【沖縄の地鳴り】

沖縄・摩文仁に死す  ~宗貞利登<朝日新聞那覇支局長>の場合 [#d5a3267b]

羽原 清雅

 陸軍第24師団第32軍司令部(歩兵第32連隊)球1616部隊報道班員。

 第2次世界大戦の終わる2ヵ月足らず前の沖縄戦で、この肩書を持つ朝日新聞那覇支局長の宗貞利登(としと)は殉職した。
 死に直面する中で最後の記事を送り、戦闘の終る前後の1945(昭和20)年6月25日頃に戦歿した。「頃」というのは、23日説と25日説があり、確定できていないのだ。
 記者生活20年の46歳。沖縄の赴任は44年10月だが、戦乱に加えて通信事情も悪く、残された記事は少なかった。
 4月1日の米軍上陸からわずか41日目にして、日本軍司令部、沖縄県庁は本拠の首里を捨てて、本島南部へ逃げた。そのようななかで、彼の従軍ルポは5月11日から25日までに6本が発信され、西部本社版(小倉)をはじめ、一部は東京、大阪各本社版に掲載された。

 筆者は九州勤務のなかで、大まかなことは知っていた。だが最近、沖縄戦周辺を追っているうちに違う角度から、自らの経てきた新聞記者生活に引き比べつつ見直しを迫られた。

  新聞記者は組織の一員であり、組織のルールや枠組みを尊重しなければならない。企業である以上収益への配慮が求められ、個人的なポジションなど保身の気持ちがあることも否定できまい。多様な読者がいることを思えば、おのれの思いのままに書き続ければいい、という立場にはない。組織の一員としての見えない拘束、でもある。

  一方、個々の新聞記者としては、教訓をもたらす歴史を見、将来への波紋を考えながら、現実の取材対象と付きあう立場でなければならない。新聞記者は、右から左まで、学歴や経験も多様多彩、年代も幅広い、そのような読者に情報を提供する立場にある以上、読者や時流に迎合すべきではなく、本来あるべき姿に忠実、公平、平静でなければなるまい。記者としての姿勢を問われる問題であり、組織の論理だけであってはならない。

  通常の場合、①と②のはざまに置かれる日常では、納得したり、好感を受けたり、充実した前向きなこともあれば、異なるものの見方をめぐって上司のデスクらに反発し、また納得しかねる不快さに耐えざるを得ず、憂さを晴らすこともある。それが、時間に追われた記者の世界だけではなく、ごく平均的な組織内の職務のありようだろう。

  だが、時の権力と時流というものが、戦争を正当化して国民もこの風潮を受け入れたとき、新聞(あえてテレビ、出版、SNSなどメディアとは言わない)はどうあるべきか。
 小生の40年間の記者生活を受け入れた新聞社はかつて、「戦争の非」を懸命に説いた姿勢を一転させ、国家としての戦争の論理を受け入れて、むしろその旗を振り回す立場に変わった。そのころの記者には、反発して離職した者、残留して反発した者、不承不承従う者、ただ流れに乗る者、積極支持する者など、多様だったに違いない。それぞれに「生活」「立場」「捨て難い仕事」「いまこそ!」などさまざまな思いがあっただろう。また、そうした迷いを抱きながらも、どのように、政府や軍部の方針に積極的に追随するようになって行ったのか。変節せざるを得なかった組織幹部に納得して同調したのか、世相の流れに乗った結果慣れていったのか、命令・強制だったのか、自分を殺したのか。個人としての新聞記者の「あるべき姿」とは何だったのだろうか。

  比較してみれば、昨今は平穏ではあるが、④のような激動に遭遇して、身につまされる立場におのれ自身を置いて考えるとき、「かくあるべし」という日ごろの信念(があったとしたら、であるが)はどのように揺らぎ、どのように対応すべきだと考えるのか。幹部も普通の記者たちも、先輩たちは、苦しんだだろうなと思うし、何でついて行ったんだ、と責めたい思いもある。 
 だが、その立場を切実に考えれば考えるほど、おのれも「時流に同調」した多数派の先輩たちの一群に参じるだろうな、という気持ちにもなる。

