【視点】

戦前の「日本政治」を見る在米学者の目

—朝河貫一生誕150 年に考えたいこと
羽原 清雅

 朝河貫一(1873-1948)が今年12月、生誕150年を迎える。ただ、この人物を知る人は多くない。生涯の3分の2を米国で暮らした歴史学者で、戦前の天皇制・軍事体制下にあって、その日本の動向を国際的な視野で見、当時の政治家、研究者らに日本政治や軍事体制、その取り組みや「非」なる部分を率直に指摘し、改革を鋭く求め続けた。
 いま、ウクライナや中国・台湾の緊張下で、外交よりも軍事強化に動き、世論の流れもその方向に追随しがちな日本にとって、戦前の歴史の過ちから学ぶことは少なくないようだ。

 *朝河貫一という人物 福島県二本松市出身。東京専門学校(現早大)を首席で卒業、勝海舟、大隈重信、徳富蘇峰らの援助で米国ダートマス、イエール大学に留学、教授に。学位論文「大化改新論」、12-17世紀に及ぶ「入来(いりき)文書」(鹿児島県)の研究で東西の中世期の比較に道を開き、「荘園研究」(遺稿)などで、国際的に知られる。日露戦争終結のポーツマス会議ではオブザーバーとして参加、その前後に「日露衝突」(英文)、「日本の禍機」(日本文・現在も公刊/現代語版も刊行)を執筆。また、日本の書籍収集の要請を受けて、米議会図書館に約4万5千冊、イエール大学に2万冊余の日本の書籍を整えた。
 74年の生涯で22歳の渡米後50余年の間に、帰国は2回、計3年8カ月のみ。だがその間、多くの書簡を国内の多方面に送り、国際的に見た日本の対外政策の狭隘さを指摘し続けた。その内容は、島国日本の国民性を見抜きつつ、往時の政治、外交に対する助言や忠告を伝えている。長い歴史の中の波乱の前後の書簡の一部を原文ないし要約で紹介したい。
 ちなみに、朝河の精神の土台には、戊辰戦争に敗れた会津藩士の理念が息づくといわれる。

 *伊藤博文 <元首相、当時初代韓国統監> 
≪日露戦争(1904,5)、ポーツマス講和会議、日比谷焼討事件、韓国統監府設置(1905)、南満州鉄道会社設置(1906)≫ 
 1906年5月 帝国憲法制定の関係資料の公開を要請した。「一般に世人を利するは勿論、欧米の比較政治学者法制学者を益すること莫大・・・之を湮滅せしむるは大遺憾」と書いた。
 ——維新期に尊王攘夷運動に参加、維新前に渡英、帝国憲法起草にあたって初代首相になり、3度の内閣を組織。韓国併合を強硬に進めて視察先のハルビンで韓国人安重根に暗殺される。翌年、韓国が併合された。なお、伊藤は1901年、イエール大学創立200年記念日の式典に出席、名誉法学博士号を受けている。

