落穂拾記(24)                    羽原 清雅

松本良順・夏目漱石・犬養毅、そして堀部安兵衛 ≪上≫ 

     

 筆者が50年以上住む自宅は、新宿区馬場下町にある。格別卿土史などに関心があるわけではないが、たまたま「新宿区史」(1955年刊)を見ていたら、この「馬場下町」に1869(明治2)年に松本良順(順)が西洋医学の私塾を設け、50人の医学生を抱えていた、と書かれていた。松本良順についてはかつて<漢方医と蘭方医>の抗争を調べていたので、興味を誘った。

≪馬場下というところ≫
 この「馬場下町」は地下鉄東西線「早稲田駅」の周辺一帯で、近くに早稲田大学、早稲田中学校・高校、また「一陽来復」で知られる穴八幡宮がある。
 「馬場下町」は古い地名で、江戸時代の文政期(1818-30)の文献には、家数114軒、隣接の馬場下横町 同71軒、早稲田町 同127軒とある。町屋が多く、また大名や武士階層が農民たちから買い求めた抱え屋敷も少なくなかったようだ。
 江戸城を中心に、地図に朱色の線引きをして、近い府内を「朱引内」とし、近郊や農村部を「朱引外」としていたころ、この町は府内ぎりぎりのはずれにあり、のちに出来た早稲田大学の下戸塚村あたりの郊外とは一線を引いていたことになる。
 ちなみに、「馬場下」というのは、かつて幕府時代に馬術を訓練していた「高田(たかた)
の馬場」が、昨今の早大グランド坂を登った交差点を高田馬場駅方面に曲がったその右手にあり、そこから同駅や交差点とは反対の方向の八幡坂を下った一帯の地域なので「馬場下」と呼ばれた。穴八幡宮にも近いので「八幡前」「八幡下」とも言われたようだ。
 明治の末に高田馬場駅が出来るとき、この馬場に近い地元から一斉に「『馬場』の名を離れたところで使うな」と反対の声が上がり、困った鉄道院が「馬場はタカタにある。では、駅名はタカダとすればよかろう」とわかったような、わからないようなことで手を打ったそうだ。
 ともあれ、そんな小さな、これといった取り得もない町である。

≪蘭畴舎ランチュウシャのこと≫ 
松本蘭畴こと松本良順(その後「順」)(1832-1907)は、蘭方医で順天堂病院・大学の創始者である佐藤泰然(1804-72)の二男である。幕府奥医師の松本良甫(蘭医)の養子となり、坪井信道、戸塚静海、伊東玄朴に学んだあと、幕命で長崎に行き、オランダ人医師ポンペの「医学伝習所」で学び、1861年には医学教育を兼ねる日本初の西洋式の病院「小島養生所」(124床/のちの精得館、現長崎医大)が開設され、良順はその頭取を務めた。
その後、江戸に戻った良順は、緒方洪庵没後のこの泰然についても興味津々なのだが、ここでは脇道過ぎるので触れない。その子良順は、西洋医学所第三代頭取になって、ポンペの近代医学による教育に取り組み、また将軍家茂の死を看取り、慶喜の加療にあたった。 
戊辰戦争に際しては幕府側に立ち、京都では新撰組の近藤勇と親交を結び、会津に追われては同藩の傷病兵らの治療にあたるなどしたので、明治新政府に一時拘禁されることもあった。国内の混迷のなかで、洋学を選ぶ決断があったのだろう。
1870(明治3)年に釈放されると、馬場下町に「蘭畴舎」と称する西洋式病院と教育機能を開設する。しかし、翌4年には良順が陸軍最初の軍医頭に就任したために病院経営から離れ、病院は陸軍が軍事病院として引き受けることになる。このように、この新型の病院の寿命はごく短かった。
同6年には初代の陸軍軍医総監に就任、陸軍軍医制度、衛生システムなどに取り組んでいる。貴族院議員、男爵に取り立てられたのはその後である。

このように、新政府に逆らった良順は途中から軍部に徴用される。「蘭学全盛時代と蘭畴の生涯」(鈴木要吾著・1933年刊/以下「蘭畴の生涯」と表記)によると、陸軍幹部だった山県有朋が兵士の健康増進のために軍医関係をどう充実したらいいかと、のちに軍人勅諭の原案をまとめ、軍制整備に当たった西周に相談したところ、西は松本良順を推挙、これにより山県は早稲田の良順を訪ねて軍医頭への就任を懇請した。西郷隆盛も良順を訪れた、といわれる。
ちなみに、良順は豪放な性格で、病人に滋養に牛乳の飲用を勧め、洋食の普及を奨励し、また引退後は大磯に居を構えて海水浴の効用をおおいに喧伝して「海水浴の始祖」とも言われた。大磯には山県、伊藤博文、原敬、加藤高明らの政治家、あるいは浅野、岩崎、三井、森村などの財閥組、かつての華族階層など、大磯に多くの知名人が別荘を持った。これは、この松本によるアピールが契機になった。また、女性関係も多く、団十郎、守田勘弥らを贔屓にするなど、派手な日々でもあった。
幕末の混乱期から明治維新以降にかけて、西洋医学を広めつつ、多くに挑戦した人物だった。

