【コラム】
大原雄の『流儀』

映画『フクシマフィフティ』のリアリズム


大原 雄

 2011年3月11日。東日本大震災は、地震とともに津波による大災害を引き起こした。地震と津波は、さらに東北地方の太平洋岸に林立する原発(原子力発電所)群を襲った。あれから、9年。地震、津波の記憶も「風化」が問題となってきたように、地点によっては高い放射線量が今も観測されるにも関わらず原発事故の記憶も「風化」が問題となってきているように思える。こういう中で、原発の事故による破壊が、大画面にリアルに映像化され、多くの人に改めて地震津波の被害とともに原発事故の被害がもたらす恐怖を可視化させたのが、映画『フクシマフィフティ』だ。
 この映画は、もっと注目されて良いだろうが、2020年3月6日からロードショー公開されたにも関わらず、世の中は、去年暮れ以降、中国の武漢を中心として発症した新型コロナウイルスによる「感染症」の劇症ぶりに怯えて、日本では、特に2020年2月後半以降、パニックになっている。誰にも感染る可能性がある感染症の死に至る肺炎の凄まじさ。4月7日時点でさえ、世界中で136万人以上が感染し、7万6,000人以上が亡くなっている。私も含めてだが、誰もが、この凄まじさに目を奪われてしまっているようで、映画『ふ』への注目度が高まったのかどうか、マスメディアの情報では、伝わってこない。
 この映画が、新型コロナウイルス感染症の「悪所」(「密室」・「密集」)のような映画館で見るしかない、という、この時期の不利な条件の中ながら、多くの人に観てもらいたい、と思うのは、私だけではないだろうに、……。

見えない敵(放射能と新型コロナウイルス)との闘い

 映画『フクシマフィフティ』を試写会で見たのは、死に至る劇症性肺炎を引き起こす新型コロナウイルス禍が全世界各地に拡散する前であったが、今、この映画について評論を書いてみると、福島の東京電力福島第一原子力発電所(原発)の爆発事故によって、大気や水を通じて各地に撒き散らされた放射能と、動き回るヒトを通じて拡散される新型コロナウイルスとの共通性に気づかされる。最大の共通性は、放射能も新型コロナウイルスも、人類に致命的なダメージを及ぼす凶悪な「毒」であるにも関わらず、普通の人間の眼には、見えない敵である、ということだ。それゆえ、異常にパニックにもなる人もいるし、異常に軽視したりもする人もいるようだ。

 さらに、日本では、新型コロナウイルス感染に関連して、4月7日、安倍政権は、新型コロナウイルス対応などを目的とした特別措置法(以下「特措法」と略す)の規定に基づき、「緊急事態宣言」を出した。この結果、宣言を受けた7つの都府県(東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県、大阪府、兵庫県、福岡県)知事は、住民に対して、外出自粛(なるべく自宅から出ないなど)要請などをし、住民は憲法で保障されている「私権」が時限的ながら制限される事態となった。
 「緊急事態宣言」の期間は、当面、5月6日まで、とされる。ただし宣言の「解除」や「延長」は、「一定期間経過後、専門家の評価をもとに判断」される、という。判断するのは、当該政権ということだろう。「緊急事態宣言」に対する国民側の歯止めは、どうなっているのか、など「新型コロナウイルス」関連については、次号で、別稿として書きたい。

映画『フクシマフィフティ』

 さて、『フクシマフィフティ』(Fukushima 50)というのは、福島で起きた原発事故の被害を映像化という形で、可視化させた映画のタイトルである。原作は、門田隆将『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発』というノンフィクション作品である。映画『フクシマフィフティ』は、2020年3月6日に一般公開された。
 「フクシマフィフティ」は、通称︎「イチエフ」と呼ばれる東京電力福島第一原子力発電所(原発)の、「フィフティ」=50人のことである。原発事故直後、現場に居合わせたり、現場に駆けつけたりして事故対応した50人は、その時、そこで何をしたのか。当時の海外メディアは、尊敬を込めて彼らを「フクシマフィフティ」(通称)と呼び、その言動を世界各地に向けて報道した。その流れを受けて、若松節朗監督は、原発事故の映画化で何を表現しようとしたのか。今回の「大原雄の『流儀』」では、そこを再現してみたい。

