【オルタの視点】

戦争というもの(1)

羽原 清雅


 なぜこのようなテーマで書くのか。
 戦時下に生まれ、戦後の貧窮のもとに育ち、しかし70年余の平和を享受した者として、「戦争」というものを考え続けざるを得なかった。キナくさい現状から、ということからだけではない。むしろ、いちどは書いておくべきだ、と思い立った。「戦争」は、1人ひとりの生存するうえでの「責任」に関わる、と思う。散漫ながら何回かに分けて綴っていきたい。

          ― 終戦時の混迷・外地での出来事 ―

<ある機密文書> ここに、終戦直後の昭和20(1945)年11月29日付の、「極秘」の赤印が押され、「部外秘」と印刷された情報局企畫資料部資料課がまとめた『蘇聯軍占領下に於ける邦人の状況―滿洲(内蒙を含む)、北鮮、樺太及千島―』なる文書がある。茶色に日焼けし、紙自体も劣化した57ページのものだが、終戦直後の冊子ながら、ガリ版刷りではなく、活字印刷であることに、当時の重要性を感じる。
 ちなみに、この文書は、公開されたものとしては北海道立図書館に一部あるだけのようである。筆者はごく最近、父親が内務省関係者であったその子息から入手することができた。

 表題にあるように、この4つの地域で、日ソ中立条約を破棄して進駐してきたソ連軍、そして日本軍のもとから解放された満洲軍やその民族、朝鮮の人たちが、軍事力に守られながらこれらの地に生活してきた日本人に加えた、残虐にして、非人間的な行為について、細かく記録されている。なお、「満州」「北鮮」などの用語の表記はそのままにした。

 単純に見れば、「ソ連はやはりけしからん」ということにもなるだろう。だが、翻って考えれば、日本軍が中国大陸、あるいは現在のインドシナ半島、そして南方の諸島などに一方的に侵略して犯した罪状と併せて考えるべきではないか。
 一方に立てば厳しく非難を浴びせることができるが、「三光作戦」「731部隊」「細菌爆弾」など史実として明らかにされた日本軍の行為、そうした残虐を許した他方の国家の責任はどうか。当初にうたいあげた「八紘一宇」「五族協和」はどこにいったのか
 双方に言い分はあるにしても、その被害は双方の国民に、同じように転嫁される現実に目を向けたい。
 戦争の生み出すものは、それぞれに正当化しようとしても、相手側の「非」を責めるにしても、どっちもどっち、ということになる。
 双方が言いつのる「正当」な行為を受けた受難者、被害者たちはどうなのか。泣き寝入り、ですまされるのか。怒り、恨み、憎しみ、反感を抱けば、それで済むというのか。
 「戦争」は、攻撃する側も、侵略される側も、その時期はずれても、双方ともに傷つき、怨念を残すことになる。プラスは全くないことを知っておきたい
それが、「戦争」というものなのではないか。

<各地の被害状況> 具体的に、この文書に示された被害の状況を要約しよう。まずは総論から見ていこう。
 外地に残留した邦人と復員軍人(概数)は、外務省管理局の調査によると、総数約270万人にのぼる、としている。

               残留邦人     復員軍人
  ――――――――――――――――――――――――――――――
   関東州を含む満洲    123万     約70万
   北 鮮          25万     不明(約4万)
   樺 太          40万     約2万
   千 島           4千     約4万5千
  ――――――――――――――――――――――――――――――

 この地域は「其惨苦の度もっとも甚だし」く、それは ①ソ連軍の「急速なる進軍に依り終戦と相前後して戦場化」したこと、②「終戦当時迄敗戦を信ずる者無かりし為 退避の余裕乏しく」、退避しても不用意、無秩序に行われたこと、さらに ③ソ連軍の「恣なる掠奪暴行が頻発」、さらにこれに便乗する満州人、朝鮮人の「凶暴なる迫害も行われたる結果、邦人の粒粒辛苦の末築き上たる財産乃至生活基盤を一朝にして剥奪」され、「厳寒の襲来を目前に控えて衣食住逼迫し、文字通り飢餓乃至凍死の危険に直面」した、と分析している。

