【沖縄の地鳴り】

戦前・沖縄での「不敬罪」の波紋

羽原 清雅

 戦前、天皇、皇室、神社などに対する否定、批判、嘲笑などは「不敬罪」として、死刑、懲役、禁固などの刑罰のほかに、免職、辞職、けん責、あるいは発禁といった刑事罰や身分上の不利益処分などを受けることがあった。さらに、この法規が政治的、思想的な取り締まり、たとえばキリスト教や左翼的思想などの弾圧などに使われる歴史もあった。
 教育面でも、その権力の恣意的な使われようは少なくなかった。「教育勅語」「御真影」などの内容がらみだけではなく、焼失、損壊、紛失といった扱いも不敬罪の対象になっていた。法規法律上だけでは済まされず、その責任を問われた結果、刑罰以上の自殺といった行為も認められた。

 小股憲明大阪府立大教授の書かれた『明治期における不敬事件の研究』によると、明治期だけでも不敬罪事件とそれにかかわりのある事例は241件あったとされる。この著作を使わせてもらいつつ、沖縄の2件について紹介したい。
 「愛国」「天皇」「国体」といった戦前の理念について、本土と沖縄における格差、本土側の対沖縄の認識を知ることができよう。

 佐敷小学校長の処分問題 当時の島尻郡、今は南城市にある佐敷小学校。本島南端に位置する、創立140年にもなろうとする学校である。110年前の1910(明治43)年11月7日夜11時過ぎ、火災が発生して全焼した。宿直の教師が御真影室に駆けつけるが、すでに火の海になっているうえ、二重カギの扉で、カギは校長が保管、斧で扉を壊して持ち出そうとしたものの、結局御真影と教育勅語謄本、戊申詔書謄本を焼失した。
 25日、本山万吉校長は平常の注意、監督の不行届き、東恩納盛愁先生も職務尽くさず、として免職処分になった。当時の沖縄の学校長は、ほとんどが本土の人で、県出身者は数えるほどだったという。『沖縄事始め・世相史事典』によると、民俗学者伊波普猷による沖縄郷土史研究者の比嘉春潮の回想によると、「校長がもし沖縄の人間だったら切腹しろといわんばかりの処分だったろう」といった、という。
 たしかに、御真影を火災で失った学校長、小使いらが焼死、あるいは自殺した事例などもあった。

 この事件について小股教授は「校長の免職は、本書中ではこの事件がはじめてである。この違いは、本土に比して沖縄県における方が、忠君のアリバイ証明がより強く求められていた結果であり、近代において沖縄県が強いられた困難な状況の反映ではないか」と推測している。
 これをどう考えたらいいか。「死ぬことがなくって、よかった」でいいのか。「嘘も方便、で済まされるのか」と惑う国民は死ではなく、読むことで実感ある対応をお願いしたい。

 河上肇の舌禍問題 京都大学助教授の河上肇が、沖縄訪問時の講演で、沖縄の置かれた状況を踏まえての発言が、逆に忠君愛国を鼓舞する当時の沖縄サイドから攻撃を受けるという事例だった。これは、不敬罪に問われることはなかったが、時代がもう少し後であったら、当然検挙の対象になっていたに違いない。
 むしろ、当時の沖縄の窮状を理解し、その立場からの講演内容だった。
 彼は1911(明治44)年4月3日、沖縄県教育会主催のもと、那覇市松山小学校で「新時代来る」の講演をした。そのなかで、沖縄県民が忠君愛国の念に乏しいというのは決して歎ずべきことではない、との趣旨を話した。
 誤解の無いようもう少し琉球新報の記事を引用してみよう。

 「沖縄は言語、風俗、習慣、信仰、思想其他あらゆる点に於て、内地と其歴史を異にするが如し。而して或は本県人を以て忠君愛国の思想に乏しと云ふ。然れどもこは決して歎ず可きことにあらず。・・・・・今日の如く世界に於て最も国家心の盛なる日本の一部に於て、国家心の多少薄弱なる地方の存するは、最も興味ある事に属す。・・・・・時代を支配する偉人は、多くは国家的結合の薄弱なる所より生ずるの例にて、基督<キリスト>の猶太<ユダヤ>における、釈迦の印度<インド>に於ける何れも亡国が生み出したる千古の偉人にあらずや。若し猶太、印度にして亡国にあらずんば、彼等は遂に生まれざるなり。仮令ひ<たとえ>本県に忠君愛国の思想は薄弱なりとするも、現に新人物を要する時代に於て、余は本県人士の中より他日新時代を支配する偉人豪傑の起らん事を深く期待し、且つ之に対して特に多大の興味を感ぜずんばあらざるなり。」

