追悼

山本満先生に感謝します             加藤 宣幸

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 私が山本さんと始めてお会いしたのは‘60安保闘争が終わってしばらくたった
頃だから、ほぼ50年がたったことになる。本来、山本先生とお呼びすべきなのだ
が、そのころは優れたジャーナリストとして皆は敬意をこめて山本満(マン)さ
んと呼んでいたので、しばらくお許しを願いたい。

 山本さんはジャパンタイムスの外務省担当記者として国会で日米安保条約審議
を取材され、外務省記者クラブのメンバーとして共同・朝日・毎日・東京などの
有志と各社の枠を超えて協力し、安保に批判的な立場から野党・社会党議員に協
力されていたようである。

 そして安保条約が強行採決され成立した後、感ずるところがあったのか、山本
さんは会社側が新しいポストを用意して強く慰留したのにもかかわらず、これを
断って退社されたと聞いた。

 そのころ私は日本社会党の機関紙経営局長として、党内外の多くの仲間ととも
に江田三郎書記長を擁して機関紙「社会新報」の週刊から三日刊化・印刷工場建
設・構造改革路線の構築など社会党組織の改革・政治路線の変革に夢中で取り組
んでいた。岸が退陣したあとの池田内閣は政治的低姿勢をとり、ひたすら経済成
長政策をとったから安保闘争で空前の盛り上がりを見せた国民のエネルギーは急
速に退潮していった。社会党はこの大きな変化に従来型闘争スタイルの転換・新
路線の提起を迫られたのである。

 この時、鋭敏な時代感覚をもつ江田三郎はこの情勢に対応するため、労組依存
脱却など党組織の近代化を進めるとともに、何よりも革新側から国民に提起する
ビジョンと具体的な政策の策定を急いだ。そのために1964年に山本満氏を常務理
事とする社団法人総合計画研究協会(研究所)を設立し、広範な学者・ジヤーナ
リストなど党外知識人の協力を仰ぐ体制を作った。

 山本さんは研究会の主宰、ニュースレター執筆など精力的に活動されたが、そ
の情報収集と分析力、洞察力、グローバルな視野などの識見はその温厚な人柄と
ともに、すべての人から畏敬された。それを物語るエピソードとして、当時、山
本さんに私淑し研究所でバイトをしていた大学生の山田高君は、研究所メンバー
の法政大学松下圭一氏から「山本さんはアメリカ大統領の補佐官でも勤まるほど
のスケールの人だよ」と教えられたという。

 山本さんはもの静かな語り口の典型的な知識人タイプだが、反面、気さくな方
で、会合のあと必ず何人かを研究所近くのソフィアという名のバーに誘い国際情
勢を語ってくださった。そこは佐藤美子という戦前からの有名なオペラ歌手が経
営し、時にカウンターで文芸評論家の吉田健一氏が飲んでいたりする、山本さん
お気に入りの静かな店だった。

 私が山本さんから、いろいろご指導を戴いたのは1960年代であったが、山本さ
んは65年ごろから専修・メキシコ・法政・一橋などの各大学で順次教鞭をとられ、
69年には研究所の常務理事を辞めて江田三郎との政治活動からも距離をおかれ、
学究生活に入られた。私も期せずして69年に社会党を離党し、政党活動から離れ
たので山本さんとお会いする機会は自然に遠くなった。しかし私の心の中では山
本さんを常に師と仰ぎ、畏敬の念をもち続けた。

 山本さんは常に世界のメデイアの論潮を注視されておられたが、同時に日本に
も少部数でも国際的な影響力のある質の高いメデイアの必要性を説かれていた。
私が2004年3月にメールマガジン「オルタ」を創刊するとき、かねてからの仲間
で山本さんとも親しかった元共同通信社論説委員長の榎彰さんとともに山本さん
にアドバイスを頂きに行ったのは、日頃からそのようなご意見が私たちの念頭に
あったからである。

 山本さんは私の企画を聞くと「加藤さんはこのメデイアを本気でやるの?」と
問われた。私が一瞬たじろぐと、隣の榎さんが私に「本気でやります」と答える
ように強く促した。大体この類のものは、長く続かないものとされていたから、
やるならまず確りと続けなさいとの強いメッセージだったと思う。

 メルマガ「オルタ」は山本さんからまずは継続せよとの指導を受けたが、この
8年間をマスメデイアとは違うオルタナテーブな視点で内外情勢と取り組もうと
格闘した。原発・TPPは勿論として、最近では尖閣問題で緊張する日中関係に
ついて大手メデイアとは違った「主権棚上げ、資源話し合い」の方策を提起した。
この視点は、奇しくも40年前に山本先生が中央公論(87巻12号・1972年12月)の
論文『日中復交・革新外交の次の課題』で吉野作造賞を受賞された立場と軌を一
つにしている。

 また、葬儀の際にご遺族から戴いた一橋大学での最終講義(1990年)『「アフ
ター・ユートピア」の世界』(全文)で説かれた山本先生の思想はオルタの編集基
調に重なるものと考えられる。山本先生の20年前のご指摘は、最近「ウイリアム・
モリスのマルクス主義」(大内秀明・平凡新書)として、「かってはエンゲルスな
どから『センチメンタルなユートピア社会主義』として冷たくあしらわれた」
(大内秀明)モリスの再評価論とも通じて活発に論じられているように思う。

 『日中復交・革新外交の次の課題』、『「アフター・ユートピア」の世界』な
どはいずれも山本先生の高い先見性と深い学識を示すもので、それぞれ40年、20
年の時を経てもなお私たちを導く透徹した論考は、ジャーナリズムとアカデミズ
ムを一身に備えられた山本先生の思想を映すものであり、改めて敬意を表したい。

 私にとっては、たとえ一時期であれ、こういう偉大な先達の謦咳に接すること
が出来たことはいつまでも誇りであり、先生に対する感謝の念は尽きない。ここ
数年は榎さんが体調を崩され、二人揃って伺うことが出来ないまま山本先生が急
逝されてしまった。何とも悔しい。

 今、メルマガ「オルタ」が次のステップを目指そうとするとき、先生のご助言
を頂けないのは本当に残念である。今日まで市民メデイア「オルタ」の成長を蔭
から支えて戴いた先生に深く感謝するとともに、先生が伝えようとされたジャー
ナリスト精神を確り守りつづけることをお誓いしたい。そして先生には、いつま
でも「オルタ」の発展を見守って頂きたいと思う。山本先生、本当に有難うござ
いました。

            (メールマガジン「オルタ」代表)

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