 *大隈重信 <首相> 
≪明治天皇没、憲政擁護運動高まり閥族政治攻撃高まる、中華民国成立(1912)、シーメンス事件追及、対ドイツに宣戦布告・第1次世界大戦、山東省青島占領(1914)、対華21ヵ条要求(1915)≫ 
 1915年5月 山東省青島にある膠州湾は1898年ドイツが清国から99年間の租借地として入手。1914年の第1次世界大戦時に日本はドイツに宣戦し、当地を日本軍が占領した。この地の返還を米英などが日本に強く要求、大戦終了後の22年のワシントン会議で一部の日本権益を残して返還することになる。だが、軍部はこの地にこだわり、田中義一内閣時の1927,8年には3度の「山東出兵」をし、蒋介石軍の北伐阻止をもくろみ、日中間の焦点の地になっていた。
 朝河は当初から、この地を中国に還付するよう強く進言。
「<英米をはじめ>世界全体の感情、輿論より擯斥<ひんせき=排斥>され、之が為に日本は道義的には文明列国と伍し難き恥辱的地位に陥るべく候」。「政府、此<国情分裂>傾向止めんとして益々中央集権となり、官僚的武断抑圧的となり、教育も亦益々形式的作為的となり、国民の自由の如きは政治上、思想上ともに退縮し、縦ひ表面は富強の外観ありとも、内実は単調、暗愚、傲慢の傀儡的国民となること、恰もドイツの如くなるべく候」。だが8日後、大隈首相は中華民国総統袁世凱に対華21ヵ条の要求を突きつけ、5月には最後通牒を出して屈服させた。
 その間も4月に「彼等<中華民国>の解し難きは、主として右<21ヵ条>の中一般的要求<武器、顧問、借款等に関するもの>が、果たして無期限ならば是れ日本が支那を永く束縛せんとするもの也といふに存し候」などの長文の書簡を送っている。
 最後通牒の直後には「更に大に日本の信用を害し候」として、あるべき日本の根本的大方針は①日本と支那の共利共進、②両国が平衡を得て、健全な競争的友邦となり、東洋が完全な独立主権を得る、③日支<日本と中華民国>の共進、東洋の自由により東西の関係を健全なものとし、初めて東西が刺激し合い、助成し合うようになること、と述べている。日支交渉は、当面は日支だが、真の目的は東洋対西洋にある、としている。
 ——朝河は35歳年長の大隈に、しかも渡米にあたって資金援助の縁を持ちながらも直言する。残された大隈への書簡は10通余と多い。この書簡はなかでも特に厳しいもので、この対華21ヵ条の要求はその後の対中国政策をゆがめ、長く尾を引いて大隈政治の大きな失政の扱いになった。朝河の進言は全く生かされなかったが、朝河の理念には今に通じる真摯な思いがある。大隈は日清戦争後、多くの中国留学生を早稲田大学に受け入れ、犬養毅らとともに孫文らの中華民国建国にも理解を見せたが、留学生の多くは次第に中国侵出策を進める政府の姿勢に怒り一斉に帰国、大学の受け入れ態勢も中断、大隈は一貫した姿勢を示せなかった。

 *三成重敬 <東京帝大史料編纂官>  
ロシア革命(1917)、シベリア出兵、米騒動(1918)、第1次世界大戦後のベルサイユ講和会議調印、韓国3・1運動、中国5・4運動、日本普選運動、小作・労働争議(1919)、大戦後の恐慌(1920)の時代》
 1920年4月 「(第1次世界大戦後の国際問題は)辛うじて表面だけ調和致し居候。英仏米伊日の五ヶ国は各々皆互に反目の状に在り。欧米諸国の内部には露国と関連せる経済的社会的問題切迫いたし居候。日本は米国あらゆる階級に不人望を極め居候。其の幾分は米国民の落度と誤解とに生じ候へども、先ず主として日本の態度と行為との旧式なるが為と存じ候。日本が支那朝鮮につき、また内地の社会教育につきて考ふる所は、もはや世間と共鳴せず、遥に前世界の響を有し候。」
 そのうえで、日本はロシアのシベリア拡張を防がないと東洋が危ないと思い、シベリアに出兵したが、かえってますますロシアの地盤を固くし、ロシア国民に<革命後の新勢力>を信頼させ、凝結させよう、この重要な回転期に由々しい間違いを重ねるだろう、とシベリア出兵の暴挙を酷評した。
 ——朝河の思いは、この問題でも犬の遠吠えに終わる。帝政を崩した民衆のロシア革命を、共産主義を嫌いながらも、その先々の定着を読み、受け入れている。