  平穏と思われる今はどうか。ほんとうに「平穏」なのか。歴史を刻むプロセスにおいて、ゆがみ、ひずみが進行しているのではいないか、と思いもするのだが、それは措いて考えよう。 
 今、国家自体が国民を一つに束ねるような権能は持ちえない。憲法が、国家をけん制し、個人を守っている。建前はそうだ。
 だが、一定の組織が、その一員である個人を拘束したり、個人が忖度して迎合したりする。その風潮が広がっていった場合、それでも抵抗できる人物は、どれほどいるものか。日本にありがちな同調圧力に屈することはないか。個人はどこまで強いものなのか。これはいつの時代でも、懸念されることなのだろう。
 宗貞記者の殉死に学ぶとするなら、その個人と社会とのかかわり方だろう。

 宗貞記者の、沖縄赴任以来の、追い詰められた姿を追いながら、このような角度から考えざるを得なかった。一方、筆者が長く敬意を持つ優れた先輩は、そのようなときには「筆を折る」必要を語っていたが、それもまた容易ではない。ただ、その「覚悟」をもって臨む姿勢が「いざ!」の際には必要なのだ、とは感じた。

 宗貞記者は「死の覚悟」をもって、敗北前夜の沖縄での仕事に向かった。
 その思いを追いたい。

          ・・・・・・・・・・・・・・・

 *宗貞記者最後の原稿
  <5月13日紙面=西部/同12日紙面=東京>
  「水もなく乾麺麭齧り/鬼神も哭く奮戦/敵最前線に黒人部隊」
 【沖縄本島最前線にて宗貞特派員11日発】敵が本島上陸以来すでに40余日、・・・敵が現在沖縄戦線で実施している戦法は、全く想像に余る物量と機械力を極度に利用した破壊攻撃で、まず進撃に先立ち彼は陣地後方に猛烈な砲撃を繰返して交通連絡を断つ、・・・ために山も平地も形を変るほどで馬鹿々々しい物量の浪費もさることながら、敵はこゝぞと思ふ地点には熾烈な砲爆援護のもとに侵入を遮二無二企てゝゐるが我が精鋭は一歩も譲らず、肉攻につぐ挺身斬込みの連続でこれを撃退した際は4、5日に亙って水一滴もなく僅かに乾麺麭(かんめんぽう)(乾パン)で飢ゑを凌ぎ乍ら頑張ってゐる始末である、・・・敵は常に黒人部隊を最前線に布陣、・・・海と空から掩護をうけて追払っても追払っても食ひ下がってくる敵の戦意は侮り難く、・・・かくて沖縄戦線は今や最も熾烈かつ凄惨な様相を呈しつゝ真に重大な一大決戦の関頭に立ってゐる」

(後述する織井青吾は、黒人部隊を最前線に立てるとの表現は、「沖縄の住民を黒人部隊にみたてて記事にしている」と解釈している。軍部による沖縄県民への蔑視と差別、か。東京本社版は1面3段見出しで「黒人兵を米兵が督戦」としている。)

  「弾雨下に敢闘の義勇隊/謀略破砕に「沖縄週報」を頒布」
 【沖縄戦線にて宗貞特派員11日発】沖縄戦線における戦闘の熾烈化と共に激しくなるのは敵の謀略戦である、敵はあの手この手を企てゝゐる、噴飯に堪へぬのは伝単を撒き散らして思想攪乱を企てゝゐることで標題を「沖縄週報」<註:実際は「沖縄新報」>と題した小型新聞を印刷、飛行機から矢鱈に撒き散らしてゐる、これに対してわが新聞報道陣の活躍は物凄く唯一の地元新聞「沖縄週報」は全員結束早くから地下工場に籠ってあらゆる困苦欠乏と戦ひつゝ半截紙の発行を継続、これが頒布には皇土防衛義勇隊の組織網により砲煙弾雨の下決死的活動によって遺漏なく敵の謀略を破砕してゐる」

(西部本社版には、この記事末尾に「本社上間正諭特派員が不幸敵弾のため負傷」とある)