 冷静な分析ではあろうが、日本政府、そして軍部の責任に触れていない。
 ①ソ連の「対日参戦」は、すでに終戦半年前のヤルタ会談でスターリン、ルーズヴェルト、チャーチルの間で話がついていたことからすれば、これを外交的情報網によって補足できず、外地からの引き揚げなどの方策すらなかったという問題が残る ②についても、国家の幹部層に国際情勢の判断に危機感があれば、また国家として国民の生命財産を守るという使命感があれば、なんらかの手が打てたはずだ ③は、植民地政策破綻の常であり、満州に傀儡政権を設け、「五族協和」などの美辞麗句のもと、実は軍事力によって地元民の土地を奪うなどの施策をとった以上、その暴虐がきわめて理不尽だったとしても、その怨念が爆発して不思議はなかっただろう。これは、彼らの暴虐を容認するものではなく、「依ってくる背景」に触れるために述べておきたい。
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 このレポートの判断の根底には、日本側の正当性を説くあまりに、大陸進出以来の相手側に対する仕打ちと、相手側の忍耐や蓄積された憤懣の感情に対して、想像性を欠いている。戦争というものは、強者の驕りが正当だとされるところに、多くの矛盾を生み出すことを如実に示している。

 文書に戻ろう。ソ連側は、終戦の半月後の9月1日から満州・朝鮮国境の歩行を含む交通をすべて禁止、満鉄職員をはじめとして逃亡避難先から満州への帰還・職場復帰を強制、また樺太では商工業者に5日以内の開業を命じた。ソ連側は「当初から占領地邦人の内地引揚げを考慮して居らず、寧ろ之を現地に定着せしめ、従来の生業に従事せしめん」したようだ、という。だが、「満鉄社員等一部就職者を除き概ね内地帰還を熱望」、「自暴自棄の流民と化し、日本民族として国民的節操すら喪失するの惧れ無きを保し難く、その救出援護は正に焦眉の急となれり」としている。以下、各地の状況である。

 [満州] この地での受難状況は、2期に分けられている。第1期は、ソ連参戦・終戦から9月上旬まで。ソ連軍の掠奪暴行が頻発、また満州軍や満州人の騒擾が各地に発生、在留邦人の多くが金品財産を奪われて窮民化、地域によっては多数の死傷者が出た。第2期は、9月中旬以降。ソ連の憲兵隊、「ゲ・ペ・ウ」の監視が厳しくなり、治安は良好に向かったものの、食物などの配給が停止され、銀行預金の引き出しも厳しく制限されたため、財産を奪われ、所持金を使い切った邦人の大多数は生活費の枯渇にあえぎ、飢餓、凍死の危機におびえるに至った、とする。

*満州国政府は8月14日ころから機能を失い、首都新京(現長春)の満洲人街には青天白日旗が掲げられ、軍官学校、高射砲隊などで満州軍の反乱が起き、政府要人はほとんど抑留された。

*在満邦人事業は、その傘下会社の投資額20億円、貸付金も20億円だが、操業中企業は製鉄、西安炭礦、満洲自動車(奉天=現瀋陽)の3社のみ。日本資産のうち、移動可能なものはソ連内に移送された、という。

*ソ連兵の一般邦人への不法行為は、新京での婦女子暴行は9月初旬までの期間に1日平均30件。婦女子は男装・丸坊主になる。奉天にソ連軍司令官が来ても掠奪、発砲、強姦はあとを絶たず、8月19日にソ連空挺部隊が入城し、日本軍が武装解除されると、満洲人が蜂起し、倉庫や大商店などを襲撃、街や駅で金品の強奪があり、ふたつの百貨店が全焼。ハルビンでは8月15日、満洲軍が反乱を起こし邦人の相当数が惨殺、また市内では反日デモが。11月現在の避難の邦人は約7万という。

*北京に近い古北口には、ソ連軍約1万、外蒙騎馬部隊1千が殺到、邦人に死傷者。河北省の張家口では、8月19~21日までに在留邦人約2万が引揚げを完了、中共(八路)軍は邦人の生命財産を保護した。

*厚和(内モンゴルのフフホト)では8月16、17日に婦女子がまず引揚げ、男子も天津に引揚げ後に除隊。現モンゴル自治区の包頭では、婦女子、次いで居留民男子が引揚げを実施したが、第2次輸送列車以後不通となり、独身婦人、民間男子、官吏らは残存。

*邦人引き上げの拠点港となった葫芦島に近い錦州では、軍人、一般邦人も労役に従事。11月の避難邦人は約4万。旅順、大連は戦線から離れていて、治安は概して良好だが、食糧難に。中国に隣接する北朝鮮国境の安東(現丹東)の治安は大体良好で、食糧も相当あるよう。当初満州から特殊会社関係の避難者約4万が集結、その後10万程度に増えた。

*ソ連と北朝鮮に接する国境の琿春は、3・1独立運動(1919)のあと間島事件と言われる、日本軍による多数の虐殺のあったところだが、ソ連軍に包囲されて「一部の脱出者を除き玉砕の覚悟を以て抗戦せる模様なり」としている。