大久保利武 <利通の3男、イエール大卒、内務官僚>
 《張作霖爆殺、3・15事件など共産党弾圧、治安維持法改定(1928)、労農党代議士山本宣治刺殺、世界大恐慌(1929)、ロンドン海軍軍縮条約調印、浜口雄幸首相襲撃、昭和恐慌激化(1930)、満州事変、軍や右翼の3月、10月事件未遂(1931)》
 1932年2月 満州事変について「最初より日本の宣言したる在住日本人の保護の為のみとは誰も観ず、・・・日本が満州を地域的に併合する目的也と考へ候。・・・張学良の政権を駆逐して、日本の莫大の利権を得る下心也と思ふに至り候。」
 「もはや日本は文明国の伍(=隊伍)を外れ、籍を失したる観あり、野蛮人が文明利器を使ふにすぎざるものと見られ」「日本の当局が、凡ての行動は戦闘にあらず防御なり警備也と申居候ことは、・・・真面目に受くるものなかりし様に候。あまり浅膚、あまり強面、あまり拙陋、究屈(=窮屈)の法理的自家弁護と一般に考へ、且つは呆れ果て候と見へ候。上海の事起るに及びては猶更の事にて、今は日本すら警察行為也と主張するの難事なるを感ずべく候。・・・猶、問ふべきは、此口実、此理由にて、他人の国にて兵力を用ひて流血、殺傷し、財産を破壊し、多人を流離せしむることは、その事実が極大の罪業ならずや。・・・かゝる行動を仮容せば世は暗黒となり、暴力の支配に帰すべきにあらずや。」
 「今度の日本の根本の誤は、日支間の難局を兵力にて一気に解決し得べきものと思ひしことにありと存候。こは甚しき暗愚の迷走と存候。兵力は・・・畢竟暴力に外ならず。・・・兵力にて隣人を傷け、拭ふべからざる侮辱を加へて之が敵意を激成するの不利は百倍に候はずや。」
 「支那は巨大な民口と富源とを有し将来偉大の国となり得べきもの也。此度の上海防戦より見るも、大なる兵力を築成し得る素質なきにあらず。之を激怒せしめて極東の平和や日今日支の親善を得んことは思ひもよらず、却て之を危くするの種子を確実に蒔くものと存候。この目的の理を日本人は考量せず候や。」
 「往年ロシアに対し候時と比して、日本の目的の高卑、主張の公私、説明の緊密と粗慢、列国の同情と憎悪、日本の国運及民心に対する影響の善悪、いづれも莫大の差あり。公平に外国より観候へば、日本は往年の自制を暫く忘れて私曲(=不正手段で私利を計る)と等しき悪冒険を試み、国家百年の長計を害したる如く見へ候。」 
 ——朝河がこのように、中国将来の発展の可能性を認め、軍事力・暴力の非を強調したのはほぼ90年前のこと。相互共進を目指す外交の透徹した姿勢は、今日の政情にこそ再考すべきではあるまいか。
 発展の遅れた隣国中国と親しく共進の道を行くか、あるいは弱みに付け込み、その豊かな領土を武力で手に入れるか、まさに180度異なる国際情勢の読み取り方が、日本を歪めていった。日本の短視的な姿勢が戦前の日本の主流にあって、国民はそれに判断を下す力はなく、単一的な国家信奉の教育、言論の圧迫や強制もあって、権力に言いなりになる習性が培われた。

徳富蘇峰< 著述家、思想家> 
 ≪満州事変(1931)、第1次上海事件、井上準之助、団琢磨射殺、満州国建国宣言と承認、満州事変のリットン調査団来日、5・15事件で犬養毅首相銃殺(1932)、国際連盟脱退、京大滝川幸辰教授事件、ヒトラー政権樹立(1933)≫
 1933年9月 「失礼ながら表言<=表現>せらるゝまゝにては、幾多の矛盾あり、大なる不自然あり。・・・御深憂の余、過敏危害の反動勢力にあまり御貢献被遊候ことは、却て将来の日本の禍を招く果を生ずまじく候や。御高明に対し、小生理会<=理解>に苦しみ、且は微衷苦痛を感じ候。・・・今日日本軍部の政綱は、日本史の指す方向にありと申すべき意義は遥に乏しく、むしろ之に背馳する或外国流儀の日本化と申すべく候。之を皇国の政綱なりと申候は僭越、偽善の極と存じ候。畢竟、その根本は、某国の某時の行為の模倣に過ぎず。・・・主義は忠誠ならず、手段は極度の陋劣に候。かゝることを為し候て、将来如何なる感化を日本人に与ふべく候や。」
 「皇国主義にて危険思想に対すといひつゝ、実は何よりも優れたる危険思想の奨励に候
 はずや。危険思潮は今後甚しきものなるべく候。而して、そは本来の国難の最大なるものにはあらず、さらに根本的の禍を今日軍部は蒔き居候。小生只々真に日本らしき精神の反省が進み候て、真に日本的の政綱を以て指導する人の出でんことをのみ祈居候。」
 ——朝河は10歳年長の蘇峰とは青年時代から交流があり、渡航費も援助してもらった。だが、朝河は大隈に対すると同様に、蘇峰にも忌憚のない書簡を送る。だが、蘇峰宛の14通の書簡の、これが決別のものになる。蘇峰は長く皇国主義の立場から軍国礼賛の理論的支柱として政府等に影響をもたらしていた。彼の国家主義思想の危険性を正面から批判したわけで、それは終戦の12年前だった。
 蘇峰の思想的変転は激しい。明治維新前は尊王攘夷論支持、明治初期は自由民権論、その後は政府・軍部に密着し、それぞれ世論の形成に大きな影響を与えた人物。三国干渉(1895年)の際は「角なき牛、爪なき鷹、嘴なき鶴、掌なき熊」と政府を批判。その後、欧米を歴訪し帰国すると内務省勅任参事官となり、政府批判を緩める。日露戦争後の講和条約調印(1905年)時には世論の反対論に抗して政府側に立ち、日比谷焼打事件の際には自らの国民新聞社を襲撃される。明治天皇死去後、護憲運動の高まるなか、桂太郎首相の立憲同志会結成時(1913年)にはその創立趣意草案を書く。満州事変(1931年)のころから皇室中心主義、ナショナリズムの立場を鮮明にして軍部に接近、日独伊三国同盟の締結を近衛首相に建白、翌年の太平洋戦争開戦の詔勅についても東条首相の依頼で添削している。一方、戦争支持の旗を振る日本文学報国会、大日本言論報国会の会長となる(1942年)。東条内閣のもとでは文化勲章を得た。
 このような人物が言論界の中心にあって、政府、軍部などの世論操作に関わる時代だった。
  