 <5月17日紙面=西部>
  「侮り難き敵鉄量攻撃/大砲を小銃代りに乱射」
 【宗貞特派員16日発】・・・今沖縄本島では我々が住む地区はどこへ行っても四六時中敵の砲爆と空爆が連続して身を容れる席がない・・・島々の陸地に残されている弾痕は、一坪当り平均一個といふ激しさで、敵は大砲を小銃代用に使っているのだ/師範学校全生徒を網羅する「鉄石勤皇隊」をはじめ、警察官、無線局員たちは弾雨をくぐって活動し、鉄石勤皇隊は・・・沖縄白虎隊の感がある」

 <5月20日紙面=西部>
  「那覇、首里の線に/敵五個師を補充/艦船なほ三百終結」
  「沖縄の義勇隊、幕舎焼打ちに殊勲/山にこもって神出鬼没」

 <5月26日紙面=東京、大阪 27日=西部>
  「穴籠り戦術で敵誘引/凄壮を極める地上戦闘」
 【沖縄最前線にて宗貞特派員25日発】激戦60日、敵は大勢を一挙に転ずべく守備陣突破の総攻撃を開始しわが陣前概ね2、3キロの線まで迫って半月形の陣形で攻め立ててゐる、敵はありとあらゆる火砲の掩護下に戦車をもってやって来る、わが方は穴籠り戦術で引きつけこゝぞと思ふところで臼砲を浴せかけ大量の出血を與へてゐるのだ、総攻撃開始以来の敵損害1万8千、総計4万5千にも達し盛に後方部隊を前線に投入するほかコックやパン焼き、料理人まで先頭に狩出してゐる、敵戦車はつねに4台位が飛行機、迫撃砲《の大量出血を與へた某陸戦隊員の武勲、5メートル乃至10メートル》などの掩護のもとに出て来る、あるときは陣地の前面に誘ひ込んで一度に4、5台を引つくり返し、また時には溝陰から躍り出て爆雷を食はすなど常に意表の放れ業で撃退してゐる、一人で群がる敵兵の中に手榴弾4個を見舞って4、50メートル毎に歩哨を置いて機関銃自動小銃で固めてゐる間を潜行、一挙に250名殺傷の大戦果を挙げた池本斬込み隊の勇猛、伝令帰途敵戦車2台に遭ひ身を潜めて遂にこれを擱坐せしめた現地召集将兵の手柄など、いづれも皇軍伝統の忠勇熾烈そのものだ」

(ちなみに、この記事が宗貞記者の絶筆になったと思われる。《 》の部分に乱れがあるが、これは宗貞記者によるものではなく、混乱する避難壕の前線基地の中での送信時に手違いがあったのだろう。それにしても、受信した本社のデスクはそのまま通して紙面化したことは理解しがたい。
宗貞記者がこの記事を書いていた様子を、沖縄戦に逃げ惑う軍幹部、県庁幹部ら、軍に同行する報道記者たちの実態を細やかに記した「鉄の暴風―現地人による沖縄戦記」<沖縄タイムス社刊・1950年>から紹介しておこう。
 『忠実な前線記者である彼は、この土壇場になってからも本能的に原稿紙にしがみついていたが、果して、旨く、激戦場と化したこの島から、彼の属する本土の新聞社に「宗貞特派員発」の前線記事が無事届いてくれるか、どうか』

 *宗貞記者の歩み 20世紀の始まる1901(明治34)年ころに、広島県東広島市(当時・西志和村七條椛坂)の農家に生まれ、家業を継ぐ気はなく、根室で旅館を営む叔母を頼りに根室商業高校(現根室高校)に進む。卒業後、広島に戻り、中国新聞に2年、広島毎日新聞に3年勤務、1927(昭和2)年に朝日新聞に入社、倉敷を振り出しに瀬戸、岡山、今治、大野(福井)を経て、40(同15)年台湾・花蓮通信局長となるが、職場の戦時閉鎖により台北支局員に。そして、44(同19)年6月那覇支局長となる。3つ目の入社のためか、地方記者が続いた。