スクリーンで描かれる「現場」は……

 映画は、「東電」(映画では、「東都電力」となっている)原発、2011年3月11日午後2時46分の地震から始まる。スクリーンには、「イチエフ」の中央制御室が映し出される。原発運転の最前線にある中央制御室は、通称「中操」と呼ばれる。原発1、2号機サービス建屋の2階にある中央制御室(中操)を大きな揺れが襲った。マグニチュード9.0。最大震度7という日本の地震観測史上最大と言われる東日本大震災の発生である。誰も経験したことがない激しい揺れが続く。
 揺れの中、現場の責任者である原発1、2号機当直長の伊崎利夫(佐藤浩市)は、(原発の緊急停止)を指示する「スクラム!スクラム!」と大声で叫ぶ。職員ら作業員たちへの指示である。「原子炉の制御を諦めてはダメだ。これからどういう状況になるか判らないが、最後に何とかしなきゃならないのは現場にいる俺たちだ。故郷を守るのは俺たちの手に掛かっている」と伊崎は、皆を鼓舞する。

 発電所の所長室にいた所長の吉田昌郎(渡辺謙)も、急激な揺れに驚愕する。吉田は、激しい揺れで足元も覚束ないまま、免震構造になっている免震棟の緊急時対策室に向かう。通称「緊対」と呼ばれる。「緊対」にたどり着いた吉田所長は、原発内の各所の安全を確認するようスタッフに命じるが、大津波警報も発令されたと知ると、原発敷地内にいる作業員たちに避難も呼びかける。

 地震の直後、原発の1号機、2号機、3号機には、自動的に制御棒が挿入されて、「スクラム」(緊急停止)状態となった。4号機、5号機、6号機は、定期点検中で、作動していなかった。当直長伊崎利夫の指示もあり、原発は、地震にもちこたえて安定しているかに思えた。しかし、地震は、それでは済ませなかった。ものすごい高さの津波が、地震の後、海岸縁(べり)にある原発群を襲ったのだ。
 巨大な壁のようになった津波は、原発を覆う建屋に轟音とともに激突してくる。この壁は一つではない、次々と押し寄せてくる。建屋の地下にも海水は流れ込む。原発の非常用発電装置が水没し、停止に追い込まれる。発電装置は、非常時の照明を確保しうるし、絶えず冷却しておかないと、とてつもない高温になってしまう原発を冷やすなどの重要な役割を担っている。原発敷地の外から送電する装置も破壊されてしまった。津波で押しつぶされた原発は、その電源を確保することができなくなる。その結果、午後3時40分「SBO(全交流電源喪失)」が宣言される。

 原発は停止しても、後処理のコントロールが効かないまま、核燃料は熱を出し続ける。このままでは、原子炉の冷却装置が動かなくなり、溶けた核燃料が格納容器を突き破り、「メルトダウン」(炉心溶融)が、引き起こされかねない可能性が出てきた。そうなれば、原子炉の格納容器が破壊され、大量の放射性物質が、大気や海水を通じて、周辺に放出されてしまう。大量の放射能による環境汚染だ。その被害は、福島だけでなく、関東地方、首都圏を襲うだろう。その結果、東京を含めた東日本を壊滅してしまうかもしれない、という状況させ生み出しかねない。

 冷却水は、減り続ける。原子炉内の核燃料は溶け始め、溶け続ける。原子炉格納容器の圧力も上がり続ける。このまま放置すれば、原子炉が爆発しかねない。「ベント」(圧力を抜く)の必要があるが、電源喪失の状況では、コンピュータでは制御不能だ。誰か作業員を原子炉に近づかせて、手動でベントを行わなければならない。「緊対」の吉田所長(渡辺謙)からの指示を受けて、当直長の伊崎は、高い放射線量の中、現場の手作業に向かう志願者を募らざるを得ない。当然のことながら、己の命に関わる作業に向かうかどうか、躊躇する作業員たち。伊崎利夫(佐藤浩市)が、「まず俺が行く」と言い出すと、不安を抱えていた作業員たちの中からも「僕も」「俺も」と手が上がる。現場の責任感から次々と志願する声が響く。作業員役で脇を固めるベテランの俳優は、毅然とした表情。若い俳優は、真剣そのものの表情で、彼らの決意は、演技のレベルではないように見える。

