【沖縄の地鳴り】

最高裁判決は正しかったか

――沖縄・孔子廟の課税免除の取り消し決定問題

羽原 清雅

 儒教の祖である孔子を祀った施設(久米至聖廟)が、那覇市の公園の土地に設置されている。これを、市が無償で貸しているのは憲法の「政教分離の原則に違反する」との訴訟が住民から提起された。最高裁は2021年2月24日の大法廷で、15人の裁判官中一人だけの反対で「全員一致」の違憲の判断を下した。
 だが、この判決は正しかったのか。筆者は、判決内容がいささか視野狭窄にして、歴史的経緯などを十分に踏まえていない点で納得がいかない。少し異議を述べておきたい。

 孔子廟とは 問題の「久米至聖廟」は、比較的目抜きの通りに面した那覇市久米2-30にある。本殿に当たる「大成殿」、内部には孔子像と4人の門弟「四配」の神霊が置かれている。隣接して明倫堂・図書館という教育施設がある。そして毎年9月28日の孔子誕生の日には、その霊を迎え、上香、祝文奉読などの儀式が行われる。

 この所有者は、判決文によれば「久米三十六姓(約600年前から約300年間にわたり、現在の中国福建省又はその周辺地域から琉球に渡来してきた人々)」の末裔が社員(会員)となる社団法人「久米崇聖会」だ。判決文にある事実関係の概要をほぼそのまま記すと、「久米三十六姓」は航海、造船、通訳、交易を担い、琉球王国の繁栄を支えた職能集団であり、かつて久米地域に居住し、17世紀に同地域に孔子等を祀る至聖廟を建立するとともに、18世紀にその隣接地に明倫堂を建立した、とその意義を述べている。

 歴史的経過 先に触れたように、至聖廟は17世紀という古い時代に生まれたものだ。近年について若干補足しつつ判決文に添って触れると、明治12年の沖縄県設置(いわゆる琉球処分)時に「社寺に類する施設として国有化され」、敷地上の工作物の建設については「社寺に準じた規制」を受けていた。その後、那覇区に返還、さらに大正4年に久米三十六姓一族の社団法人崇聖会に譲渡された。その後、施設は太平洋戦争の米軍の大攻勢によって消滅した。

 那覇市は平成18年、旧久米郵便局の跡地を国から購入、公園化することになり、崇聖会は由来のある久米の地に至聖廟を復活、再建を決め、平成25年に市の公園の一角に完成させた。その間、市の建設委員会では有識者等も出席して検討、宗教的施設を擁していいかどうか、の論議も経て、占有面積1,335㎡の公園使用料は全額免除(年額576万7,200円)を決めた。

 最高裁判決の論理 最高裁は、たしかに政教分離についてその歴史的、文化財的な施設の価値や、観光資源、国際親善、地域の親睦の場としての意義などから課税の「免除」を認めている。
 ただ、信教の自由、政教分離の原則と実態の関係を見るとき、その施設の性格、免除するまでの経緯、公有地の無償提供の態様、これらに対する一般人の評価等、諸般の事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すべきであるが、この孔子廟の場合、「相当とされる限度を超えて」いる、としている。理由としては・・・

 ①この施設は大成殿、孔子像などの位置、各種の祈願の受け入れ、香炉灰入りの祈願カードの販売など、「外観等に照らして神体又は本尊に対する参拝を受け入れる社寺との類似性がある」点で宗教性の高いことを認めている。
 ②さらに、この施設の釋奠祭礼は、供物を並べて孔子の霊を迎え、上香、祝文奉読をするが、孔子の顕彰以上に、その霊の存在を前提として、これをあがめるという宗教的意義を有する儀式だ、とも指摘する。
 ③年に一度の釋奠祭礼は、主に観光振興などの世俗的な目的で行われておらず、観光ショー化も許容しておらず、宗教的意義を有する儀式になっている、と指摘する。
 ④「少なくとも明治時代以降、社寺と同様の取扱いを受けていたほか、旧至聖廟等は道教の神等を祀る天孫廟及び航海安全の守護神を祀る天妃宮と同じ敷地内にあり」、これらも一体として維持管理して参拝者を受け入れていた、とも述べている。

 以上のような理由で、「本件施設については、一体としてその宗教性を肯定することができることはもとより、その程度も軽微とはいえない」としている。

 疑義あり たしかに、判決の言うように、宗教性も目につく。異郷で亡くなった、中国から渡来した人々を悼むことに始まった一族の慰霊の場として、宗教性が存在することは否定はできない。長い歴史を継承するなかで定着し、このようなあとから登場してきた税制の問題に対応できず、行き過ぎとされる形態もありえただろう。この点は、考慮に値することである。