 *村田勤 <キリスト教社会運動家> 
≪満州国帝政化、ワシントン海軍軍縮条約破棄を通告、(1934)、美濃部達吉の天皇機関説問題化、衆院で国体明徴決議案可決(1935)、ロンドン軍縮会議脱退を通告、2・26事件で高橋是清・斎藤実を殺害(1936)、第1次近衛内閣成立、盧溝橋事件で日中戦争開始、第2次上海事変、国民精神総動員計画発表、日独伊防共協定、南京占領(1937)、国民政府相手にせず、と政府声明、国家総動員法公布、東亜新秩序建設の近衛声明(1938)、ノモンハン事件、国民徴用令、独ソ不可侵条約、ドイツのポーランド侵入で第2次世界大戦に、日米通商条約廃棄を米国通告(1939)≫
 1939年10月 「ヒトラーは今日の世界の不幸の直接、中心唯一の源であり、その来るべき彼の悲劇は自ら招くところであるに相違ありません。・・・自暴自棄の終幕を演じて自国を破滅し他民を殺す罪人として、遂には恥辱窮りなき屈服となり、自殺でも試み得るのみではありますまいか。」
 ——ヒトラーの自殺は、ソ連軍のベルリン占領直前の1945年4月のこと。朝河は4年半以上前 に予言したことになる。
 ちなみに、朝河の村田宛の1941年1月の書簡を見ると、朝河はイタリア、ドイツ、日本の敗戦を予言している。イタリアは1943年9月に枢軸国から離脱、ムソリー二は一時ドイツ軍に救出されるが、11月に連合軍に無条件降伏、ムソリーニは45年4月に処刑、死体をさらされる。ヒトラーは1945年4月末に自殺 、ドイツは5月に降伏している。日本は沖縄戦、広島、長崎の被爆などで多大な被害を出した後の8月15日に終戦を迎えた。

