強まってくると、改憲が政治日程に浮上してくることは間違いない。
 現行憲法こそ、戦後の日本社会に蔓延した「マイナス」部分の元凶、と位置付ける立場からは、最終目的は改憲であり、そのための時間との戦いでもある。安倍首相の言う「戦後レジームからの脱却」の核心である。

■2.集団的自衛権の行使

 今まさに論議が進められているこの問題は、本来憲法を改定することで行使に至るべきところ、一内閣による憲法解釈の変更で済ませよう、とする。
 この狙いは、日本を国際的に通用する戦闘・武力行使できる国にしたい、日米同盟に寄与して米側の期待に応えたい、さらに、いずれは自力で仮想敵国に対抗しうる軍事的体制を持ちたいとの願望がある。ごく一部ながら自民党内の若手らには「核兵器保有」による武闘的思考が出ている。
 このように、安倍首相の言う「積極的平和主義」の背景には、これまでとは比較にならないほどの武力に裏打ちされた外交に切り替えることで国際関係を維持していこう、との意向が読み取れる。
 これは、憲法9条による「平和主義」的な、従来の安全保障や外交姿勢を根本から変革させようというものである。戦後の日本外交は不十分な点はあるにせよ、戦争の反省から経済や技術の援助、平和的な民間交流に努めて、長い歳月をかけて「戦前の軍事的日本は変わった」「平和路線は本物」といったイメージをそれなりに定着させてきた。また戦闘回避の姿勢は、相手国民の殺戮も、自衛隊の戦闘による死者も出さないできた。いわば、官民の穏やかな外交を主軸に据えた国際関係に、ひとまず成功してきた、といえよう。
 こうした路線を、「積極的平和主義」の名のもとに、憲法に基づかずに切り替える。いちど替えれば、国際社会の目も変わる。外交の取り組みの変化は、相手国としても軍事力に配慮した姿勢に変えることになるだろう。緊張、衝突の火種にもなろう。
 この大きな政治方針の変更は、安倍的な安易な手口に任せていいのだろうか。

■3.教育改革

 この狙いは、ゆとり教育の変更、小中一貫校の創設、大学教育の改革など各般にわたる。たしかに、学力向上などの狙いは、方法論は別とすれば、理解できるし、必要な点も見出せるだろう。
 ただ、問題は教育委員会の改革にある。自治体の首長に教育権限を移し、首長配下の教育長が教育委員会を統括するかたちで、従来の教育委員会機能を首長寄り、行政寄りに移行させようというのである。つまり、行政の手元に教育の権限をとどめておけば、文科省の、つまり国家の管理下で教育の方向を仕切ることができる。道徳教育をどのように仕向けるか、教科書採択のかじ取りをどのように扱うかなど、国家主導型に切り替えることができる。せっかく持続してきた<教育の中立性・安定性・継続性>を損ねることになりかねない。戦前への回帰、に見える措置だ。
 一見、迂遠なように見えるが、幼児のころから一定の思考をたたき込み、束ねやすくしていくことが、国家経営にとって上策、ということである。戦後レジームを大きく変えるには、時間をかけることもやむをえない、との認識がある。
 国民の意識が戦後バラバラになった、それは日本という国家に忠実な国民を育ててこなかったからだ、今後はそのようなことのないよう、慌てず、時間をかけて、徐々に目立つことなく進めよう、ということでもある。
 要は、物わかりよく、従順な国民作りは、急がばまわれの精神で、といったところだろう。

