【オルタ広場の視点】

新局面の挑戦を ――安倍・菅長期体制の変革こそ

羽原 清雅

 コロナ下での2年目の政治状況は、このままでいいのか。7年8ヵ月に及ぶ政権を継承した菅体制が続く。同じような政治姿勢による為政が続くと、居心地のいい階層は強く守ろうとし、若い世代を中心に「社会ってそんなものなんだ」と納得しがちになり、また批判的な勢力は攻め手を欠いてマンネリ化していく。当然、世の中は為政者の姿勢を良しとし、守旧の姿勢が広がり、時に進展すべき改革の道筋を踏みはずし、さらにはそのような沈滞に安住して、そこに醗酵しがちな腐敗に対して厳しさを忘れ、あるいは擁護までして政治的退廃を拡充させる。為政者の集団自体が沈滞、腐食していく。

 また、自らの判断を下すよりは「多数派」に属していたい、という大衆的な感覚は批判・反発よりも、権力を許容する気持ちに陥りがちだ。
 これは、民主主義に伴いがちなマイナス面でもある。「多数支配」の仕組みが、反省や改革や批判、有効な多様な意見を排除し、「数」の力に依存する一部指導層の思いのままに動かされていく。

 今年の秋までには、衆院議員選挙がある。
 8年という長期にわたる政治のありようは、このまま継続していっていいのか。その8年間にわたる社会の動向のなかで、何が望ましい政治であったのか、どこにひずみ、ゆがみがあったのか――最大の課題でもある「コロナ禍」への判断にとどめず、「民主主義のありよう」を問い直す、より大きな視点で見直したい。今更ながら、とも感じる気持ちもあり書き控えたいが、やはり思い返さざるを得ない。
 すでに、自民党内からは、4月25日の衆院北海道2区、参院長野選挙区2つの補選に負ければ「政局」だとの発言も出始めているほどだ。

 安倍・菅という類似路線で動く「一強」型の政治権力は、擁護すべき為政もあるが、一方で「政治って、こんなものなのか!」といった印象もある。権力者への批判という視点以上に、その政治手法がもたらした民主主義の取り組み、国会のありよう、政党や派閥の姿勢、財政・予算の運用、世論の反響、コロナ対応の可否、そして浮上した数々の政治的腐敗やスキャンダル・・・・そのような現実を見ながら、長期にわたる政治がそのまま継続していいのか、あるいは「政治の顔」を変え、発想を転換する局面打開のチャンスとするべきか、を考えたい。

 筆者は後者の立場をとる。一言でいうなら、定着しきれていない「民主主義」がこれ以上損壊されてはなるまい、という視点に立つためだ。かといって、野党勢力が「政権をわが手に!」といって、権力行使のありようを述べず、その手腕を磨く日常的な努力を見せようとしない姿勢のままに政権を握ることには同調しない。ただ、有効な批判勢力として、これまでの政治勢力のありようを解明し、政治離れしていく多くの有権者にアピールしうる勢力としての、さらなる活動とレベルアップには期待がある。

*国会の軽視 安倍・菅政権は、国権の最高機関が国会であり、民意の象徴であるという認識が乏しい。改憲を標榜する立場として、現行憲法が権力の維持上煩わしいし、願わくば三権分立のなかでの行政権をもう少し強めたい思いがあるのだろう。「官のもとの民」のやりやすさへのあこがれが見える。
 野党の国会召集の強い要望を聞かない。国会の開催は国民に説明する好機、とは考えず、ボロを追及されまい、との自己保存本能が働く。自公の与党が、有権者の立場に立たず、権力者の側で防護壁になる。少数野党は手も足も出ない。

 国会が開かれても、菅首相は目を下に向けて官僚策定の原稿を読み、おのれの政治家として培った言葉で国民に向けて真摯に訴えようとする姿勢が見えない。
 また、安倍前首相と同様に、逃げの答弁、質問のピントを外す発言がやたらに多い。答えにくいと「係争中なので」「答弁を差し控える」などとかわす。その回数も尋常ではない。

