大原雄の『流儀』

山は、動くか。―いま、石橋湛山を読む―(2)

                          
大原 雄


 「湛山コラム」の2回目は、登山道のようにジグザグコースを登るか、山を巻くように登るか、道を選びながら、「湛山と山梨という地域、大正・昭和という時代」との関係を考えてみたい、と思う。その上、この論考は登山とも違うので、平気で脇道、枝道にも入ってみよう、とも思う。例え、行き止まりの道に入り込んだとしたら、そこから引き返せば良いとさえ思っている。

 石橋湛山が、幼少期を過ごした山梨県の旧増穂町は、南アルプスの前山である櫛形(くしがた)山と富士川(山梨県の北西部から南下して来る釜無川と北東部から南下して来る笛吹川が合流して「富士川」になり、甲府盆地から離れて南へ山間部の谷に入り、静岡県を通り抜けて、駿河湾で太平洋に流れ込む)右岸との間にある。富士川の左岸は、甲府盆地と富士山周辺の富士五湖を隔てる御坂山地が迫っている。

 富士川谷の入口になる南隣の鰍沢宿は信州往還と駿州往還の交わる地点にあった。さらに鰍沢河岸は富士川舟運のターミナルステーション(水路・陸路の要衝)として、東海道に直結する江戸への「表玄関」として発展してきた。当時の富士川舟運(鰍沢から駿河の岩淵=静岡県富士市=間の約72キロ)では、富士川を半日で舟は下った。その代わり、帰途は、街道筋を舟に縄をつけて船頭たちが引っ張りながら、4日から5日をかけて上った、という。

 大正から昭和に掛けて活躍した川瀬巴水(1883年〜1957年)の現代浮世絵版画(風景画)に、ふたりの船頭が、川縁の坂道を肩に掛けた縄で木舟を引っ張っている図柄があった。木舟には、もう一人の船頭だけが乗り、舵取りをしている。木舟には、いちだんと小型の木舟が括り付けられている。富士川舟運でも、川瀬巴水が描いたような光景が当時は日常的に見られたのかもしれない。下りの舟に乗る客はいても、上りの舟に乗る客はいない。

 鰍沢河岸は、富士川水系の「甲州三河岸」と言われた青柳河岸(右岸上流)、黒沢河岸(左岸上流)の中でもメインとなるターミナル駅の機能を江戸時代の後期から昭和初期まで果たしてきた。明治期の落語「鰍沢」(圓朝原作)のほか、歌舞伎にも鰍沢は登場する。2000年8月、歌舞伎座「納涼歌舞伎」で、当時の勘九郎(後の十八代目勘三郎)が主役で初演された「侠客人情噺〜愚図六〜」という新作歌舞伎(以後、再演はされていないように記憶する)。

 この芝居の第二幕第三場は、「甲州鰍沢の川べり」ということで、鰍沢が登場する。鰍沢が、甲州の表玄関という認識は、こういう芸能に痕跡を残しているということだろう。湛山の幼少年期には、隣町にあった鰍沢河岸のターミナルステーション機能は、まだ色濃く残っていたことだろう。中央線の甲府駅が、山梨の、いわば、東京駅なら、当時の鰍沢河岸は、いわば、新宿駅くらいのイメージか。

 「湛山回想」(岩波文庫版)では、湛山自身が、次のように書いている。
 「中央線が甲府に来るまでの山梨県では、この富士川を舟で下るのが、東京または東海道方面に出るいちばん便利な通路であった。(略)鰍沢が舟つきで、ここから朝五時ごろ舟に乗ると、正午前後には岩淵につく。そうすれば、その日のうちに楽に東京に行けるという寸法で、もちろん歩く必要もない。他の陸路は、途中で、どうしても一晩宿屋に泊まらなければならず、しかも容易ならざる山坂があった」。

 歌舞伎の通称「三千歳直侍(みちとせなおざむらい)」、「天衣紛上野初花(くものまごううえののはつはな)」の「雪夕暮入谷畦道(ゆきのゆうべいりやのあぜみち)」で、逃亡中の御家人片岡直次郎(通称、直侍・なおざむらい)が、立ち寄った三千歳の仮住まい先で捕り方に踏み込まれた際、「連れて逃げて」と言う三千歳に「山坂多い甲州へ女を連れて行かれねえ」と科白を言う場面がある。山尽きること無し(だから、「やまなし」という)の山梨県には、湛山の言うように、「容易ならざる山坂があった」のだ。