 *井上秀 <日本女子大校長、コロンビア大出身、家政学者> 
《第2次近衛内閣成立、日本軍の北部仏印進駐、日独伊3国同盟締結、大政翼賛会締結、汪兆銘の南京政府成立(1940)》
 1940年1月 「当<米>国では、日本の支那における行為は全国上下一様に極度の悪評判です。その理由は誰にも見易い事実=日本軍が支那に侵入して、支那軍が日本に行って居らぬこと、支那の非戦闘人員が多数殺されたこと、の二つでありますから、米人の誤解といふことが出来ません。・・・元来米政府が片方的に通商条約<1939年>を破棄した行為は、他国に関してならば必ず民間の反対するべき性質のもので、日本に関し之も亦心中には反対の人も多くありますが、日本の支那における支那人と米国商業とに対する妨害に呆れるの余り、誰とて反対を明言するものなく、却って当国官民一般の感情のoutrage<侮辱>されたことの一表現として賛成して居る模様です。」
 「此度の戦後の世界の大勢が如何なる方角に向かふべきかは明白なことゝ信じますゆえ(此前の戦<第1次世界大戦>とは全く性質と目的とを異にする此度の戦の後には、国内の自由、自治と、国際の信義とが少なからざる進境を見るだろうと信ずる故に)、今回不理会<=不理解>の政策は、後日世の趨勢に背馳する頑狭・貧弱の八方塞がる国となるの基を作ることゝ思ひます。日本に取っては、かような理会は、従来数年間の自縄自縛的の究<=窮>屈な心では出来ざることにて、局外から自分を第三者として観て大悟して始めて可能のことと思ひます。此度如何に汪氏<日本の傀儡的汪兆銘南京政府>の新政府と協約しても、かくて立得べき<近衛首相の言う>『新秩序』なるものは、同じく右の窮屈心の産物で、久しく恃むに足らざること勿論だと存じます。」
 ——日中戦争から第2次世界大戦へと戦線は広がり、日本は配給切符制の導入、日米通商条約の破棄などにより緊縮生活を迫られ、追い詰められるなかで、急ピッチに戦線を拡大していく。間もなく真珠湾奇襲攻撃にもなる。日本軍の大陸での信義にもとる行動が世界に知らされるなかで、米国在住の朝河は日本の誤った進路を察知、なんとか世界から見る客観的な「日本観」を広げようと試み、単一的で狭隘、かつ天皇制を信奉し、軍部と政府に思考を停止させられた盲目的な日本人に知らせようと努力を重ねる。

 *鳩山一郎 <政友会代議士、戦後に首相> 《前項と同時期》
 1940年1月 「(なぜ支那を屈服できず将来の危険を増したか、なぜたびたび政府が変わり小人物が出てくるのか、なぜ不安な対ロシア関係、利害関係の疎いドイツと国運を結ぼうとし、国運のつながる米英を敵としたか、これら10年前には思いもしなかった国難は誰の過失か、と提起した上で)もし満州事変以来の態度を継続して行かば、外交は勿論、内国の政治、経済、社会は如何に成り行くべき順序なるべきか。又もし従来の行き方に根本的の誤が在りし故に、今日及向後の危地に陥ったならば、如何にせば之より脱け光明に向ひ得べきか。かかる巨大の問題を控へながら、かの極度に作為的で前途の難の透見し得らるゝ『新秩序』なるものをだに成就し得ば、幸運が開かれる様に思って居る事は驚くべき現象であります。ドイツも『新秩序』建設を試みて今日の処に来たりました。是亦不自然、究<=窮>屈に自分だけの理屈で押し行こうとしたので、その心理的影響及び言語、行動の細点に至るまで、日本数年来のと自然に著しく符合して居ります。」
 ——鳩山は、田中義一首相時代に内閣書記官長に起用され、そのあと政友会総裁となった田中のもとで幹事長を務め、第2次若槻内閣打倒を山本悌二郎、森格、軍部の東条英機、今村均、永田鉄山らと策した。また、ロンドン海軍軍縮条約問題で天皇の統帥権干犯だとして、犬養毅らとともに浜口内閣を追い詰めた。犬養、斎藤内閣の文相を務めた鳩山は、京大の滝川幸辰教授を休職とし、言論封殺の一端を担った。翼賛選挙では非推薦で当選、東条を批判するなどした。
 こうした人物に書簡を出したのは、鳩山がイェール大学会会長だったためと思われる。

 *G・G・クラーク <ダートマス大時代の同級生> 《前項と同時期》
 1940年12月 「あなたの言われる通り、戦争は人間の本性の醜い方の面をますます暴きつつあると私も思いますが、それはまるで理性と道徳心の抑制力の喪失による疾病がさらに広範に蔓延しつつあるかのようです。・・・私が思うには、それらの原因以外に、戦争そのものが人間の劣等化の萌芽を育み、それが交戦国だけではなくて、もっと弱い近隣国にも感染していくのです。」

