【コラム】大原雄の『流儀』

新聞社で、何が起きているか?

大原 雄

 大手全国紙の女性記者が長年の原発取材体験を元に本(新書版)を出版した。
 
 大新聞社などでは、社内のルールに則って、記者が培った長年培った取材内容をまとめ、本来の所属メディアとは異なるメディアから本を出版したりするということは、日常的にあり得ることではないのか?
 
 しかし、女性記者が所属する大手全国紙では、「社外出版手続き」「社外活動に関するガイドライン」などという社内ルールがあり、「社員が本を出すときは申請する」ことと明記されているという。
 
 北海道・札幌市出身で学生時代から原発問題に関心があった記者は、社内ルールに従って、「2021年10月に出版申請書を所属長に提出した」という。しかし、なぜか認められなかったという。さらに、原発問題をライフワークとしている女性記者は、「2020年に記者職を外されて(自社の)新聞媒体に書くことができなくなって」いるという。なぜなのか?人事異動の理由は、職場の男女比率をできるだけ、フィフティ・フィフティに近づけたいということらしい。女性社員の少ない職場に振り当てられたらしい。ジェンダー論の濫用みたいに見えるが、違うのかな。
 
 今回、本書を出版するにあたって著者・記者は、会社のルールに従わずに、ライフワークのテーマを書きたいと、許可を待たずに「出版に踏み切った」という。
 
 彼女は、
 何とか言論を守れないかとこれまで社内にとどまってきたが、結果的に社を去ることになるかもしれない。それでも、(ジャーナリストとしてーー引用者)事実を届ける方が大事だと出版に踏み切った」と、その動機を書いている。
 
 以下、経緯の説明は、出版された本書の「おわりに」というあとがきに、著者(記者)自身が書いたものが載っているので、そのまま引用している。
 
 「記者」の所属長は、記者に対して、つぎのように説明したという。
 
 「編集部門はこういったテーマで極めて多数の人が取材している。競合してはいけない。編集部門以外の方が取材することで、いってみれば競合みたいなことが発生してはいけない」という理屈らしい。
 
 申請書提出から1ヶ月近く後、「所属長からメールで返信があった」という。
 大手全国紙という新聞社の所属長の部屋と所属記者の部屋がどこにあるのか私は知らないが、大事な内容を伝えるのに、会社の意向をメールで送るだけなのか? 所属長が対面で本人に伝えるべきでは無いのか。判断手続きが不十分ではないのか。
 
 以下、長めの引用になるが、記者によれば、メールの内容は次のようなものだったという。
 
 (出版は)
 「異動前部門での職務活動で取得した知識・情報をベースにするわけで、職務である」、「職務となると、そもそも本来の会社業務に、より傾注していただきたい」とされ、「認められないと社として判断いたしました」(と書いてあった)という。
 
 所属長の対応に不満を募らせた記者がさらに、所属長の上司である執行役員に経緯を説明したが、「……状況は変わらなかった。私は聞いた」。
 
 「表現の自由がないんですか。社員には」。
 
 「しばらく沈黙の後。役員は言った」。
 「編集部門以外の方が、自分の思い思いに別々の取材報道をやっちゃうのは成り立たない」(と、反論したという)。
 
 記者は、2021年12月に同じ新聞社の先輩(元編集局長)で、純文学作家出身のジャーナリストにすぐに相談したところ、先輩は「編集以外の人は取材も報道もできない、ということですか。これは憲法の問題ではないか、と思います」とメールをくれたという。
 