 那覇着任後、3ヵ月余が経った10月10日、米軍機900機による沖縄の大空襲があり、那覇市内は焼け野原となり、支局も全焼した。通信状態は2日に一度、3日に一度、5日に一度と通信状態は日を追って悪化、20年4月1日の米軍の本島上陸後、5月25日以降は送信手段がなくなり、原稿を書いても送れなくなった。沖縄現地の新聞人が地下壕でかろうじて印刷、県民たち避難の各壕などに配布していた「沖縄新報」もこの日以降途絶えた。

 終戦後間もない「朝日社報」(1947年2月10日)に、入社時の岡山時代からの同僚だった松本才八は「各地を一人でコツコツやって、あまり恵まれた外勤生活とはいえなかったが、」と書いている。また、那覇への単身赴任時に西部本社に寄った際に「大いにやるよ、しかし今度は覚悟している、家族を頼む」と言ったと書き、松本は大空襲後の物資難のために「蚊帳」を送った、とある。まさに「死の覚悟」があったのだろう。
 松本の印象としての、恵まれなかった、ことは新聞社内的に考えればその通りだっただろう。この社報には、彼の死を伝える公的な記事もあり、それには「那覇支局長に抜てきされ」「報道の使命貫徹に努力したが、遂に殉職」とある。「抜てき」なのか、火中の栗を拾う人材難だったか。

 宗貞の前任支局長は、地元出身の豊平良顕(のち沖縄タイムス会長、沖縄の文化遺産保全に貢献)。彼が県内の新聞一本化政策に伴う「沖縄新報社」設立にあたって、その編輯局長に就任するため辞職したので、宗貞起用はその後継の人事だった。すでに戦火に見舞われ、朝日の本社側も台湾の報道網を縮小整理していた。また、沖縄赴任後の宗貞になんども撤退を進めたが、本人の意向以前に、すでに帰任できない戦時の危険な状況になっていたようだ。

 ただ、気にかかることもある。彼の伝える記事が、「愛国的」で「自国ファースト主義」に満ちたステロタイプだったことだ。当時の報道管制による軍部の激しいチェックのもとで、やむを得なかったか、あるいは次第に妥協するように習性化させられていたのだろう。その点は理解できる。その点を問題視するつもりは毛頭ない。
 ただ、宗貞が「母親の従兄だった」ということから執筆に至った、という織井青吾著『最後の特派員―沖縄に散った新聞記者』によると、「『白を白、黒を黒と口に出来るような所でなくては働きたくない』というような言葉を彼は何度となく従兄弟たちに漏らし、成程それで新聞記者になったのかと、周囲は皆おどろいたり感心したりしたものだという」とある。

 彼が朝日入社以前に、ふたつの新聞社を転々としたのも、着々と戦争の方向に進む国情のもと、白を黒といわぬ、筋を通そうという非戦の「我が道」を求めての転進だったのか、と思わないでもない。そこに、彼の苦しみがあったに違いない。
 記者たらんとした当初の思いをどのようにセーブし、死の迫る中で、どんな思いで狭隘な愛国的記事を書かされ、書いたのだろうか。「変節」などとも思わない。「気持ちの整理はどうやって?」と問うてみたいのだ。

 戦後の記者を安定的に続けた者として、仮に自分と置き換えてみると、自分も時流と多数派の動向、そして組織(会社)決定のトーンに身を任せたに違いない、「やむを得ないのだ」と自己弁護を繰返しつつ、生計の道を考え、従順に正当化していっただろう、と。
 戦後、むのたけじは朝日新聞記者を辞めて、戦時中の姿勢を反省し、小メディアに率直なおのれを示し続けた。しかし、そのようなこともできまい。とすれば、やはり流れに身を任せるのみ、なのか。だが、それでいいものなのか。

 *死への彷徨 宗貞記者はどのように追い詰められたか。報道陣ばかりではない。米軍の物量を惜しまない海から陸、そして空からの猛攻撃に、沖縄県を動かしていた県庁幹部、軍司令部も根拠地を失い、島内各地の掘削壕、自然の洞窟(ガマ)を転々と逃げ惑っていた。

