【沖縄の地鳴り】

戦乱下沖縄の「疎開」の実態
――広がった犠牲者の背景

羽原 清雅

 米軍の日本攻略の先端地となった沖縄。十数万の犠牲者を出すほどの爆撃を受けた地ではあったが、一部の子どもたちは九州や台湾に疎開して、いのちを永らえることができた。とはいえ、決して安泰といった状態ではなく、そこには死に直面する厳しさがあった。
 学童疎開の措置は、為政者のせめてもの対応だったと言えるだろうが、後手後手で、戦闘回避という最大の救命対策が果たされなかった責任は問われなければなるまい。
 沖縄の戦時の状況と合わせて、広くは知られていない学童疎開の背景を辿ってみたい。

「疎開」措置の経緯 日本の敗色が見え始めて、学徒動員の壮行会が神宮外苑競技場で行われたのは1943(昭和18)年10月。このころ、政府は帝都(東京)や重要都市の施設・建物、資材の疎開、人々の地方転出の方針を決め、11月には文部省が生徒児童の疎開の取り扱いを通達、そのころから疎開の動きが始まった。
 東部軍参謀長で疎開推進を説いていた陸軍中将・辰巳栄一はある日、東條英機首相に呼ばれる。
 「君は学童をはじめ家族の疎開をしきりに強調しているが、わが輩はその意見には反対である。いま、日本は物量豊富な強敵米英と戦っている。これに打ち勝つため最も肝心なことは、日本古来の大和魂、国民精神を十分に発揮するにある。国民精神の基盤は日本の家族制度であって死なばもろともという気概が必要だ。家族の疎開などもっての外である」と強く叱責された(日本経済新聞・1972年7月8日付)。

 また、右翼の大日本一新会はそのころ、「逃避のみこれ念とする疎開政策が、わが美風を破り、国体精神を如何に蝕むかは他言を要せず」「神州不滅を信ずれば、全土これ安全なり」との建白書を政府に出している。
 サイパン島攻撃の際、在留島民の引き揚げが進まず、その際の論議の中で参謀本部などの意見として「女小供玉砕シテモラヒ度シ」といった意見が出て、抑えられた、との記録もある(『学童疎開の記録1』中の今市宗雄「太平洋戦争期における『住民避難』政策」)。

 しかし、6月16日未明、中国・成都から47機のB29が北九州の工業地帯を空爆するなど攻撃が強まる中で、背に腹は代えられず、翌44年6、7月には「学童疎開促進要綱」が決められ、東京のほか12都市を指定、計40万人の学童疎開を計画した。そうしたさなかの7月18日には東條内閣が総辞職し、疎開行政の対応も進めやすくなった。

沖縄の動き こうした動きは東京など本土中心だったが、サイパン島での玉砕のまさにその日、同年7月7日の閣議で、奄美大島、徳之島、沖縄、宮古、石垣の5島から老幼婦女子の本土と台湾への疎開が決められた。しかも、それは「7月中に」ということだった。
 ただ、島民には特別の事情があった。というのは、玉砕したサイパン島の、2万人(2万4千人とも)の在留邦人のうち1万人が犠牲になり、数多く移住していた沖縄県人の犠牲はそのうちの約6千人に上ったという(対馬丸記念会監修「対馬丸ガイドブック」)。
 犠牲者には県民の親族も多かったので恐怖と心配が高まり、その一方で、神風日本は負けない、必勝だ、との軍などの宣伝を信じ込んでいたので、県民には戸惑いがあった。

 沖縄駐留第32軍の高級参謀八原博通によると、沖縄県警察部長の荒井退蔵が「軍隊側が戦いに勝つ勝つと宣伝されるので、住民が動かないので困る。なにとぞ駐屯の将兵は、景気のよい言葉を慎しみ、住民が疎開するよう協力してもらいたい」と泣き込んで来たという(八原著『沖縄決戦―高級参謀の手記』)。
 そのような戸惑いばかりではない。沖縄と鹿児島、長崎などを結ぶ航路は、すでに米軍の潜水艦などが出没、その危険は大きくなっていた。また、青壮年は軍の要員としてとられ、高齢者や婦女子だけで見知らぬ不慣れな土地で生活する不安があった。しかも、沖縄では血族の結びつきが強く、家族の分散は思いもよらないことだった。