 *金子堅太郎 <帝国憲法起草、第3次伊藤博文内閣農商務相、第4次同 司法相>
《日ソ中立条約締結、日米交渉開始、独ソ戦開始、第3次近衛内閣成立、米英が日本資産凍結を通告、南部仏印進駐、10月下旬めどに対米英蘭戦争準備完成を決定、東条内閣成立、真珠湾攻撃し、対英米蘭に宣戦布告、太平洋戦争開始(1941)》
 1941年10月 「日本国外の公平なる誰の眼より観候ても、従来の日本の方針は根本上、不公・不正・卑怯・短視にして、日本国史の精神と世界の明白なる趨向とに逆行致居候。此方針を固持する以上は、如何に妥協し譲歩しても根底の病毒を療治する効なく、たとへ之によりて僥倖にして一時英米と部分的折り合ひ得ることありとも、彼等も他の何国も所謂同盟国さえも日本に対する疑惑を保つべく候間、中心問題は聊かも解決に向はずして残存し、
後日の国禍の根となるべく候。真に卑劣ならず、根本的に禍害を除去せんとば、唯一の法は積極に開悟的地位に復帰するにあり。即ち翻然一大回転を為して再び霊眼を開き、維新前後の慶喜以下聡明の諸侯及び志士の取りたる『公明正大』を方針とするにあり。彼の時とは環境相異り候へば、方針の形も亦異ならざるを得ず。」
 そのうえで、朝河は具体的な「積極公正方針」として、6点を挙げる。
 ①支那にある日本軍を解いて征服地を変換、
 ②日独伊三国同盟を破棄して、その正理を明らかにし、独伊に断言、
 ③法を改正して軍務と政務を分け、
 ④ドイツに対戦する諸国に、日本の地位上できるだけの援助をし、
 ⑤民心と教育とを解放し、
 ⑥世界と自由に、知見と物資とを交換すること 。

 「実施は一歩一歩ならんとも、全体の方針は恰も維新の如くに大綱を悉く予め<ことごとくあらかじめ>樹立して、公明に国民と世界とに宣誓するを要し候。而して後に深く国民の誠心に信頼を置きて、国民と共に著々綱目を実行するを要し候。さらば日本の美なる愛すべき民心は鼓舞して協力すべく、又隣邦遠国は一朝にして友僚と化すべく候。是れ具体的にこそ当代的なれ、精神は五条詔諭と憲法発布との時と同一にして、又実に大化<改新>及び神武建国の精神に立帰るに外ならず候。」
 ——朝河はこのように論理性を重んじつつ、理想を掲げる。往時の日本の実情からすれば夢物語だろうが、彼は真剣である。金子という明治憲法を起草した人物だからこそ、の思いがあったものか。1ヵ月後には重ねて書簡を送っている。
 金子はハーバード大学のロースクールに学んだ知米派のひとり。日露戦争時には米国側での外交工作に当たっており、朝河の狙いはそこにあったのだろう。ただ、書簡を受けて約半年後に亡くなっている。89歳だった。

 *アーヴィング・フィッシャー <イエール大教授 計量経済学者>
 《 マニラ、シンガポール占領、翼賛選挙、ミッドウエー海戦で日本軍転機(1942)、ガダルカナル、アッツ島敗退、イタリア無条件降伏、学徒動員、カイロ宣言(1943)、マリアナ沖海戦、サイパン島全滅、東条内閣総辞職(1944)、沖縄戦、ポツダム宣言、広島・長崎に原爆投下、ソ連対日宣戦布告、ポツダム宣言受託(1945終戦まで)》
 1944年10月のフィシャーへの書簡で、朝河は日本の戦後改革について述べている。朝河は、対日戦の終了後について、①日本が直面する事態をどの程度深く理解しているか、②日本の戦後の自己変革について国民の意見・行動を指導する人材が登場するか、を重視し、その歴史的根拠を述べている。
 ひとつは、当時の状況として、日本の指導者が国家を恐ろしい破滅へ導いていることに、曖昧模糊ながらも国民は気付き始めており、東条から小磯への政権交代があり、それが示している。ただ、「国民の政治的思考能力が悲しいまでに未発達」なので、強力な指導者が必要であり、それが潜在的原動力になる。また、武力で接収した中国での土地や資源を維持したい思惑もあろう。
 そこで、言論と行動の両面で指導力が問題になる。「質さえ問わなければ国内にも人材は豊富にお」るが、こうした人々の登場は固く閉ざされている。「決死の覚悟を以て公権力と対立してでも、人民の正当な権利に関する自分自身の明確な政治的信条を守ることこそが愛国者の義務である」というような理想の伝統は、日本の現実には存在していない。国民は「あまりにも妥協的で調和を追求しすぎる面」があり、「一種の個人主義ですが、しかし自由主義的なわけでもなければ、練達で強固な個人主義者というのでもない」「社会的には柔和な存在であり、美学的には調和を求め、政治的には『果敢さ』に欠ける」と見抜く。
 そこで、「より重要なのは指導力」とするわけだ。「自分の国を誇示し、斬新かつ合理的な方向へ確固たる決意で突進する能力では・・・賞賛に値する」と皮肉を込めつつ指摘するが、「重大な危機と偉大な指導者が到来しない限り、この国は活性化しない」と述べる。
 そこで、朝河は天皇の存在を重視する。「主権者である天皇から与えられる認可と実直な支持はすべての反対勢力を沈黙させる」。天皇の特異の地位について「天皇の主権の絶対性は認められながらも、」「歴史的にも、また慣習的にも、・・・専制君主ではない」「彼は顧問官たちの進言を待ち、正式に設定された国家の機関を通じてのみ行動する」と天皇支持の立場を強調する。
 「徳のある支配者による統治時代であれ、悪徳支配者による統治時代であれ、国家は天皇を共通の父とする巨大な家父長的共同体である」。
また、「改革を伴わない単なる降伏は不毛なものですが、戦争終結後に行われる徹底した改革がいかなるものであっても、・・・天皇の是認と支持が必要になると確信しています。」と述べている。

