【沖縄の地鳴り】
沖縄「差別」の政治的背景 ― 私感として
戦前の沖縄の衆院選挙などを見ていると、本土側に根差す「差別」感が見えてくる。
琉球王国の日本への合流の際の「琉球処分」といった扱いもあるが、沖縄の地理的条件や明治期以前からの歴史や伝統などの差違への配慮不足、あるいは上から目線の統治のありようといったものが、どこか今日の基地問題の扱いの中に見て取れるように感じる。
沖縄の民意の特異な扱いに、いまもそうした影が宿されているのではないか。沖縄に集中する基地への日本政府の姿勢にはそのような印象がぬぐえない。
1 > 国政選挙から排除された48年間
日本の明治維新後の近代化の歴史は、1889(明治23)年の明治憲法、つまり大日本帝国憲法に基いて翌90年に第1回の衆院議員選挙が行われたところに始まる。限界はあるが、ともあれ初期の民主主義の始まりである。
だが、沖縄で最初の衆院選が行われたのは、100余年前の1912(同45)年のことである。明治維新から40年以上の歳月を経ていた。帝国憲法ができて総選挙が始まってからでも、空白は23年間。日本の制度下にありながら、沖縄は日本の一部としての権利を認められていなかった。納税の義務、徴兵制の適用などの義務は課せられたのだが。
間接的な民主主義の制度ながら 地元の代表を選び、日本としての国政に参加できるまでに、相当の歳月を要しており、今様にいうなら民主主義下の「差別」というしかない。
国政に参加できたのは、戦前で終戦を迎える1945(昭和20)年までの33年間だけ。それも、戦争終結とともに米軍の統治下で施政権を握られたため、沖縄の本土復帰(1972年5月)が決まる直前の1970(同45)年11月の国政選挙までの25年間は再度の空白期間に置かれた。
このような理由のひとつとして当時、教育水準の低さを挙げる見方があった。必ずしも否定はできない現実はあったにせよ、その頃の有権者は少なくとも沖縄を背負ったであろう高額納税の比較的富裕な人々に限定されていたのだから、やはり、根底にあったのは差別感だと言わざるをえない。
おのれの国ながら政治に参加できず、住民の声がまったく反映されない、という空白の時代が2度にわたり半世紀近くに及んだのだ。
2 > 有権者数と議員定数の是正
戦前の沖縄での衆院選挙は、1912(明治45)年以来、終戦の1945(昭和20)年までに11回行われた(最後の投票としては昭和17年4月の翼賛選挙)。
最初の3回の選挙は定数2で、「10円以上の納税者・25歳以上の男子」のみで行われた。その制度自体も女性除外などの「差別」があったが、それは全国制度のことなのでここでは問わない。
だが、初回の選挙では、宮古、八重山の先島地方の人々には、同じ国民且つ県民ながら選挙権が与えられなかった。当時、土地整理の掌握と課税問題が全国的には整備されていたが、沖縄の地域ではそうした面の対応の遅れが選挙実施のネックにもなったようだ。それにしても、同じ県内で選挙権を行使できない地域を残す、という政府や議会の姿勢はおかしい、というしかない。
4、5回目の選挙では納税額が「3円以上」に下げられ、全県4区制、定数5となって有権者は5倍ほどに増えた。そして6回目の1928(昭和3)年以降は、男子のみながら初めての普通選挙が実施された。全県1区の大選挙区制(定数5)に変わった。
人口に対する議員定数というよりは、納税額の基準からの定数配分であるとすれば、貧窮者の多い沖縄の定数は少なくなるだろう。しかし、当時の人口は50万、しかも60余の島を抱えるとなれば、初期の「2」という配分はいかにも少ない。「5」への増加は当然だっただろう。初期にも、少なくとも4人は必要、という主張や批判の声は上がっていたが、国政選挙への途中参加の沖縄の声は届かなかった。
3 > 新聞の政治姿勢
限定された有権者の時代だったが、本土の為政者の意識ばかりではなく、沖縄の政治状況、そして新聞編集の姿勢もまた問われなければならないだろう。「差別」を助長する背景にもなっていたのだ。
その意味で、選挙と新聞の関係を見ておこう。
沖縄から本土への最初の県費留学生は4人いた。高嶺朝教、岸本賀昌、太田朝敷、謝花昇は、いずれものちに沖縄の政治に関わった。4人とも学習院に入学、謝花は東大農学部を出て初の農学士となり、ほかの3人は慶応義塾大学に進んだ。
沖縄銀行の頭取になった名門出の高嶺と、県の幹部になった岸本のふたりは、最初の衆院選に政友会から立候補して、初の国会議員になった。もっとも高嶺は当選したものの、反政友会の7代知事大味久五郎の圧迫によって、辞任させられている。
太田は、高嶺とともに1893(明治26)年に、沖縄では初の新聞「琉球新報」(現在のものとは無関係)を発刊、社長になり政治や選挙報道に力を入れて、県政界に大きな影響力を持った。