 先輩は、このメールを発信した数時間後に、友人らと出かけたスキー場で心不全となり、急死してしまったという。
 
 改めて、社長に訴えの文書を出したという記者に対して、大手全国紙の新聞社は、広報部長名で以下のような回答をしてきたという。
 
 「本件著作は記者としての職務活動により取得した知識や情報を主な内容とする職務と判断しました」。「今回の職務による社外活動は認められないと判断したものです」。
 
 この回答メールは、職制側から読めば、l当該記者は、減員対象という結論ありきの論調で一貫しているように読める。
 
 上司や役員が言う「職務」とは、具体的に限定するのは難しいのではないか?
 以下は、よく言う譬え話。
 特に、メディアの取材職の職務は、職場に着き、タイムレコーダーを押して、そこから始業・終業というような時間管理のできる職場ではないからだ。出勤途上に、交通事故の現場に遭遇して取材を始めたら、記者はそこが職場であり、職務だろう。見て見ぬふりをして、職場に急ぐ記者などいないだろう。
 
 この記者は、所属している大手全国紙の対応への疑問を募らせている。大手全国紙の社内で、今、何が起きているのか?
 社内にいても、(社員でさえ)判らない「何か」とは、何なのだろうか。
 
 当該記者本人による同じ社内(大手全国紙)の複数社員からの聞き取り。
 (ある人):「複数の本を出したが、一度も申請したことがない。何もとがめられなかった」。
 
 (事後、会社側から)「求められて申請した」というのもあれば、「最近では認められなかった事例も複数あった」ということであった。
 
 著者・記者は訴える。
 
 「言論の自由を守ろうと普段から訴えている報道機関で、言論規制はあってはならないことだ」。
 
 今、この記者が直面しているのは、「言論規制」なのか?
 それは、何のための規制なのか。私には、まだ、よく判らない。
 女性記者は、自分が取材を続けている原発問題が、大手全国紙の言論規制とかかわっているのではないかと言う。
 
 「原発問題は、声を大きく伝えてこなかった報道機関・『原子力 ムラ』の一角だったマスコミにも重い責任がある」などと彼女は主張してきた。
 取材姿勢だけでなく、大手全国紙の原発問題と絡めた営業政策、広告政策(原子力PR広告)なども批判した。
 
 ★ 原発問題と大手全国紙の「言論規制」問題
 
 この2つが、著者(記者)の訴えの大きな柱になっているようだ。
 
 2023年9月28日、この大手全国紙は、「社外活動に関するガイドライン」を改定し、(職務による社外活動の場合は)「編集部門の確認(監修)を受ける」と明文化されたという。
 
 大手全国紙の社内、特に編集部門には、何か、大きな力が働いているのではないか、と彼女は言う。「確認」という名の「監修」は、「原子力ムラ」という大きな力を指すのではないかと記者は、疑いを深めている。
 
  ★「原子力 ムラ」とは?
 
 2011年8月。茨城県東海村の村上村長(当時)は、村内で開かれた日本原子力学会のシンポジウムで、「政官業学とメディアが『原子力ム村』と呼ばれる共同体を形成し、原子力界の権威、権力に対する異論を排斥する社会風土をつくってきた」と言ったという。
 
 「原子力 ムラ」」、つまり、政=政界(政治家)、官=官界(官僚)、学=学界(学者)、業=業界(電力)、メディア(マスコミ、報道機関、私たちジャーナリストを含む)である。
 
 背後に見え隠れするのは、「政と業」の癒着。それを支えるマスコミ・メディアや官・学の姿ではないのか?
 
 本書の著者・記者が、以下のようなエピソードを紹介している。
 
 (「あるジャーナリスト)ーー引用者注。本書では、個人名明記)が、新聞社系の雑誌に(写真)を発表しようとしたところ、突然、どこからか情報を聞きつけた系列新聞社の科学記者が、『東電の了解なく撮影された写真だ』と圧力をかけてきた」(という)。(ジャーナリストは、「写真について見解を得ようと原子力専門の学者に写真を見せたわけだが、その学者が(ジャーナリストに)無断で新聞社の科学記者に見せ、『4号機が大変なことになっている。こういう実態を新聞でも報じたほうがいい』と伝えたため、情報が漏れたのだ」ということだった。
 