 1944(昭和19)年10月10日、米軍の沖縄大空襲が5波にわたって、早朝から12時間も続いた。那覇市の9割が焼け野原となり、軍・民550人以上の犠牲者を出した。また、海軍、民間の艦船が壊滅的な打撃を受けるなど、抵抗の余地もなかった。
 じつはその前夜、牛島満司令官による大招宴が那覇市のホテルで開かれ、各地の司令官、県庁幹部や財界など民間人ら多数が招かれ、深夜までにぎわっていた。司令官のいない各地では防戦の対応が遅れ、市民たちも寝耳に水の事態だった。軍部には、米軍の情報がなかったのだ。

 またこの大空襲で、艦船を失ったために、子どもや女性、高齢者たちは本土や台湾に疎開ができなくなり、狭く危険な本島北部に大群の避難をするしかなかった。防衛は行詰り、都市の機能は損なわれ、この時点からすでに沖縄の敗退は見通せた、と言って過言ではなかったのだ。翌年6月23日の沖縄戦終結までの8ヵ月間、あるいはそのあとまでも地獄の日々であり、むなしい人為的な殺戮が続いた、というしかない。

 宗貞支局長、毎日新聞の野村勇三支局長と下瀬豊記者は5月26日、米軍の砲火のない未明に豪雨にまぎれて、軍司令部の転進先である島南部・摩文仁(現糸満市)に向かって出発した。島の南部は島内でも人口の集中している土地で、疎開しなかった人々も多く残っていた。
 その前夜、首里の壕内では原稿の送信ができなくなり、また危険にも迫られ、避難壕を捨てざるを得なかった。また、沖縄新報の豊平グループ、つまり若干の幹部と大山一雄ら記者8人も壕内での印刷を断念、その家族らを含む一団も軍司令部の置かれる摩文仁に向けて逃走し始めることになった。

 一方、島田知事ら県庁グループは、すでに首里台地の繁多川の壕を出て、4月下旬には警察部の壕に合流するなど転々とし、5月24日ころには東風平村(現八重瀬町)志多伯の壕に入った。下旬の29日には、高嶺村(現糸満市)与座で知事や司令官らで軍民協議会を持った。

 司令部の向かう南部の断崖に近い摩文仁は、普通なら首里からそれほど遠いとは言えない距離にあったが、日中は追い迫る米軍とその間断ない砲弾の雨のため壕に隠れ、夜になっての逃避行なので、思うようには進まなかった。しかも、豪雨が続き、すでに炎天の季節になり、日中の壕内の生活は食料や水も乏しく、風呂にも入れず、蒸し暑く、時に雨水、湧水がたまる状態だった。ほぼ全員が病気寸前の状態でもあった。
 とりわけ、壕内に穴を掘ったトイレはあふれる状態で、その臭気は壕内を満たした。1、2日で壕から壕へと移るが、状態はあまり変わらない。それが1ヵ月も続くのだ。

 軍司令部の摩文仁の壕は、地下6、7メートル、長さ80メートル、坑道の高さは2メートル足らず、幅2メートル前後という貧弱なものだった。
 当初、首里城の地下10メートルほどに深く掘られた第32軍司令部の壕は、まだましな方だった。幅2、3メートル、高さ2メートル、支坑道など全坑道の延長は約1キロに及んだ。松の巨木を胴切りにした支柱や梁木が隙間なく張られていた。換気の通風装置、発電機による照明があった。そこを追われてからは、砲火を避けた夜の逃亡で、日中の壕生活は体力を消耗して当然だった。ちなみに、この首里城地下の壕は、今も朽ちながらも保存されている。

 *宗貞記者の最期 軍部に同行した宗貞、毎日新聞の2人は、時折島田知事らの一行と壕内で出会うことがあった。また、宗貞と部下の上間正諭(のち沖縄タイムス社長)がばったり出会えたのは6月14日のこと。宗貞はカーキ色の軍服に戦闘帽、半長靴姿で、上間によると「もう敗戦は決定的だ、しかしがんばれ」と言って、「何かの役に立つから持っていたまえ」と百円札一枚を持たせてくれた、という。それが出会いの最期だった。

