【コラム】
大原雄の『流儀』

日本会議と「原理日本」社と……

大原 雄

●クロニクル

★ 2017年3月23日、国会での証人喚問。籠池(かごいけ)証言。籠池対安倍「夫妻」とその援軍たちの構図は、「同じ穴の狢」というべき極右同士のバトルの醜さを示す、ものと言えた。森友(もりとも)学園の籠池理事長という男が突然世間に登場した。この男が、今やろうとしていることは、私の目には、こう映る。
 つまり、神道を基準にした独自の価値観を持つ幼稚園経営者が、実践している幼稚園教育(映像が流れたが、アナクロニズムの「教育勅語」やアジア近隣諸国へのヘイトスピーチを幼い子どもたちに暗唱させている場面が、実に、痛々しい。ある人によると、NHK籾井前会長への激励も子供たちにさせている場面がある、という)のおぞましさ。「教育勅語」というのは、明治時代の1890年、明治天皇が、天皇と「臣民」(まつろう民)=当時の「国民」との関係(君臣一体=「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」、戦争になったら、天皇のために死ね、ということ)を教育の根本理念として明文化したもの。戦前の軍国主義を推進したものとして、戦後の1948年、衆参両院の決議で「排除・失効」が確認された。この「排除」と「失効」は今も生きている。

 戦後教育は、この教育勅語との対極を目指して進められた。主権「在君」から主権「在民」へ大きくカーブを切ったのである。彼らは、この延長として、いわば、「国家神道」(君臣一体)復活を目指す極右の団体・「日本(にっぽん)会議」の教育理念を実施しようとするモデル小学校を大阪に創立しようと計画したように見える。実は、この男は、日本会議をすでに辞めている(日本会議側の説明)という情報もあるので、「日本会議の教育理念を実践」という表現を使うと、日本会議が嫌がるかもしれない。

 むしろ、籠池「前」理事長(3月末で辞任)は、教育勅語を「教育理念」よりも、学校経営の「経営理念」(利潤追求だろう)にしているのではないのか。そういう経営理念を踏まえた極右の学校づくりに同感する「政治理念」を持つ「日本会議国会議員懇談会」など日本会議系の政治家(国会議員や府知事ら)たちが森友学園の小学校建設に国有地の格安払い下げや学校創立のイレギュラーな認可(便宜をはかる)など異常なまでの助力・尽力をした(その後、風向きが変わって「ご破算」になった)のが、今回の問題(事件)の本質ではないだろうか、と思っている。そして、完成間近の時点で、「悪巧み」が表に出てしまい、世間から非難された途端、籠池理事長ひとりに責めを負わせて、皆逃げ出し、この男の足を引っ張っている、というのが実相ではないのか。

★ 2017年4月、大人たちは子どもたちをタイムマシーンに乗せて、「連れ去ろう」とした。「日本会議のモデル小学校」だからこそ、学校認可の権限を持つ日本維新の会(大阪維新の会)所属の松井大阪府知事などが、小学校の認可を2017年4月の開校に向けて、異例にも特別の便宜をはかったのであろうし、それと並行して、その学校用地のために国有地を異例にも安く払い下げるようにと行政に「忖度」させた有力政治家がいたのではないのか、と推測をする。

 つまり、政権側では安倍晋三ら日本会議系の有力政治家が用地確保の支援をし、権力に阿(おもね)る官僚どもが忖度し、学校創立認可に影響力のある大阪府の松井知事ら大阪維新の会(日本維新の会)系の地方政治家も力を貸していたということが容易に推測される。何が何でも日本会議のモデル小学校を作りたかったという勢力が、籠池某(名前の方はいくつかあるらしい。以下、全員敬称略)の請願に応えてやろうとしたのではないのか。もし、この問題が発覚しなければ、そのまま認可がおり、「瑞穂の國小学院」というアナクロニズムの校名を持った小学校は4月から開校されていたであろう。

 子どもたちは、大人がよってたかって用意したタイムマシーンに乗せられて、意味も判らないまま教育勅語やアジア近隣諸国へのヘイトスピーチを暗唱させられ、戦前回帰の異様な世界に連れ去られるところだった。「赤い靴はいてた女の子。異人さんにつれられて行っちゃった」(野口雨情作詞)と、同じような図柄が浮き彫りにされた。「偉人さん」たち、つまり「えらいさん」たちは子どもを平気で虐待している。子どもたちよ、危ないところだった、と言えるのではないか。