[北鮮] ソ連軍将兵の暴虐は満州と同じようだが、「鮮人の対日感情は満人の夫(それ)より遥に悪く、蘇聯の威を借る赤化新政権(人民委員会)の領導下に、共産系の治安隊、赤衛隊等が跋扈跳梁し、邦人軍官民に対し報復的迫害乃至弾圧を加へ居れり、而して一般鮮人中にも多年の屈辱を晴らすは此の時とばかりに悪辣なる邦人圧迫を敢てする者少なからず」としている。邦人の生活は「急激に窮迫の度を加え」るなかで、最も悲惨なのは満州からの引揚者と、北朝鮮各地から離脱してきた避難民だった。

*ソ連軍は8月24日に平壌入りし、9月初旬には北朝鮮一帯に進駐、日本軍の武装を解除し、日系知事、警察関係、上級官吏らを抑留するとともに、各地に人民委員会などの組織を設けた。ソ連は、重要工場の施設等を日本人将兵や一般邦人を使って解体、本国に機材等を輸送した。北朝鮮新政権はソ連軍の指導の下に、行政権、司法権を駆使、ソ連の「ゲ・ペ・ウ」的存在の治安隊、赤衛隊は旧日本軍の軍衣袴を着用し、日本軍人とくに憲兵、警察官に対して報復的に暴行を加えた。

*ソ連軍の掠奪暴行は進駐当初が最も激しく、各地で集団暴行があり、鉄原(38度線に近い現韓国側)の警察演武場に在留婦女子全員を集めて凌辱、上級司令官が禁じても夜間に連行された婦女子は相当数にのぼった、という。男子の強制労働や、日本窒素産業、朝鮮電業などの邦人企業の接収、共産分子の乗っ取った各地の労組による「莫大なる退職手当乃至生活補證金」の要求、などが相次いだ。

*満州引揚者たちは着のみ着のままで強制労働に従事、「飢餓、寒気、過労の為に毎日数十人宛死亡し居る模様」。医薬はほとんど皆無で、「罹病せば死を待つ外無し」という。

*満州引揚げ邦人は現在(11月時点)約15万。家財道具、身の回りの品はほとんど携行しておらず、しかも避難途中にソ連兵や朝鮮、満洲人に「再三金品を奪掠強要せられたる結果、所持品とくに衣服寝具等に窮乏し居り」、さらに「集団収容所の邦人婦女子中16歳以上60歳迄の者が毎日交代割当にて慰安婦として要求せられ居る趣なり」「之等婦人の八割は性病に罹り、二割は妊娠し居る由なり」と記されている。

*男女ともに強制労働を課せられ、地方では農家の手伝い、都会では便所、電車の清掃など「最下級労務に服せしめられ」、日給は1円50銭~1円70銭ほどで「物価騰貴の折柄殆ど何の足しにもならず」だった。所持金は全部新政権に没収され、1日2円ないし3円が支給され、平壌では独身者5百円、家族持ちは人数に拘わらず1千円(期間は不明)が交付されたが、1人1ヵ月の生活費は百円が必要で、厳寒期にはその倍は必要なのだという。

*北朝鮮最北の、とくに咸鏡北道の在住邦人は、ソ連軍が進撃すると、会寧や茂山、白岩などの山岳地帯に逃げたが、食糧難から約10万のうち8、9万の人が初秋以来徒歩で南下、9月10日現在で日本海に面した興南(現咸興)に着いたのは約3千、清津、城津、元山などにも相当数が逐次到着している模様、としている。そのほとんどが途上で「一物も余さず掠奪に遭ひ、飢餓と寒気に苦しみ居れり」という。

*平壌には8月24日に、ソ連軍が進駐。9月7日から16歳から60歳までの男子をトラックに乗せて、連日どこかへ連れ去った、という。

*元山には8月18日、戦艦3隻が入港した。ここの在留邦人は本来2万3千だが、北方からの避難民で10月下旬現在では3万3千。食糧の配給は当初2合だったが、その後不確実になって、一般邦人は1日1合程度の高粱の雑炊を二回に分けて食べる状況、とされる。邦人の住宅はソ連軍、朝鮮の指導階級に相次いで接収。燃料は暖房どころか、日々の炊飯にも事欠く状態。10月23日の脱出者によると、飢餓と寒気で毎日20人が亡くなるという。

*興南では、邦人2、3万が集結。9月20日までは配給があったが、その後前途の見通しがないので、1日1合で食い延ばしているという

[樺太] 8月22日以降、いったんは平穏になる。24日以降、内地との交通は停止、ラジオ受信機は没収、内地との通信連絡は27日以降途絶した。9月26日から、①商工業は5日以内に開業、②労務勤労者は即刻現職に復帰、③馬鈴薯は収穫のうえ、ソ連軍と民需に4割ずつ、2割は種イモとし、収穫未了分はソ連の国有にされた。