 山梨県では、その後、中央線(甲府城の内堀が埋め立てられ、清水曲輪があった位置に駅舎が建てられ、1903年、甲府駅が開業する)、冨士身延鉄道(現・身延線。1928年甲府駅乗り入れ)の整備の影響を受けて、山梨県内の舟運は衰退し、それに伴って、旧増穂町の甲斐青柳には甲府に繋がる路面電車が1932年から62年までの30年間走っていて、県都とこの地域を結んでいたが、それがバスに押されて廃止されて以降、富士川町には現在に至まで、鉄道が通っていない。交通機関の近代化からは取り残されたままだ。かつての甲州のターミナル、交通の表玄関、物流の要衝の面影は全く無くなっている。

 舟運が廃れ(大正・昭和の風景画の浮世絵版画家・絵川瀬巴水の絵を見ていると、例えば、東京の街のあちこちを描いた風景画の中にも一枚帆の帆船や手漕ぎの木舟、各地の船着き場がよく描かれているのがわかる。例えば、「浜町河岸」など。当時は、東京に限らず、地域社会の物流には舟運を頼り、それを受けて街中に舟運の風景は溶け込んでいたことだろう)、鉄道や電車が幅を利かせてくる時期は、物流のルートが変換され、ということは、経済の社会構造が変換され、労働力の組み替えが行なわれ、失業者となった庶民は、余儀なく、新天地を求めざるを得なくなり、対外的には、「移民」という形がクローズアップされてくるだろう。湛山は、そういう所縁の地の舟運の衰えに象徴されるような経済の社会構造(下部構造)の変換が政治的な社会構造(上部構造)の変換へ繋がって行く現象を経済ジャーナリストらしく、データを押さえながら分析して行くが、今回は、前回に続いて、湛山が書いた論文「大日本主義の幻想」を「石橋湛山評論集」(岩波文庫版)で続けて読んでおこう。

 この論文は1921(大正10)年7月30日、8月6日、8月13日号と連戴された東洋経済新報の社説である。執筆された時期は、舟運の衰退が象徴されるように旧増穂町、旧鰍沢町の地域経済が大きな曲がり角を迎えていた頃であった。山梨県から、地域の不況から逃げ出そうと「新天地」を求めて、アジアにどのくらいの移民が出たことだろう。このように不況を克服しようと大日本帝国は移民を奨励し、アジアに「手」を出し始める。植民地主義、アジアの近隣国への侵略開始である。

 「大日本主義の幻想」(その2、8月6日)でも、湛山は経済ジャーナリストらしく、社会の下部構造たる経済の数字から解説する。

 「試みに数字を示そう。最近の調査によると、内地人にして台湾に住せる者は14万9千人、朝鮮に住せる者33万7千人、樺太に住せる者7万8千人(以上大正7年末調査)、関東州を含める全満州に住せる者18万1千人、露領アジアに住せる者8千人、支那本部に住せる者3万2千人(以上大正8年6月末調査)、即ち総計で80万人には満たぬ。

 これに対して我が人口は、明治38年即ち日露戦当時から大正7年末までに945万の増加だ。仮りに先に挙げたる諸地の内地人が、全部明治38年以来移り住んだものとするも、945万人に対する80万人足らずでは、ようやく8分6厘弱に過ぎぬ。(略)畢竟先方に住まえる者は、80万人だ、内地に住む者は6千万人だ。80万人のために、6千万人の者の幸福を忘れないが肝要である。一体、海外へ、単に人間を多数に送り、それで日本の経済問題、人口問題を解決しようなどいうことは、間違いである。」

 現地の民衆は、それに反発して抵抗運動を繰り広げる。こうしたなかで、湛山は「大日本主義」への批判を強め、警鐘を鳴らし始める。日本は、10年後の「満州事変」へと、鋭い角度で下る坂道を転げるように戦争へ戦争へと突き進んで行く。

