【コラム】神社の源流を訪ねる(61)

巫俗信仰は迫害の歴史

 ~韓国に神社の源流を訪ねる2~
栗原 猛

 ◆キリスト教が普及 

 朝鮮半島には古くから「巫俗」(シャーマン)という伝統信仰(シャーマニズム)があり、これを行う人は巫堂(ムーダン)と呼ばれた。              
 巫堂で行われる独特な儀式やお祓いについて、済州島出身の玄容駿氏(元済州大教授)が、1985年に日本で出版した「済州島巫俗の研究」で、仏教の影響を受けながらも、「神道」に似ていると感じられるところもあると、指摘している。                    
 巫堂は地域や堂ごとに儀式が異なっているが、クッ(巫女、みこ)の儀式を通して、自然界の精霊や祖先の霊の力によって、病気を治療し厄祓いや卜占、予言などをすることで人々の生活に密着していた。                  

 一方朝鮮半島では政治体制が交代すると、国の教義も仏教から儒教へと変わり、そのたびに巫俗は古い習俗だとして、迫害される歴史でもあった。            
 金泰坤氏は著書の「洞神堂」で、その淵源について、天神の桓因(かんいん)の子桓雄(かんゆう)が人間世界を治めるために、太伯山山上の神檀樹のもとに天下ったとされる檀君神話にあると、指摘する。                 
 韓国では檀君の即位は、紀元前2333年とすることが一般的という。朱蒙は降臨した白頭山などの自然を神格化して、信仰する土着の巫堂が生まれ、宗教の指導者が政治の実権を握って行ったとされている。その後、巫俗は高麗の時代には宮中の儀式にも取り入れられる。ところが李氏朝鮮時代になると、今度は儒教が国の理念になり、宮中の医療などに携わっていた巫俗は、迷信だとして排除される。                 

 このように新羅、高句麗、統一新羅など国の政治体制が交代するごとに、仏教から元仏教(モンゴル仏教)、儒教へと変わり、そのたびに巫俗は迫害を受けた。朴桂弘氏は「韓国の村祭り」の中で、「堂などは農村の近代化を妨げるとして、廃止運動の矢面に立たされ、そのたびに堂祭は減っていった。特に李朝の500年の儒教体制では、堂信仰は邪教だとして強く弾圧された」と分析している。                          
 受難はその後も続き、1970年代には、朴正熙大統領がセマウル運動(新しい村)を掲げ、堂信仰は迷信で農村の近代化を妨げるとして排斥する。このため堂信仰はさらに減ったといわれる。ただし巫俗信仰は、こうした批判や迫害を受けても民衆の間にあって、根強く生き残り続けたこともまた確かである。

 また朝鮮半島の固有の伝統の文化として、巫俗信仰の行事がいくつか国の無形文化財に登録され、地域の祭事独特の踊りや音楽なども、イベントとして、外国の観光客に簡単に見られるようになっている。近年では民俗固有の伝統文化として若者の間にも見直しの動きが出ているという。                                  
 巫俗信仰は韓国では弾圧の歴史だったが、日本では神道と仏教は、神仏習合の方に向かっている。仏教寺院の壮大な伽藍の向こうを張って神社の建物も立派に作られるようになる。神道は仏教の影響を巧みにとらえることで、神道としての発展はなかったのではないかといわれる。祭りに従事する人々の服装も大事で、衣冠束帯などが工夫され、色も清楚な白が選ばれたといわれる。神仏習合だからお寺の敷地内に神社が建てられ、またその逆もある。もちろん神主がお経を読む時代もあった。    

 一方韓国では、キリスト教が急速に普及する。韓国の宗教人口は、国民の約半数とされ、その半分はキリスト教だといわれる。キリスト教は急速に伸長したが、その理由について、教会での神父の説教が、堂信仰のシャーマニズム的な手法を取り入れたからではないかとみられている。 (以上)  
               
(2023.12.20)
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