 疎開の目的は当然、人命の保護にあった。だが、その陰には、①子ども、婦女子は戦闘時の足手まといになる ②1億玉砕論の出る中、将来の戦力資源を残す ③子を亡くした親たちの落胆による厭戦気分が広がることを回避する、といった思惑があった、と指摘する分析もある(「沖縄県史」、『学童疎開の記録1』中の佐藤秀夫「総論学童疎開」など)。
 また、各国民学校校長宛ての親展文書には「敗戦的なる思想傾向に陥らしむることなき様」「疎開とは単なる避難若しくは退散にあらず 戦争完遂の為の県内防衛態勢確立強化を図らむがための措置」と書かれ、戦意の後退を恐れる姿勢が露骨に示されている。

九州へ187隻の疎開船 軍と県の命令には従わざるを得ない時代であったし、生命の危険を前にして動かざるを得なかった。本土に8万、まだ日本の領土化されていた台湾に2万、この方針に沿って動いた。だが、船による安全な渡航、食糧の確保、受け入れ先の態勢、生活環境、予算措置といった準備が整わず、後手後手になりながら、先の見えないままに引きずられていった。
 一般の疎開船は7月中に始まったが、これはのちに触れよう。

 学童疎開は、保護者の説得、受け入れ先の把握などに手間取り、宮崎行きの場合、6校の児童ら131人を載せた第1船の潜水母艦「迅鯨」が那覇から鹿児島に向ったのは44年8月14日、宮崎到着は19日だった。その後、数日間隔で軍艦、時に貨物船が軍艦に守られながら9陣に分かれて運ばれた。(なお、宮崎県への学童疎開責任者であった新垣茂治県主事の回答による<前述『学童疎開の記録』今井宗雄>と、第1便は昭和19年7月17日で、延べ187隻。藤原彰『沖縄戦』では延べ178隻。琉球新報社『沖縄学童たちの疎開』では8月12日に第1陣出発。)

 先生も子どもたちも、本土への旅行気分もあったようだが、狭い船内に閉じ込められ、いつ米艦に襲撃されるか、戦々恐々の日々だった。というのも、沖縄―本土間では、攻撃されて沈没した事例が多くあり、疎開船は目的港に直行できず、攻撃を避けてジグザグと迂回して進み、5泊6日もかかったこともあったという(三上謙一郎『沖縄学童集団疎開―宮崎県の学事記録を中心に』)。

 以下、沖縄の子どもたちの九州入りの状況を記しておこう。

       児童  先生ら付き添い  計
      ―――― ――――――― ――――
 宮崎県   2,643    477     3,120  32校が県下58校へ分散
 熊本県   2,602    454     3,056  28校が7地区の温泉旅館に
 大分県    341     48      389  7校が寺や公会堂に
  計    5,586    979     6,565
   <鹿児島県に置かれた沖縄県職員派遣事務所・1944年10月1日現在>

「ヒーサン、ヤーサン、シカラーサン」 疎開地の生活は、各地とも大事に迎えてもらえたようだが、この「寒い、ひもじい、さびしい」ことは、どの子どもにも共通していた。また、戦争が終わっても、連合軍によって本土と切り離された沖縄に戻ることは容易ではなく、2年2ヵ月も残留せざるを得ない子どもたちも少なくなかった。
 筆者も、小学校入学早々、東京から栃木市への学童疎開に送られたので、その実情はよくわかる。