 それにしても、籠池は、権力側の有力な政治家や官僚などに背中を押されて、本人曰く「神風」を帆いっぱいに受けて、「天国」へ乗り出すはずだったのに、小学校の創立認可も取り下げ、建築途上の学校も壊して、用地も原状回復して返却させられることが見込まれ、とんだ「地獄」に突き落とされたと思っていることだろう。彼の恨み骨髄の気持ちは、容易に想像できるし、こういう叩き上げの大阪のおっちゃんはへこたれない、手強いぞ。

★「伊賀上野敵討の場」
 国会での証人喚問については、中継を含めて、マスメディアが大きく取り上げたので、その詳細については、ここでは触れないが、当初私は、歌舞伎の「伊賀越道中双六」の大詰「伊賀上野敵討の場」。伊賀上野鍵屋辻(かぎやつじ)の場面を連想した。敵を討たれる憎まれ役の沢井股五郎が「こうなったら、破れかぶれだ!」と言って、戦略を捨てて思うままに討ちかかり、敵討ちされてしまうという場面だが、実際の国会での籠池は、破れかぶれな気持ちを抑えて、「自分だけが悪者にされるのは、ごめんだ」、「こうなったら道連れ心中だ」(と思ったかどうかは判らないが)とばかりに、時に笑みを浮かべて、冷静沈着に落ち着いて証言をし、「きのうの友は、きょうの敵」とばかりに、ファックスやら何やら、具体的なエビデンス(本物かどうかは判らないが)を持ち出して反論した。

★「助六所縁江戸桜」
 「瑞穂の國小学院」という時代錯誤の小学校を極右の圧力団体に共鳴した政治家たちが、つい、きのうまで、よってたかって実現させようとしていた。小学校創設の中心にいたのが籠池某。ところが、格安に国有地払い下げが明るみに出るわ、不適切な大阪府の学校認可も問題になるわ、となった途端、籠池理事長(当時)は、まるで水中に蹴落とされた犬のように扱われ始めた。彼が水中から這い上がろうとすると、政治家たちは、権力を振り回して、この「犬」を叩くわ、石を投げるわ、し始めたのだ。大阪のおっちゃんこと、この男は、ヤワではない。国会の証人喚問では、歌舞伎の通称『助六』、『助六所縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』の主人公・助六ばりに、花道で啖呵をきって見せた。

 私の目には、助六もどきの衣装に身を固めた籠池理事長の姿が見える。黒羽二重の小袖、紅絹(もみ)の裏地、蛇の目傘を掲げて、黄色い足袋に黒い鼻緒の下駄を履き、江戸紫縮緬のハチマキを右結びにして、背中には尺八を差し込んで、花道に繰り出してきたではないか。蛇の目傘は、ファックスやらメールやら手紙やらのコピー紙を貼りあわせてある。花道七三の、いつものところで、啖呵をきる。小悪党ながら、裏切った巨大な権力者に立ち向かうように見える。その様は、テレビなどを通じて多くの国民が見届けることになる。その内容は、いまさらここで詳らかにする必要もないだろう。すでに報道されている。水に落とされた犬の吠え声か、遠吠えか、は知らねども、この男は「役者」ではあった。だが、彼らは、本来、「同じ穴の狢」ではないのか。

★ 極右バトルは、同士討ち?
 しぶといね。権力を背景にした与党の議員の抑圧的な攻撃に孤軍奮闘する様を見て、思わず、大向こうから声を上げた人もいるのではないか。これに対して安倍政権を擁護する与党の議員たちの「あなたは嘘つきだ」などと人格攻撃こそするものの、安倍首相らの潔白さを裏付ける決定打を出すことはできず、この日の証人喚問では戦略なく討ちかかり、傷を大きくしてしまった、という印象が強く残った。

