【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

戦闘宣言したミャンマー民主派が共闘を求める少数民族武装組織とは

荒木 重雄

 国軍がクーデターで権力を奪ったミャンマーで、民主派勢力が樹立した「統一政府」(NUG)が国軍への戦闘開始を宣言してから、一月半がたつ。
 統一政府はすでに5月、自衛のための武装組織「国民防衛隊」(PDF)の設立に言及していたが、国軍の弾圧による市民の死者が1,000人を超えた9月7日、ドゥワラシラー副大統領が動画で演説し、「国軍が人々を脅し、逮捕し、殺害するなどの非人道的な戦争犯罪を行なっている」として、「人々を守るための戦いを始める」と宣言し、少数民族の武装組織や、クーデターに反発した市民が各地に立ち上げた武装組織に、「直ちに国軍を攻撃せよ」と呼びかけた。

 以来、国軍の部隊への待ち伏せ攻撃や、国軍系施設の爆破や、国軍協力者・密告者(ダラン)の殺害などが散発的に行われ、それに報復する国軍による少数民族地域への攻撃などが繰り返されている。

 ここで重要なのが少数民族の存在である。統一政府が頼りにするのは少数民族武装組織の戦闘力であり、また、民主化を志す若者たちが戦闘技術の習得を求めて赴くのも少数民族武装組織だからである。

 ◆ 現代史が醸した民族分断

 ミャンマーの人口の約70%は仏教徒が多いビルマ族だが、かれらは国土の中央、イラワジ川流域の平地を占め、その周囲をかこむ山地には人口のほぼ25%に当たるさまざまな少数民族が、精霊崇拝に加えて仏教、キリスト教、イスラム教などを信奉して居住している。全体で135民族ともいわれるが、主な民族は、居住地(州)にそって西から時計回りでみると、ベンガル湾沿いに住むラカイン族、インドと国境を接する地域に住むチン族、中国と国境を接する地域のカチン族、ラオス、タイと国境を接する地域のシャン族、その南のカヤー族とカレン族、さらにその南に住むモン族などである。これら主要民族を含む少数民族各派が、合わせれば20を超える、それぞれの民族の名を冠した武装組織をつくって、束の間の停戦をはさみながらも70年あまり、ビルマ族の政府と戦ってきたのである。

 しかし、このような強い民族意識がもともとあったわけではない。伝統的には、各民族の王どうしは覇権を争ったりもしたが、住民は焼畑や水稲耕作、あるいは象を使った山仕事など、環境に適合した生活形態で棲分けながらも、交易と交流を通じて穏やかに共存してきた。

 ところが19世紀後半、ビルマ全土を支配した英国植民地政府は、ビルマ人と非ビルマ人を分別し、さらに非ビルマ人も民族ごとに類別して、平野部のビルマ人居住地域は総督による直轄統治、山岳地帯の各少数民族にたいしては土侯・藩王など伝統的な権力者を残しての間接統治という、英国お家芸の「分割統治」を実施した。この政策が、人々にはじめて「われわれ意識」(民族意識)を目覚めさせたと指摘されている。

 さらに植民地政府は、非仏教徒である山地民にキリスト教の布教を行い、キリスト教徒化した少数民族、とりわけ、最大勢力のカレン族を、植民地政府の官吏、軍人、警官に採用し、多数派ビルマ族の監視や抑圧の任に当たらせた。
 それゆえに、ビルマ族の反英民族運動は仏教を推進軸に進められることとなり、第二次大戦下、そのビルマ族を抱え込んで侵攻した日本軍に対して、英国はキリスト教徒やイスラム教徒の少数民族を軍に仕立てて対抗した。

 ◆ 勝てなくとも戦いぬく抵抗

 こうして煮詰まっていた民族感情は、1948年の独立を前に、独立後の地位や権益をめぐって沸点に近づく。ビルマ族の軍を率いて独立を導いたアウンサン将軍は、民族居住地別の州編成と州の連邦からの離脱権を定めて少数民族の統合に努力したが、独立を見ずして没し、少数民族側はビルマ族と平等の権利や一層の民族自治を要求して、カレン族を皮切りに次々と反政府武装闘争に突入した。

 少数民族とビルマ族反体制派(共産党)の勢力に包囲され、中央政府は1950年代初めの一時期には僅かに首都ラングーン(現ヤンゴン)のみを死守する状態に陥ったが、やがて国軍が態勢を整えて巻き返し、反乱勢力を辺境のジャングルに追い込むまでにいたった。
 それ以来、各少数民族は、「勝つ見込みのない、しかし決して武器を置かない」抵抗をつづけてきたのである。勝つ見込みはなくても武器を置かない、それが各少数民族の矜持、誇りの象徴であった。

 転機はあった。カレン州のジャングルにあるカレン民主同盟(KNU)の根拠地マネプローは、カチン、モン、シャン、パオなど各少数民族の武装組織も集う抵抗のセンターであった。そこに、1988年の民主化闘争で軍事政権に追われたビルマ族の学生、知識人、僧侶などが流入し、90年の総選挙で当選しながら身に危険の迫った民主派の議員なども逃れてきて、民族を問わぬ反軍政民主化運動の拠点として高揚した。ところが、95年、軍事政権が同じカレン族の中の仏教徒に手を回して結成した民主カレン仏教徒同盟(DKBO)の攻撃を受けて陥落する。

 以来、少数民族への弾圧は一層強化され、国軍による武力攻撃や強制労働、拷問、組織的な強姦などに曝されながら、国境沿いのタイ領に点在する難民キャンプやジャングル内での抵抗を続けてきたが、2011年の民政移管後に、和平交渉がすすみ、12年中には、カレン族を含む10の主要少数民族武装組織が政府と停戦合意を結ぶまでにいたっていた。

 ところがである、クーデターはこの、ようやくに結実した停戦合意を反故にし、カレン、カチン、シャン、カヤー、ラカイン、チンなどの各民族居住地域では、すでに国軍との戦闘が再開されている。

 ◆ 内戦がもたらすものは何か

 民主派「統一政府」の宣戦布告は避けることができない選択肢だったとの見方がある。国軍は民主派との対話には一切関心を示さず、抗議する民間人を1,000人以上も殺してきた。頼みとする国際社会も、軍事政権を非難するだけで、それ以上にはかかわる意志も能力も示していないのだから。

 だが、武装闘争に勝利の展望はあるのか。少数民族武装組織と国軍では武器も兵力もあまりにも大きな差がある。しかも、少数民族の武装組織はそれぞれ利害が異なり、様子見の組織も多い。さらに、戦闘が激化すれば、正義と不正義の分け目も曖昧となり、統一政府の倫理的・政治的正統性を損なうおそれも多い。統一政府の国際的承認も遠のこう。
 いわば、先に述べた少数民族の「勝つ見込みのない、しかし決して武器を置かない」抵抗のコピーのような、矜持と誇りの象徴としての、しかも悲劇的な、戦いにしかならないのではないだろうか。

 ここはなんとしてでも国際社会の真摯で強力な関与が、望まれるのである。

 (元桜美林大学教授、『オルタ広場』編集委員)

(2021.10.20)
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