 安倍氏に至っては首相として、「桜を見る会」をめぐって、事実と違う国会での答弁を「事務所の関与なし」「宴会の差額補填はない」など、118回繰り返した。森友学園への国有地売却をめぐる財務省の公文書改ざん問題では、首相らにおもねる幹部官僚が国会の場で139回にわたって事実と異なる答弁をしている。背後に、強大化した官邸権力、一強与党の防御あってのことだ。国会は、国民だましの場に過ぎないのか。

 おふたりが国会でたびたび申す「誠実」「率直」「責任を痛感」「おわび」などには、言葉としてはあるが、相手を動かす心情が皆無で、ますます信頼を損ねる。

*菅首相の姿勢 昨秋の『オルタ広場』で、菅首相登場時に書いたことでもあるが、菅氏は「首相の器」な''''のか、との疑問が消えず、むしろ在任が続くにつれ、その疑問が強まっている。 
 最大の疑問は、これからの日本のありようについての理念を語らないこと。この国の未来に夢を抱かせるほどの、これまでに考えてきた政治観をきっちり述べることが首相たるものの義務ではないか。寂しい総理大臣である。

 売りの言葉は「仕事をする」である。首相が仕事をすべきことは言うまでもないこと、と言ってしまえばカドが立つのだが、そう思わざるをえまい。たしかに、コロナ撲滅と経済再生、脱炭素化のほかに、デジタル化、不妊治療の保険化、NHK受信料の値下げ、携帯電話料金の値下げなど、実務的、現場的な主張が目立つ。「大衆迎合」「人気取り」「ポピュリズム」などの批評もあるが、それはそれとして、むしろこれらの課題は各閣僚のテリトリーにあり、首相たるものとしては第一に国家の抱負経綸を示すことこそが必要だろう。

 もともと、ご本人が言うほどの「叩き上げ」の人物かどうか。比較的裕福な農家育ち、短期の工場勤め、昼の大学卒、代議士秘書10年、市議の経歴は、確かに二世、三世の多い自民党では異色に近いかもしれないが、自ら言うほどのことではあるまい。「叩き上げ」というなら、筆者が長く担当した佐藤内閣で官房長官、党幹事長を務めた保利茂氏が浮かぶ。高等小学校卒後、近くの鉄工場で学びながら働き、さらに学びたくて逃げ出して上京、苦学して夜間大学を出て新聞記者10年、政治家秘書10年、そして戦前の補欠選挙で国会に出た。自身はこうした経験話はほとんどせず、政権を支えつつ日中問題では佐藤首相に従わず、信条を通した。同じ保守政治家でも基本が違う。

*人事改革の失政 自己紹介に言ってみた「ガースー」だが、意味合いにしても語感にしても、なんのユーモアもない。つまり、言葉の扱いは苦手であり、よく言われているように、その反面として裏での強権的、高圧的な言動が出てくるのだろうか。作家の辺見庸氏は「やっぱり公安顔、特高顔」と評したが、日本学術会議候補研究者の6人排除に尽力した警察出身側近を好むのもそのせいか。霞が関界隈では、陰湿な圧政を進めたイメージのためか、「スガーリン」と呼ばれている、と毎日新聞は報じた。
 自著『政治家の覚悟』の初版本(2012年)で「政府があらゆる記録を克明に残すのは当然」と書いたが、首相就任前後の新刊本ではこの部分を削除した。森友、サクラなどで公文書廃棄、改ざんなどの相次ぐ事態に首相を守った立場としては、この矛盾は隠したかっただろう。だが、この変わり身が首相たる者の信頼を失わせている。

 安倍氏とともに、政府の縦割り行政の改革に取り組んだ菅氏は、各省庁の幹部官僚を掌握、官邸の意向に沿う人事〈内閣人事局を2014年に新設〉を進めた。阿諛追従の徒を生み出す引き金となり、異論対案を述べる余地を失わせ、人材育成の幅を狭めた。日本学術会議の排除問題がその象徴でもあり、研究者の広い学識を政治判断に生かす機能を失わせることになった。

 官僚をわしづかみにする首相官邸の人事管理は、マイナス面を浮き出たせたが、この失敗はコロナ禍対策に現れたようだ。各関係省庁の縦割り行政のまずさが指摘されたが、戦後初ともいえる感染症の広がりに対して、経験があっても言い出した責任を問われたくない官僚からアイデアが出ず、関係官庁の協議も十分には進まず、結論も出しにくく、いきおい法制度の改正作業も思わしくなく、結果的に「後手後手」の批判になっている。縦割り行政に横のパイプを通して情報の流れを高める、という本来の機能改革に取り組まず、恣意的な幹部人事を可能にしただけで納得した長期政権の狭隘さは、失政のひとつだろう。