 撮影班のプロダクションノートには、「ワンカットごとに現場のテンションが上がって行く」と記されていた。伊崎は、作業員を二人一組でペアを組ませ、限られた時間内で、現場に向かい、ベント作業を行い、帰還する、という作業手順を説明する。その場面でも、「緊急時も走ってはいけない。急ぐ時は早足で」などという元作業員のアドバイスに従って俳優たちは演技する、ということで、若松節朗監督は、スタジオセットもリアルに作り、徹底したリアリズム演出を貫く。

 伊崎当直長(佐藤浩市)は、現場の作業を複数の作業員でリレー式に続けるという段取りをつける。伊崎にしてみれば、部下の命に関わる作業だから、作業手順は、効率的に、しかも、慎重にしなければならない。作業員たちは、自分の生命維持を横目に、高い放射線量を浴びながら作業を続ける。作業中も大きな余震があり、これも心配だ。津波の後も、余震が続いているからだ。リレー式にベント作業を続ける作業員たち。スクリーンには、原発事故の緊迫した映像が映し出される。
 映画は、原発周辺の住民たちも描き出す。当初、原発から半径2キロ以内の住民には、避難指示が出される。エンターテインメント映画ながら、ドキュメンタリー作品かと錯覚するようなノンフィクション性の高いリアルな映像が次々と繰り出されるので迫力があり、改めて、2011年3月11日以降の福島の原発事故を再現(あるいは、再構成)して行く。

 映画は、「イチエフ」(「東電」福島第一原子力発電所)の構内、中央制御室(中操)、緊急時対策室(緊対)、原子炉建屋ばかりでなく、東京の「東電」本店、首相官邸、駐日アメリカ大使館などの様々な「言動」をも、一部ながら映像化して描き出す。

◆ ''映画は、ノンフィクション性が高い……
''
 映画が描こうとしたのは、2011年3月11日以降の5日間。メルトダウンや水素爆発の危機が迫り来る中で、原発の現場では、当時どういうことが起こったのか。現場で働く人々は、どういう行動をしたのか、真実は、何か。
 以下、映画が描いた11日から15日までの5日間の1号機、2号機、3号機の時系列メモを作ってみた。

「イチエフ」1号機と2号機、3号機の時系列(抄録)メモ

2011年3月
・11日
  午後02時46分:地震発生。1号機と2号機、3号機は、稼働中だが、
         4号機、5号機、6号機は、定期点検で停止中。
  午後03時42分:1号機、2号機、3号機。全交流電源喪失。
・12日
  午前10時17分:1号機、ベント開始。
  午後03時36分:1号機、水素爆発。
・13日
  午前08時41分:3号機、ベント開始。
  午前11時00分:2号機、ベント開始。
・14日
  午前11時02分:3号機、水素爆発。
・15日
  午前08時25分:2号機、白煙。

ドキュメンタリー調の演技をした出演者たち。

 主な配役は、以下の通り。
 官邸では、以下の俳優たちが演じる。内閣総理大臣(佐野史郎)、内閣官房長官(金田明夫)、原子力安全委員会委員長(小市慢太郎)、原子力安全・保安院院長(矢島健一)、経済産業大臣(阿南健治)、首相補佐官(伊藤正之)。

 「東電」本店では、東都電力(なぜか、「東電」は、「東都電力」となっている)フェロー・竹丸吾郎(段田安則)、緊急時対策室総務班・小野寺秀樹(篠井英介)。福島の現場を預かる吉田所長らと向き合う東電本店側の窓口役ら。

 駐日アメリカ大使館では、在日アメリカ軍の将校・ジョニー(ダニエル・カール)。アメリカ大統領に緊急電話をかける連絡役。原発事故対応に協力する自衛隊では、陸上自衛隊陸曹長・辺見秀雄(前川泰之)。

 己の犠牲を顧みず、命をかけて頑張った人たち。コントロール不能になった原発制御に尽力したことを知った海外のメディアが彼らへの尊敬を込めて呼んだ「フクシマフィフティ(50人)」を演じる「イチエフ」側の人たち。

