【視点】

岸田政権「韓信の股くぐり」なるか

――安倍・菅政権の惰性的延長を避けるために
羽原 清雅

 第100代首相に、岸田文雄氏が就任した(10月4日)。9年以上に長期化した安倍・菅政治がもたらしたマイナス部分を改革する好機でもある。しかし、岸田新首相の自民党人事、組閣内容の印象は、メディアの世論調査を見る限り、きわめて支持が低い。
 なぜか。指摘される多くは、安倍支配が濃厚にすぎる、というものだった。
 これは、安倍・菅時代がこれ以上踏襲され、固定継続化していいのだろうか、という反省の思いがあるからだろう。「変化」を期待された河野太郎氏が、その発言の継続性のなさ、発言の後退ぶりなどを敬遠され、比較的温厚路線の岸田氏が選ばれたのだろうが、世論の期待はやはり「改革・変革」への願いであっただろう。

 その岸田氏は、総裁選での「桜」「森友」「加計」の問題をはじめ安倍政治を許容する発言が増えたこと、安倍・麻生・甘利3A支配の人事を受け入れたことなどから、世論調査には失望による不支持が高まっていったことをうかがわせた。「こりゃ、まただめだわ」の感覚である。
 では、安倍・菅政治の長期化のどこに問題があったか、である。

 1>日本会議的狭隘社会、への恐れ。 安倍氏は、第1次政権以来、右翼系、神社、新宗教、教育の右傾改革論者、復古的日本礼賛論者たちに歓迎され、彼もこうした方向に同調しがちだった。また、小選挙区制度の政党幹部による公認権行使によって、政治家志望の若い層を選択する際に、これら類似思考の持ち主を自民党内に送り込むことに成功した。数を増やした1-3回議員の間には、本音であれ、妥協であれ、党内に右傾勢力を拡大することができた。歴史を十分に体感できなかった世代で、愛国的日本主義に陥りやすい傾向もあった。

 安倍氏が大規模な「囲い込み」に成功したことは、高市早苗氏が今回、その思考を代弁し、彼が背後から押して、その得票が増えたことでも証明された。
 安倍氏は、多様化する民主主義の発想を、議論によらず「力」によって狭めていく手法を編みだした。つまり、議論百出の自民党だった体質を、次第に論議の機会を減らし、単一型の論理に収れんさせて、次第に政党としての間口を狭めてきた。得票数で見れば、有権者の半分以下しか支持を得ていないが、議席配分の制度が安倍政治を支えてもいた。

 長期政権だからこそ、広い国民各層の意見を聴取すべきところ、安倍氏の手口は世論を扱いやすくする一方、一定の右翼型の狭い方向に引っ張り、広範な意見に耳を傾けない風潮を助長させてきた。長期的に見て、リスキーで、非民主的でさえある。
 だからこそ、政治の質を変えていく努力が必要になっている。自民党政治は、野党の育っていない現状では続かざるを得ず、従って安倍的手法を改め、論議百出の状況を経て一本の結論に達しうる政治文化を持てる土台を早急に育てなければならない。

2>議会制民主主義の崩壊の恐れ。 安倍政権時代には、いくつもの議会政治の根幹を揺るがすことがあった。公文書の不当廃棄・隠ぺい・偽装・改ざん・不作成などは、民主主義の継承や将来への検証・反省を不可能にする。官僚の正当な理由なき排除や昇格、忖度の日常化などは、日本のとりえでもあった公務員制度の公平・公正性を損なわせた。これらは長期にわたる禍根を残すことになる。即刻の改革が必要だ。

 また、憲法、国会の無視・軽視が定着してきた。野党要求の国会開催を引き延ばし、黙殺した。国会答弁では、肝心の質問に答えず、はぐらかしや紙の読み上げ、時間の経過でかわした。菅氏の本来的な適性不良、安倍氏の確信的な突っぱね技量など、いずれも民主主義を体現する議会制度ではあってはならず、早急な改革が求められている。

 説明しない政治文化をやめるとともに、国民の納得を得るためだけではなく、批判に耐えられる事実関係の提示が必要だ。岸田氏の言う「聞く能力がある」ことも大切だが、それに対応して、説明し、疑問に納得を求め、質疑に応じなければ、意味がないことになる。
 