*ソ連軍は8月15日の終戦後も、この地では爆撃と進撃を続け、22日の停戦協定で一応平静になった。24日以降は内地との交通は停止、ラジオ受信機も全部没収されて、27日以降は内地との通信連絡は不能になった。ソ連側は、従前の行政機構を踏襲、武装解除された第88師団の将兵は何ヵ所かに監禁、おおむねは労役に従事させられた。警部補以上の警察官は拘禁、8月下旬には、日本軍将兵が②隻の船で「何れへか輸送」された。 

*8月20日ころに、いったん勾留された一般邦人は28日ころから逐次釈放された。11月分までの米は配給され、ソ連側は朝鮮の羅津から約16万石の米が輸入されるとして、1人1日2合8勺として46年6月までは不安はないと思われたが、「単なる口約なるを以て前途楽観し難し」とした。ソ連軍兵員が増強されると、寝具や衣類が欠乏、一般民衆から調達、「ソ連軍は其の生活程度極めて低き為」、当初は強制買い上げだったが、所持金がなくなると金品の強奪事件が増えていった。婦女子への暴行は白昼でも発生した。

*内地への連絡船が途絶する前に引揚げた者は7万5千(北海道5万、内地2万5千)だった。在留邦人40万、復員軍人約2万だったので、帰還はごくわずかにとどまった。

*樺太の中心都市であった豊原(現ユジノサハリンスク)へのソ連軍は約1万。

*大泊には9月初旬の時点で駆逐艦4、特務艦7、潜水艦4、輸送船6隻が入港、邦人男子のほとんどが港湾荷役に従事。大泊の目抜き街では9月22日に2日間にわたる大火に見舞われた。

*真岡には8月22日にソ連軍が上陸、日本軍は一斉砲火で対応したが、砲爆撃を受けて市街の半分を焼失、一般邦人8百人が犠牲になった。

[千島] ソ連軍は8月28日に択捉島、9月1日に色丹、国後両島に上陸し、歯舞諸島の志発(しぼつ)島などにも若干の将兵を駐屯させた。ソ連軍司令官が全千島のソ連領化を宣言したのは9月15日。その際の布告によると、①水産、林業、牧畜等は従来通り ②国民学校はソ連軍司令官の命令により許可 ③通行は午前6時~午後7時まで ④6カイリ以上の沖合漁業は禁止 ⑤警察機関、日本制式村役場は廃止、などとなった。また、色丹島などにあった混成第4旅団などは9月10日にいずれかに輸送されたようだ。

*ソ連軍は、日本軍の保有した食糧などを一般邦人に配給、主食配給量は十分で、漁労などの協力労働の男子には1日5合、洗濯、炊事などに協力の女子には1日3合の配給があった。

*ソ連側は、国民学校でロシア語教育をはじめ、一般住民には日用会話用語の印刷物を配布、ロシア語の普及に努めている、という。

*ソ連軍の軍規は厳しく、邦人の生命財産に異状はなく、婦女子の凌辱事件もほとんど「絶無」だ、としている。

<政府等の対応> 文書では以上のような各地の状況を記す一方、「結語」として各地での交渉の実態を述べている。この点も要約したい。

 邦人の状況は、「比較的状況良好なる千島を除き」、「塗炭の惨苦の底に沈淪」「其の救護又は援護は刻下の急務なる處、此等諸地域を完全に閉鎖し、在留邦人の現地定着を企図し居るかの如き蘇聯側態度に鑑るも、この措置は極めて至難にして、外務省始め関係当局屢次の努力にも拘らず未だ何等事態の改善を見ざる次第」との認識を示している。

 あえて言うなら、いったん始まった戦闘の結末は、双方ともに相手から受けた苦難を同じように憎悪の念を抱いて報復しようとするだけではなく、飢餓など生命の危機から逃れるために集団的に犯罪的行為に走ることになり、通常ではない心理状態に追い込まれて、「人間」のあるべき姿からはみ出す方向に向かわざるを得ない。戦争当事国のいずれも、である。

 そうした事例は、あらゆる戦争の結末が示しておりながら、国家を操る権力はその方向を避けることなく、同じ轍を踏みだして悲惨な結果を国民にもたらす。

 「戦争」というものが繰り返されるのは、戦争は個々の人間性の放棄につながるのだ、という「畏(おそ)れ」を忘れ、歴史に学ばず、その方向を選ぶ国家権力を許容してしまう国民・市民・大衆の意思、社会的感情に大きな責任が問われる。対立する勢力の「非」を指摘して、もっともらしく「圧力」「武力」の妥当であることを強調し、その危機感をあおることで軍事力を増備し、攻撃性を高め、扇動される大衆にその正当性を訴え、憎しみと排除の感覚を植え付けていく、そのようなことがいつも繰り返されている。それが、戦争の姿だろう。

