【自由へのひろば】

日本社会党の衰退から考える現代政治

岡田 一郎


 日本社会党の衰退要因について、五十嵐仁は(1)歴史的転換失敗説、(2)社会的基盤不在説、(3)組織・活動説の3つに分類している(五十嵐仁『政党政治と労働組合運動』御茶の水書房、1998年、198〜202頁)。

 (1)はかつてよく言われた説であり、社会党が高度経済成長に伴う日本社会の変化に対応できず、西欧型社会民主主義政党に脱皮出来なかったために衰退したのだという説である。この説は西欧型社会民主主義路線をとった民社党が伸びなかったことや1980年代に社会党が西欧型社会民主主義路線に転換しても、それが党勢拡大につながらなかったことで容易に否定される。

 (2)は、西欧に比べて労働組合の勢力が弱い日本では、そもそも社会民主主義が成立する余地はなかったという説である。だが、社会党の場合、労組だけに支持されていたわけではない。河上民雄先生はかつて社会党の組織を次のように形容された。「小さな党組織を中核として、その周囲に総評という大きな支持組織と、さらにその外側に社会党と戦後体験を共にしてきた一般市民、主婦といった未組織の半ば恒常的な支持層が同心円のような形で取り巻いている」(河上民雄『現代政治家の条件』春秋社、1968年、89頁)仮に労働組合勢力が西欧諸国に比して弱かったとしても「未組織の半ば恒常的な支持層」を拡大していけば、社会党の党勢拡大は理論的には可能であった。問題はそれがなぜ出来なかったのか、である。

 (3)は、社会党の党組織が弱体であり、日常活動が不足していたことに原因を求める説である。五十嵐は社会党がそのような体質に陥った理由として「反共主義」を挙げている。反共主義であるがゆえに、共産党のような地道な党員拡大や日常活動を怠り、社会党は労組依存に陥ったというのである。私はむしろ逆に共産党的な「党の指導に絶対に従う膨大な党員」という組織を追求し、それが社会党にそぐわなかったがゆえに社会党は衰退したのではないかと反論した。(拙稿「1960〜70年代における日本社会党の党組織と江田三郎」『年報日本現代史』14号、2009年)

 1952・53年総選挙を分析した、蝋山政道ほか編『総選挙の実態』岩波書店、1955年を読めば、かつての社会党の実態は河上先生が形容されたとおりであることがわかる。
 旧東京都第6区では「地元のために尽くしてくれた」「自分は自由党支持だが熊本氏が落選するのは困る」ということで人々は熊本虎三候補(右派社会党)を応援し、また女性有権者は「女性は女性同志」ということで山口シズエ候補(右派社会党)を応援していることを、この分析では紹介している。また、東京都南多摩郡鶴川村(現在の町田市)での調査では「ただここで今一つ注目すべき事実は、右派社会党で農民運動家、貧農に対して無料弁護を二〇年も引受けて来た中村高一氏が、自作、自小作、小作を問わず、よく農民一般に知られており、且つ非常な人気があることである。…(中略)…農民は直接自己に関係の無いものに対しては、ほとんど関心を示さないが、少しでも自己の利害に関係のあるものには非常に敏感であるということを示している」(169頁)と報告されている。

 当時の有権者は社会党をイデオロギーや政策だけで支持していたわけではなく、「候補者に世話になった」とか「候補者が女性だから」といった理由で支持している者も非常に多かったのである。この分析ではそのような有権者は意識の遅れた有権者として扱われているが、むしろ有権者が選挙で票を投じる際に基準にするのはこのようなイデオロギーや政策とは無縁の事柄なのではないだろうか。
 しかし、社会党は党の指導に絶対に従う膨大な党員に支えられた共産党型の組織を目指し、個人的感情で候補者個人とつながっていた膨大な未組織の支持者を切り捨ててしまう。その背景には、1950年代に、保守政党同様の個人後援会を基盤にする右派(顔の右社)よりも総評の全面的な支援を受ける左派(組織の左社)の伸長が著しかったことが考えられる。