■4.歴史認識の改変

 安倍首相をはじめ、閣僚たちの一部が靖国神社に出かける。「祖国のために命を落とした英霊への感謝とねぎらいのため」という。さらに「どこの国でもやっていること」という。
 しかし、侵略され、多数の犠牲者を出した相手国の立場に立てば、一般の兵士と同じように、戦争遂行の責任を問われた国家指導者ともども「感謝・慰労」することには、抵抗感はぬぐえず、またいい気持ちのするわけがない。また、戦犯を英雄視する国はない。無神経に過ぎる。
 こんな意向もある。暗い印象の歴史的事実を消去、ないし隠ぺいしたいのだ。
 <戦争は当時の日本としてはやむを得ざる行為だった> <侵略であると認めたくない> <非人道的といわれる南京事件などはマボロシだった> <相手側も日本兵に対して非道を行ったではないか> <慰安婦問題は貧しい志願者あってのことで強制などとんでもない> <軍部の関与などの資料はないのだから事実もなかった> <河野談話など、相手国との談合ででっち上げ、非国民的な処置を許すな>・・・・と言いたいし、開き直りたい。
 こんな意識が潜在しているし、実感のない若い世代には、そうかな、と迷うところもある。
 詰まるところ、戦後続いてきた歴史の語り伝えを改めさせ、若干の問題はあったにしても、日本の戦闘は帝国主義以来各国が行ってきたことと同じであり、このあたりで歴史の語り口を変えさせておこう、との思いがある。
そうしておかないと、いつまでも際限なく謝ることになる、この歴史認識を変え、子どもたちに日本のとった行動は正当であった、と言えるように育てていきたい・・・・このことは「戦後レジーム」を変えるうえで、極めて重要なことと認識しているのだ。それが、教育自体のありようを必死に変えることにつながっている。
 大阪や大津での、教育委員会の対応の悪さは、ごく一部の例ではあったが、安倍的教育改革に格好の引き金を提供することになったのだ。

■5.日米同盟依存から自立した軍事態勢へ

 アジアに生きざるを得ない日本なのだが、中国や朝鮮半島の動向を見ると、米国の軍事力に頼らざるを得ない。したがって、沖縄の基地の提供をはじめとして、地元よりも米国の求めに応じることを優先させる。
 しかし、米国の核の傘に隠れているだけでは通らない、オンブにダッコではまずい、日本もそれなりの軍事力を持ち、戦闘可能の準備をしなければ、米国に愛想をつかされる、といったところだろうか。
 それ以上に、いずれは自立した国家として、それなりに武装した国家として立ち上がらなければなるまい、という意識が潜在しているだろう。そのとき、米国はどう考えるか。日本周辺の国家は、武闘もありうるような日本の変化にどのように対応するだろうか。緊張の持続は、なにをもたらすだろうか。そして、いつまでも米国の言いなりに追随していくことがベストなのだろうか。
 「戦後レジーム」を脱却したあとの日本の安全保障の方向は、決して平和をもたらす道ばかりではない。

■6.就労状況の変化

 経済の立て直しへの期待で支持を得ている安倍政権である。こうした期待はわかるし、経済全般にうまい手綱捌きであってほしいと思う。
 ただ、安倍的政策は<まず企業、まず大手>の発想で、この原動力で社会全体を引っ張り上げようとする。法人税率の引き下げがそのいい例である。経済成長、産業育成の立場だけなら、それでもいいのだろうが、国民全体でみると、生産された価値が各方面に穏当な形で配分されるのか、所得格差を拡張して、将来的に貧富の社会問題を残さないか、という懸念がある。

 とくに気がかりなのは、非正規労働力を増大させる政策である。
 たしかに、安い労働力の確保、景気次第での雇用調整など、企業側のメリットは大きい。しかし、正規社員との給料の格差、ボーナスや退職金などの有無とその処遇の開き、解雇後の身分の不安定、結婚や出産、育児の敬遠など、収入の不安定や心身の健康にかかわるような個々人にとっての問題にとどまらず、社会としても少子化への拍車、生活保護の増大、心因的な病気や犯罪の増加、高齢化後の生活保障などに及んでくるに違いない。「個々人の就労希望に対応できる環境」などといって、貧困層を膨張させていいのか。