[東京] 外務省はどのように動いたのか。9月初旬、在京の瑞典(スウェーデン)公使館を通じて駐日ソ連大使館に邦人保護を申し入れたが、同大使館は「国交断絶」を理由に取り合わず、連合軍最高司令部付ソ連代表も「其の権限無し」として拒否した。また、ソ連は「日本降伏の結果、日本の利益保護問題は根拠を失ひたる」旨の回答があり、スウェーデンはこの問題の処理は終了、と伝えてきた。

*連合軍最高司令部には、満洲の中心である新京(現長春)との無線連絡、在留邦人の必需品購入の資金や、満州朝鮮の列車運行と石炭の入手などを申し入れたが、この文書ではその結果に触れていない。また、大連や北朝鮮への配船については、決定次第実施との回答を得たが、38度線以北への軍人、官吏の旅行をソ連側が同意しない、と通告された。

*終戦連絡中央事務局は10月27日になって、最高司令部にソ連占領下の邦人の惨状を伝えたが、11月1日に米国の関係部局に送付した、との回答があった、という。(すでに、終戦から2か月半が過ぎていたのだ。)

*瑞西(スイス)赤十字国際委員会に邦人保護を申し入れたが、ソ連とは従来連携はなく、むしろ米英側を動かすように、と「消極的態度を示した」。

*以前対日関係の良かった南京の何応欽総司令部に邦人救済方を要請、交通の便のある都市、港湾に邦人を集め善処するよう、東北行営主任に打電した、という(終戦後、蒋介石は軍部を握る何応欽を警戒、間もなく罷免した)。

*京城(現ソウル)駐在の外務省亀山参事官は9月17日、ソ連総領事、米軍司令部に対して、平壌に行き邦人救済についてソ連軍司令官等と会見したい旨要請したが、10月にソ連軍司令官がこれを認めないとの回答があった、と東京の連合軍から連絡を受けた。その後、亀井は米軍当局から帰国を命じられた。また、朝鮮軍の参謀長らも平壌入り、ソ連軍との交渉を求めたが、ソ連側は交渉不可能、とした。

*このようにソ連側は38度線以北との交通通信を遮断したので、「法人の内地引揚は目下全く見透し付かざる状態」。このため邦人救護は「各地日本人世話会の相互扶助乃至自衛行動に専ら委ねられ居る観」「日本人世話会は何等の背景も有せず極めて無力」「充分なる成果は到底期待し得ざるもの」としている。

*京城日本人世話会満州班が演劇団などを編成して北側に潜入、11月8日までに約6千人を救出、米軍から機帆船32隻使用の許可を得て「救出を策せんと計画中」と記しながらも、「如何なる程度に成功し、何時迄持続し得るやに付いては多大な疑問」としている

 外務省等の在外邦人の救済の努力は、それなりの苦慮、苦労があっただろう。だが、戦争の勝敗が決まれば、その後の戦勝国の扱いが極めて冷たいものだったことがわかる。
 人道的な配慮とは、平時においてこそ言えるにしても、戦乱中やその直後には戦争相手国の将兵に対してはもちろん、民衆に対しても身内の殺害、家庭の分散解体、財産の収奪などの怨念が蘇って、言葉通りの「配慮」などは不可能なのだ。戦争の渦中では、相手国とその国民への憎悪、蔑視、配慮の拒否などの感情が国家的なプロパガンダによって培養、蓄積され、その仕返しのときがやっとわが手に戻って来た、という報復の思いがごく一般的に沸き起こるのだろう。
 在留邦人にはきわめて不幸な事態だが、侵略を始めたころの日本政府と軍部は、朝鮮半島で、中国大陸で、また南海の諸島で、どんな悪行を働いただろうか。掠奪、暴行、殺戮、強奪など日本の軍人や帰還者たちが多くの証言を残しているではないか。祖父母らの惨状を記憶にとどめる朝鮮半島や中国、あるいは南方諸国の人々が、時に反日の感情をあらわにするのも、国籍を替えて日本が被害側になれば、同じことがいえるだろう。

 戦争の愚は、いつの時代でもそのようなものなのだ。しかし、人間は時代とともに、おのれの側も、相手の側も、歴史に学ぶことなく、そのような愚を忘れて、自分側の正しさばかりを信じ込んで、再度の戦争に向かう。勝てばいいのではなく、勝っても負けても、被害や傷跡は双方に残るのだ。

<主要帰還者の証言> この文書の後半には、各地から逃げ戻ることのできた人々が、さらに生々しい残虐の実情を具体的に語っている。内蒙、熱河、北朝鮮、元山などからの証言を要約して紹介したい。