 大きな傷を負いながら、逆転優勝した大阪場所の稀勢の里とは大違い。保身専一でひたすら逃げる安倍政権。籠池証言は「偽証罪だ」と、権力を笠に、三権分立の原則(立法と行政は違う)も無視して、吠える。それを薄笑いの笑みを浮かべて見送る籠池氏、という絵が私の眼裏(まなうら)に残された。戦前回帰を政治信条とする安倍晋三に連なる政治家と、戦前回帰を売り物にする経営理念の持ち主とのバトルは、まだ、暫く続くのではないか。

 一強多弱の安倍政権は4年先まで最強と思われた政治状況は、年初には誰も予想しなかったような極右バトルという局面を迎え、「国有地の払い下げに安倍夫婦や事務所が関わっていたら、首相も国会議員も辞める」と大見得を切ったばっかりに、一気に政局化へ向けて動き出したようにも見える。籠池・安倍劇場は、連日満席だった大阪場所と同じように、「満員御礼」の幟が垂れ下がって、安倍政権の支持率をジリジリと下げさせている。しかし、見逃してはならないのは、安倍政権が倒れても、籠池が抹殺されても、現代日本の極右化社会状況が解消されない限り、この問題が惹起した病理は快癒されないということだ。2017年3月31日。安倍政権は教育勅語を改めて「道徳的に」容認するという閣議決定をした。狢たちは、懲りないらしい。森友学園の問題の本質は、この政治状況、まさにここにこそある。

●大阪空港の着陸コース直下

 籠池という人物が経営する幼稚園と小学校の新設問題が、連日のように報道されていた頃。それを報じるテレビやネットなどの映像を見ると、建設される小学校(「瑞穂の國小学院」、前名は、「安倍晋三記念小学校」を予定していた、という)の用地は、時折上空を飛び交う航空機の機影が見える。この映像を見ると、ここは大阪空港の着陸コースのほぼ直下だろうか。

 1970年代前半。私が若い頃の話だ。NHK大阪報道部の記者だった頃、私は、3年ほど大阪空港の記者クラブに所属していたことがある。航空機の安全運航の監視、国の航空行政、特に、この時期はエアバスという大型ジェット機を大阪空港にも乗り入れさせるかどうかが大きな課題だった。さまざまな航空機の騒音、振動、風圧問題の解消で、運輸省(当時)と地元の空港周辺自治体(11市で構成)が、もめていた。

 自治体は通称「11市協議会」という共闘的な組織を構成して、騒音などを軽減する有効な対策を国が打ち出さないなら、大阪空港を撤去せよと要求する交渉をしていた時期である。大阪と兵庫の府県境を越えた取材をした。11市協議会の事務局担当の伊丹市などには 「空港撤去推進室」などという勇ましい名称を掲げた担当課もあったほどだ。これに対して、国の航空行政は空港周辺地域の住宅の防音化工事実施か、土地建物の買い上げ、住民の移転(つまり、立ち退き)という対策が二本柱であった。

 これとは別に、周辺の住民たちも、着陸コースの大阪府の豊中側と離陸コースの兵庫県の川西・伊丹側などで国を相手どって大阪空港の飛行時間の制限、騒音低減を求める訴訟団を結成したりしていた時期だ。航空記者たるべく航空用語や主要機種の勉強と合わせて、航空公害という新しい公害の勉強も取材しなければならなかった。

 だから、豊中側の着陸コースを飛び交うジェット機と建設途上の小学校者の映像を見ると懐かしさを覚えるほどだ。今回の用地が元国有地で、しかも、大阪航空局の所有地だというので、空港周辺対策で収容した土地だったのかなと、昔日を思い出した次第である。

 森友学園問題が明るみに出た後、高速道路の空港線に隣接するようにしてある元国有地を「不適切」としか判断されないような格安価格で払い下げを受け、その土地に「瑞穂の國小学院」というアナクロニズム丸出しの名称を付された小学校の建設工事が続いていた。超国家主義的な幼稚園教育を受けた子どもが普通の公立小学校に入学すると「ブレてしまう」(と、誰かが言っていましたね)ので、幼稚園同様に超国家主義的な教育をすることができる小学校を作る。

 そのためには、小学校創立を認可する審議会を「歪ませて」しまおう、小学校を作る用地を特別サービスで安くお譲りしましょうということになったらしい。そういう特別サービスのために「維新」の知事が覇権を握っている大阪府も協力し、国政の場では極右の政治家たちが財務省にも協力させたらしい。というのが、これまでの明るみに出てきた、この問題の本質的な骨格らしい。小学校の異常さこそ、問題だが、ここを野党側も、きちんと追及していないようだ。