 「フィフティ」側の主な配役は、以下の通り。
 所長・吉田昌郎(渡辺謙)、1・2号機当直長・伊崎利夫(佐藤浩市)、5・6号機当直長・前田拓実(吉岡秀隆)。

 「緊対」では、総務班・浅野真里(安田成美)、発電班長・野尻庄一(緒形直人)、保安部部長(復旧班長)・樋口伸行(皆川猿時)、防災安全部部長・佐々木明(小野了)、復旧班電源チーム・五十嵐則一(金山一彦)、復旧班注水チーム・望月学(天野義久)、ユニット所長(副本部長)・福原和彦(田口トモロヲ)。

 「中操」では、管理グループ当直長・大森久夫(火野正平)、第2班当直長・平山茂(平田満)、第2班当直副長・井川和夫(萩原聖人)、第1班当直副長・加納勝次(堀部圭亮)、第3班当直長・矢野浩太(小倉久寛)、第1班当直主任・本田彬(和田正人)、管理部当直長・工藤康明(石井正則)、5・6号機当直副長・内藤慎二(三浦誠己)、第1班補機操作員・西川正輝(堀井新太)、同・宮本浩二(金井勇太)、同・小宮弘之(増田修一朗)、第1班当直主任・山岸純(須田邦裕)。

 そのほかに、当直長伊崎利夫の家族や原発周辺の避難住民など。
 伊崎利夫の娘・遥香(吉岡里帆)、遥香の恋人・滝沢大(斎藤工)、伊崎利夫の妻・智子(富田靖子)、伊崎利夫の父・敬造(津嘉山正種)。東電社員の家族では、当直長・前田拓実の妻・かな(中村ゆり)、避難民では、松永(泉谷しげる)、地元紙「福島民友新聞」記者(ダンカン)ほか。

 映画は、伊崎利夫(佐藤浩市)と吉田昌郎(渡辺謙)を軸に、「フクシマフィフティ」の行動記録を描き出すような演出をしているので、伊崎の家族や住民も描き出す。二人は、親友同士の同期入社ながら、片方はエリートの所長と片方は現場叩き上げの現場責任者の当直長という仲。息のあった現場対応の秘訣は、ここにある。最前線の当直長たちを軸にした人間ドラマという面も見せる。

 一方、官邸。当時は、民主党政権。原発の現場から連絡がこない。なかなか始まらないベントについて、官邸では、イラついていた総理大臣(佐野史郎)が自衛隊の要人輸送ヘリコプター「スーパーピューマ」(実機)を出動させて、自らも搭乗し、「イチエフ」の吉田所長の元へ直接やってくる。吉田所長を見つけるなり「ベントをなぜやらないのだ」と怒鳴り散らす場面が描かれる。吉田所長(渡辺謙)は、伊崎当直長(佐藤浩市)とともに作業員の命も守らなければならないので、「こちらは、決死隊を編成しているんだ」、と傲然と首相に言い返す場面もある。

 圧力を下げて、原子炉の格納容器の爆発を避けるベント(排気操作)が、試みられる。排気弁を開けるのも、停電状態では、コンピュータではできない。手動でやるしかない。現場の排気弁に近づくためにも、二人一組で組んだ作業員たちは、暗い原子炉建屋の中を懐中電灯の明かりだけで足元を気にしながら歩いて、突き進む。それぞれが身につけた線量計の警報(アラーム)が鳴り出す。背負った酸素ボンベは、20分しか持たない。吉田所長との一体感を持つ作業員たちは、20分間の往復と作業を繰り返す。これをリレー式に繋ぎ、「ベント」終了へと、ジリジリ近づいて行く。作業員たちは、最後まで諦めずにリレー式作業を続ける。緊迫した場面だ。場合によっては、命を失くすか、重大な障害を受けるか、ということも厭わずに、作業員たちは、原子炉のメルトダウンや水素爆発を防ごうと、必死で闘い続ける。

現場は、「敵たち」と対決しなければならない

 吉田所長が対峙する敵は、破壊された不具合の原子炉だけではない。「東電」本店の幹部たち。福島の現場の実情を知らないまま、居丈高に経営幹部の方針を押し付けてくる。情報不足にイラつく官邸の総理大臣もいたのは、すでに触れた。吉田所長、伊崎利夫当直長などが、秒を争う緊迫の作業の中で、怒鳴ったり、叫んだり、瞬時、放心したりする場面が描かれる。現場の人たちは、「東電」の社員や作業員ばかりでなく、下請けの会社、救援の消防、自衛隊なども含めて、何百人という群像が、己の身の危険を考えずに、原子炉の暴走を防ごうと動いていたのが判る。