[内蒙] ~蒙古聯合自治政府顧問・蒙古通信社社長 神吉正一氏~
*8月17日にソ連機が北京の北方の、万里の長城に近い張家口(現河北省)を銃撃、翌日は3機が爆撃。地上から八路軍の軍使が内蒙明け渡しを求めてきたが、根本軍司令官は、蒋介石の重慶軍との交渉には応じるが、八路軍とはソ連を通じての申し入れなら応じる、と回答。19日、軍司令部が引き揚げ命令を出したことで、20日には軍部のトラック40台で引き揚げた。掠奪などはない。

*包頭(現モンゴル自治区)では、婦女子、居留民男子、軍の順で張家口に引き揚げたが、2回目の列車は輸送不能に。

[熱河] ~熱河省興隆県(現河北省承徳市) 古田副県長談~
*8月19日、古田以下267人は一個大隊(1千人くらいか)の護衛を受けてトラックに分乗、興隆を出発するが、泥濘でトラックは不能、荷物を棄てて60余歳の老婆、妊婦、子供らも徒歩で1日平均7里を歩き、10日間で北京へ。途中子供3人死去。

*行軍中の情報として、①岸谷亮一郎省次長は夫人、令嬢とともに服毒自殺 ②皆川富之丞警務庁長以下が殺害された。北京への途中、この殺害経過の封書を入手、これによると、唐山付近で行動中の挺身一心隊3千に対し奉天(現瀋陽)に向かうよう、皆川が命じたところ、部下はこれに従わず、満州軍の一隊長が皆川を射殺。これに呼応した満州軍は「日本軍250名を悉く惨殺せり」。

[同] ~凛平県 坂本総務科長談~
*8月13日に初めてソ連参戦を知り、14日婦女子を通化、安東方面に引き揚げさせたが、20日にソ連軍が侵入。満州人の同僚により脱走に成功、数日間満州人宅に隠れた。副県長ら日系官吏は拉致。2、3日後に来たソ連兵は満州人婦女に暴行、満州人を扇動して官庁、会社を襲撃、また掠奪に遭った満州人がまた掠奪仕替えすなどして拡大した。八路軍に示唆された満洲人暴徒は特務警察関係者、警察隊員、満州人幹部らを殺害、惨殺は広範に及んだ。

*承徳では、数千の日本人が家を追われ、泥濘と雨中の寒気に死の寸前を彷徨。また、古北口では、ソ連軍約1万、ほかに蒙古軍、女子騎馬隊約1千が殺到、日本人、満洲軍が殺害され「死体散在す」。

[北鮮 ①] ~山内信一氏手記(10月17日)~
*臨江から平壌に脱出、9月3日まで駅構内の貨車に宿泊。日本軍の武器で武装した朝鮮人保安隊、赤衛軍に荷物、おもに軍需品を掠奪された。ソ連兵に日本人女子2人が強姦され、外出禁止に。男子は見つけ次第拉致。

*大同江の船頭によると、満州からの邦人は男女別々に抑留、16歳~60歳までの男子は労役のため連行、「女子は毎夜ソ連兵来たり、20時より翌朝8時頃迄連行、暴行を加えあり、自殺者続出しあり。又特殊慰安婦に使用の目的にて毎日60名を飛行機にて移動せしめありとのことにて暗然…涙を禁じ得ず」。

*9月10日、「ソ連兵2名何者にか殺害」され、大同江付近や市内外の警戒が厳重となり、脱出不可能に。ソ連の対日態度はますます険悪に。16時ころ、山内(この手記の人物)の旅館にソ連兵2人の臨検があり、8人が屋根上に隠れ、拉致を免れた。

*翌日、一行5名で朝鮮人に変装、朝鮮軍属の案内で大同江橋を渡り、平壌を脱出、徒歩で京城(現ソウル)へ。

*開城に向かう途中、追剥に2回遭い、金銭、衣服を盗られ、6人組の追剥に裸にされ、ボロの衣類をもらう。夜は宿の主人に脅され、80円を出す。
*9月16日、京城に近い土城には「米軍進駐しあり、星条旗を見て初めて安心す」。19日に京城に到着。山下参謀夫人によると「関東軍女子軍属南下の途中、17名強姦され、14名惨殺され、3名は辛ふじて死を免れ」たという。10月1日に釜山発、仙崎に上陸。

[同 ②] ~某氏記(10月上旬の北朝鮮事情)~ 
*人民委員会と労組は共産党員で組織し、ソ連軍の意図のもとに行動。保安隊は朝鮮人で組織し、旧日本軍の軍衣跨、軍刀、銃を用いた。「ゲ・ペ・ウ」的存在。乱暴で、市民はソ連軍よりも憎悪視した。ソ連軍には「乱暴で程度の低い訳の分らず屋」との感じ、と記す。