中江兆民の教えを受けたという謝花は、長期にわたって圧制を布いた奈良原繁知事と対立して退職、自由民権運動の影響を受けて沖縄倶楽部を結成し「沖縄時論」を発行して、参政権獲得、県政批判などの運動に取り組んだ。ただ、自身が設立に関わった農工銀行の役員選挙に敗れて失意、その後発狂するなど苦しい人生を終えている。太田と謝花は、衆院選の実施に至るまで、それぞれのメディアを通じて、一方は参政権導入に慎重論を説き、片やその行使の必要を訴えて、激論を重ねた。
このように沖縄の国政選挙には、この4人の本土留学生が大きく関わっていた。
4 > 政治と新聞のありよう
戦前の沖縄で大きな発言力を持ったのは、歴代の知事だった。その知事は、中央政府の実権を握った首相や閣僚、その党派に実質的に任命権を握られており、政策などよりおのれの保身に関心が強く、その支配に迎合しがちだった。
県令、知事時代を通じて在任したのは27人。最短は、政争によって赴任もしないまま6日間で辞任に至った1人(第8代小田切磐太郎)を含め、6人が1年に満たずに転勤した。
また、中央の政権・与党による人事のため、その異動のたびに人事の交代があった。立憲同志会のために地元の政友会系勢力を一掃した第7代大味久五郎、民政党にテコ入れした第17代守屋磨瑳夫は、ともに知事排斥運動の対象にもなった。異例だったのは、在任16年間に及んだ第4代奈良原繁で、土地整理問題に業績を残したものの、その威圧的な姿勢は県民を苦しめた。そのあとも子分格の日比重明知事に引き継ぎ、2人で通算21年間の統治を続けた。
このように中央の政党の顔色を見て統治にあたり、しかも、本土とは異なる歴史や事情を持ち、本土から遠隔の地にあり、彼らには植民地の総督気分で支配するかの言動が目立った。
たとえば、第2次大隈政権下の、選挙弾圧で札付きともされた大浦兼武内相に任命してもらった大味は、警察権力を使って候補者らの私行などを調べ、また衆院当選の代議士2人を地元政友会から脱退させ、県の党支部も解散させたほど。政友会を支援した前任知事のあとをひっくり返したのだ。
問題は、このように中央政治に乗って動く知事とともに、その顔色を伺うかの地元の政治家たちも同様だった。地元での自分らの権益拡大のためなら、政策の可否などは問題外、といった取り組みが見られた。
さらに、新聞の姿勢にも問題があった。報道や論調は客観、中立とは言えず、選挙時には特定候補者に有利な記事を載せ、あるいは対立候補の攻撃に回った。地元紙同士の対立も尾を引いた。その一例が、前述した太田の琉球新報と、咲花の沖縄時論の衝突だった。沖縄毎日、沖縄朝日といった後続の新聞も同様だった。
報道は冷静に、データを忠実に伝えることから取り組まなければ、その地の政治意識はゆがんでしまい、判断力も成長しない。中央政界、県政、県議会、政界人のレベルは、報道の「質」によって決まる、と言って過言ではない。
5 > 開花党と頑固党
明治初期に沖縄が本土に組み込まれる際に、強圧的な「琉球処分」(1872=明治5年)が行われた。琉球王国を琉球藩、その後沖縄県として、明治新政府の支配下に組み込もうとした措置である。
そのとき、日本に接近して旧態の沖縄を進歩、改革させようと主張する開化党と、琉球王国を懐かしみ、従来通りに中国に添い続けたいという頑固党が対立した。しかし、日清戦争(1894、5=同27、28年)によって、劣勢と見られていた日本が強大な清国に勝ったのを機に、沖縄の世論は日本本土への接近姿勢を一気に強めることになった。
そのような急変が、かえって当時の政府が進めていた皇民化教育の方向に急傾斜させ、本土への可否を問わないような空気を醸成した。
沖縄の戦後の復帰以前にも、また最近でも、沖縄独立論が叫ばれてきた。
日本自体が島国であるのに、中央の政治は島しょ地域に置かれた沖縄に十分に目を向けようとしない。とすれば、地元にこのような独立論が盛り上がるのもやむを得ないのかもしれない。
沖縄という地政学的な位置は、中央の政治から遠く、その姿勢も遠いままであれば、地域に根差す思いにまで配慮が至らず、しかも耳を傾けようとしなければ、現地の事情に疎いままで、むしろ強権的に物事を進めやすくなり、勢い「僻地的差別」の事態に陥りやすくなるのだろう。自己中心型の政治は、相手に対して、あるいは遠方の地ほど分け隔てをしてしまうものだ。
6 > 戦後の基地問題でも・・・
そのような格差容認の日常的な姿勢が、今日に至るまで続くからこそ、地元抜きとおぼしき軍事基地づくりが強行されているのではないか。つまり、簡単にいえば、時代時代の変化を踏まえながらも、沖縄差別の風潮は時を超えて、脈々と続いていることになる。
頑固党の流れは今日の沖縄独立論につながり、開化党の姿勢は戦後政府による対米譲歩、基地拡大やむなしといった「中央過信」「政府依存」の構えに結びつくように思えてならない。