 3>一強政治の根源たる小選挙区制度の改革こそ。 50%にも満たない自民党の得票率で、80%に近い議席を握る制度に根本的な問題がある。有権者の声を切り捨てる死に票が少数党ほど増える一方で、投票をしない有権者が次第に増えていく。国民の声は政治から遠のくばかりだ。野党でも大手は、得票以上の議席配分を受けるので、自民党とともに改革に乗り出そうとしない。候補者の幅、持ち味を殺す。

 「一強政治」は極めて非民主的である。それは分かっていても、改革の難しさから手を付けないままに9回目の選挙を迎える。メディアも、大きな矛盾を感じてか感じざるか、一向に検討の必要を訴えない。おかしな話である。
 安倍・菅政治の過ちの多くは、この制度によって生まれ、便乗されてきた。「民主主義」の形骸化の最たる事態を黙認し、そこに生まれる政治に将来を任せ続けていいものだろうか。

 岸田政権に、上記した3点の改革に着手することまではまったく望めなかろうし、期待もしない。ただ、政権の個性なく、安倍政治に飲み込まれ、代行機関に終始することのないようには望まざるを得ない。
 来年7月には参院選があり、その頃にはわずかにせよ、岸田カラーというか、自立性が出てくるのではないか、との期待はある。安倍勢力に媚びを売るかの姿勢も、今後の改造内閣などで改められないものだろうか。

 安保政策を強行して陰湿で暗い世相をもたらした岸信介政権は、所得倍増計画を打ち出して社会全般の明るさを一気に取り戻す池田勇人政権に切り替わった。今、その孫である安倍晋三勢力に包囲されて、心もとないながら池田宏池会の流れをくむ岸田政権がある。
 自派閥の強化ではなく、世論に訴えて納得を得られる姿勢をもって、先ずは自民党の若手議員らを軸に安倍的洗脳から解放し、一歩一歩の改革を目指せないものか。

 政局の現状 自民党総裁選では、安倍勢力の強さが、高市早苗氏の高得票に表われ、決選投票での河野太郎氏の低落、さらに岸田票へのてこ入れによって示された。岸田氏はその「恩義」に報いざるを得ず、とくに党人事では麻生太郎副総裁、甘利明幹事長、高市政調会長に目をつむった。3A支配の露骨な勝利である。閣内の方では、自派の起用を抑え、派閥均衡・若手選抜・新顔登用などの配慮を見せた。官房長官松野博一、財務相鈴木俊一などには政権運用のやりやすさを求めた感があるが、その手腕は見えていない。

 とにかく、3A支配が徹底して、報道や世論調査では悪評や批判が圧倒的に多かった。期待はできないが、苦難に耐えて宰相の座にたどり着いた「韓信の股くぐり」の例もある。そうした忍耐と決断が、政治家3代目の岸田氏にできるだろうか。来年の参院選までのしばらくは見守りたい。

 倫理なき政治家 甘利幹事長の就任に当たって、彼は、刑事事件にケリがつき、「不起訴」を強調した。しかし、疑惑は残る。だから、野党は追及をやめない。
 政治家は有権者の支持で選出される。多くの優遇措置を受け、税金をもらい、敬意を持たれる。国民に若干の無理を強いるような立法にも加担する。その地位は基本的に、暗黙の信頼の上に成り立つ。しかし、犯罪を疑われ、疑惑を招けば、その信頼を損なうわけで、支持者周辺はともあれ、一般人は納得しない。しかし、甘利氏は刑事責任を逃れたのだから、問題はない、と胸を張り、刑事責任を問われなかったのだからどこがおかしいか、と開き直る。

 一般人なら身を縮こませる事態にも拘らず、政治家は平然としている。選挙で選び直された以上、有権者の納得を取りつけたのだ、と言い訳をする。この風潮はおかしくないだろうか。
 政治家特権なのか。恥じらいというものがないのか。信頼を失っても、法律に触れていなければ、政治家たりうるのか。

 安倍氏にも言えるだろう。桜、森友、加計など、疑惑を問われながらも、言葉で追及をかわしてきた。「議員を辞める」とまで開き直ったものの、説明すら不十分のままだ。小渕優子組織運動本部長にしても同じだ。
 一般人以上に求められる倫理観、政治道義をわきまえず、その印象が蓄積されていく歴史のなかで、政治腐敗と不信につながる事態も許容される空気を作りだして、甘い基準を定着させてきている。本来なら、再起不能であるべきことも黙許され、政治家自身も「恥じる」前に当たり前のようにふるまう。法律も、とくに議員という公職にとっての道義感を問うこともなく、むしろ証拠がないといった説明で野放しにする。こうしたことで、その不正行為のもとに進められる政治自体に信頼を欠くようになる。