 上間は4月29日、夜9時ころに原稿を送信可能な軍の通信施設からの帰途、砲爆で吹き上げられた石塊で背中を強打、近くの壕内で介抱を受けていた。本土出身の宗貞と毎日新聞の計3人は軍部の同行を許され、上間だけが外されたのは、食糧難の折から沖縄出身ゆえではなかったか。
 ともあれ、5月中頃の2週間後、最初に宗貞と司令部の壕で会ったのは数分間。「もう本社との連絡もダメだ。君は傷をよく用心して、この際無理して同一行動をとることはない」といたわったという。最後の別れはその1ヵ月後、だった。上間はそのあと、岩陰で敵弾を避けているとき、米兵に見つかり捕らえられたという。

 宗貞はそのころ、めっきり体力を落としていた。沖縄赴任の2週間ほど前に、台北でデング熱を患い、沖縄ではマラリアにかかって下痢や高熱に悩まされている。豪雨、炎天、日中は砲火の危機、日中閉じ込められる壕内は暑さ、湿気、換気の悪さ、太陽光なし。
 死の数日前、摩文仁に危機が迫り、軍部は宗貞たちに脱出を命じた。だが、宗貞はその体力がなく、壕内にとどまった。先に引用した織井青吾の書によると、壕内で一緒だった島田知事が「死んではいけない」と励ました、とある。だが、それは推測、創作の部分だろう。

 また、死の直前、情報主任の益永董(ただす)大尉が宗貞のもとに来て「出発だ!」と命じたが、宗貞は強く拒絶した、とも織井は書いている。沖縄タイムスの現地の生々しいルポ『鉄の暴風』によると、益永なる人物は「いつも口汚く、沖縄人を罵っていた。『警察官も、新聞記者も、否、沖縄人はみながみな、スパイだ・・・。』と口癖のように、暴言していた」軍人だった、とある。これは、軍部と行動を共にした記者たちの証言なので、事実なのだろう。
 織井の書によれば、彼は職業軍人ではなく、なんと営業部門の同盟通信社にいた人物だったという。この点も、織井による取材であり、事実と思われる。
 だが、壕の外に出ると、銃撃一発、それが宗貞の終焉だった、と織井は書く。これは想像でしかないのだろうが。

 ちなみに、壕から出て海からの逃亡を命じられた毎日新聞の下瀬記者は6月18日、摩文仁湾での銃撃で死に、同じ毎日の野村支局長は泳ぎ切ったあと米軍に収容されて、なんとか戦後も生きながらえることができた。

 現場での最高責任者である牛島満軍司令官、長勇参謀長は23日未明に自決した。住民に受け入れられていた島田知事らも、詳細不明ながら、死を選んだ。戦争の切り上げがもっと早ければ、膨大な犠牲者を出さずに済んだはずであった。山縣有朋の訓示、東条英機の戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」の徹底ぶりが、どれほど死者を広げたことか。

 沖縄戦の終結は、牛島らの指揮命令系統を失った6月23日、とされている。戦時下の5月中の軍部、住民の死者は2万4,627人、終結前後の6月は4万6,826人、終結後の7、8月でも1万余人が亡くなっている。4月1日の米軍上陸以降でも、せめて5月前に戦闘をやめていたなら、少なくとも8万の命を救えたのだ(この数字は「沖縄決戦」<太平洋戦史シリーズ・学研編>による)。
 権力者の自害は、武人としての潔い責任の取り方なのか。いわば無数の死者を出すに至った権力の乱用と責任を隠ぺいするためであり、無責任そのものではないのか。

 宗貞の最期の日は確定できていない。生存した毎日新聞支局長野村勇三(のち同西部本社幹部)の証言によったものか、毎日新聞社内の記録『殉職社員追悼記 東西南北』(1952年刊)には「(脱出の際)陸上コースを選んだ朝日の支局長は六月廿三日をもって死亡を確認された」と断定している。一方、朝日新聞社の辞令は「6月25日」付の殉職、とされている。死去の日がわからない――戦乱の中とはいえ、遺族にはむごいことだろう。