 もちろん、子どもたちは疎開先の言葉がわからず、まして沖縄の言葉で話しかけにくく、そこにいじめもあった。沖縄の暑さの中で育った児童たちには、九州の寒さは一段と厳しく、しもやけに泣かされ、アカギレもつらかった。服は薄く、風邪もひいた。わずかな食糧の配給は体に堪えた。そして、なによりも親たちが恋しかった。疎開地から疎開地への引っ越しもあった。
 そのような思い出の記録が多く残されている。3年から6年生が疎開の対象ながら、1、2年生も参加していたのだ。

悲劇の「対馬丸」 疎開に使われた延べ187船のうち、米艦によって沈没させられたのはこの対馬丸1隻だけだった。終戦1年前の44年8月21日夕刻、陸軍が徴用した6千トン級3隻の貨物船に子どもたちを載せて、駆逐艦、砲艦2隻に守られて那覇を出港した。
 22日午後10時過ぎ、トカラ列島の悪石島付近を航行中、米潜水艦ボーフィン号の撃った魚雷が対馬丸に命中、10分ほどで沈没する。竣工30年の老朽船の対馬丸は最大でも13.27ノットだが、米艦は水中8.75、水上20.25ノットの新造船だった。
 乗船していたのは疎開者、船員、砲兵の計1,788人で、犠牲者は1,418人(79%)。児童は775人、先生ら29人、一般疎開者569人、船員24人、砲兵21人。名前の分かった生存者は280人だった(対馬丸記念会、2004年現在)。
 この事態には、厳しいかん口令が敷かれたが、当然ながら徐々に知られていった。

 8割という大きな犠牲者を出した事件だが、朝からこの船団を狙っていた米軍が悪いのか、戦争の引き金を引いた日本に責任があるのか。多くの悲しみを今も負い続ける遺族たちの思いは計り知れない。やはり「戦争は悪」であり、責任を負うものもいないのだ。 

島内の疎開事情 8万の本土への疎開計画のうち、8割は縁故のない人々と見られ、熊本2万3千、宮崎1万6千、大分1万5千、佐賀1万、などと計画された。だが、そう計画通りにはいかなかった。本土と台湾に6、7万の県民が行った、と言われる。
 島に残った満17歳(のち15歳)から45歳までの男性はほぼ強制的に軍部の要員、つまり戦闘要員に組み込まれ、婦女子や高齢者は本島内の北部に疎開した。とはいえ、本島ではもともと南部、つまり首里、那覇から島尻方面に人口が集中しており、残り続ける人たちも多かった。

 初めての疎開でもあり、最初は家を離れようとする人は少なく、家財道具を送り出すだけだったが、サイパン島玉砕(1944年7月)、八重山飛行場建設から本島に戻る際の米軍の攻撃による約5百人の犠牲(同10月9日)、死傷1,246人、家屋焼失1万1,513戸などの被害を出した那覇を中心とする延べ9百の米軍機による大空襲(同10月10日)、先島への爆撃(翌年1月3、4日)など、波状攻撃が続き、被害に迫られるにつれて、疎開の動きは活発化した。ただ、学童疎開の対馬丸沈没(44年8月22日)の直後は、さすがに躊躇された。

 米軍の爆撃は次第に強まり、決死的な最後の疎開船が出港したのは45年3月下旬だった。
 それに先立つ2月10日、沖縄県庁は本島北部への疎開の方針を決め、これを機に老幼婦女子の島内疎開が動き出した。

疎開をめぐる人間模様 死が近いとなると、人間は自己保存本能が燃え立つ。そこに、人間としての欲望、利己主義や本音が表面化して、日ごろには見られない言動の不一致が現れる。
 米軍が次第に沖縄に迫る中で、当時の泉守紀知事は在任1年半の3分の1は県外に出張。住民の疎開にも消極的な意見を述べていた。また、10月10日の大空襲時には、県庁に出ることなく壕にこもりきりで、米軍上陸と勘違いしたものか、県庁の移転を命じ、公用車で逃げるなどした、と言われる。さらに、44年末に東京に出張、年が明けても帰任せず、1月12日にはそのまま香川県知事に就任した。大蔵官僚の兄などの縁で異動工作したのでは、などと取り沙汰された(ウィキペディア、八原博通『沖縄決戦』など)。

