【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

東南アジア史にみる豊饒な政治演出力

荒木 重雄

 再びホワイトハウスの「帝王」となった某氏をはじめ、芝居がかったポピュリズム(大衆扇動=迎合手法)で権力の座をめざす、強権志向の政治家がやたらと目立つ昨今の世界情勢だが、そのガサつさに辟易のむきには、東南アジア史を彩る「王の夢」に遥かな思いを馳せるのも、また、一服の解毒剤となろう。「劇場国家」という言葉も生んだ、東南アジアの伝統的な宗教と政治のかかわりである。

◆王は、ヒンドゥーの神の化身

 王がなぜ王であり、統治の正統性をもつのか。これを説明する論理を「王権思想」という。
 インド文化の影響を受けた東南アジアには古来、ユニークな王権思想が花開いた。まず、紀元前後から14・5世紀頃まで各地に興亡したヒンドゥー王国の王たちが採った王権思想は、《王はヒンドゥー教の神であるヴィシュヌ神やシヴァ神の化身であって、地上における神である》、という観念である。これをデーヴァ・ラージャといい、サンスクリットでデーヴァは「神」、ラージャは「王」で、すなわち「神聖王」であるが、王は神の化身で、超越的な権威の持ち主として、住民の尊敬と畏怖を得る。これが権力の基盤であった。

 そのためには、王には、自らがデーヴァ・ラージャであることを、住民に示し納得させることが必要になる。そこで考案された演出装置のひとつが、たとえば、カンボジアのアンコール王朝(9~15世紀)によって造られた、世界遺産として遺跡が残る、かの有名なアンコール・ワットやアンコール・トムである。
 王都アンコール・トムは、バイヨンとよばれる中央神殿を中心に、回廊や濠や城壁を巡らした構造をもつ小都市だが、その構造は、じつは、宇宙の中心である聖なる山・メール山(中国でいう須弥山)を、幾重もの大洋や山脈が囲むとする、ヒンドゥーのコスモロジー(宇宙論)を模して造ったミクロコスモス(小宇宙)なのである。

 宇宙の構造を地上に再現する、神の化身たる王。このイメージこそ、アンコール王朝の権威の源であり、したがって、それは、旅行パンフレットでいわれるような、栄華を極めた帝王が権勢を誇ってこれを建てたのではなく、逆に、《王が王であるために不可欠な演習装置》であり、それゆえ、歴代の王たちは、豪壮・華麗な王都や神殿の造営に、王朝の命運をかけたのである。

 米国の文化人類学者クリフォード・ギアツによって「劇場国家」と名づけられたインドネシア・バリ島などは、もうひとつの興味深い例を示している。バリでは10世紀から19世紀までヒンドゥー小王国が群立していたが、ここでは、王が興行元になり、神官が演出を担当し、農民が俳優と裏方と観客を兼ねる仕組みで、年に何回か、ヒンドゥーの神話劇が上演され、この演劇が政治の基盤となっていた。すなわち、劇としてであれ、神々が降臨し宇宙の理想が実現される王国こそ、聖なる場所であり、そのような神話劇を主宰する王は神の化身たる神聖王と了解されていたのである。

 このことを理解するためには、東南アジア史で「王国」という場合、それは必ずしも私たちが知る現在の国家のような「制度的な領域支配」を意味するものではなく、《ある王の神聖性・カリスマ性が住民に認められ、受け入れられる範囲が王国》であったという、歴史的事情を解する必要がある。
 バリでは、各地の王たちによって競われたその神話劇の、規模の大きさや、内容の豊かさ、上演頻度をもって、住民の支持は移り、それによって王国の力も決まったとされる。また、王と住民が一つのシナリオを共有することから、支配・服従の関係よりも「共同作業としての政治」の色彩が表立つことにもなった、ともされる。

◆仏教では、王は菩薩

 東南アジアは、13世紀頃からヒンドゥーが衰退し、仏教とイスラムに色分けされることになるが、では、仏教王国での王権思想はいかなるものであったのか。これが、カルマ・ラージャ(「菩薩王」)とダルマ・ラージャ(「正法王」)の観念である。

 カルマ・ラージャのカルマとは「業」、前世の行いであって、すなわち、《王が現在、王であるのは、過去生において無限の功徳を積んで、すでに菩薩となった存在であるから》、とされ、そのこと自体で王である正統性を得ていることになる。一方、ダルマ・ラージャのダルマとは、「正法」、すなわち、仏教の教えに基づく道徳・正義を指し、《王は、仏教の理想をこの世に行い、守り、広めることによって王である》、という観念である。そしてこの両者が相俟って、《菩薩である王が、この地上に仏の理想を実現する》という論理をもって、住民の尊敬と支持を得たのである。

 この場合にも演出装置が重要になる。それが、仏塔、伽藍の建立である。それゆえ、パガン朝以来のビルマ諸王朝(10世紀~19世紀)でも、スコータイ朝以来のタイ諸王家(13世紀~)でも、夥しい数の壮麗な仏塔、伽藍を建立し、併せて、王はサンガ(教団)の庇護者を任じてきたのである。現在もタイの王家に寄せられる民衆の信頼はここに由来する。

 さて、冒頭に述べた政治の「劇場」化やメディア戦略化、ポピュリズムは、現在の世界的な趨勢であるが、東南アジアの歴史的な政治的演出力、すなわち、王の神聖性・カリスマ性をめぐるフィクションとロマンを王と民で共有しながら、行政機構や軍事力よりも、壮麗な神殿や寺院、煌びやかな装飾品や、神秘的な儀礼など、めくるめくシンボル装置、意味論的象徴性を王権の存立基盤とした、豊かな演出力に比べると、現在のそれは、いかにもアサましく、ケチ臭く、底の浅いものに思えるのである。

(2025.1.20)
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