*自民党五大派閥の責任 自民党の責任も大きい。
 まずは、菅氏担ぎ出しに加担した二階、細田、竹下、麻生、石原の5派閥の責任。派閥とは本来、自民党内で総裁・総理を作り出すための集団で、政策や理念の一致によって結成される。だが、安倍氏の再度の政権離脱によって、岸田、石破両派以外に総裁候補を育てておらず、安倍氏からのつなぎとして、直面する政治状況に通じた菅氏に依存した格好だ。あくまでも「総裁・総理の器」としての擁立ではない。あえて言えば、派閥の「逃げ」の一手、政党当事者としての責任回避の策に走った。国民のための人選ではなく、彼等にとっての「安全パイ」の選択だった。当然、その政権の失敗の責任は、支持派閥全体にある。

 安倍政治の菅氏継承に問題はないか、世論の判断はどうか、自民政治の安定には良くても、今後の正念場にもなる米中の緊張下を考えても菅政治が望ましいのか・・・・などの点検もないままの談合的な出生だった。だが、現実に政権を握ると、コロナ対策を始め国会対応などの手詰まりも相次いで目に見えてきた。このように行き詰りつつある菅政権がこの1年、さらに来年、再来年まで続く場合、日本の社会は一体どうなっていくのか。5大派閥の責任は極めて大きい。

 自民党はじめ国会議員は、巨額の税金による選挙で選ばれ、巨額の税金が国会活動と選挙区活動に提供されている。だが、その認識が薄い。本来、各議員が国のリーダーのひとりとして自戒、責任、規範意識、さらに国民各層についての広い実情認識を持つべきながら、当選すれば国民の上位にある存在、くらいの感覚で動く。国民への奉仕者という感覚がないところに、政治姿勢のひずみ、ゆがみが出がちだ。こうした意識の日常化が、政治の劣化を招き、政治全体への信頼を損ねている。

 政治の現状に戻ろう。当面は菅政権を維持するにしても、本来なら、安倍長期政権の踏襲から脱皮し、新しい政治局面の構築に本腰を入れる時ではないのか。
 1月18日から国会が始まり、予算審議が進む。コロナの状況と感染症対策、医療態勢が問われよう。菅首相の説得力ある発言が出るのか、あるいはこれまでのモゾモゾと歯切れ悪い、逃げの発言に終始するのか。

 自民、そして補完追随する公明の両与党自体が、秋までに行われる衆院選挙を控えて、その主たる責任を問われることになるだろう。コロナ禍の鎮静、東京五輪開催の行方も知れない状況にあって、「一強」への甘えは許されまい。
 とすれば、この国会を通じて、菅政権の護持でいいか、あるいは「つなぎ政権」の役割を終えて新局面に臨む準備に入るか、その判断と行動が求められよう。

 もっとも、その際の人材はどうか。先の総裁選に出た岸田文雄氏、石破茂氏なら、発想の異なる新政治を登場させるかもしれないが、その迫力が出せるか。下馬評に上がったり、自薦したりの人名を、その力量、才覚、欠陥、人気度、政治経験などを度外視して拾ってみれば、河野太郎、小泉進次郎、茂木敏充、加藤勝信、西村康稔、萩生田光一、下村博文氏ら、女性では野田聖子、稲田朋美、小渕優子氏あたりか。日頃の言動の狭さや浅さ、社会各層への目配りや配慮不足、発言の軽率度、政治スタンスの狭隘さなどの点からだけ見ても、新政治の局面に大いなる期待を寄せられる人材は極めて乏しいことに改めて気づく。
 ともあれ、そのようなレベルでの選択でしかないことが残念である。