 前回も掲戴したが湛山の年譜と絡む世相の主な出来事は、以下の通り。

1904年、日露戦争始まる。
1910年、日本、韓国を「併合」。
1912年、明治から大正へ。
1914年、第一次世界大戦始まる。
1915年、中国に対して、対華21箇条要求を提出。
1917年、ロシア十月革命、ソビエト政権成立。
1918年、シベリア出兵。
1919年、朝鮮で、三・一事件、中国で、五・四運動。ベルサイユ講和条約調印。
1926年、大正から昭和へ。
1931年、「満州事変」起こる。
1937年、盧溝橋事件・日中全面戦争突入。
1939年、第二次世界大戦始まる。
1941年、太平洋戦争始まる。
1945年、ポツダム宣言受諾、敗戦。
1946年、日本国憲法公布。

 「大日本主義の幻想」の「その2」(1921年8月6日掲戴の社説)の概要。「その1」では、データをベースにして、経済的、軍事的に当時流行の「大日本主義」と湛山持論の「小日本主義」を比較していた。「その2」以降では、「大日本主義」の論客になりかわって、前半では、「大日本主義」を主張してみせる。ディベートの役割分担で、自分の本音とは違う主張をしてみる。その上で、後半は、「大日本主義無価値論」を展開する。次は本音を主張するというやり方をとっている。その論を追いかけてみよう。

 ここで言う「大日本主義」とは、どういうものか。湛山の説明に耳を傾けよう。「即ち日本本土以外に、領土もしくは勢力範囲を拡張せんとする政策」である。
明治政府は、西欧列強との間に武力を背景に結ばされた幕末の不平等条約をなんとか解消したい、ということを国是として対外的な政策の根幹に据えていた。

 近代日本が、独立した国家として存続するためには、西欧諸国との「不平等」な国際関係を改善し、西欧諸国と肩を並べる地位を獲得しなければならないと当時の国家指導者たちは考えていた。「文明開化」、「西洋化」・「西欧化」とは、西欧各国を模倣するということであった。明治以降、近代日本は、対抗する相手への模倣をすることが、国家存続の手段であった。

 それは、政治的には、既に帝国主義に入っていた西欧列強の模倣をし、日本も帝国主義を取り入れ、近隣のアジアに植民地を持つという政策であった。「白人と一所になり、白人の真似をし、彼らを圧迫し、食い物にせんと」(湛山)する植民地主義の模倣こそが、湛山が批判する「大日本主義」であった。

 日露戦争で薄氷の「戦勝国」になったことで、日本はその後の進路を誤ったのだろう。西欧列強の支配する国際政治の舞台に非西欧の日本が新たに参画しなければならない。第一次世界大戦でも、戦勝国側に与した、西欧列強並みの一等国になったという「錯覚」が、「東洋と西洋の狭間で揺らぐ不安定な自己の位置付けを見出すほかなかった」(眞嶋亜有「『肌色』の憂鬱 近代日本の人種体験」)日本をして、そこからの脱却感はまさに湛山の言う「大日本主義」を幻想させ、日本に非合理な軍事優先路線を走らせたのだろう。日本の「錯覚」とアジア諸国のリアリズムの齟齬は、日本が正気を取り戻すまで四半世紀続くことになる。

 湛山は、言う。
 「大日本主義は、いかに利益があるにしても、永く維持し得ぬのである。果してしかりとせば、いたずらに執着し、国帑(こくど)を費やし四隣の異民族異国民に仇敵視せらるることは、まことに目先の見えぬ話しといわねばならぬ。どうせ棄てねばならぬ運命にあるものならば、早くこれを棄てるが賢明である。

 吾輩は思う、台湾にせよ、朝鮮にせよ、支那にせよ、早く日本が自由解放の政策に出づるならば、それらの国民は決して日本から離るるものではない。彼らは必ず仰いで、日本を盟主として、政治的に、経済的に、永く同一国民に等しき親密を続くるであろう。支那人・台湾人・朝鮮人の感情は、まさに然りである。彼らは、ただ日本人が、白人と一所になり、白人の真似をし、彼らを圧迫し、食い物にせんとしつつあることに憤慨しておるのである。彼らは、日本人がどうかこの態度を改め、同胞として、友として、彼らを遇せんことを望んでおる。しからば彼らは喜んで、日本の命を奉ずるものである。」

 ここには、明治以降の政権担当者たちが信奉してきた脱亜論ではなく、積極的な入亜論が読み取れる。

 世情の大勢のように大日本主義に拘っていると、アジアの近隣諸国からの信頼を失うと警告する。信頼関係を築くことこそが、日本の国防策として、現実的なものだと主張する。アジアに根付いた経済立国を目指してこそ、真の国防に通じる、という。