 また、女性の管理職を増やそうという構想は、条件次第では望ましいひとつといえそうだ。ただ、仕事の面だけで女性の労働環境を考えると、禍根を残しかねない。管理職となると、子育ての時間などを犠牲にせざるを得ないこともあるだろう。結婚、出産、育児、学校の送迎など、管理職を目指したくても、家庭の維持を思えば、ままならないことも多い。「雇用」という部分だけで考える女性尊重の思考では、行き詰まるだろう。
 世襲政治家という特殊家庭、小中高大と同じ学校育ち、子育て経験なし、という安倍首相の発想の原点にはトータライズされない<狭隘さ>というものが付きまとってはいないか。
 1990年代からの継続的な経済不調から抜け出すという点も、ひとつの「戦後フレームからの脱却」だろうが、そのデメリットに目を向けることを忘れてはならない。

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≪問題ある安倍的手法≫
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■1.非民主的な手口

 最大の問題は、集団的自衛権を行使するにあたって、憲法上の打開策をとらず、一時的に政権を預かる一内閣の解釈のみで、この重要な変更を決めようとしていることである。
 権力が野放図に動かないように、重要課題は憲法にのっとる、という立憲主義の思考がない。
 しかも、集団的自衛権行使を容認する人物を、あえて外務省から引き抜いて従来の法的解釈を一貫させようとする内閣法制局長のポストにつけたのである。
 手口がアンフェアで、姑息である。

 もう一点のアンフェアは、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)という、集団的自衛権行使を検討して報告書をまとめた組織の存在である。まず、この組織は法的に設置されたものではなく、安倍首相の私的な諮問機関に過ぎない。しかも、その顔ぶれの14人は、14人とも集団的自衛権の行使に賛成するものばかりだった。それなら、最初から結論は出ている。検討、に値しない。
 しかも、実質的なまとめ役の北岡伸一座長代理は「安保法制懇は首相の私的懇談会だから、正統性なんてそもそもあるわけがない」「自分と意見の違う人を入れてどうするのか。日本の悪しき平等主義だ」と自民党の会合で言い放った。
 その運営ぶりも、報告書をまとめるにあたって、原案が配布されることはなく、3時間前にホテルの一室に原案が置かれ、これを手書きでメモを取り、会議が始まると原案は回収された、という。
 複数の委員が「単なるお飾りだった」「政権の駒だった」といい、実際に仕切っていたのは北岡のほか外務、防衛出身の内閣官房副長官だった。報告書の概要も発表前日の新聞で知った、ともいう。
 形式は民主主義的な経過をたどったふうだが、実態や中身は独裁的独走的に作られたことがわかる。問題の提起や設定自体が狭く、一方的で、論議の前提に疑義がある。
 こうした実態からすれば、集団的自衛権の行使という重い問題を自公の与党協議にゆだね、またこの報告書に基づいて国会で論議すること自体、憲法と国民に対する背信行為、といえるのではないか。まして、閣議での決定という扱いでいいのか。

 集団的自衛権の国会論議を聞いていても、安倍首相の答弁は自己主張に終始して、批判的質問には正面から答えていない。集団的自衛権の具体的事例として15例を挙げるが、戦闘下や武力行使の必要時をこの程度の想定で済ませられるはずもなく、突発事態や、軍事行動への相手の出方など、議論の枠を超えるさまざまなことが待ち受けるだろう。政権はその難しさから出発すべきで、その認識を欠くことが十分な答弁を妨げていることに気づかなければなるまい。