 ただ、先祖の供養の気持ちからの儀式である以上、ある程度の宗教性が含まれることは当然である。その際に、渡航民族としての意識が伝統的に残される組織である以上、祖国を思う象徴的な存在として「孔子の霊」を崇めることは、宗教というよりも文化的な習俗だろう。伝統的な行事として長年続けてきて、宗教行事の場としてよりも、渡来した先祖の偉業を讃えて歴史に残していきたい、といった一般的ともいえる気持ちも強まって、単純に儀式の形態だけをもって「宗教性」と断じるわけにはいかない存在になってきた。また、祖先の霊を悼む趣旨もあるので、観客を容れ、収益を求めて観光ショー化することは避けたいだろう。当事者の立場からすれば、宗教的な秘儀の場ではなく、一族で年に一回だけ静かに祖先を偲ぶ場だろう。

 この「久米三十六姓」という一団は、今でこそ日本人そのものだが、祖先を想う気持ちにおいて、孔子の名のもとに中国の伝統を偲びたい気持ちがあるだろう。
 この集団は、今も続くように「久米梁氏呉江会」の亀島家、「久米崇聖会」創設に関わった国場家など、中国との交流をもって沖縄社会に深く根差し、判決文にあるように、さまざまな貢献を重ねてきており、そのような外部からも敬意を表される歴史がある。一部の人たちの宗教儀式の場、というよりも、沖縄発展の歴史的遺産として顕彰に値する公的な施設、でもあるだろう。

 中国に隣接する沖縄が様々な交流を重ね、社会的な貢献もあり、長きにわたって継承された珍しい施設である以上、所有者一族としても、この「歴史的に意義ある施設」を、具体的な経緯などを示して、広く誇らかにアピールすべきだった。惜しまれるが、まだ遅くはない。那覇市もこれを機に、歴史を学ぶ教育施設として、再検討してはどうか。
 そのような基盤に立って、いくつかの疑義を呈しておきたい。

 1.儒教は日本にとって「宗教」か 儒教は、中国や諸国に散った華僑たちには、明らかに「宗教」である。しかし、日本では「儒教」の宗教的信者はほとんどなく、儒教は学問、思想、道徳として広く普及し、日常の生活に根差してきた。そのため、神道、仏教の存在と同一視することは妥当ではない。宗教性を帯びていても、その違いは認めなければなるまい。沖縄の孔子廟の独自の軌跡に、宗教性を問われる要素が混入したとしても、それを許容できない場合でも、その修正を持つゆとりが欲しい。

 「四聖」と言えば、釈迦、キリストは宗教だが、ソクラテスは違うし、日本における孔子像も違う。昨今の中国でも、「非林非孔運動」は反孔反儒の封建主義排除の動きであって、宗教というよりも政治や制度、意識のありようが問題だった。また、中国が世界各国に分布させている「孔子学院」が、中国語や現代中国思想などを使ってプロパガンダに供しているとして、各地で警戒されるのも、その宗教性ではなく、政治がらみからの思惑による。

 したがって、一概にその儀式の形態が宗教的だという狭義の理解だけにとどめてはなるまい。沖縄での神道や仏教の普及は本土よりはかなり遅く、そこに土着の信仰や孔子尊崇の念が定着しても不思議はなく、久米の孔子廟のありようについてもそのような特異性を配慮する必要がある。宗教性のある部分は、課税の際などに疑問が生じた場合でも、本土とは異なる視点が必要だろう。都合の良いところだけ、本土と沖縄は同等、というご都合主義ではなく、それぞれの土地の相違にも寛容と配慮が必要だ。

 2.「社寺同等の扱い」でいいか 久米至聖廟は明治以来、「社寺に類する施設として国有化され」たことは間違いないが、判決文はこれを単純素朴に認めている。しかし、琉球処分と同様に、当事者の意向を汲まず、強圧的に社寺扱いにしてきた歴史がある。

 600年前はたしかに宗教としての施設の要素が強かったに違いない。ただ、日本化が進み、そこに溶けこみ、この一族が社会的なイニシアチブを握る中で、郷党の結束や親しみ、情報交流の場としての意味合いが高まり、それは宗教的儀式以上に重要な意味を持つようになったのではないか。宗教性が皆無ではないがために、社寺に組み込まれることへの抵抗も乏しく、国家の命令に甘んじたのではなかったか。
 そのような特殊事情のあった沖縄の立場への理解が配慮されなかったことは、最高裁の裁判官の姿勢としては残念だった。

 この施設内に、道教系の天孫廟、航海安全の守護神を祀る天妃宮などが存在していることも、宗教として以上に、本土での神仏混淆や航海の安全祈願などと同様に、日常の願いを表す習俗のように扱ってきた証左ではないか。何もかも宗教の枠にはめ込み、判決補強の材料にした感が残るのは説得力を欠いたと言えよう。

 3.沖縄の特異性への配慮は 沖縄には、いろいろな面で本土と違いがあり、特異性を残していることはよく知られている。最高裁という最後の砦、しかも大法廷という格別の意味ある舞台の決定である以上、該博にして多様な面からの深い検討が望ましかった。