 「しからずしてもし我が国が、いつまでも従来の態度を固執せんか四隣の諸民族諸国民の心を全く喪うも、そう遠いことではないかも知れぬ。その時になって後悔するとも及ばない。賢明なる策はただ、何らかの形で速やかに朝鮮・台湾を解放し、支那・露国に対して平和主義を取るにある、而して彼らの道徳的後援を得るにある。かくて初めて、我が国の経済は東洋の原料と市場とを十二分に利用し得べく、かくて初めて我が国の国防は泰山の安きを得るであろう。」

 アジアの近隣諸国との平和主義、これこそ、湛山が主張する「小日本主義」である。大日本主義を主張する者は「明白な理屈もなく、打算もなく、ただ何とはなしに国土の膨張に憧るる者である。」と結論づける。

 「経済的利益のためには、我が大日本主義は失敗であった、将来に向かっても望みがない。これに執着して、ために当然得らるべき偉大なる位地と利益とを棄て、あるいは更に一層大なる犠牲を払うが如きは、断じて我が国民のとるべき処置ではない。また軍事的にいうならば、大日本主義を固執すればこそ、軍備を要するのであって、これを棄つれば軍備はいらない。国防のため、朝鮮または満州を要すというが如きは、全く原因結果を顛倒せるものである」。

 つまり、当時の政権や世間が固執する「大日本主義」の対極にある日本本土活用主義、非植民地主義、非軍備主義こそが、湛山が主張する「小日本主義」である。

 いま、流行の歴史修正主義は、根っこの所で、この大日本主義に似ていやしまいか。歴史修正主義とは、歴史を後世の都合が良いように作り替えること。つまり、歴史「偽造」主義ではないのか。歴史「偽造」主義は、湛山の言う「幻想」の上に成り立つ大日本主義に通底しているように見える。この類似性との言及も、湛山の思想を学びながら、追々してみよう、と思う。

 時代のアトモスフェアが狂気の場合、それは、山のような圧迫感で迫って来るかもしれない。そういう山の如き圧迫感に襲われたとき、いかにしてジャーナリストは正気を保つことが出来るか。私にとって、湛山とは、そういう重い課題を突き付けて来るジャーナリストの先輩である。「大日本主義の幻想」の「その3」を紹介するのは、次回以降の論考の課題にするとして、この後は、「山は、動くか。〜いま、石橋湛山を読む〜」という不定期連戴コラムの特徴である「回り道」をしてみたい。脇道、枝道に入り込むのも楽しみながら、以下、「山」について論じてみたい。

 まず、「山は動くか。」というタイトルについて論じたい。山は動くか。山は地面であるから噴火や土砂崩れなど天変地異に基づく災害にでも見舞われない限り通常は動かない。かつて、エベレストで遭難死したイギリスの登山家ジョージ・マロリーは、1923年、ニューヨーク・タイムズのインタビューで「なぜエベレストに登るのか」という質問に答えて、「Because it’s there(邦訳:そこにやまがあるから)」と言ったという。マロリーは、1924年、エベレストの山頂附近で行方不明になり、75年後の1999年に遺体が発見された。マロリーは、頂上を征服した後、行方不明となったのか、征服する前に力つきたのか、いまも謎であるという。

 しかし、山はそこにあるだけではない。山は、頂上だけが、ゴールではない。ピークハンターだけが崇められるわけではない。山は、裾野があり、登山経路があり、山頂がある。皆、違った魅力を持っている。みんな違って、みんないい、というわけだ。私にとっては、山は裾野がおもしろい、と思っている。

 今回は、湛山所縁の富士川町からも見える富士山の「裾野」を論じてみたい。富士山の裾野と言えば、歌舞伎・人形浄瑠璃の曽我兄弟の物語。曽我十郎祐成(すけなり)と五郎時到(ときむね)の兄弟は、父親の河津三郎祐泰(すけやす)が領地争いの末、工藤左衛門祐経(すけつね)に討たれたことから、父親の敵討を果たそうとする。