——だが、軍国日本の現実が天皇の耳に届いていたか。
 天皇の握る最大の権力を利用して、軍部や政府の官僚らは軍事力の拡大を策し、政府の方針を黙殺して戦争の引き金を引き、ときに天皇への国際情勢や現状などの報告について事実を踏まえず偽造・虚偽などを交えていた。在米期間が長く、言論統制の徹底した日常的な社会情勢に触れる機会がなく、天皇をめぐる権力者ら周辺のうごめきを知りえなかった朝河の理想的天皇像のもろさが垣間見られよう。そこは、清沢洌らの知米派ジャーナリストの眼とは異なるところだ。
 ただ終戦後に、天皇制を認め、残すかどうか、という最大の課題について、連合軍をはじめ米国などが天皇のもとでの統治能力を容認し、受け入れたことは、朝河らの熱心な発言が生かされたからかもしれない。

 書簡の最後に「国内に関しては、国家の基本法・国会・地方行政・国民の教育方法を、やはり啓明的な精神で作り直すことです。日本国は、このような一大再生事業を行えるだけの能力を十分にもっています。・・・精神的弛緩さえ生じなければ、その他の事柄も順を追って改革され、絶え間なく前進していくでしょう。」と結んでいる。

G・G・クラーク <前述> 
《東久邇宮内閣成立、降伏文書調印、陸海軍・特高警察・治安維持法など廃止、国家と神道分離、修身などの授業停止、政党相次ぎ結成、婦人参政権・労働組合・農地解放(1945)、天皇人間宣言、軍人らの公職追放、男女平等の総選挙、農地解放、極東軍事裁判開廷、吉田内閣成立、労組組織結成、財閥解体、日本国憲法公布(1946)》
 1946年9月 終戦を迎え、近衛首相自害後の大学時代の同級生への書簡。「陸軍のますます増長する傲慢さに対抗する哀れな若い天皇」、「歴史の変化に対する犠牲者の一人」の近衛、と書く。「不幸にも連合国の占領軍は、戦時政府に連座したすべての人々を無差別に追放してしまい、かくして新たな再建にきわめて有用であったろうと思われる何人かの人たちの公民権を剝奪」など、米軍の戦後処理に批判をのぞかせた。