●日本会議の「影」は、濃いまま

 「塚本幼稚園」は、極右化した教育を幼稚園児にやっているとか、稲田朋美という政治家が関与しているとか。稲田朋美は、生長の家や日本会議に関わる極右の政治家で、安倍政権と極右の圧力団体・日本会議を結ぶ「重鎮」となっていることくらいは知っていたが、一方の籠池という人物については、全く知らなかった。塚本幼稚園の経営主体が森友学園というのも知らなかった。それが今や、日本国中が、森友学園、籠池理事長(3月末で辞任した)を知っているのではないか。

 籠池という人物は、日本会議大阪の役員だとか、いや、もうやめたから役員「だった」とか。いずれにせよ日本会議に共鳴するおっちゃんらしい。「瑞穂の國小学院」、森友学園(森友は籠池夫人の旧姓と同じ。つまり、妻の父親が経営していた学園の理事長に収まったのが籠池ということなのだ)日本会議かそれを支持する人たちが、籠池前理事長のところに嫌がらせのメールを送っている、という噂もある。もう「死語」になっていると思った表現を使えば、「内ゲバ」か。極右同士に内ゲバ。

 しかし、この連載では、日本会議を離れて、「原理日本」という雑誌を戦前に出していた「原理日本社」のことを書いてみたい。もちろん、両者には、繋がりはない。こういう時期に、「原理日本」という青年劇場公演(17年2月17日から26日まで)の芝居を観たので、今月の「大原雄の『流儀』」では、「原理日本」社のことを書くことにした、というわけだ。籠池某の代わりに、ここに登場する人物は、蓑田胸喜(みのだむねき)という男だ。どういう男だったのか、というと……。

●「原理日本」と蓑田胸喜

 蓑田胸喜(みのだむねき)は、1894(明治27)年1月26日熊本県生まれ。 1946(昭和21)年1月30日没。自死であった。蓑田は、反共・右翼思想家。慶應義塾大学の教授(論理学や心理学)を経て、「原理日本社」主宰。国際反共連盟評議員。慶大で蓑田の受講生であった奥野信太郎(中国文学者、のちに慶大教授)によると、「授業では論理学についてはほんの少し触れるのみで、マルクス主義の攻撃と、国体明徴に終始していた」という。試験では、明治天皇御製を三首書いて出せば、及第点をくれた、という。蓑田胸喜の教授像がよくわかるエピソードである。

 「原理日本」は、1925(大正14)年11月に創立された超国家主義を標榜する原理日本社が同月に創刊した雑誌である。創刊号には、「凝固革命思想對不断思想学術改革機関雑誌」という意味不明なキャッチフレーズが刷り込まれている。1928年には、政治的「右翼雑誌」として法的に認可された「創刊号」がある。ファッショ的な「学術雑誌」、政治的な右翼雑誌。途中で、出版法から新聞法へ雑誌の登録を変えたりしたため、創刊日が複数ある、という奇妙な雑誌だ。この雑誌は、極右思想に共鳴する読者が潜在的な執筆者でもあるという、いわば同人誌的な少部数刊行の雑誌であり、1944(昭和19)年1月1日刊行(185号)で事実上終刊となる。「原理日本」は、「殆ど毎号帝大教授等の諸説を反駁する論説を掲げてゐる」(内務省警保局)と官憲の記録には残っている。

 この雑誌を支えた中心人物は、慶応義塾大学文学部予科の教授・蓑田胸喜と「皇道歌人」として知られた三井甲之(こうし)らであった。蓑田が評論の軸となり、三井が短歌の軸となった。論文のほか、短歌の掲載に熱心であった。この二つが雑誌の二本柱となった。治安維持を担当する当時の内務省警保局では、「原理日本」を「純正日本主義」の右翼思想雑誌として分類していた。佐藤卓己は、「歌学的ナショナリズムのメディア論―『原理日本』再考」という論文の冒頭を次のように書き出している。「『原理日本』は、昭和戦前を代表するファシスト思想家・蓑田胸喜の「悪名」とともに、その「紙製凶器」として名高い」。「紙製凶器」とは、言い得て妙。今なら、メールなど。いわば、「ネトウヨ」の走りのようなものか。