 歌舞伎などで良く上演されるのは、通称「対面」(「寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)」)。正月の工藤左衛門祐経館。諸大名が年賀のあいさつに来ている。人を介して曽我兄弟もあいさつの場に入り込む。血気にはやる弟の五郎は、隙を見て、工藤左衛門祐経に詰め寄るが、工藤左衛門祐経は近々富士の裾野で行なう「巻狩り」(1193年5月、源頼朝が征夷大将軍の権威を見せつけるために行なった壮大な軍事訓練を兼ねた狩り)の総奉行を勤めることになっているので、それが無事に終わったら君たちに討たれてやろうと言い、お年玉だとして狩場の切手(通行証)を兄弟に投げ与える、というシンプルな演目である。

 この芝居は、父親の敵の顔も知らなかった曽我兄弟が敵の工藤左衛門祐経に初めて対面するというドラマの一場面のみで構成されているが、実は、歌舞伎の配役の典型的な役柄が出そろうという意味で貴重な演目なのだ。座頭役者が演じる捌き役の工藤左衛門祐経、和事の白塗りの曽我十郎祐成、荒事の隈取りをした曽我五郎時到、立女形が演じる大磯の虎、若手女形の化粧坂(けわいざか)の少将、曽我兄弟の家臣で実事の鬼王新左衛門、道化役の小林朝比奈、敵役の梶原親子、二枚目の八幡、憎まれ役の近江などが出て来る。

 歌舞伎の配役の見本帳のような芝居。正月という華やかな雰囲気が横溢するおめでたい舞台の上、歌舞伎の様式を丁寧に撫でるような衣装・道具など。この芝居を見れば今回の興行の構造、一座の構成、役者の芸の力量などが一目で分かるという仕掛けだ。

 毎年、正月に江戸の芝居町で演じられる歌舞伎の舞台・富士の裾野は、江戸っ子には馴染みの風景というわけだ。

 ところで、富士山と言えば、「裏・表」があるのだろうか。東海道新幹線の車窓から見える冨士は、裾野を長く見せて美しいから、静岡県民は、こちらが表と言うだろう。一方、山梨県側は、御坂山地、富士五湖、富士と位置しているため、長い裾野が見えにくい。しかし、山梨県民は、こちらこそ富士の表と思っている。特に、作家の太宰治の筆が強力な援軍となる。「富岳百景」のなかで、「富士には、月見草がよく似合う」と太宰治は書いているが、これは、御坂峠から見た富士と路傍に咲き乱れる月見草のことだ。つまり、太宰治がいう月見草が似合う富士は山梨側なのである。

 私が推奨する富士山は、表も裏でもなく、「横顔」である。正確には、富士の西側から観た横顔である。山梨県南部町に思親山(ししんざん)という山がある。昔日、身延山で修行中の若き日の日蓮上人がこの山に登り、駿河湾越しに生まれ故郷の房総方面(天津小湊が出身地)を望みながら親を思ったということから、この名がついたと伝えられる山だ。思親山は、標高1030メートル。山頂は見晴らしが良く、目の前に富士山を眺望することが出来る。富士山の西側にあるため、ここからは富士山のいわば、横顔がよく見える。天気に恵まれれば、標高3776メートルの山頂から海抜0メートルの駿河湾へ落ち込ん行く長い長い裾野が良く見える。

 富士の横顔、つまり、この長い裾野は、なかなか良いものだ。思親山は関東の富士百景に選定されている。5月中旬と7月下旬には、日の出が富士山頂に掛かる「ダイヤモンド富士」を観測することが出来る。思親山の中腹のある佐野峠までは車で行ける。そこから思親山山頂までは、徒歩でも45分程度で到着する。

 そういえば、湛山の実父が住職を務めていた昌福寺(7歳から10歳まで過ごす)も、その後父親の転勤に伴い湛山が預けられた父親の知人・望月日謙の長遠寺(10歳から17歳まで過ごす)も、日蓮宗身延山門末の中でも非常に格式の高い古刹であった。湛山の父親・杉田湛誓は、後に名を日布と改め、日蓮宗総本山身延山久遠寺第81世法主となり、望月日謙も日蓮宗総本山身延山久遠寺第83世法主となった。

 湛山に戻ろう。湛山の「山」とは何だろう。湛山の山とは、少年期から青年期に掛けて日々身近に見えた富士山ではなかろうか。いずれ解析してみたい。次に、湛山。「湛」とは、「(水を)たた(貯)える」などと同じ意味であろう。つまり、湛山は、「山をたたえる」。山を貯える、とは、どういうことだろうか。