 当時の朝日社報には、没後1年半近く経った21年11月19日、大阪本社に「遺骨帰る」とあり、22日に所属した西部本社に送られた。だが、遺骨はなかったという。宗貞のもとにいた支局員・上間正諭はかろうじて生き残れて、のち沖縄タイムスで論陣を張り、社長を務めた。彼は戦後、宗貞が亡くなったと思われる壕の入り口で小さな白い石を三つ拾って西部本社に送った。宗貞の残したものは、僅かな記事と小石三つだったのだ。
 その上間は沖縄戦で、両親と娘2人を含む肉親6人を失っている。沖縄の人に、ぶしつけにも係累の犠牲者について問うと、みな必ずといえるほどに親族を亡くしていた。

 終戦から1年半余り経った1947(同22)年3月22日、東京本社で全社の物故社員の招魂祭があり、宗貞を含む新合祀者は154柱に上った。これには、内地などでの病死者等も含まれる。
 ちなみに、朝日新聞社史には、特派員などで戦死戦傷病死、銃後で報道任務遂行中の犠牲者は56人とある。また、「日本戦争外史―従軍記者」には、太平洋戦争での犠牲者は10社計269人、朝日は51、毎日66、同盟64、NHK39、読売38などとなっている。

 一方、1953(同28)年7月9日、築地・本願寺で、メディア各社合同の追悼会がもたれた。毎日74、朝日71、旧同盟(現共同、時事通信)58、読売44、NHK38など計297人に上った。これは、すべて戦争取材の犠牲者だ。沖縄の記者は含まれていない。氏名不詳ながら、社命による犠牲である以上、きちんとした数字を示せないのはおかしい。

 今も、出陣した兵士たちの半数の遺骨は海外各地に放置されている。その戦闘に報道の立場から関わったメディアが、そうした現実に対してずさんであってはなるまい。組織としても、「殉職」という以上、遺家族のためにも責任を持たなければならない。国家は「国のため」に徴兵を義務化し強いた以上、遺骨の回収は経済安定後には、なにはともあれ取り組む責任があった。それをいまだに果たしていない。努力の様子も見えない。それが戦争というもの、でいいのか。

 1951(同36)年秋には、那覇市波の上の護国寺境内に、朝日、毎日、共同、沖縄タイムス、琉球新報の手で14人の「戦歿新聞人の碑」が建てられ、宗貞、下瀬両記者の名が刻まれた。
 これに先立つ1949年には、宗貞記者戦没の木碑が最期の地と思われる摩文仁の丘に、沖縄タイムスの豊平良顕、上間正諭たちによって建立されたが朽ちたという。その後は、どうなったのだろうか。

 なお、1995(平成7)年8月、朝日記者が終戦50年の取材で訪米時に、首里から南部に撤退する日本軍を追撃したローラ・マグルーダさん(元農業高校教師)が地下壕で拾ったという朝日社旗を返してくれている。朝日の社報は「那覇支局の形見」と書き、今の那覇総局に保管されている、という。寂しいいい話、だろうか。

          ・・・・・・・・・・・・・・・

 一人の新聞記者を、ささやかに追った。
 沖縄県による1951年の統計で、日米双方の死者は20万余。個々の霊にまつわる悲しみの家族、近親者、そして周辺の友人たちを思えば、10倍、あるいは数十倍もの「死」になるだろう。
 宗貞記者一人の死を取り巻く悲しみ、そこに追い詰める国家とその権力、そして流される組織体――関わりを断ち切り、このような「死」を防ぐには、どうすればいいか。

 一人の追いやられる死を、生きる一人ひとりが感じ取り、活動すること、「死」をもたらしかねない権力、組織とその流される風潮とそこに向かいかねないプロセスを阻むこと、それしかあるまい。それには、国家というものは至上ではないこと、国家を動かす権力のいかがわしさを知ること、そして権力に応じやすく、事の是非よりも多数の横行に流されやすい「世相」を見抜く力を一人ひとりが持つこと、しかあるまい。簡単ではない。(敬称略)

 (元朝日新聞政治部長)
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