 三井甲之(こうし)は、1883(明治16)年10月16日、山梨県生まれ。1953(昭和28)年4月3日没。三井は、文学者、歌人、右翼思想家。本名は甲之助。蓑田より11歳年上。1902年(明治35年)、死去した正岡子規の短歌革新に共感する一高生であった。正岡子規の「根岸短歌会」に属した歌人三井甲之は、同会の機関誌「馬酔木」が終刊となった後、後継誌として伊藤左千夫が創刊した「アカネ」の編集を担当した。しかし、後に、三井が伊藤と決別し、旧「馬酔木」同人たちが「アララギ」を創刊すると、三井は「アカネ」を「人生と表現」(明治から大正期刊行)に改題する。「『原理日本』は、こうした短歌雑誌の系譜に連なっている」(佐藤卓己)ので、従って、『原理日本』には多くの詩歌が収録されている。「『原理日本』の精神的中核にあったのは、三井の歌学といえる」(佐藤卓己)。論理より、情感重視。蓑田胸喜や三井甲之らの頭の中では、明治天皇御製、シキシマノミチ、国体明徴、神ながらの道などが渾然一体となっていたのであろう。

 蓑田、三井たちは、雑誌「原理日本」を使って、「帝大赤化教授」弾劾キャンペーンを展開した。要するにリベラルな学者をアカデミズムの世界から追放しようとした。主に帝国大学に在籍するマルクス主義学者や自由主義学者を糾弾し、戦前昭和の学問・言論弾圧の尖兵となった。その最初の犠牲となったのが京大法学部の滝川幸辰教授であり、「滝川事件」(1933年)と呼ばれた。京大では、文学部の西田幾多郎名誉教授も糾弾された。

 東大法学部では、美濃部達吉名誉教授の「天皇機関説(1912年発表)事件」(1935年)が弾劾されて国体明徴運動が起き、美濃部博士が貴族院議員を辞職した。このほか、東大法学部系で排撃されたのは横田喜三郎教授、田中耕太郎教授、宮沢俊義教授、矢部貞治教授など。東大経済学部では、大内兵衛教授、河合栄治郎教授、矢内原忠雄教授ら。そのほか、私立大学では、法政大学の三木清教授、早大の津田左右吉教授など。

 原理日本社の一派が国粋主義に徹していたことは、天皇絶対論を唱える帝国陸軍の「皇道派」、特に、真崎甚三郎大将や柳川平助中将らに支持された。このように原理日本社の活動は当時の政権や軍人、官僚に大きな影響を及ぼしていった。しかし、大政翼賛会発足に伴い政党が消滅させられた結果、排撃活動の対象となる政党を失い、活動は次第に停滞していった。1945年の敗戦後、原理日本社は、ほか右翼団体と共にGHQにより解散を命じられた。三井らは公職追放され、1940年代に入って体調を崩していた蓑田は1946年、自ら命を絶った。

●青年劇場が描く「原理日本」の時代相

 演劇「原理日本」は、久板(ひさいた)栄二郎原作。1970年劇団俳優座のために書き下ろされた。今回、青年劇場が47年ぶりに再演した。演劇では、超国家主義などを説き、「原理日本」社を主宰する猿田彦市を主人公にした。猿田彦市は蓑田胸喜がモデルである。蓑田の1933年から1946年までの13年間をトレースし、京大の滝川幸辰教授、東大の美濃部達吉博士(名誉教授)弾劾の急先鋒に立つ猿田の姿などが描かれる。美濃部博士は、劇中にも実名で登場する。世論の支持を受けた猿田に近づく政治家、軍人、財界人などを描く。彼らが猿田を取り巻き、猿田を増長させて行く様子が描き出されて行く。この辺りが、私には、森友学園問題を連想させる。

 舞台は、1933(昭和8)年、京都の旅館。逗留する猿田彦市と同席するのは、出版社社員・広瀬。左翼から転向した編集者。猿田を煽っている。そこへ、猿田が宝塚女優との間にもうけた私生児・光本ゆり子の手引きで3人の京大生が猿田に面会に来る。滝川事件について論争しようとする京大生たちに対して猿田は自説を強弁するだけ。議論はかみあわない。逆上した猿田は学生を追い返す。