*食糧配給は、朝鮮人には高粱(こうりゃん)2合数勺、内地(日本)人には当初2勺減だったが、のち間歇的に若干。市場の白米販売は、日本人は敗戦したのに自粛の態度が見えず、購買力旺盛で物価が騰貴するとして、10月から外出と買い出し禁止に。栄養不良で、幼児らの「死亡者続出」。毎日の食事は1日2回で、高粱の雑炊1日1合程度だが、今後の見通しなく「食い残しつゝある」。

*避難民は寺院、遊郭、料理屋などで集団生活。9月中旬から避難民の流入禁止になったが、南下の人びとの潜行流入が多い。日本人世話会により、布団や金銭の提供があったが、「焼石に水」。9月中旬から、ソ連押収物の本国への移送荷役、資材搬出、神社破壊、清掃などの強制労働の通達があり、その従事者には「1日3合3勺の穀類特配有り」。

*避難民収容所に暴行、掠奪に来る者が多く、ソ連軍憲兵もいる。「時計、万年筆は悉く掠奪す、婦女子に対する暴行は甚だしく、夜間泥酔せる『ソ』兵入り来り適当な婦女子を物色し拉し去る」。抵抗すると自動小銃で威嚇射撃をするので、親たちもどうにもできない。激しく抵抗した婦女子に「足に釘を打付けて暴行せりとか聞く」。

*保安隊による軍人、とくに憲兵、警察官の検挙は厳しく、夜更に避難民収容所に来て、男を全部1ヵ所に集め、蹴る、擲る、軍刀で峰打ちするなどの拷問を数時間も加えた。

*元山地区の避難民は約7千、城津、咸興、清津地区にも多数集結し、労働に服す。北方ほど「暴行の程度は酷なり」という。

*港湾都市の元山(現北朝鮮江原道)在住の日本人は自家を人民委、労組、労働党の幹部らに没収、立ち退かされ、家財道具の売買は禁止、不動産は一切差し押さえられ、南下への脱出もできず、状況の好転を待ち焦がれている。

[同 ③] ~鈴木治助氏記(8月26日~10月28日)~
*安東では、「『ソ』軍進駐に備へ、日本人会より10万円を出さしめ又満人15名、日本人芸者15名を以て接待役とし不時の事故に備へ」た。

*9月6日、ソ連軍の「戦車隊、守備隊の掠奪頻繁にして、男女共裸にしたる後金品、衣服を押収す。就中、腕時計に対する執着心強し」。   

*9月7日、「ゲ・ペ・ウ」将校が来て女性を強要。いったん引き上げたが、再度来て男たちを一室に監禁、看護婦2人を連行、1人は逃げたが、もうひとりは3人に強姦。

*朝鮮人の「日本人に対する反感は想像以上にして、今迄の屈従感を晴すは此の秋なる熾烈強固なる敵愾心に燃え、赤軍の暴状と共に鮮人の暴行は邦人をして悲哀の涙に暮れしむ」。

*ソ連軍は「厳重なる掠奪、暴行厳禁の上級司令官布告に拘わらず酷烈なり」。「『ゲ・ペ・ウ』が慰安婦に対し2百円を渡し花柳界を解散せしめたる結果、一般人に対する強姦事件頻発」、ある女学校長は3年生の娘を眼前で、また旅館で60歳の女性までも暴行された、という。婦人は男装し、縁の下に隠した。駐在のソ連兵は3千だが、築城(占領下の復興策など、か)などはせずに工場の機械を搬出、家族連れの将校は飯釜、ミシンの類を運び、兵隊は腕一杯に腕時計を付けて威張り、ボロ服を脱ぎ日本将校の衣服を着けた。

*あまりのひどさに「斯る非道の場所に座死せんよりは一歩にても故国に近き処にて死せんと一同意を決し」、「一同に青酸加里を分配し明日(10月8日)出発に決す」。

*ソ連軍憲兵隊からやっと旅行券が交付され、沙里院(現北朝鮮黄海北道)を列車で出発、途中ソ連兵の威嚇射撃を受けて下車。女性を隠して、男性が飯炊きを強制された。さらに、朝鮮系共産党を手先に女性を強要に来たので、時計4個、5百円を出して難を免れる。赤衛隊長に出発を交渉、2千円の寄付を要求されたが、車2台に女子供を乗せて出発。途中から、山に寝、大根と煎り米をかじり、見つからぬよう行動。14日に金郊山近くに到着したが、37、8里の難行軍で女性や子供は歩行できなくて、船に乗るのだが、朝「鮮人の強欲に合計6350円を投じ」て38度線に近い開城の手前に到着。開城で米国の隊長に依頼して、本願寺に入り日本人会による握り飯の分配を受ける。10月15日、貨車で京城着、1日2合の配給あり。26日、復員列車で出発し、釜山手前の駅で停まったので、各自1円を出し合い、機関車を運行。28日、出帆。6700定員に2千超の乗客。11月1日、仙崎到着。