≪蘭畴舎当時の早稲田≫
 馬場下町24番地と書かれた「蘭畴舎」は、いったい どこにあったのか。
 地下鉄早稲田駅の大学寄り出口に出たそばに、「三徳」という食品スーパー店がある。そのすぐ裏手一帯から現早大研究開発センター、大隈講堂の手前あたりまでが、かつての松本良順邸と、医学校を備えた蘭畴舎の病院だった。
 「左へ馬場下町、右へ鶴巻町の一画10町歩の地域が蘭畴舎の跡である、西北は今の早稲田実業学校及早稲田中学校のある処から、東は天祖神社のある辺まで、南は馬場下通り、北は大隈会館に至る広大な地面」(「蘭畴の生涯」)とある。天祖神社は今もあるが、早稲田実業は早大研究開発センターに模様替えし、また馬場下交差点から旧早稲田実業前を通り早大通りを越えて新目白通りに出る道が戦後に出来て、削られた早稲田中学校あたりの様子は大きく変貌した。いまは狭い道がアトランダムにでき、駐車場、住宅、マンションなど雑多な街になって、当時の面影などはなにもない。
 元一橋家(徳川慶喜の出身家)の下屋敷のあった3万坪という広い土地を借りて建築、4,50人のベッド付き病室のある洋式二階建ての病院本館を軸に、北寄りの建物には30人の入る三方ガラス張りの畳敷きの病室があった。両病室の間には、玄関、医員詰所、診察所が並び、いずれもガラス窓の作り。そのほかに会計員詰所、賄所、小使部屋、浴場のある別棟、東寄りに平屋建て畳敷きの「松本内塾」と称する3、40人の塾生の宿舎、さらに近くの早稲田町には20人ほど収容の一軒があった。 
 夜になると、当時では珍しいランプが灯されたという。「蘭畴の生涯」によると、当時を知る塾生は「街並にちらほら家が列んであった位のもので、後は田圃であった」と述べている。

 洋式の病院が初めて開設されたのは1861年だった。良順が頭取となった「小島養生所」で、これを幕府のものだとすると、「蘭畴舎」は私立の西洋式病院としての第一号とされる。「帝都最初の洋風病院」という表現もあった。
維新政府が幕末の戦乱で傷ついた兵士のための御親兵病院が京都、大阪、ついで横浜に出来たのは維新のあった1868年,慶応4年ころ、また新政府による一般市民用の病院が出来たのは明治初年の京都御所病院、駿河藩立駿府病院(のち静岡市立病院)、1869(明治2)年の官立の大阪仮病院(のち阪大病院)、薩摩藩の赤倉病院(のち鹿児島大病院),佐賀藩立の好生館(のち県立好生館病院)。これは「日本医療制度史」(菅谷章著)による。

建築費3000円は幕府軍に身を投じる前に,妻などに託しておいた1000円、オランダ商人ヒストル(ピストリウス)とスウェーデン人シーベルネからそれぞれ1000円を返済期限なしで調達、さらに前外相陸奥宗光に相談して紀州公(徳川茂承か)から1000円をもらった、という(「松本順自伝」)。材木などは、日光付近の患者でもあった嘉蔵が寄付している。
 蘭畴舎の落成式は1870年10月のこと。前述の鈴木要吾の著作や「自伝」によると、大学東校(東大医学部の前身)関係の150人をはじめ米英仏露蘭の医家たち、それに国内の名家や顕官ら約800人が招待された。もっとも、そのころに大学関係者が良順に東校の教官になるよう頼んだところ、その主宰者(初代校長)が佐藤尚中(舜海/良順の実家佐藤家に養子に入った人物)で「官」の上から目線に怒ったものか憤然と拒絶、一方、佐藤らも官学に先駆けて大病院を創設した不快さもあって衝突、そうした軋轢もあって、ほとんどの東校関係者は出席しなかった、という。

開院の当日、中央に松の木を立てて周囲に数十種の魚介を並べた一坪もある盤台を6人の若者が担いだ料理が日本橋魚河岸の問屋から贈られ、雁や鴨70羽余、菓子数十箱、傘100本、灯燈100余個などが届けられたうえ、病院は万国旗とほうづき灯燈で飾られたという。続々と馬車で到着するなかには、当時売り出しの田之助一座、団十郎、菊五郎、勘弥、円朝らの姿もあった。
この場末に近かった「馬場下」がにぎわったのは、このときの盛り上がりが最初にして、最後だったのではあるまいか。