 この孔子廟は、孔子の絵像が中国から持ち帰られ、1672年に王府の許可を得て久米村泉崎橋畔に建立、この時には学校としての明倫堂はなく18世紀初頭に初めて併置された。
 明倫堂の生徒は久米系の者だけだったが、王府子弟は就学できたという(『沖縄県史』、『沖縄一千年史』など)。ちなみに判決文でも認めている通り、1718年創立の明倫堂は沖縄で最初の公立学校であり、その点では宗教性と離れても貴重な文化遺産といえるだろう。この施設の所有団体も、課税問題を機に、その意義を大きく見直してアピール度を高める工夫に踏み切ったらどうだろう。

 孔子廟は明治32(1899)年に、沖縄師範学校の建設のために、一時王家の尚邸に移転、9月に首里桃原の浦添朝忠の屋敷に廟が新築されて、その祭典には一千人以上が集まったという。さらに明治35(1902)年9月には那覇市久米に敷地を買い、付属建物などは無償で払い下げを受けて、孔子廟、明倫堂などを移したのだという。このような扱いは、当時の琉球新報などに数回にわたって報道されており、一宗教施設という以上に社会一般の関心の対象だった、といえるだろう。

 沖縄では宗教色の強い物事が少なくなく、ごく一般的に日常的な儀式、行事として残されている。たとえば、火の神や竈神などの送神接神、香燭や供物を献じて神馬紙などを焚くなどの儀式は道教から来たと言われるが、宗教というよりは、習俗や季節の行事のように変わってきている。ノロ(祝女、巫女)の存在、門中という仕組み、あるいは亀甲墓やその儀式なども沖縄独特である。このような特性をすべて「宗教」に組み込めるだろうか。

 一族が年に一度行う閉鎖型の宗教的儀式、昔からの様式の建造物の配置、孔子が「神」であるかどうかの認識、など最高裁判決はいささか視野を狭めすぎていないか。公的資金についても、孔子廟と明倫堂の性格の違い、三十六姓集団の生成と趣旨、昔からの公共的な設立意義と支援などについての考究が、より深くなされてもよかったのではないか。

 4.宗教以上の地域社会の象徴 この施設は、一部の門中だけではなく、多様な人士が参加して存続されてきた歴史的な事実がある。孔子廟は「儒教」という一宗教として維持されたものではなく、その文化的歴史的意義から沖縄社会の広い支援のもとに存続してきた「証拠」でもある。判決はこのような歴史的な経緯を見落とし、かなり狭い眼でとらえたことが惜しまれる。
 というのは、この孔子廟の修繕に当たって、寄付金の募集を呼び掛けたことがあり、それには多彩にして著名、公職にある者たちが多く参加していたのだ。

 その趣意書には、「孔子の道は誠意に発して誠意に終る 修身斉家と云ひ治国平天下と云ふも 畢竟一誠意の万化したるもの 道徳宗教政治皆夫れ是の発現に過ぎず 孔子が我道一を以て貫くとは盖しこの謂のみ 故に古人は個々の心中に仲尼〈孔子〉ありと謂へり」とうたって、宗教としてだけではない、孔子礼賛が当時の道義や礼節のベースであったことを明示している。
 大正2(1913)年2月付の、百年以上前の趣意書である。

 15人の発起人には、当時の那覇市長当間重慎や、衆院議員、沖縄毎日新聞社長、沖縄共立銀行頭取、同市長も務めた岸本賀章、一族の「久米崇聖会」を創立し理事長も務めた国場掌政、「久米梁氏呉江会」を率いた亀島明良らの名がある。
 また、賛助員、つまり協賛者として、伊波普猷(民族・言語学者、「沖縄学の父」)、大田朝敷(衆院議員、琉球新報創立社長)、高嶺朝教(同、同社創立に参加)、渡久地政瑚(同社長)、仲里朝敦(沖縄民報社創立)、日比重明(県知事)、斎藤用之助(首里、那覇区長)、知花朝章(唐手家、首里区長、同市長)、仲吉朝助(沖縄県農工銀行頭取、首里市長)、山城正馴(初代市長発足前の市長代理)、朝武士干城(国頭郡長)、喜入休(同)、大塚市五郎(島尻郡長)、山口源七(宮古支庁長)、和田勇(県警察部長)、島内三郎(同)、山口沢之助(県立一中=首里一高校長)、秦蔵吉(同二中校長)、樺山純一(那覇商業校長)、黒岩恒(博物学者、国頭農学校長、尖閣諸島の命名者)、古市利三郎(沖縄師範校長)など23人の名が並ぶ。
 これは明らかに、それなりの人士たちによる沖縄県総出のイベントであり、一宗教施設への寄付を頼もう、といった趣旨ではないことを示している。

 以上、筆者は孔子廟と何のかかわりもないながら、沖縄を長年見てきた経験から、今さらながら問題を提起しておきたい。

 (元朝日新聞政治部長)

(2021.09.20)
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