【コラム】
『論語』のわき道(9)

曼殊院

竹本 泰則

 バスは大鳥居を前にしてほとんど止まってしまった。車道には車がびっしりと詰まり信号が変わっても列は先に進まない。歩道に目をやると華やかな振り袖をまとい髪にかんざしを飾った娘さんたちの姿が絶え間なく続く。時折霧雨が降る成人の日の京都・神宮道。
 多くの新成人は何を思っているだろう。若さとは先の可能性への信頼と言える。そして今の時代は彼らの思いを妨げる理不尽な桎梏も多くはなさそうだ。
 ようやくに渋滞を抜けたバスは予約しておいたホテルに近い停留所に着いた。手荷物を預けてすぐさま曼殊院(まんしゅいん)に向かう。体が濡れるというほどの降りではないが、眼鏡のレンズに雨滴がつくことが煩わしいので用意の傘を開く。一瞬晴れ着のお嬢さんたちのことが気にかかった。

 曼殊院までの道は比叡に連なる山に向かって登りが続く。案内標示を頼りに黙々と歩を進める。一月とはいえ三連休を締めくくる祝日なのでそれなりの人出を想像していたが前後に人はいない。
 二十分も歩くと曼殊院門跡と刻まれた石碑が現れ、そこから正門に向かう道がまっすぐに伸びる。この時期、花ももみじもなく、夜来の雨を含んだ苔だけが鮮やかだった。鉄道会社のPR写真に使われた正門は、木々の彩りこそ違うものの記憶と同じたたずまいを見せている。こちらは勅使門なので閉じられたまま。左に回って北通用門から入る。
 すぐ前が庫裡。その入り口には扁額が掲げられ、それには白色の顔料で色付けされた「媚竈(びそう)」の文字が浮き彫りされている。現在の堂宇を造営した良尚法親王(りょうしょうほっしんのう)の直筆という。庫裡の出口とあっては、招かれた客人がこの額の文字を目にすることなどまずなかっただろう。

 媚竈の語は『論語』を出典としている。入口の傍らで販売されているパンフレットから説明文を引くと「媚竈(かまどにこびる)とは、多くの人々は権力のある上の者(奥)に媚びるが、我々が日々活動できるのは竈で炊いた食物のおかげであり、奥に媚びるのではなく、竈や竈で働く人々に感謝せよ、という良尚法親王の思いが込められた言葉」とある。
 このような説明がされることは予めわかってはいたのだが、あらためて読めばやはり違和感が湧く。

 孔子の時代の中国は、中央の周王朝が成立から数百年以上を経て衰えてしまい、もともとは地方組織であった「国」が力を蓄えて自立し、互いに覇を競い合う状態になっていた。さらにはそれぞれの国の中でも権力争いが日常化して、下克上も頻発するという混乱の時代であった。
 孔子が訪問したある国では君主が暗愚であったため、政治の実権は少数の重臣達に握られていた。その一人が孔子にかけた言葉の中にこの「媚竈」がある。

  その奧(おう)に媚びんよりは、寧(むし)ろ竈(そう)に媚びよ、とは
  何の謂(い)いぞや

  ―母屋の主神(奥)に媚びるよりは台所の神(竈)に媚びよ、という
   ことわざがありますが、これはどんな意味でしょうかね―

 この部分は、くだんの実力者が孔子に対し、建前上のトップよりも実際の権力を持つ自分に対して機嫌を取っていた方がよいのではないかと迫ったものだと解されている。
 これに対する孔子の応え。

  然(しか)らず。罪を天に獲(う)れば、祈る所無し

  ―そのことわざは間違っています。そのような節操のないことをしたら
   天に罪をおかすことになり、祈るところを無くしてしまいます。―

 つまり竈に媚びてはいけないというのが孔子の言葉だ。しかしパンフレットでは逆になっている。

 この説明の不自然さは司馬遼太郎も『街道をゆく(叡山の諸道)』の中で指摘している。同書には、禁中および公家を法制面からも経済面からも封じ込めた徳川幕府と朝廷との関係や、その両者間の調整の任を曼殊院の主である良尚法親王が担ったことを解説している。さらには曼殊院とは目と鼻の先にある詩仙堂の主である石川丈山(いしかわじょうざん)のことにも触れ、丈山は曼殊院を幾度か訪れただろうと推測している。この人物は当時既に隠遁していたが、以前は幕府方の間諜であったとも記している。その上で司馬は「媚竈」について「軽い『自虐趣味』を、丈山への遊びとしてのあてつけ」に書いたと想像している。このくだりは少し食い足りない。

 当時の公家社会の経済的な困窮は相当に深刻で、徳川秀忠政権の初期には幕府や有力家臣からの支援を求めて江戸を訪れる公家が引きも切らぬ状況であったようだ。このため幕府がそれを制限したほどであったという。その後も表立ってではないまでも、似たような事態は続いたことだろう。
 良尚法親王にとって、日本の王は当然天皇以外には考えられず、その天皇家につながる身分にありながら、幕府と正面切って対抗できないでいる現実への割り切れぬ思いがあったことだろう。加えて、権力に媚びる公家達の姿を見るとき、その胸中には相当に屈折したものがあったにちがいない。「自虐趣味」も含まれていたかもしれぬが、法親王の鬱屈を表わしたものが「媚竈」ではなかろうか。

 曼殊院の中心である大書院の外壁にも額があり、そこには「塵慮盡」と書かれている。塵慮(じんりょ)尽(つ)くと読んでいいのだろうか。塵慮は卑俗な考え、名声や利得を求める思いといった意味らしい。そんな欲念はみな捨て去り、無くしてしまったといったニュアンスに読める。こちらの額は訪れる客人の誰でも目に入るものである。
 大書院の「塵慮盡」と庫裏出口の「媚竈」とを重ね合わせながら良尚法親王の思いを推し測ることは的外れであろうか……。
 見学を終え外へ出ると、細雨はまだ降り続いていた。

 (「随想を書く会」メンバー)

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