 戦前と異なった首相「犯罪」 100代目という岸田首相を見るうちに、「百代の過客」という言葉を思い出した。呑兵衛の李白に近い岸田氏だとしても、一時しのぎの政治の旅人では困るなあ、などと思いつつ。
 そのついでに、戦前42代29人の首相と、戦後の58代35人の首相のスキャンダル、犯罪などの行状を比べてみた。

 戦前は、開拓吏官有物払い下げ疑惑を招いた黒田清隆、張作霖爆殺を満州某重大事件として隠したうえ明治天皇の不興のもとに総辞職した田中義一、独ソ不可侵条約締結に驚き「欧州の新情勢は複雑怪奇」として政権を投げ出した平沼騏一郎、朝鮮司令官として配下の軍隊を満州に無断越境させ、首相時には天皇機関説を排撃、衆院の抜き打ち解散をして4ヵ月で退陣した林銑十郎近衛文麿の中国での戦争を太平洋に拡大した東条英機らが目につく。

 戦後では、昭和電工事件で逮捕、総辞職した芦田均、ロッキード事件で逮捕された田中角栄、リクルート事件で秘書の自殺を招き退陣した竹下登、女性問題で参院選敗北を招いた宇野宗祐、佐川急便グループからの借入金処理問題で総辞職した細川護熙、そして疑惑をいまだ温存する安倍晋三、といった面々である。

 戦前も、スキャンダルや犯罪に近いことはあったが、政策上の失敗が問われがちだった。これに対して戦後は、カネなどの倫理性にまつわるケースが増えたようだ。権力にスキャンダルは付きもののようだが、情報化と民主化の国会ではどうしても隠しようもなく、暴かれがちだ。それでも、権力の行使と議席の多さをもって、逃げおおそうとするケースも目につく。
 宰相たるもの、身辺は一般人以上に警戒の気を配り、清廉であることが政治家の前提であり、それをごまかそうとしてはなるまい。いや、政治家は宰相はじめ、みな鉄面皮で、見つかる方が悪い、ということなのかもしれない。反省が薄らぎ、言葉で逃げる安倍元首相、刑法にひっかかっていないという甘利幹事長、そのようなリーダーは願い下げだが、権力とはそんなものなのだろうか。

 総裁選はこれでいいのか 4候補のお披露目の論戦を見て、聞いた。まぢかの衆院選を意識していることがにじみ出ていた。総裁の任期切れ、さらに衆院議員の4年間の任期切れであれば、やむを得ない一致の時期だっただろう。メディアでの野党の出番は、これまでよりはオマケ気味に取り上げたテレビだが、ないがしろに扱われた立憲の枝野、安住氏らの怒りもわからないではない。

 ただ、気がかりだったのは、討論会での報道陣による質問だった。
 当面のコロナ対策や年金、子どもや女性対策などへの問いかけが多いのは当然だろう。だが、この総裁選挙は次期首相の登竜門にもなる舞台である。国会で話し、答える主たる人物を選ぶ行事である。首相はいつも、政党間の協議に待つ、といった答弁ですり抜けている。

 この首相候補を前にした時期だからこそ、野党要求のあった場合の国会開催のありよう、与野党協議の持ちよう、対野党の扱い、といった野党との関わりについて言質を取っておくには格好の機会ではないだろうか。逃げの答弁をするようなら、その程度で国民相手の国会答弁を済ませていいのか、と問い詰めればいい。
 首相が、野党との関係をどのように考えるか、は議会としては重いテーマであり、これまでの首相の不真面目な答弁、逃げやピントを外す答弁を正常なかたちに戻させる絶好の舞台ではないだろうか。

 もう一点。旧閣僚や自民党内には、「敵基地攻撃」を正当化、予算化の声が高まっている。だが、野党も、報道陣も、質問もしないし、紙面・映像でもほとんど取り上げない。
 仮の話ではあるが、日本が敵基地に一発打ち込めば、相手国の与論は激昂し憎悪を高め、日本の原子力発電所にお返しの一発を打ち込む。「正当だ」という。10年前の福島原発同様の事態が発生し、長期にわたる死傷や衣食住難、生産活動の低迷に苦しむことになるだろう。戦前の戦争は、日本が大陸や海洋の各地で戦乱の発端を作り出し、相手国民になんの配慮もなく攻撃をしかけ、結局今日まで事後処理や怨念を引きずる結果を招いている。