[元山] ~第51海軍航空廠書記(元山分工場勤務) 山口恵三氏記~
*10月22日まで元山の自家に抑留状態で、寒気に相当多量の薪炭が必要だが、日毎の炊飯に使った。食糧難と薪炭の入手不可能により、死者は1日20人を数えるほど。それで23日、朝鮮人に偽装、米ソ国境の38度線を突破、鎮海(現慶尚南道昌原市)の本廠に行き、陳情と報告をした(11月6日)。

*ソ連軍の元山への進駐は8月18日夕、戦艦3隻が入港、22日に輸送船5隻、一部は鉄道で38度線に南下した。21日に海軍に武装解除の通告、翌日に小銃弾薬等の明け渡し、23日に軍人全員を航空隊に集結。9月1、2日には軍人は徒歩と汽車で北に異動させられ、漣浦の飛行場に集結抑留されたが、労役などの状況は不明。

*軍、軍関係などの工場の機械、器具、材料などは、どんな微細なものも本国に輸送中で、この労役に多数の日本人が使役、その代償に少量の米が交付される。

*元山在留や北方から脱してきた邦人は約3万3千のほとんどが抑留生活中。

*朝鮮人は自由解放独立万歳を絶叫、町の各所に集団を組み、邦人は危険。邦人の家屋から金品を盗み、ソ連軍と共に家屋に侵入し貴重品、衣類、金員を強奪、引いては強姦に及ぶ。
裕福な家と見ると、日銀券と鮮銀券の交換を持ちかけつつ、その家の金員を物色、その夜に5、6人で強盗に押し入ったり、電気の検査と称して60ワット以上の電球は違反だとして金員を徴したり、「多種多様な方法を以て詐偽、竊盗、強盗等赤軍又鮮人よりの被害は次ぎ次ぎと免れ得ざる次第」という。かつての各工場幹部らは、朝鮮の従業員から金員を強要され、「朝鮮人を嬲り苦しめたとの故を以て」留置場に入れ、「鉄拳の報復手段及恐喝に民警隊を連行して邦人家庭に押入る状態」。

[北鮮 ④]
◇ ~関東軍報道部付属 宇田浅次氏談~
*北朝鮮に入る満州からの避難者約15万、従来の在留者約60万で、大陸戦災者救護委員会の11月8日までの救出は約6千人。餓え、寒さ、過労で日に数十名が死亡。安東では11月8日までに約3百人が死亡。

*集団収容中の邦人で「16~60歳までの女子は毎日交代割当にて慰安婦として要求。
之等婦人の80%は性病に罹20%は妊娠しあり」。

*強制労働は稲刈り、便所掃除、電車の清掃など。日給は1円50銭で、高物価で「如何ともし難し」。「正規中共軍は概ね軍紀厳正なるものゝ如し」。

◇ ~沼田林業 近村氏談~
*9月14日の収容 敦化(中国延辺の近く)の飛行場 8千名(家族)、2万名(日本軍)
パルプ工場 3千名(家族)暴行拉致で女子32名自殺す。小学校7百名

◇ ~小杉技手(10月25日 於平壌)~
*収容所 若松小、華頂寺、第一中、賑町料理店、在(近郊か) 計1万5千名

*疎開者の所持金は全部没収、1日2円の計算で10円くらいまとめて交付。疎開本部より独身者5百円、家族持ち(人数を問わず)1千円を交付。1ヵ月生活費百円は必要。寒冷期は2百円必要。玄米6キロ21円、みそ1貫10円、醤油1斤5円、塩1斤4円

*配給は雑穀混入の米(6割混入)7歳以上3百グラム、7歳以下2百グラム。労組に加入し「平壌労働組合」の腕章をつけて出動。男女とも主に清掃人夫で1円70銭、婦女子は主に電車除夫で2円50銭

*6百名中50名死亡。男子20名は拉致帰還せず。女子1名強姦、順安では3名。

◇ ~憲兵伍長 今野勝博氏報告~
*8月13日五叉溝を出発、17日ハマコウダ着、9月7日(日本)降伏を知る、その間ソロンで戦車3百台と交戦、参(謀)長は戦死、9月24~27日新京から奉天、安東へ、10月10日安東―義州―白馬―宣川―石根―南川―開城―京城(到着時不明)

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 以上が終戦直後に、政府機関によってまとめられた極秘文書の概要である。
 まず、戦争がもたらす「結果」から、戦争というものを考えたい。次回以降では、立場を変えつつ、戦争というものを小さく身近に、あるいは総体として大きく、見ていきたい。

 (「オルタ」編集委員、元朝日新聞政治部長)

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