【コラム】神社の源流を訪ねて(53)
対馬固有の天道信仰
◆3つの太陽神
対馬は神の島とも呼ばれるように古社が多い。そのうち対馬固有といわれる天道信仰を知りたいと思った。市の教育委員会を訪ね見せてもらった「対州神社誌」には、起源説話についてこう伝えている。照日某という人の娘が日輪の光に感じて妊み、男児が生れた。この太陽の子は誕生したときに、瑞雲がたなびいたので人々は天童法師(童子)と呼んだという。
天道法師は小さい時から聡明で9歳の時に仏門に入り、奈良の都で修行を積んで神通力を得て、703(大宝3)年に対馬に帰国する。716(霊亀2)年、天童法師33歳の時に、元正天皇(文武天皇とする伝承もある)が病に伏した折に、対馬から飛行して奈良へ赴いて病を治した。天皇からは「宝野上人」の号が贈られ、豆酘からは年貢や采女が献上されるようになったという。
豆酘の北東に広がる霊山の龍良山(たてらさん)の八丁角(はっちょうかく)にある石積みが、天道法師とその母の陵とされる。原生林の中にあって昼でも薄暗く、不入坪(いらぬつぼ)と呼ばれ、神聖な一角になっている。地元の人は「オソロシドコロ」と呼んでいて、気安く近づけない雰囲気がある。神聖視されているタブー視されている地は、島内で素戔嗚尊をまつる神社の境内にもあり、その一角は樹木が密集していて、神の拠り所とされている。
「日光感精」神話のいわれについては、兵庫県の古社、出石神社の祭神、天日槍(あまのひほこ)の生誕神話にも似た話がある。天日槍は新羅王の皇子とされ、「日光感精」で生まれた女性を妻にしたところ、この女性は日本に渡ったので、後を追って日本に来て、日本各地を回って、稲作、灌漑、米作り、医療、養蚕、焼き物などを広めたといわれる。日本書紀も触れているところから当時も話題になったのだろう。この感精神話は、朝鮮、満州、モンゴルなどにもあるとされるから、東アジア文化に広くつながりを持っている。
天道信仰については、母子が二神となって信仰されるので、神功皇后とその子にあたる応神天皇という組み合わせで信仰されている「八幡神」と似ているという指摘がある。
また天道信仰の祭神は太陽神だが、対馬の阿麻氐留神社(あまてる)も祭神は太陽神である。伊勢神宮の祭神もアマテラスで太陽神とされる。ただ天道信仰の照日某の子とされる天道神と、皇祖神のアマテラスは別の太陽神だったといわれる。また阿麻氐留神社は、天地を照らす太陽神そのもの、自然の太陽がそのまま神格化されて祭神とされている。天道信仰は太陽信仰から始まって、母子神信仰、修験道、古神道などと重なって、対馬の中で引き継がれてきたことがうかがえる。
また天照神社と呼ばれる神社は、延喜式神名帳を見ると、大和国城下郡鏡作、大和国城上他田、摂津国嶋下郡新屋、摂津国嶋下郡新屋、山城国葛野郡木島などにもある。似た名前で丹波国天田郡に天照玉命神社がある。
対馬出身の古代史学者、永留久恵氏は著書の「古代史の謎 対馬」のなかで、「山を神体とする天道信仰は、原初の形としてあり、祖霊神だから太陽神としても人々に祀られていた。その後、対馬の祖霊=わだつみ=天道神=日の神は、昔からあった対馬の祖と仏教などが結びつき、さらに後になって朝鮮半島、大陸との外交上重要な接点である対馬に注目した大和政権の神統譜に組み込まれていった」とする。またこの対馬の神話は、大和政権の神話よりも以前から存在したとしている。
(2023.4.20)
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