【コラム】神社の源流を訪ねて(56)

月読神社

栗原 猛

壱岐から京都へ遷座した月読(つきよみ)神社

 壱岐は対馬より小さいが、山が少なく平野部が多いので、対馬より広々とした感じだ。月読神社は、フェリーの着いた郷ノ浦港からバスとの連絡が合わずに結局、タクシーで行くことになった。約10分ぐらいである。急な石の階段は大きな彬林の中にあるが杉の下枝が払われているので明るい。このところ若い観光客の人気のスポットになっているという。                              
 祭神は月夜見命、月弓の命、月読命の三柱で、同神とされるが、その昔の祭神は山の神だったという。月読命は伊邪那岐命と伊邪那美命によって、天照大御神の次に生まれたとされる神で、暦、潮の干満など月にまつわるすべての行い、航海の安全などの願い事を聞くとされる。

 平戸藩の命を受けて延宝4(1676年)に橘三喜が壱岐の式内社の調査を行った。それ以前の由緒来歴の資料はないとされ、橘の比定によって、月読命が祭神であるとされ、以後式内社とされたが、壱岐氏の末裔の吉野家に伝わる文書などから、この三喜の判断は正確ではなく、本来の月読神社は箱崎八幡宮であるとされている。

 月読神社というと、京都市の松尾大社の境内にも同名の月読神社がある。日本書紀によると、壱岐の県主(あがたぬし)の先祖である忍見宿禰(おしみのすくね)が、壱岐から分霊したとされる。                     

 分霊された経緯について「日本書紀」(720年成立)の顕宗天皇3(487)年2月の条は、こう記している。阿閇臣事代(あべのおみことしろ)が任那に使いし、壱岐を通過したところ、月神が託宣し「我が祖高皇産霊、預(そ)ひて天地を溶(あ)ひ造(いた)せる功有(ま)します。宜しく民地を以て我が月神に民地を奉れ。若し請いの依(まま)に我に献らば、福慶あらむ」とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具(つぶさ)に奏す。奏るに歌荒樔田を以てす。歌荒樔田は山背国葛野郡に在り。壱岐県主の先祖押見宿禰、祠(まつり)に侍(つか)ふ。                   

 つまり松尾大社境内の月読神社は、5世紀に壱岐の県主「忍見宿弥(おしみのすくね)」が壱岐から分霊し、さらに伊勢神宮の内宮の月読宮と、外宮の月夜見神社も、ともに壱岐の月読神社の分霊とされる。壱岐の月読神社は全国の月読社の元宮とされ、一方、京都の松尾神社の境内にある月読神社は、全国に点在する80社以上の月読神社の総本社という関係になっている。

 この松尾大社は、新羅からの渡来系秦氏の氏神とされることから、月読神社も秦氏の信仰が厚かったと思われる。ちょっとそれるが、秦系氏族は大きな渡来集団で、米作り、須恵器、製鉄、医療、灌漑、都市づくりなどの技術者がそろっていたといわれる。海洋交通にも従事していたから、航海の安全や潮の満ち引きと関係から月神にも関心があったのだろう。また、波多野、太秦、畑、羽田、秦野、幡野、大秦野などの名前は、秦氏を共通の祖先にしているといわれる。

 元に戻って、対馬の古代史研究家の永留久恵氏は、この月神の託宣に続いて日神の託宣が続く。日神とは対馬の阿麻氐留神社の祭神のことで、この日月両祭神がわが祖(みおや)と呼んだ高皇産霊は、対馬の高御魂、壱岐の高御魂とみられること、対馬県直は、日神を祀り、壱岐の壱岐県主は月神を祀っていたのであろうことを特に着目される。   
 また月読神社の周辺には神社が集中していて、小さい神社を含めると壱岐全体で1,000社以上になるという。日本一神様の密度が高い地域になっている。
 農耕に欠かせない日神と月神、それに先に見た雨を祀る雷命神社もあって、壱岐と対馬の神社信仰は、日本の神社信仰に大きな影響を及ぼしていると思われる。(2023・07/18)  以上 

(2023.7.20)
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