 自民党はもともと、百家争鳴の騒がしさがあり、党内に多様な人材や発言が存在して、またこれを許容していく度量と環境があった。だが、今は「一枚岩の強さ」と言いたかろうが、物言わぬ大集団と化し、没個性、追随、狭隘、右傾傾向に走ってしまった。多様化している国民意識への理解度が低い。結論ありきで、そのプロセスの論議がないのか、あるいはほとんど見えない。三角大福中時代には「カネ」という大問題を抱えながらも、その論議は打算あることを承知で聞けば、聞く側の世論も「なにが望ましいか」と考える機会を提供されていた。政治に百点はないものではあるが、現状の窮状よりはましか、とも思う。

*小選挙区制度の構造的問題 やや長期的に見ると、政治構造の「非」の部分に目を向けなければならない。衆院の小選挙区制導入は、政治機能や状況を大きく変えて、そのマイナス面は計り知れない。だが、メディアはそこに触れようとしないし、ましてその制度で当選した議員が変更に取り組むわけがなく、マイナス面を検討し、改革しようとの機運は出てくるはずもない。

 ① 1選挙区1人の候補者に絞る党の公認過程で、政党首脳の発言力が強まって、党内の論議を抑え、異論を排除するなど、党勢を支配し、活力をそいだ。新顔や若返りには狭き門となり、世襲、高齢化を助長した。このマイナスは大きい。
 ② 死に票が多く、有権者の声を反映しない。また、政党の得票数と議席数が乖離し、大政党有利の政治勢力の配分に矛盾が出ている。
 ③ この制度導入の狙いでもあった派閥の弊害除去は、確かにその効用もあったが、派閥の存在は変わらない。これは派閥の経営管理の問題で、法制による規制対象にはなりにくく、ひいては派閥の必要性も否定できないだろう。
 ④ 2大政党による政権交代を可能にするという狙いも、政権担当能力を鍛えていないばかりに、1年交代の政権を多数生み出した。また、冷静な官僚システムを排除しようとした民主党政権が失敗したことで、数に頼る一強の政治権力を長期化させる土壌を作った。
 ⑤ 2大政党による政権作り、をうたったものの、野党は政策上の問題よりも、党内事情による離合集散を重ね、野党としての国民へのアプローチを怠った。
 ⑥ 政治資金確保の道として、名前を出す寄付が減って、「大臣規範」などで自粛を求められた個人パーティーへの依存が高まった。パーティー券の大量押し付けなどの現象もあり、政治言動のレベルアップによる寄付行為の推進などは弱まってきた。政治資金の流れも見えにくくなっている。
 ⑦ 国民一人あたり250円の課税分が交付される政党助成制度は、当初の民主政治への寄与という目的に沿っているか。妥当な使い方になっているか。

 つまり、政治の腐敗やスキャンダルが相次いでいるということは、このようなシステムが再検討期に来ているということでもある。安倍、菅政権の強さの土台がこうした選挙制度であると同時に、その権力行使に伴うマイナス面がそこから生まれていることも事実である。
 そこに、この選挙制度全体が改革の必要に迫られている現実がある。

*コロナ禍対策の及び腰と後手対応 安倍、菅政権への強い不満や批判は、まずコロナ感染防止策のまずさに集中している。突然の一斉休校、突然のマスク配布といった責任を欠く対応ばかりでなく、感染症検査体制の不徹底、医療の施設や人員、器材の欠乏、緊急事態宣言に基づく期間設定や対応策の遅れと優柔不断、先手を打つべき態勢準備の遅延、出入国規制の不備などの点が深く、広く問題視されている。

 また、不安視される先行きの事態に、緩急、軽重など各様に対応し得る事前のシミュレーションはできているのだろうか。いささか場当たり的な姿勢が続く。これは、東日本大震災時に伴う福島原発の冷却水問題で、除却できないトリチウムに対する分析や解決策はどのようになっているのかなど、理を尽くした説明もなく、ただひたすらに満タン→海洋放水への時間切れを待つ姿勢に通じるものがある。
 これらの点で、安倍、菅政権は政治責任を問われるだろう。だが、筆者はこの事態が理解しがたい突発的な事態であり、世界的な蔓延状態からすれば、そのウロタエは許されまいが、情状酌量の一面があることも認めざるを得ない。