≪大隈との微妙な関係≫
このとき、良順38歳。
先に触れたように、西郷や山県に頼まれて陸軍入りを決断する良順は、ごく短期間で蘭畴舎から手を引くことになったわけだが、のちに良順はこの建設をめぐって「預けた金を返せ」という訴訟を起こしている。とにかく、この界隈の土地については政財界人などが暗躍したようだ。「蘭畴の生涯」の筆者がこの事情を「迷宮」としているほど複雑な事態だったようなので、ごく概略を紹介しておこう。
大隈重信(1838-1922)は、明治14年の政変で下野し、翌15年に立憲改進党を結成する一方、東京専門学校を設立した。同校は明治35(1902)年に改称して今の早稲田大学になったものだ。この東京専門学校の土地は蘭畴舎の土地に隣接、ないし今の大隈講堂あたりは重なるような場所にあった。その土地確保に動いたのは大隈の甥の相良剛造。一方、良順が金銭上の訴訟を起こした相手山東一郎(直砥)はかつて食客として面倒を見た男なのだが、その裏には財閥の三井があり、しかも相手側の訴訟の代言人には反大隈に動く星亨や大隈系の沼間守一がいた。また、訴訟相手の山東は元紀州藩士、高野山に入り僧になったがすぐに還俗、漢学を学び、さらに函館に渡ってロシア語を習得、カラフト開発を主張して明治政府の開拓官になったという。この経歴ははたして信頼したものかどうか、首を傾げざるをえない。
良順はこの病院の建物を清水徳川家の家臣だった山瀬正己に譲渡していたようだが、この山瀬は、蘭畴舎跡に富山の売薬合資会社の「資生堂」を設立、これを医師の道を諦めて大学東校調薬所に勤めていた福原有信に引き継いだ。これが今日の資生堂の第一歩で、この福原は、良順と三井の資金援助を受けて銀座に進出したのだ、という。
 とにかく不可解なのは、大隈といえば、三井財閥より三菱にきわめて近かったし、また星亨は隈板内閣に立てついた人物だし、この絡みの方程式は今となっては解きようもない。ただ、東京専門学校、つまりいまの早大の敷地は元井伊直弼邸のほか、高松藩の所有地だったものが三井の手から入手されたというのだから、そこに三井との関係があったのかもしれない。政治や財閥の暗躍はすでに始まっていた。

ともあれ大隈はここに土地を入手、一方で蘭畴舎とその立派な庭園は犬養毅の居宅になる。「松本の邸宅は犬養が三井? 岩崎? より貰い受け」 「この迷宮の上に軈て改進党首領大隈が早稲田の学園を建て今日に至った」と「蘭畴の生涯」の筆者鈴木要吾は書く。
ともあれ、江戸時代名残りの庭園などのあった界隈はいまや寸断され、風情も面影もとどめない地域になってしまったが、それも、このような所有権争いの末路の結果だったのかもしれない。

≪犬養の屋敷として≫
 松本良順が四谷に転居、大隈肝煎りの学校が生まれ、「馬場下」は新たな道を進む。
 この蘭畴舎跡に住みつくのが犬養毅(木堂1855-1932)だった。ここに住んでいたのは、1896(明治29)年から、麹町に移る1919(大正8)年までの20年余で、彼の自伝を見ると、引越の際に6000坪を売却、としているので、蘭畴舎時代の3万坪はすでに細分化されて、多くの所有者に分散していたことになる。もともとは、良順のころに集めた銘石類、陸軍学校のあった戸山の元紀州徳川家から持ち込まれた庭石などがあり、また樹齢百年の椎の木が残るなど、明治の名園のひとつに数えられていた、という(芳賀善次郎著「新宿の散歩道」、ほかに「犬養毅伝」)。
 犬養は5・15事件により首相官邸で海軍将校らに射殺される。それ以前の「馬場下」時代には進歩党、憲政党、憲政本党、国民党などを結成、あるいはその要職に就くなり政争の渦中に身を置いていた。おもしろいのは、中国革命最初の挙兵に失敗(1895年)して日本に亡命したばかりの孫文(孫逸仙)と知り合い、ひところ犬養のところに身を寄せている。孫文が辛亥革命に成功、中華民国の初代臨時大総統に選出され、建国を宣言(1911~12年)したころ、犬養は現地を訪ねて、親しく交流している。
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 松本良順については、司馬遼太郎(1923-96)が「胡蝶の夢」(朝日新聞連載、1976-79)で、吉村昭(1927-2006)が「暁の旅人」(「群像」連載2004-05)で取り上げている。司馬は蘭畴舎創設までにはほとんど触れず、吉村は「蘭畴の生涯」をもとにある程度忠実にトレースしている。ただ、この稿でこだわった「馬場下」にはほとんど記述していない。松本良順の面白さにつられて紙幅を失った。実父で「順天堂」開設の佐藤泰然の閨脈もおもしろいが、ここでは触れる余裕はない。タイトルにうたった漱石はじめ堀部安兵衛などについては次回に送りたい。            
                       (筆者は元朝日新聞政治部長)

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