 さらに、『鐵の暴風』(沖縄タイムス社)によれば、伊場県内政部長は病気として出張、住民の配給用の乳幼児のミルクを携えたまま帰任しなかった、西郷県衛生部長は無断で疎開船で脱走した、沖縄連隊区司令官の吉田大佐は「米軍は沖縄には上陸しない」と言って飛行機で逃げた、などの事例が書き残されている。先述の八原によると、沖縄の名門尚家(男爵)の一家は2月下旬には九州に移った、という。
 終戦間際の旧満州でも、情報の早い軍人や家族、官僚たちが大挙、一般の移民たちに先立って飛行機、汽車などで逃げ出しており、日ごろのもっともらしい言動と異なるケースに驚くことはないのかもしれない。

 確かに、県民の疎開以前の7月までに、戦況情報の入りやすい本土から赴任した県庁職員の家族、あるいは鹿児島などから定住して商売などを続けていた寄留商人らは、軍艦や飛行機などで離脱したケースが少なくない。県庁の幹部は、全員が本土から送り込まれ、地元出身者は皆無だったという。露骨な差別が当たり前になっていた。

攻めまくる米軍、逃げまどう日本軍、県庁 まずは南方諸島を制して、沖縄諸島に迫る米軍の動きをトレースしよう。詳しく説明するよりも、時系列の動きが当時の状況を把握しやすくしてくれる。なお、太字の部分は日本と国際の動向である。

 マリアナ沖海戦制圧(1944年6月20日)/日本軍のインパール作戦阻止(同7月4日)/サイパン島制圧(同7日)/東條英機内閣総辞職(同18日)/テニアン、グァム島制圧(同27日)/神風特攻隊編成(同19日)/レイテ島上陸(同10月20日)/
 島田叡知事着任(45年1月31日)ヤルタ会談〈ソ連の対日参戦の密約〉(同2月4-11日)/硫黄島上陸、制圧(同2月19日―3月17日)/艦載機から沖縄爆撃(同3月1日)/国民勤労動員令公布、決戦教育措置〈4月から1年間の全国学校の授業停止など〉を文部省発表(同6日)小磯国昭内閣総辞職(4月5日)ルーズベルト米大統領没(同12日)/本島爆撃開始(同23日)/米軍の艦砲射撃開始、座間味島民の集団自決、県庁を那覇から首里に移転(同25日)/慶良間諸島上陸、制圧(同26日)/
 本島中部西海岸に上陸、占領(同4月1日)/北谷、宜野湾などに進出(同4日)/読谷村比謝に海軍軍政府樹立(同5日)/ソ連が日ソ中立条約廃棄(同6日)/名護に進出(同7日)/伊江島上陸(同16日)/本部半島制圧(同18日)/ムッソリーニ銃殺〈イタリアの無条件降伏は43年9月8日〉(同28日)ヒトラー自殺(同30日)ドイツ無条件降伏(5月8日)県庁を繁多川壕から東風平志多伯壕へ移転(同24日)/米軍は首里から那覇、南部の与那原、津嘉山から摩文仁に進出(5月中)/
 小禄、湊川、糸満、具志頭、さらに与座岳、真栄平方面からも進入(6月中)/知事ら摩文仁の軍司令部洞窟へ(同14日)日本軍の最終総攻撃(同21-22日)日本軍牛島司令官、長参謀長自決し沖縄での組織的戦闘終了(同22日)/南部の掃討戦完了(同30日)/北部の掃討戦終了(8月4日)/広島、長崎に原爆投下(同6、9日)/日本、無条件降伏決定(同14日)/''天皇、終戦を放送、鈴木貫太郎内閣総辞職(同15日)
''
 おおまかに日米両軍の動向を見れば、沖縄戦はもちろん、日本全体の敗色がいかに濃厚であったかは十二分にわかる。そこに、戦争のおかしさが如実に示されている。
 日本軍の投降がもっと早ければ、犠牲者は相当減っていただろう。日本軍の使命は国民の生命、財産を守るはずが、天皇の命令、国体の護持第一、侵略の大義名分維持、報国の死を奨励する軍規などに拘束されて、果たされなかったのか。
 米軍にしても勝利を目前にしながら、原子爆弾を投下したのはなぜか。多大な生命を奪われた怨念を、原爆によって意趣晴らしをし、あるいは初めての原爆の殺傷力を実証しようとしたのか。次の戦争を想定しての実験だったのか。