 それでも、政治的局面の転換を求めざるを得ない理由は、総体的な民主主義のルールやマナーをないがしろにしてきた長期政権だ、という点にある。コロナ禍対策の不徹底ぶりも、もとをたどれば、優秀なはずの官僚システムを権力の走狗と化さしめ、知恵や工夫を出すべき雰囲気を崩し、調整能力さえ衰えさせたところに大きな原因がある。さらには、国会にまで説明しない、その姿勢である。
 この点は、個別具体的には触れないが、より大きな視点からの政治責任を問いたい。

*財政はこれでいいのか 突然のコロナ禍は財政のひっ迫を招く。やむを得ないことではある。ただ、その出費の内容と判断の問題もあるが、将来に及ぶ長期的な財政収支の論議がなされていない政治責任を重視したい。
 菅政権は20年12月、コロナ対応中心の追加経済対策(事業規模73兆6,000億円/うち財政支出40兆円)を決め、第3次補正と21年度当初の15ヵ月予算案を組んだ。当初予算は106兆円、税収57兆円に対して、借金である国債が43兆円に上る。借金返済の国債費は23兆円だ。コロナ発生前から国債依存度の極めて高い財政運営だったが、突発的なコロナ対策でさらに総額1,200兆円という借金漬けになる。

 そこで改めて、通常時の国債依存が問題になる。将来の返済はきわめて長く続き、逼迫した財政は新規事業の挑戦など前向きな事業に取り組みにくくする。将来世代の負荷が膨張し、発展的な挑戦を試みようとしても、資金は相当制約される。コロナ的突発の事態にはやむを得ないとしても、通常時の財政運営があらためて問い直されよう。
 しかも、追加経済対策では、経済復調のためとして整備新幹線、道路港湾整備など、費用対効果上不急事業とおぼしきものも計上されている。また、本来なら財源として、株式の配当、売却益といった金融所得課税を強化するなどの措置は、高株価の維持ができないことで政権イメージを損なうまい、として見送る。

 とくに問題なのは、このような大規模な財政運営について、国会の論議はなく、政党のチェックも働かず、目先ばかりを負いがちな政治姿勢である。それに、学術研究面を軽視しがちな政治姿勢も問題だ。新たな創意工夫を生かし、新技術の導入を図るなど生産性を高めるには、そのベースとなる基礎からの長期的な研究開発が極めて重要ながら、そのための財政支援が手薄い。目先の対応に溺れ、長期戦略を欠きがちな日本政治の弱点を改める必要もある。日本学術会議自体の発言力も十分とは言えないが、この力をさらに弱めようとする政治権力を存続させたままで、日本の将来への期待は望めるのか。

*政治犯罪、スキャンダルの横行 安倍、菅政権下では、政治への信頼を失う事例が絶えない。多くは自民党内からの発生だが、政権当事者自身が相次ぐスキャンダルにまみれ、その解明や責任を言い逃れている。これも、追及する弱小野党勢力の限界と、一強を誇る自公与党の防護壁によって、改められることなく放置されたままだ。

 安倍政権下での森友、加計疑惑、ついで桜を見る会による選挙区支援の不当な資金使用、そればかりか菅官房長官の擁護発言による解明、反省の封じ込め、あるいは国会での虚偽発言などによる実態の隠ぺいである。政治への信頼を損ねている現実を前に、政権を支える自民党、さらには権力に甘える公明党までもが不透明な状況を許し、加担さえ続けている。

 自民党からは、カジノ汚職で逮捕された秋元司(衆院)、大規模なカネばらまきの選挙違反を起こしながら国会に居座る河井克行元法相(衆院)と妻河井案里(参院)、そのルートから表面化した、鶏卵業者による買収的なカネを受け取った吉川貴盛元農相(衆院)、さらに元農相で内閣官房参与を辞めた西川公也(落選)と相次ぐ腐敗がのぞく。その多くが、自民党の実権を握り、菅政権を支える幹事長二階俊博氏にごく近い者たちだ。

 失言、暴言で閣僚の座を去り、あるいはその言動で非難を浴びた国会議員も少なくない。今村雅弘、桜田義孝、稲田朋美、務台俊介、丸山穂高、杉田水脈など、思い出せないほどに多い。
 個々の議員の言動の責任は本人にあるが、そのような人物を有権者に選ばせる政党幹部の責任もあるし、首相の座につく自民党の総裁は議員らの言動に対して社会的に妥当な礼節を求め、日頃から慎重であるべきことを求めなければなるまい。こうした再三の低劣な蓄積が、政治への信頼を失わせ、各選挙の投票率の低下にもつながっている。