 歴史に学ばない政治がよみがえっているのだ。
 なぜ、野党も、報道も、対話的外交に力を注がず、リスクの多い軍事に力を入れる政治を追及しないのだろうか。この単純な事実に触れていこうとしない姿勢がわからない。

 野党の心もとなさ 野党は社会にとって必要であり、政権に迫る迫力をもって、いずれは政権の座に就ける力量もつけなければならない。その人材も育てなければなるまい。「野党がダメだから、自民党へ」といった空気が、政治文化を貶め、世相を汲み上げる政策を潰し、社会の上昇的変化や有権者の眼を閉ざすかの一因になってはいないか。野党の存在は薄らいでいるのだが、その幹部たちはどこまで気づいているのだろうか。聞く耳も持ち合わせているのだろうか。

 自民党はかつて、政権を失った3年間に、政権を握ることの重要さに気づき、各派閥とも党の結束を最優先とする姿勢を身につけた。以前存在した社会党や民社党は、戦前以来のイデオロギーや政策の違いなどだけではない、感情的でもある排除や対立抗争を展開し続けたが、結局は戦後も同じような状況を繰り返したあげくに、消えていった。

 政権を自民党から引き継ぐとするなら、野党も日本の置かれた現状を認識、継承しつつ、本来の主張の実現に向けて改革する余裕が必要だろう。国民各層は、突然の急変などは望まない。少なくとも2段階、3段階の施策の変化を考えておかなければなるまい。
 そうした準備を、野党側から聴いたことはない。公開に至らないまでも、ブレーンを擁して深い検討をしなければならない。「政権!」「政権!」と言っていれば、得票が伸びるとでも考えているのか。政権準備の努力もなく、保守政治に接近するだけのような政党もあるが、論外である。併せていえば、「数」による権力というものが、民意に添うこともない。

 まずは、与野党伯仲の舞台を作り上げ、既成政権から譲歩を勝ち取り、野党なりの受け入れを配慮して、将来的な野党の進路の確かさなり、明るい未来を少しでも感じられるような方向に努力を傾注すべきだろう。
 国民は冷めて見ている。旗を振れば踊り出す、とでも思っていては、永久に政権は来ない。自民党政権の恐れるのは、まず与野党の衆参両院での伯仲の事態だ。そうなれば、自民党の1強政治は崩れ、与野党五分五分の譲り合いや攻防が展開されるようになり、それがまた双方の成長につながるだろう。ただ、それは厳しいことで、覚悟がなければ失政につながる。有権者の納得も、そう簡単ではあるまい。要は、野党がどれだけの期待と信頼を、日常的に蓄えてきているかにかかっている。

 時流を見直す ついでながらに冒頭に書いたことを繰返すと、衆院選での自民党の得票率はほぼ毎回50%を割って48%程度だ。それでも、縦横に権力を振るっていられるのは小選挙区制度による議席の配分が80%近くに及んでいるからだ。制度による安定に過ぎない。
 国民全体からいえば、民主主義の名を借りた虚構のシステム上に成り立ち、有権者を代表しない政治文化を築いているだけのことである。

 野党は根っこから考え直して、自民党という権力に対峙しなければなるまい。自民党は本来、狭量のグループだけではない。民意を汲み上げる人的ネットが張り巡らされ、感度がいいだけではなく、変わり身の早さも経験的に身につけている。侮れる相手ではない。
 もちろん、この権力政党が視野を広げ、歴史から教訓を汲み上げ、長期的に築くべき未来を見据えることがない限り、望ましい進歩は望めないのだが。

 折から至近距離に衆院選があり、さらに年が明ければ参院選が待ち受けている。この時期を、覚悟を決めて活かすことのできない政党は、しばらくは日の目を見ることはないだろう。
 国民、有権者の気持ちに添う、ということの重さは、四六時中街中に立ち、語り掛けて初めて感得できる、ということを、政治を志すもの、第一歩を踏み出したものは常に念頭に置かなければならない。
 部屋や事務所に座して、身内との議論に熱していても、政権が向うから近づいてくることなどありえない。豊かなブレーンを持ち、これをつねに広げて、気に入らない見方を拒絶せずに聞く耳をもって、各界各層の深い意識に触れなければ、政党として、また政党人としての成長もありない。<10月10日現在>

(元朝日新聞政治部長)

(2021.10.20)
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