維新後の日本は富国強兵の旗のもと、軍需部門などを含めて産業振興に努め、近代化に取り組んできた。島国の限界を自覚したことで、大陸進出の夢に駆られ、日清、日露、第一次大戦の勝利は、日中戦争から太平洋戦争を引き起こして、相次ぐ戦争を重ねてきた。
その過程で、軍事にからむ情報はほとんどが極秘の扱いにされ、国民はもちろん議会などにも実情を明らかにしないことが当たり前になっていった。
張作霖爆殺の事態では、大権を持つはずの天皇にもきちんとした報告がされず、天皇が怒って軍人上がりの首相が辞めるまでになった。軍部の幹部はもちろん下部に至るまで、戦争の火種作りに、軍差し回しのスパイをして日本人僧侶らを殺害までさせている。そのような事例は少なくないことが、史実には示されている。
そうした行き過ぎた行為、隠ぺいや虚偽の説明が許容されたことで、満州事変の引き金になる挑発行為、731部隊の凄惨な生体実験などが実行されてきた。
たしかに、軍事はスパイなどの諜報活動を刺激するし、秘匿の必要もあるだろう。だが、法令無視や虚偽の報告・説明、あるいは文書等も含めた隠蔽などは許されない。とくに、戦後の憲法下では厳しくあるべきはずだ。それでも、イラク派遣部隊の現地での日報(報告書)が開示されないといった問題も起きている。軍事問題を扱ううえでの「体質」なのだ。
沖縄の持続的な米軍基地の存在を考えるとき、日本の政府が「琉球処分」を決め、沖縄併合に踏み切ったのは「軍事的関心からだった」と分析したのは『琉球の歴史』(1956年)を書いたジョージ・ヘンリー・カーである。彼は、戦前の日本に留学、台湾、沖縄の研究を続けて、戦後は日本・台湾の降伏文書策定などに関わり、台湾の米国大使館員として沖縄を見つめてきた学者である。
明治政府が沖縄の軍事的な意義を重視したように、戦後の米国も同様の視点から沖縄の存在に目を向けたのだろう。時代は変わりながらも、日米両国とも、中国大陸、あるいはアジア全般という巨大な地域に関心を抱いたものといえよう。その関心とは、侵出、防衛、交流のいずれの狙いか、言い換えるならば、いまだに「眠れる獅子<張り子の虎>」の扱いか、「八紘一宇」的視座か、あるいは本来の「門戸開放」による本音の交流なのか。やはり、「関心」は、その中身だろう。
そのような歴史を考えると、沖縄を見る眼が国民サイドからではなく、国家の利害からの視点で進められてきたことに気付く。とするならば、軍事優先の沖縄の扱いは、住民とは別の立場からのものであることがはっきりする。
さらに言うなら、「軍事情報の扱いは秘密が当然」という風潮が歴史的に為政者から防衛関係者にまで広く定着し続けていることも理解できよう。国民もまた、そうなら仕方があるまい、といった寛大な姿勢になる背景にも納得できる。
しかし、そのような地元の生活者を黙殺する姿勢が許され、いつまでも権力者の言いなりのままでいいのか。そうしたことが続くなら、沖縄には「平和の礎」が今後、いくつも建て続けられることになるだろう。
遠隔地・沖縄は米軍の占領下で、民有地まで接収され、いまだに基地として使われている。普天間基地は解放されず、辺野古基地が恒久的な施設として建設されつつある。米国軍人の犯罪に歯止めも乏しい。日米地位協定改定の話し合いすら行われない。
政府要人と知事の会見はあっても、地元基地への政府の対応は変わらず、ひたひたと基地の建設工事は進み、協定改定の交渉も一切なく、将来的な説明もない。
<軍事は秘密が当然>という大前提には、沖縄の民意への配慮がなく、同じ日本人という感覚もないことになる。基地の建設以前から、沖縄の人々が長く生活してきた島、という事実を認めないことになる。しかも、第2次世界大戦で沖縄にもたらされることになった「平和の礎」に刻まれた死者たちの存在は失われ、その思いも後世には通じない。
これは、島しょゆえの、長期的で構造的な差別ではないか。
沖縄を訪れる観光者は、とくに若者が多いが、どれほどの人が基地を見て来るのか。地図に占める基地面積の広さに驚いたのか。米軍関係者の犯罪が過去にどれほどあったか。・・・こうしたことへの、人々の「無関心」が中央の為政者を支える。
加えて、沖縄に生きる人々には、今の生活を支える以上、現実をまずは容認せざるを得ない事情もある。
では、沖縄の歴史的「差別」が今なお続くことを許したままでいいのか。
打開の難しさを知りながらも、あきらめずに見ていくのみか・・・・そのような姿勢のままに、原稿を締めくくっていいのか、と思いながら、擱筆せざるをない。
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この原稿執筆にあたり、大田昌秀さんの著作
『近代沖縄の政治構造』を参考にさせて頂きました。
(元朝日新聞政治部長)
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