巻き込まれた沖縄県民 このような結果の見えた戦闘に、県民はどのように巻き込まれていったのだろうか。
 1944年10月10日の本島大空襲の1ヵ月半ほど経った11月、大本営は第32軍下の第9師団を台湾に移駐させた。6月に沖縄戦のために増強された師団だったが、肝心な時期の召し上げは痛かった。9月ごろから、県民の現地徴集、防衛召集が始まっていたが、第9師団召し上げを補充する要員確保のためか、12月には各地に緊急特設挺身隊が結成された。民間の成人男子の軍への徴用である。

 年が明けて1月末、島田新知事が着任すると、軍との協調も改善されて、知事が台湾に行って食糧確保に動き、2月には島内北部への疎開を決める。軍も、満17-45歳の県民男性約2万5千を防衛召集し、県下の学徒動員を強化した。戦闘が激化すると、13-60歳ほどまでが駆り出された。
 さらに2月15日、第32軍は「戦闘指令」を出して市町村単位の国土防衛義勇隊の編成に取り掛かるとともに、「一機一艦船、一艇一艦船、一人十殺一戦車」なる標語を打ち出した。また、3月下旬から4月にかけて、各中学、師範学校、農商水産学校などの生徒が鉄血勤皇隊や通信部隊などに動員、女生徒は看護などにあたるひめゆり部隊に組み込まれた。
 そのころ、米軍はすでに本島を艦砲射撃や空爆で攻め、4月には上陸し始めていた。

 大本営はレイテ島の戦闘後の1月20日、「本土作戦計画」を作成、閣議でも「沖縄防衛強化実施要領」を決めていた。同25日には、最高戦争指導会議は「決勝非常措置要綱」で本土決戦への態勢を固め、「軍官民共生共死」「一億玉砕」の方向に動き出ししていた。まさに、会議は踊るといったなかで、戦闘現場を離れた作文的計画が横行していたように感じられる。しかも、威勢よく意気がりながらも、広い視野での情報はなく、あるいは大本営の流すガセ的情報に、軍自らが酔いしれたかの空回りの強気があった。

 島田知事は、米軍の猛攻撃で首里城の地下壕に置いた県庁を撤退するにあたって、軍の本島南部への逃避行は戦線を拡大し、県民の犠牲を大きくするとみて、太平洋側の知念半島行きを主張した。そこは、軍の作戦区域外であり、また米軍のビラが住民の集結を勧告し、より安全と見ていたからだ。県職員だった浦崎勉によれば、高級参謀の八原は、知念方面への避難も一応指示していたはずだったが、戦場の混乱で十分徹底できなかった、と言ったという。そのような調整不足や連絡の不徹底などはありがちで、犠牲者を増やす一因にもなった、と思われる。

把握しきれない犠牲者 前述の八原によると、沖縄本島の人口は40万余(『鐵の暴風』では50万人とみる)、そのうち島外応召の従軍約3万、島内の一般兵1万、それに防衛召集者を合わせると6万5千、そのほか男女生徒の鉄血勤皇隊や衛生勤務員が2千だった、とする。島外疎開は本島から10万、八重山諸島から3万、島内北部疎開の老幼婦女子10数万、と判断するが、実数としては3万5千、その後に移動した5万程度で、「予定総数の3分の1に過ぎない」とした。そして、「その他の南部住民は三か月の長きにわたり、食うに物なく、隠れるに所なく、彼我激闘の間をさまよい、一家離散し、あるいは傷つき、あるいは斃れ、地獄以上の地獄を現出した」としている。
 激しい戦場になった本島南部は、首里、那覇を中心に80%の人口が集中しており、戦時下に30万以上の一般住民が残されていたといわれた。いきおい、犠牲者は多くなる。