 本書の著者(記者)は、「科学記者が、写真を東電に見せて確認し、『許可なく撮られた写真だ』と系列の雑誌に圧力をかけたということだろう」と推測している。「この写真は、使うな」ということか。それにしても、東電は、4号機の実態を隠していたのだろうか。隠して、何をしようとしていたのか。爆発して、グシャグシャになった4号機は、汚染を広げるだけではないのか。
 
 4号機は、数ヶ月にわたる定期点検中で、発電設備は止まっている状態だったという。なぜ、爆発したのか。
  
 そのほか、著者(記者)は、取材活動の中で自身が体験したり、聞き及んだりしたいというエピソードをいくつか本書の中で書いている。「原子力 ムラの人々」「作られる新たな『安全神話」などでは、記者の粘り強い取材活動の積み重ねが官界や学界などの壁に風穴を開けて、記者が事実に近付いて行く場面は、ドラマチックである。人間関係力、コミュニケーション能力が、力となる。取材の基本と心得よ。
 
 一方で、こういう記者もいる。
 (審議会委員になっていたーー引用者注)別の大手全国紙の論説委員は、著者(記者)が、
 「調べてみると、会合で、原子力を将来も維持して行くための方策の議論を期待したいなどと発言しており、今(当時か?)は原子力関連団体の理事に再就職していた」(という)。
 
 著者の、記者としての志に私も同感、それを尊重して、拙論では、記者の名前「青木美希」のみを明記した。彼女の肩書は、ジャーナリストと作家だけにした。
 本書のタイトル名、版元名、所属の新聞社名は、書かなかった。
 
 著者名、原発などのキーワードを入れれば、本書に辿り着くであろう。
 
 本書の主な章立ては、l以下の通りである。
 
 はじめに
 第1章 「復興」の現状は
 第2章  原子力専門家の疑問
 第3章  原発はなぜ始まったか
 第4章  原子力ムラの人々
 第5章  原発と核兵器
 第6章  作られる新たな「安全神話」
 第7章  原発ゼロで生きる方法
 おわりに
 
 本書を読み進むと、長年の記者の原発取材体験、そこで培ってきた取材先との人間関係、信頼関係が、間に蟠っていた障壁となるものに小さな穴を開け始め、遂には、大穴になって行く様が、徐々に見えてくるだろう。
 
 通奏低音は、「なぜ日本は原発を止(や)められないのか?」。
 
 私が本書を通読した印象では、全部で13ページとぺーじ数の少ない「おわりに」が最も圧巻であった。原発に象徴されるように、日本列島に巣を張る巨大な社会構造がいくつも眼前に浮き上がってくるような気がする。マスメディアも、呑み込まれる。
 
 言論の自由の砦を標榜している大手全国紙の、フェイクな仮面を剥ぎ取るような記者の舌鋒鋭い文章には同業者として己の身を斬るような痛みを伴うほどの読み応えがある。
 
 ついで、私が興味深かったのは、「第4章」。国策会社である電力会社が有能な若手社員たちを早々と官界の関係機関に「出向」させ、事実上、官界を「下から乗っ取っている」という実態をあばきだす。
 
 「第5章」。岸田政権の「原発回帰」の擬制をあばく。
 
 「第6章」では、擬制の核政策の後ろに控える「安全神話」つくりに暗躍するマスメディア。
 
 特に、大手全国紙の、「イエス・バット」という虚言戦略の再構築への蠢き。
 各論(バット)では、反対する部分もあるが、総論(イエス)は、賛成という、組織論の絡繰(からくり)。「イエス・バット」論が、社論だったという大手全国紙。
 結局は、原発回帰論。「止められない」。
 
 記者魂一つで所属していた巨大マスメディアに正面からぶち当たって行ったのは、小柄ながら全身ジャーナリストのような女性記者であった。 
 (了)
 
 ジャーナリスト

(2023.12.20)
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