■2.身内による「論理」構築

 安保法制懇の実態に示されるように、安倍政権は「お仲間」集団に
よる、お仲間満足のための方針決定や方向づけがまかり通っている形だ。
 閣僚の仲の良さはまだしも、ほしいままの人事によって、好みの方向に動かしていく手法は、納得がいかない。形態だけの民主主義に過ぎず、賛否を闘わせる中で、妥協や協調を生み出すという「民主」の姿勢がない。
 安保法制懇ほどのひどさではないにしても、似たような非民主の手法が目立つ。
 例えば、NHK会長や経営委員の人選である。身内的な人物を多く起用したものの、そのレベルに達しない人間ぶりがすでにあからさまになっている。原発導入に厳しい規制委員会の委員である島崎邦彦氏に替えて、原発産業に長くかかわってきた人物が据えられる。秘密保護法の具体的運用などを検討する情報保全諮問会議の座長に読売新聞紙上で同法の賛成論を展開した社主や学者、弁護士が就任する。教育再生実行会議も安倍的発想の人物が並ぶ。
 外観からは「有識者」であっても、結論の出ているような彼らの論議から導き出されるものは、政権の望むものであり、各界からの人材による賛否を闘わせた結果の産物ではない。
 いわゆる御用学者、提灯持ち著名人、客観性を欠くメディア人たちが活用されたり、器用に立ち回ったりしている。
 こうした結論は、一定の方向を打ち出し、社会をその方向に引きずり、あるべき姿とは異なる社会を形成させることになる。形式として整えば、反対もしにくく、そのまま定着していく。
 このような手法がまかり通ること自体、将来をも拘束することになり、とても怖いことである。

■3.「数」を背景とした強さ

 田中角栄の首相時代にも、「数」に頼る政治が行われたが、小選挙区制導入の強引さと金脈の腐敗の前に倒れていった。その政治姿勢には持ち前の陽気さがあったが、安倍首相の「数」の政治には、どこか暗さと説明のごまかし、あいまいさがほの見える。
 たしかに民主主義の政治は、論議がかみ合わない場合、多数決による決定となる。衆参両院ともに、与党としての公明党の存在もあって、多数支配の実態がある。行政面での官僚を抑え、国会での多数議席を占めれば、内閣としてかなりのことが押し通せる。
 安倍政権の強さは、その「数」に支えられている。建前としての民主制にのっとれば、妥当性は確保されるだろう。野党には、言いたいだけ言わせておけばよく、最後は自在に決められる、との横着さがある。まして、野党の劣弱な状態からすると、その発言力の強さは足場である自民党内の批判の声も抑えてしまう。加えて、「お仲間」による政治の方向性を固めさえすれば、政権の思い通りに、したいことが可能になる。
 小選挙区制度は、多数党のメリットが大きい。得票数と議席数の大きなアンバランスがあり、その矛盾によって手に入れた多数党の有利さにすぎないのだが、その自覚や謙虚さはない。国会の追及があろうが、世論の反発があろうが、「有権者の多数の支持」という民主政治の形式を踏まえている限り、思うがままの路線を敷いていけることになる。
 「数」の背景があって、安倍首相の「お仲間」有識者による方向づけがまかり通る。こうした手法は、社会を将来的に動かしていくうえで間違いやマイナス面が想定されるにしても、建前だけで言えば正当化はできる。そこに、将来生じてくるリスクの種をまいている、という懸念がある。

■4.「外交」のない「軍事」面の強化

 安倍政権は、対立状態にある中国、韓国、北朝鮮に対して「交渉のドアは開いている」と繰り返す。だが、ドアを開けておけば、外交が進められるわけではない。緊張が増したときには、あらゆる手立てで相手側との意思の疎通を図ってこそ、外交が動いていることになる。「ドアが開いているのに、アプローチしない方がおかしい」といった構え方は普通ではない。
 その一方で、「緊張」状態を理由に、軍事強化に道を開くための集団的自衛権の行使、後方支援活動の緩和、あるいは武器輸出禁止の方針緩和、国家安全保障戦略を決め「国家安全保障会議」の設置などを進める。
 26年度の防衛予算には、明らかに尖閣列島を軍事的に守れるよう、機動戦闘車99両、オスプレイ17機、無人戦闘機3機、水陸両用車52両などを配備することにしている。