 沖縄県援護課の資料をもとに、沖縄戦の戦没者数を見ておこう。

   県外出身日本兵   6万5,908人
   県出身軍人・軍属  2万8,228人
   一般住民     約9万4,000人〈推定〉
    日本側戦没者総数 18万8,136人 (うち沖縄県民12万2,228人)
   米軍        1万2,520人
    沖縄戦戦没者総数 20万0,656人

 これは、あくまでも大まかな数字である。というのは、この数字にはマラリアによる死者や餓死などの犠牲者を含めると、15万人前後にのぼるとの推計がある。また、数千とも1万ともいわれる、日本軍に動員された朝鮮人兵士たちは入っていないので、さらに増えることになる。犠牲者の周りには家族や近親者も多く、その悲しみは数えようもなく、長い時間忘れられない心の痛みになってきた。

 これとは別に、摩文仁の丘に建てられた「平和の礎(いしじ)」に残された犠牲者名(2020年6月現在)がある。これには、沖縄戦以前の氏名も含まれているが、戦争で命を落とした人々の多さに改めて驚く。
   沖縄県内   14万9,547人
   46都道府県   7万7,456人
   米国      1万4,010人
   英国         82人
   台湾         34人
   北朝鮮        82人
   韓国        382人
      計   24万1,593人

今も想いの残る人々 戦争はときに、前述したように人間の本性を暴く。ただ、この稿を締めくくるにあたっては、今も印象をとどめる3人のリーダーに触れてみたい。

 死に至るまでの半年間、疎開や食料確保など県民の立場に添って、官選知事の任を務めた島田叡(あきら)。内務省の官僚として大阪府内政部長から死地に赴いた島田は、いま那覇市の奥武山公園に顕彰碑が建てられ、摩文仁の丘には「島守の塔」が建つ。
 第1回全国中等学校優勝野球大会(今の高校生の甲子園大会)に神戸2中の選手として出場、東大では野球部、ラグビー部の選手として活躍、内務省では警察畑が長かった。
 壕内に置いた県庁を転々と移り、本島南端の摩文仁の丘に追い詰められて、ついには壕を出て姿を消した、あるいは拳銃で自決したと言われ、遺体不明のままである。ときに45歳。

 島田知事と行動を共にして支えたのは、県警察部長(今の県警本部長)の荒井退蔵。疎開計画を練り、犠牲者をひとりでも減らそうと粘った荒井は、苦学し、東京で警察官を務めつつ、高等文官試験に合格して内務省入り、ほぼ同世代の島田と同じように、おもに警察畑に身を置いていた。福井県官房長から沖縄に赴任。
 2020年8月、生誕120年を記念して出身の宇都宮南図書館で、彼をめぐる展示があり、筆者も出かけてみた。死の直前の5月25日、内務省宛ての荒井の電文があった。
 「此ノ決戦ニ敗レテ皇国ノ安泰以テ望ムベクモナシト信ジ 此ノ部民ト相倶ニ敢闘ス」

 島田出身の兵庫、荒井出身の栃木、そして現地沖縄の3者の間では、いまも交流が続けられている。

 もうひとりは沖縄方面根拠地司令官、海軍少将(のち中将)の大田実。島田とは気持ちが通じていたようで、沖縄県民の献身的な作戦協力を高く評価、海軍次官宛てに電文を送った。
 「県民ハ青壮年全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ、残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト財産ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆下・・・風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ジアリタリ。而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦炊事婦ハモトヨリ砲弾運ビ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ。・・・沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シテ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ。」

 (元朝日新聞政治部長)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