 しかし、当時のメディア、県のリーダー格の人たちは違った。
 同じ日に掲載された琉球新報<4月5日付>は、①本県民を指して忠君愛国の誠に欠ける云々 ②ユダヤ、インドの亡国民の其の如くに評下し ③面上三斗の痰を吐き懸けられた如き感、と評した。
 さらに、河上が別の講演に立つことになると、同紙の論説は「非国民的精神の鼓吹者」が再び講演するとして、「本県民の国民道徳に欠けたるを云々し、実に容赦はならぬ大々的侮辱を加はえ・・・・・恐るべき非国民的精神の発揚を鼓吹したるにあらずや」と攻撃した。

 面白いのは、沖縄毎日新聞。「県民は之の評語を聞き、恐縮と憤慨に絶へないのである。寧ろ一歩を進めて、彼と格闘せん計りであろう。」と批判したが、2日後には「琉球人は、小なる国家的観念より超脱し、忠君愛国てふ<という>狭隘なる家より進みて、真個国家の理想たる世界平和の理想に達せむとするは、天与の使命たらずや。」と支持の論調に変る。
 「河上肇先生は・・・・愚陋頑迷な一部少数県民の不徹底的誤解に迷惑を感じつつも、猶憐れ」みの念禁じ難くして去られた。」として、その後河上の講演や彼の書いた「日本独特の国家主義」などを連載した。

 小股教授の研究によって、大田昌秀が『沖縄県史』に書いた両紙の性格を紹介しておこう。琉球新報は1893(明治26)年創刊の沖縄最初の新聞で、尚家中心の首里の旧支配層の新聞、片や後発の沖縄毎日新聞は1908(同41)年に創刊され、首里の支配層と利害を異にする那覇や郡部の有力者を代表する対立的な関係にあった、という。それはそれとしても、当時の沖縄のせめぎ合う社会風潮を明確に示している点が注目されよう。

 この河上発言は、とくに不敬罪に問われることにはならなかった。河上はその後、ベストセラーになった『貧乏物語』を書き、マルクス経済学を研究、左翼運動に加わる。とくに厳しく追及され、投獄に至るのは京大を追われ<1928年>、大山郁夫らと新労農党を結成<29年>、さらに共産党に入党<32年>、翌年に検挙されて懲役5年の判決を受けてからだった。
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 天皇制に名を借りて、国家を動かす権力者、官僚、それに軍部、その権威のもとに甘い汁に群がろうとする財閥や大手業者などは、普通の人々の世論や民意をひとつにまとめたがる。支配しやすくするためだ。多様な考え方が育っていなかった時代には国民を束ねやすく、ひとつの考え方が正しく、比較や批判や異論を唱える者は邪魔だった。そうした世論などが高まらないよう、さまざまな思想統制、行動規制が立法化され、思考することにカセをはめてきた。
 それがいいのだ、異論はいけない、お上に逆らう者は拘束されて当然、といった常識がまかり通る時代が長く続いた。

 そして、やっと戦後の憲法のもとに、多様な考え方が広がるようになり、その正邪をそれぞれの人々が論議して、一定の納得のもとに結論に従うという民主主義の社会が生まれた。自由と民主の第一歩であるマグナカルタが生まれて800年、先進国が長い時間と多くの血と汗を流し、反省を繰り返しながら、一歩ずつ蓄積してきた民主主義だが、この日本を思えばまだわずかに100年にも至っていない。

 戦前の沖縄は、本土以上の過酷な状況を経て、今日を迎えた。上記した佐敷小学校の事実は、野放しの「権力」の振る舞いに翻弄された実相である。普通の人々がどう考えているか、納得できるかどうか、ではなく、権力の振る舞いを、ただただ受け入れている支配下の姿である。
 では、今はどうか。「代替」と言いながら返還なしの新基地の増殖、手直しの努力もなされないでいる「権力」の姿は、将来の歴史から見ると、戦前と同様に差別の姿勢を一向に変えない沖縄支配だ、と映るのではないか。底の浅い民主主義、変わらない「権力」の手法、といずれ思うようになるのではないか。

 河上肇の弁舌を、ふたつのメディアは両極に対立してとらえた。しかも、おのれの背後関係で、活字による扇動に走った。メディアのあるべき姿勢ではない。
 今日の沖縄に移して見るなら、米軍駐留容認派と反対派、日米同盟維持・忍耐派と対立・抗戦派の両派の論争になぞられるのだろうか。メディアが民主主義のルールにのっとり、多様な意見を紹介しつつ、長期的な姿勢をとり続けていることが救いだ。

 いずれかのメディアがもし、足場の利害に走り、長期的で、且つあるべき姿勢、つまり沖縄の将来が好戦的な舞台にならず、国際的な和平と県民の安寧を守り続ける立場を放棄する方向に進んでいたら、どうなっていくのか。本土の「権力」に唯々諾々と追従していったらどうなるのか。
 そのようなことを考えさせられる河上発言の取り上げ方だった。長い距離の先を見、広い世界のあるべき姿を見抜けるメディアであってほしい。

 (元朝日新聞政治部長)

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