*世論調査は反応する 各紙の世論調査を見ると、数字こそそれぞれだが、傾向は同じ方向を示している。
 菅内閣の支持率は・・・・・
     <9月>  <10月>  <11月>  <12月>
   朝日 65%   →53%   →56%   →39%
   毎日 64    →57    →57    →40
   読売 74    →67    →49    →45

 では、不支持率はどうか。
   朝日 13    →22    →20    →35
   毎日 27    →36    →36    →49
   読売 14    →21    →36    →43

 この3紙の傾向を見ると、数ヵ月のうちに菅内閣の支持率は着実に後退し、不支持率が増え続けている。通常なら、政権交代後の新内閣にはご祝儀的なイメージもあって、このような不人気はあり得なかった。つまり、コロナ対応のまずさが目立ち、信頼度を急激に失っていることがわかる。先行きを考えれば、支持率が上向く可能性は低く、有権者の「菅離れ」に対して、新たな局面をどのように迎えたらいいか、真剣に考える時が来ているのではないか。

 個別の問題の反応を見ると・・・・・・
 コロナ対策の菅政権の評価は、朝日の11月と12月を比較すると、「評価する」が46%→33%に後退し、「評価しない」が40%→56%に増加。毎日も、「評価する」は34%→14%に激減、「評価しない」が27%→62%に激増している。
 設問の異なる読売も12月時点で基本的には同様で、「指導力を発揮」の16%に対して「発揮していない」が77%、また「政府の対応を評価」が32%、「評価していない」が62%となっている。
 つまり、当面最大の課題であるコロナ対策についての菅内閣への期待は、きわめて小さく、あえて言うなら期待が持てないという不満の気分が増大しているというように見えている。

 1月8日時点で、1ヵ月間の緊急事態宣言が出されたが、専門医師たちの多くはこの短期間では収まるまいとの見方を示している。増え続ける感染者の病床不足、医療関係者の払底、感染に伴う検査システムの不備などに加えて、今後のワクチンの普及対応ぶり、飲食店経営への支援、あるいは非正規勤務者やシングル家庭への支援体制など政治への期待が強まる中で、権力を握る菅政権は対応しきれるのか。東京五輪の実施に強い意欲を見せる菅首相だが、有言不実行の準備状況ではないのか。

*野党はこれでいいのか 一強体制の責任は一部、野党勢力にも問わざるをえない。対抗勢力として構造的、長期的に、野党拡大の道を大胆に進んでいないためだ。また、野党間の選挙の連携はいいが、反原発、核禁条約推進など、具体的な一致点を強く打ち出し、地域的な課題での一致にも、一層努力すべきだろう。野党としての存在感、その効用の所在が見えてこなければ、支持は伸びず、結果的に政治の刷新、権力のチェック、民意の達成は難しいままだろう。いくつかの点を取り上げてみたい。

 ① 離合集散に走りがちの野党内部だが、かつてのようにイデオロギー論争に明け暮れ、身内的な抗争に熱中しなくなったのはいい。だが、相変わらず政治権力の掌握意欲は見せるものの、政治権力を握ったあとの日常的な運用についての訓練を試みていない。政治は折々の内外の動きで変容するものだが、それにしても権力の維持と運用の心構えを常にわきまえ、内部的にコンセンサスを得る努力が必要だ。

 立憲民主党を率いる枝野幸男氏は、折に触れて政権の座につける党だ、とアピールする。本人の心構えとしてはいいが、有権者は現状の立憲などの野党にそこまでの実感ある期待をしているだろうか。まずは、現政権をしっかり監視し、その非あるところを具体的に有権者に伝えるという、野党として最小のやるべきことの期待程度ではないのか。
 有権者は現時点で、政権維持能力までは認めておらず、まだ民主党時代の失敗と非力ぶりを頭に残す。野党としてせめて伯仲に近づき、日本の将来、政治権力掌握後の対応を語れるようになれば、といった程度の、地に着いた活動ぶりの期待までではないか。