 ヒントになるのは、農業用語。農業用語に「湛水」という言葉がある。「湛」とは水を貯(たた)える。一方、農業用語には「灌水」という言葉もある。湛水は、雨が降って自然に水田に水が貯まる、という意味。灌水は、人為的に水田に水を入れるという意味。湛山とは、自然に山が貯まる、ということか。この言葉の意味を考えるのも私の課題。

 湛山が、言論活動をした時期は1912年から1968年まで。大正全期から昭和は戦前戦中戦後へと筆を取り続けている。特に戦中から敗戦までの「時代の狂気」というなかなかの力では動かしがたい「山」を相手にジャーナリスト湛山は正気を保ったままそれを見据え、「山よ、動け」という思いを密やかに胸底に置きながら発言を続けたことだろう、と思う。

 戦前の日本の権力者や軍人たちは、自らの狂気を狂気とせずに、「正気」と思い込んで、敗戦まで突き進んできた。戦力を比較して、勝つか負けるかを見極める、というのが合理的な闘いの常道だろうが、勝つまで止めないという「非合理」の狂気を社会の「正気」としていた時期が日本の近代の歴史にはあったのだ。マスコミも、社会の狂気を狂気として描かずに、正気を装う狂気に、つきあってしまったということだろう。マスコミは、狂気に呑み込まれ易いのだろう。

 湛山は、社会が正気を失って行くとき、どうやって自分の正気を保ったのだろうか。特に権力の狂気に対して、どう対応したのだろうか。それをしっかりと学び取りたい。そして、私たちは、今、それをどういう形で継承すれば良いのか。

 「しからずしてもし我が国が、いつまでも従来の態度を固執せんか四隣の諸民族諸国民の心を全く喪うも、そう遠いことではないかも知れぬ。その時になって後悔するとも及ばない。」と湛山は書いた。

 しかし、現実の日本の「後悔」は、1945年以降となってしまった。狂気から正気に目覚めるのに、1921年から45年へ。24年、つまり、四半世紀の時間を要した。

 去年暮れの総選挙で、自民党は若干議席数を減らしたものの大局は変わらず、むしろ、安倍政権は、目論見通り長期政権を約束された。秘密保護法、集団的自衛権に続いて、憲法改定を俎上の載せようとしている。今後、強力な安倍政権が継続し、憲法改定まで現実味を帯びる状況になってきた。今後行なわれるだろう憲法改定では、平和主義の放棄に止まらず、人権の軽視、言論表現の自由の抑圧なども含まれて来るだろうと危惧する。言論表現の自由は、国民の知る権利という担保があるから保証されている。メディアが言論表現の自由という権利を持っているわけではない。権力に対抗して、国民の知る権利を守るためにメディアの自由があるのだ。国民の知る権利を劣化させないために言論表現の自由はある。それが出来ないメディアは、国民のためのメディアではなくなる。

 表現活動をする者に取って、表現の自由は、所与のものではなく、また、誰かが守ってくれるものでもないと、考えている。表現の自由は、表現者自らが額に汗して、身銭を切って、守るものだ。

 湛山が走り抜けた戦争へ傾斜する時代状況と現在との、そしてやがてくるであろう近未来との、類似性(アナロジー)。そういう時代状況とジャーナリストとしての湛山の発言の関係性との検証。半藤一利は、湛山は「一貫して自由の論調を少数意見として説きつづけた」(半藤一利「戦う石橋湛山」)として湛山の言動を評価している。

 多数意見という時代の「趨勢」に惑わされずに、「反時代」感覚を維持し、そのために少数意見を言い続けることが大事なのだ、ということだろう。湛山を読み返すことで、また、歴史家、作家、評論家、ジャーナリストなどの先学たちがまとめた労作の数々を読み比べることで、そういう時代の正気・狂気とジャーナリストの正気・狂気を検証してみたい、と思っている。戦時下のマスコミは、真ッ先に狂気の旗を振ってきたし、今も同じように振っているであろうから、そこを検証することは、ジャーナリズムで長年働いてきた私のような立場の者にとって、湛山研究の重要なテーマだろうと思っている。

 (筆者はジャーナリスト。元NHK社会部記者、元日本ペンクラブ理事)


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