 しかし、1960年代に入ると、民間労組の離脱によって総評の勢力は減退し、労組員の社会党支持も低下して、労組の支援が必ずしも強みではなくなってしまう。1970年代に入ると、社会党内では協会派が勢力を拡大し、党員獲得と日常活動に力をいれた共産党型の党勢拡大策がとられるが、協会派が獲得を目指した党員像は「党の指導に絶対に従う党員」であった。そのような党員は、党のイデオロギーが確立していなければ存在し得ない。党のイデオロギーに心から賛同し、その実現のためにある程度の犠牲も辞さないと覚悟した時、人間は初めて「党の指導に絶対に従う党員」となるのである。
 そのため、協会派は社会党のイデオロギーを労農派マルクス主義に統一しようとしたが、もともと労農派マルクス主義者だけでなく、雑多な主義主張の持ち主から成る社会党を労農派マルクス主義の下に統一するというのは無理な試みであった。協会派が党の純化を目指せば目指すほど、「未組織の半ば恒常的な支持層」が社会党から逃げ出すという結果になってしまった。

 一方、中選挙区制の下で、自民党では雑多な主義主張の存在が許された。自民党は1選挙区で複数の候補者を擁立するので、「未組織の半ば恒常的な支持層」は複数の候補者の中から自分が一番気に入った候補者を支援することが出来たし、自民党の公認を得られない保守系無所属候補を支援するという方法もあった。その候補が自民党公認候補を下して当選すれば、自民党から追加公認され、晴れて自分が支持する議員を自民党の中に送り込むことが出来たのである。そのため、自民党の周辺には常に膨大な「未組織の半ば恒常的な支持層」が取り巻くこととなった。これこそが自民党が長期政権を維持することが出来た理由である。

 しかし、小選挙区制では、1政党から立候補できるのは1人だけであり、無所属候補が勝利するのは制度的にかなり困難である。候補者は党中央が決定するが、候補者の選定は党員による投票で決まるわけでもなく、候補者選定の基準も決まっていない。選挙区の党員や支持者は党中央が、いかなる理由で決定したのかよくわからない候補者を支援しなければならないのである。このような制度の下では選挙に積極的に関わるのは「党の指導に絶対に従う党員」だけとなり、「未組織の半ば恒常的な支持層」は選挙から遠ざかることとなる。すなわち、自民党含め全ての政党が、協会派が勢いを保っていたころの社会党のような存在となるのである。
 自民党は他党に比べれば、「党の指導に絶対に従う党員」が多く、さらに長期政権を維持してきたことによって自民党に信頼を寄せる無党派層もそれなりに存在するので、選挙戦を優位にすすめることが出来る。それでも、選挙に関わる「党の指導に絶対に従う党員」を確保するため、自民党でも党のイデオロギーを純化しようという力学が働く。それが今日言われる「自民党の右傾化」である。

 政党のイデオロギーや政策に無関心だが、候補者に対する好意から選挙に携わっていた人々が排除され、党の指導に絶対に従う、ごく少数の党員や支持者のみが選挙に関わっているという今日の構図は、有権者の政治参加という観点から見ると決して望ましいものではない。小選挙区制は早急に見直されるべきである。
 ならば、どのような選挙制度が望ましいのだろうか。政党のイデオロギーや政策ではなく、候補者個人への好意などが投票の動機になっている我が国においては、多くの候補者が立候補し、その中から有権者が選択できる選挙制度が望ましい。候補者が多ければ多いほど、有権者は自分に合った候補者を見つけやすくなるからである。そのため、1選挙区からできるだけ多くの当選者を出す制度にすること、そして供託金を大幅に減額し、できるだけ多くの人々が立候補できる制度へと我が国の選挙制度を変更するべきである。

 (筆者は小山高専・日本大学・東京成徳大学非常勤講師)


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