 1935(昭和10)年、猿田の自宅。猿田は貴族院議員・山路男爵と手を組み、美濃部達吉博士の天皇機関説を排撃し、日本が万世一系の天皇の統治する独自の国家であるとした「国体明徴論」を展開し、軍部が国政の主導権を握る道を開いて行く。
 敗戦後の日本。民主主義の敵として猿田を指弾するのは、戦前、猿田に戦争を煽った広瀬。無節操な編集者。その様子を冷ややかに眺めているのは、息子の猿田彦太郎。その言動は三島由紀夫がモデルらしい。戦前、治安維持法で逮捕された歴史学者の壬生五郎のモデルは、羽仁五郎という。岩波茂雄も蓑田胸喜と実際に接触があったが、劇中でも出版人として川波重雄という人物が出てくる場面がある。

 「日本は平和国家に生まれ変わった。もう戦争はない」。
 「そこへまた大明神(猿田のことだろう)が現れて火をつけて回るのね。『八紘一宇』の火を」などという科白もあり、戦前と戦後、特に今日的な極右の時代相も描き出されている、と受け止めた。

 青年劇場のチラシの惹句には、次のような文言があった。「今、必要なのは論理でも、理屈でもない! 神ながらの道、国体明徴!」。1972年生まれで、戦争体験のない大谷賢治郎が演出をする。彼はこう言う。「歴史に学ばない為政者が世界を動かし、恐ろしい未来を築いていく、それはもはや仮定でも仮想でもないのだ」。

●「一強多弱」は、反デモクラシー

 天皇機関説が今日的には合理的な政治制度としての天皇のあり方を論じたことに対して、国体、国柄、国ぶりなど、この国のあり方の特異性を説く「神ながらの道」あるいは「神ながらの心」という情念を蓑田胸喜らは対置した。同じような精神風土を今も堅持するのが日本会議の系統であり、これに同調する安倍政権を支える政治家や官僚、財界人たちが、舞台から二重写しに見えてくる。

 安倍政権は、今でこそ、森友学園問題という強い風に吹かれているが、政界も与党内も「一強多弱」という安倍政権を取り巻く政治状況は、極めて反デモクラシーの状況となってきた。「共謀罪」法案も国会の審議が始まってしまった。

 日本の政治風土では、多弱連合による政権運営こそ、デモクラシーに相応しいのではないのか。森友学園問題で露呈されたことで極めて大事だと思われることは、安倍政権のもとで公文書の保存がないがしろにされているか、確信犯的に意図的に「隠蔽」されていて、それがまかり通っているか、に見えることだろう。公文書の保存とルールに則った開示システムこそ、近代的なデモクラシーの根幹である、と思う。マスメディアは、国民の知る権利に基づいて、報道の自由を確保する義務がある。安倍政権が反デモクラシーの道を暴走していることを国民に知らせるべきである。

 森友学園問題に関連して、首都大学東京の木村草太教授の言葉を引いておきたい。「今回の土地取引では特約付きの定期借地契約を事前にやっていたとか、或は買受権行使時期に分割払いを認めた、或は廃棄物処理費用を国の側で算定した事など、非常に異例な点が多く、こういう問題が起きなくても事後的な検証が為されうる事は容易に想定出来た筈で、その記録が全く無いというのは非常に不自然ですし、もしこれで良いという規則なのであれば、規則を作った人の責任を問わなくてはいけないと思います。これ規則制定権者は当然財務大臣でありますから、この疑惑が解明されなかったとしたら財務大臣がキチンと責任を取る、辞任する覚悟でこの事案を解明して欲しいと思いますね」。

 ファッショ社会では、国家権力は一市井人であっても、必要とあれば、「しつこく」監視し、攻撃してくる。共謀罪と監視社会。安倍政権を構築する人々。そこからはみだされた人々。森友学園問題では、どちらも利権にたかる人たちだろう。こういう人たちが、再び、大手を振るって表の世界を跋扈する時代がやって来た、ということを浮き彫りにしているのではないのか。

 (ジャーナリスト・元NHK社会部記者・日本ペンクラブ理事 オルタ編集委員)


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