 ② 問題は多いながら、かつて自民党政治と張り合った社会党には、政策部門に不十分ながらも人材のチームを擁し、学者集団のブレーンシステムを持ち、総評という情報、企画部門の応援があった。労組の過剰な政党介入、政策集団内のイデオロギー対立、現実の社会に乖離した言葉上だけの政策立案など、実現不能を承知しての自民党政権への対決でもあった。
 では、今の野党はどうか。少数党に落ち込み、そのようなゆとりがない、というのが現実だろう。しかし、その窮状に甘えてはいないか。かつてのような政党密着の学者集団は存在しがたいが、批判とともに知恵を出す知的グループはあるはずだし、党周辺には才覚ある若い学究や活動家はいるはず。そのエネルギーを組織的に結集し、党としての政策能力、内外における情報収集、党活動の活性化など、政党らしい脱皮的成長を図らない限り、政権担当は無理だ。議員個人の能力とその数だけで、政権への接近を図ろうとするなら、ほぼ永久的に届くまい。

 ③ 共産党は別として、小型野党群は各地に強い組織を持っていない。社会党がかつて、それなりの議席を持てたのは、飛鳥田、土井時代のような「風」「ムード」待ちは別としても、各地域が地方議員を擁し、地域活動家を徐々に育てるなど、政党としての存在感があったからだ。労組依存の選挙活動でもあったが、身近に感じられる存在ではあった。ひところ、機関紙発行による財源つくりに力を入れ、その収益によって地方の活動家を拡充しようとした。ところが、その主軸の社会主義協会の若者たちが急速に伸びて、その勢力拡大に反発する既存勢力との摩擦で、結果的に社会党を沈滞、摩滅させていった。

 しかし、政党組織が各地方に置かれ、見える日常の存在として、あるいは国会議員は週1回でも全国各地で一斉に政治を語るといった統一的行動があれば、その存在感は得票にもつながるだろうし、相談、要望、苦情などが持ち込まれて国会質疑にも生かされよう。問題はその資金ではあるが。要は、政党は各地各様に存在感が必要だ。自民党、公明党、共産党の長命の事情はまさにそこにある。テレビやSNSなどへの依存だけでは限界である。

*「夢」でしかないにしても コロナ問題だけでも、複雑な環境を抱える菅政権だが、国会や世論の軽視、政治姿勢の歪み、視野の狭い権力行使、官僚機能の弱まる実情など、多くの課題に応え続けられるだろうか。
 民主主義を保障する憲法を軽視しがちな一強体制の政権には、これから、従来のいささか独りよがりの判断で突き進んできたツケが回ってきかねない。その被害者は国民である。
 そうした長期的に続いてきた偏狭な政治体制はいま、新たな局面を迎えることのできる、新たな政治指導者の登場を望みうる状況を迎えつつある。

 1929年の世界大恐慌の際、米国では33年に就任したフランクリン・ルーズベルト大統領のもと、問題を抱えながらも、ドラステイックな変革の道を歩み、国民の絶望を希望に切り替えた。今日の日本もまさに新局面を迎えて、民主主義の基本に立って、スケールの大きな、民意の生かせる活発な社会構造に切り替える時ではないか。折から、秋までには自民党政権首脳の交代可能な時期を迎え、衆院選挙がある。惰性と現状維持型の発想を替えて、新たな道に挑戦する好機ともいえよう。
 その道を進むには、よほどの人材と、論議と知恵を出しうる環境を必要とする。極めて難しいことながら、変革に伴う苦痛を認めない限り、少子高齢化に迫られる日本の将来は開けないだろう。そのような覚悟を持てば、新局面を開く努力可能の時が迎えられる。

 小さな殻のなかの、因習にとらわれた発想を捨てたい。リーダーを目指す者は、多様な意見、思考に耳を傾け、その決断について十分な説明を果たし、さらに修正も受け入れる度量が必要だ。
 このように書きながら 自ら夢物語とさえ思うのだが、しかし、それくらいの覚悟と努力がない限り活路を開くことは不可能だろう。長すぎた、間口の狭い、限られた思考の世界。他に道がないかの、選択のない社会。民主的な、伸びやかな政治はないのか。
 切に、この夢の方向を探りつつ、秋に向けて進むことを願ってやまない。
    (2021.1.10)

 (元朝日新聞政治部長)

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