贅言;2012年に日本ペンクラブの視察団の一員として訪れたことがあるウクライナのチェルノブイリ原発の現場。この年から、チェルノブイリ原発の現場ツアーが、許可された。管理区域は、許可証を元に出入りがチェッックされる。1986年4月にここで起きた原発事故の際も、同じような人たちが命がけで活動したことを思い出した。チェルノブイリ原発事故の救助活動で殉職した人々の中では、消防関係者の数が多かった。

 映画の主たる基調は、大震災による大津波からの5日間の映像化である。原発が最も危険な状態になりながら、現場の作業員らの必死の綱渡り的な努力で、かろうじて、その苦境を脱するまでを描く。作業員たちは、ほとんど無名の人々。地元福島の出身者もいる。あるいは、原発という職場を渡り歩く人たちもいる。現場の所長以下作業員たちが、どれだけ悪戦苦闘しなければならなかったか。リアルな奮闘ぶりこそが、この映画が伝えようとしているメッセージだと私は理解した。
 地震によってもたらされた大津波。津波によって破壊された原発群の脆弱さ。これを映像化する場合、リアリズムに耐える映像化が要求される。若松節朗監督たちは、何をしたか。まず、「イチエフ」内の建物などの施設を正確に再現する巨大なスタジオセットを作った、という。破壊された原子炉建屋の外観などは、オープンセットが作られた、という。事故直後のアメリカ軍の動きを再現するためにアメリカ軍横田基地でのロケも敢行した、という。
 住民がひしめいた避難所のシーンでは、住民・松永(泉谷しげる)、原発作業員・前田拓実(吉岡秀隆)の妻・前田かな(中村ゆり)など周辺住民役を含め、2,200人のエキストラを動員した、という。デジタル映像を活用し、大地震、大津波、原子炉建屋の爆発も迫力ある映像化ができた。スペクタクルアクション映画、水素爆発というタイムリミットが迫るサスペンス、爆発回避へ向けて、男同士の友情と自分の職場に対する責任感、人類愛、家族愛など、ヒューマンな人間ドラマの要素も重層的に構想されている。エンターテインメント映画ながら、目指すは、ノンフィクション重視のドキュメンタリー調のリアリズム映画。迫力ある画面は、見応えがあった。

 その中で、ちょっと、ドキュメンタリー調のリアリズム映画として違和感を感じたのは、ラストシーン。福島などでは知られた桜の名所。「夜(よ)ノ森」(福島県浜通りの中部、富岡町と大熊町の境にある)の桜並木を行く伊崎利夫(佐藤浩市)の明るい表情。さらに、亡くなってしまった吉田所長(渡辺謙)の葬儀で伊崎利夫が読む弔辞のシーンで終わる。吉田所長の逝去は、実際には、事故から2年後、2013年7月9日。享年58だった。最後は、フィクションの人間ドラマで、明るくということなのだろうが、原発事故という山場をノンフィクションで描いてきた若松節朗監督は、ノンフィクションに対応する現場作業員の活動ぶりをドキュメンタリー調の、いわば実線で描いてきただけに、作品の持つリアリズムとこのラストシーンの情緒性との落差に戸惑いを感じた、ということは、一応正直に記録しておこう。

 作業員たちが、命をかけて必死の思いで近づいたけれど、原子炉は破壊されていた。破壊された原子炉は、圧力や冷却水の水位のデータ表示はされているが、実際に正しい数値が計器に表示されているかどうか、信用できない状態にある。
 真実は、解明できるのか。ブラックボックス(権力による情報統制)内の状態は、実際にどうなっているのか。

 現場の作業員たちの必死の努力は海外メディア同様に賞賛に値するだろうが、これとは別に、イチエフの場合、2号機が決定的に壊されずに済んだという幸運もあるだろう。なぜ、2号機は、致命的な破壊を免れたのか。これについては、現在も解明されていないのではないか。今回の映画でも、解明されずじまい。真実を巡る「真実未満」という構造。あるいは、真実の解明を阻害するフェイクな情報が大手を振って歩き回っているのか。実は、あれから9年間が過ぎても、「毒」(原発事故だけでなく、コロナウイルスも)と政権の距離、そういう大状況は、今も変わっていないのではないか。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、『オルタ広場』編集委員)

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