村田 勤 <前述> 
マッカーサー元帥が2・1スト中止声明、統一地方選挙、教育基本法・労働基準法・独占禁止法、地方自治法など公布、第1回参院選、新憲法施行(1947)、ベルリン封鎖、大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国成立、極東国際軍事裁判所が25戦犯に有罪判決、岸信介・児玉誉士夫らA級戦犯容疑者19人釈放(1948)》
 1947年11月 これは戦後の日本再建についての朝河の姿勢である。
 「日本人の特色は妥協の一事にあり。数人相集まれば常に独立単行を主張せずして、何かの協調を発見します。是亦、善悪両面あり。前記の回悟反省は、むしろ善き方向の発露ですが、他方には道々もすれば、強力野心にして他を控制するものに合同することあるを免がれず。軍部の行動を憎みながら之に反抗せずして、之に駆逐さるゝを却けなかったが如きは其例でありませう。・・・右の如き性格民族には、同時に両面があります故、将来の事は決して偏に安心すること能わず。・・・故に光明と暗黒との交錯を覚悟しつゝ、独立独行の経験を以て一を淘汰し他を長養し行くの外には健全の途あらざるべしと信じます。されば米人にのみ久しくすがることは、日本の発達を妨げるの患あるのみならず、マッカーサー自身も、奥底まで理会<=理解>し難き日本人に何時までも関係し居るを好まず、可成早く平和条約を完了して手を引き、自国に還りたいと想って居るらしい様子です。」
——つまり、日本人は事に当たると妥協しがちで、それにはいい面もあるが、独立独歩で決断して一方を排し、別の道・策を進む方が健全だ、米国にいつまでもすがっていては日本の発展を妨げるし、マッカーサーも日本にいつまでも関わりたくはない、と朝河は言いたいのだ。

<不発に終わった米大統領の天皇への親書>
 1937年7月、盧溝橋事件を機に日中戦争が始まり、戦闘は次第に泥沼化し、戦線は大陸から仏印の北部から南部へと「転進」する。そうこうするうち、41年9月の御前会議は、10月下旬に向けて対米英蘭3国との戦争準備の方針を決め、内閣が近衛から東条に変わってすぐ、12月には真珠湾奇襲をもって太平洋戦争に突入した。
 朝河はその直前の11月、日本が①人事の更迭 ②180度の方向転換、③迅速の措置、をとり、政治と軍部を法改正により分離し、思い切って中国から撤退することで、最悪の事態を回避すべきだ、と思いきる。その実行には、天皇の勅令以外にない、と思い詰める。
 この案は、朝河と30年来の親友であるハーバード大を卒業後にボストン美術館から日本に留学、岡倉天心に師事したラングドン・ウォーナーとの交流から「ルーズベルト大統領から天皇宛に親書を送ったら」という話になったようだ。かつてペリー提督がフィルモア大統領の親書を届けたことから思いついたという(11月19日付朝河書簡)。
 親書の草案は11月23日に書き上げられ、ウォーナーがホワイトハウスや国務省などを走り回った。ただ、大統領側も10月には親書送付に動いていた。その内容は当然厳しいもので、11月26日、国務長官ハルの名で届けられた。内容は、日本の中国・仏印からの無条件即時撤退、蒋介石政権以外の中国政権の否認、日独伊三国同盟の実質的無力化などの強硬なものだった。日本側はこれを最後通牒と見て対米開戦に踏み切った。すでに12月3日には択捉島ヒトカップ湾に、真珠湾に向かう機動部隊が集結の予定だったのだ。
 結論を急ごう。日米とも緊急事態に時間を争う状況にあった。大統領の天皇宛親書は朝河の意向も踏まえつつ、確かに打電されたが、その内容は朝河の用意したものとはかなり違った厳しい内容だった。
 だが、12月8日午前3時25分(ワシントン7日午後1時25分)、真珠湾の攻撃が始まっていた。朝河の苦心は水の泡に終わった。

<朝河の戦後>
 朝河は戦争終結のあと、1948(昭和23)年8月11日心臓マヒで死去した。74歳。終戦から3年間を生きたが、3回目の日本の土を踏むことはなく、混迷を続け、物心ともに苦境の日本を目にすることはなかった。
 降伏後の日本の民主主義改革については、上記した村田勤への書簡以外にはとくにないと言われる。彼は、予測した戦後と現実の戦後について、日本の新聞を通じてどのように見ていたのだろうか。また、78年後の今、彼の目に映る民主主義をうたう政治の状況、あるいはウクライナや台湾をめぐる緊張下に進められる軍事増強の姿をどう見るのだろうか。朝河の掲げる民主主義の理想は、時代の変容、制約もあり一概には可否を言えないが、その基本は学び、踏まえるべき点が多い。
             
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 <稿中の書簡は「朝河貫一書簡集」(早稲田大学出版部刊)による。ほかに補強のため「最後の『日本人』」(阿部善雄著・岩波書店)、「朝河貫一論」(山内晴子著・早稲田大学出版部刊)を使わせて頂いた。>
                 (元朝日新聞政治部長)

(2023.9.20)
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