 平和的な外交と武力的打開策とのバランスがおかしくなってはいないか。軍事力に裏打ちされた外交を指向しようというのだろうが、それにしても外交努力はどこに行っているのか。国家経営のおかしさがある。野党サイドにも、これでいいのか、という気迫が見えないままに、事態はその方向に向けて進められていく。これが、いわゆる積極的平和主義なのか。
 しかも、そうした軍事面の強化策を「国際環境の変化」に対応するためだ、と説明する。憲法との原則的なかかわりを超えて、現実主義の路線を行く。内閣の憲法解釈を変えることで集団的自衛権の行使を可能にしようとする路線と軌を一にしている。
 「環境の変化」を理由とするが、一方で外交努力を示さず、相手国の対応を攻撃すれば、そこに緊張状態が加速される。それをまた奇貨として、軍事面の強化に走る。相手国も同じような愚かな取り組みを進める。
 このような手法は、これまでの日本の政治では少なかった。安倍政権によるこのカーブの切り方が「戦後レジーム」から抜け出して、新たに進む道だとすれば、国民の間にもっと大きな議論があってしかるべきだろう。

■5.上部構造の論理

 安倍的手法は「まず上から手を付け、下に及ぼす」という、いわば上意下達型である。経済政策で言えば、まず大手の企業の法人税を減らす、それによって儲かれば税収が増えてくるのでバランスが取れる、という考え方だ。だが、大手企業は減税分で儲けを出せるのか、儲かったものを社員に配分するのか、取引先の下請け企業などへの収入増に配慮するのか、などの疑問が残る。
 大企業は基幹社員にはそれなりに優遇策を講じるが、下積みの非正規労働力については雇用調整程度の扱いしか考えない。社会が上部構造だけで成り立つかの錯覚のようで、これでは社会全体のバランスを損ねてしまう。「上厚下薄」というのは、近代国家ではあってはならないことである。
 教育改革でも、同じことがいえよう。教育面で学力の向上を考えるにしても、先端的な部分の成績が伸びたとしても、全体的な底上げにつながらなければ、メリットは少ない。ここでも「上厚下薄」という結果は許されない。

 安倍的手法には、全体を引き上げようという発想よりも、上方部分に目を掛ければ、下方にも及ぶ、といった安易な考え方が見て取れる。まずはエリートから、という弱肉強食型の手法ではいずれ限界なり、デメリットが生じてこよう。
 教育水準が上がって、多様な個人、多角的な趣向や思考が生まれてくる現代では、多様な選択肢を必要とするのだが、安倍型手法には国家を軸に置いて国民を一定の方向にまとめ上げ、束ねやすくするような戦前型の戦略が感じられる。戦前はたしかに、エリート優先、上部構造を原動力に動かしやすい社会であった。だが、その手法は古いし、時代にそぐわない。

■6.不得手にも手を出す政治を

 アベノミクスをはじめとする経済政策は安倍政権への期待を引き付けてきた。この成果が上がること自体は望ましい。
 ただ、好条件に恵まれた政権として、経済面をはじめ軍事面、教育面といった好みの分野にとどまりすぎていないか。
 世論調査では、年金問題の長期的解決が望まれ、高齢者や障害ある人々の福祉対策、雇用や就労条件をはじめ収益の配分問題など、根っこからの具体的な打開策を求める声が強い。
 1000兆円を超した財政赤字の削減策は、姿勢としては見せようとしているものの、具体的な手立てには言及していない。実態が見えてこないのだ。
 行政機構の改革など、手すらも付けきれていない課題もある。
 金融に走り、農業本体に発言力を衰えさせた農協組織(JA)の改革などへの発言が出てきたことは望ましいが、これまた「今後」の課題になったに過ぎない。TPPに応じる様相になった以上、農業の現場をこのまま放置していいはずがない。

 つまり好条件下で、力量を示すべき政権としてはまだまだやらなければならない課題が多い。
 「好み」の方向のみに熱中する手法ではなく、また「戦後レジームからの脱却」「積極的平和主義」など自我流におぼれない政治感覚を持ち直してほしい。野党ばかりではなく、与党内でも、言うべきは言う、といった度胸を示すべきだし、いつものような『下駄の雪』であってほしくない。
 安倍政権が反省して再出発、といったことは望めまいが、ある日突然の破たんを迎え、そのときやっと民意とのボタンの掛け違いに気づく、といったことのないように願いたい。

 (筆者は元朝日新聞政治部長)


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