【沖縄の地鳴り】

沖縄戦にあった日米対話的交流

羽原 清雅

 沖縄戦は「人間」を認めない<鉄の暴風>という表現が妥当なほどの激闘が続いた。日米双方の多数の兵士が生命を失い、島の人々も次々に犠牲となり、それどころか日本軍は避難した洞窟内で泣く乳幼児の命を奪って沈黙させ、各地で軍は「捕虜となるな」と家族同士の自死、つまり殺し合いを強制した。そんな現地での苦難の報告は、今も多く残されている。

 そんななかで、日本兵の捕虜たちと米兵たちとの、事態の和平的な交渉・打開の事例をひとつだけ、見つけた。
 沖縄本島に近い慶良間諸島のひとつ、座間味島でのことである。一昨年、この島に出かけたものの、こうした話は聞けず、ある本にここで捕虜となった人物の手記が載っていたことで知ることになった。当人は「沖縄戦捕虜第一号」という。本島での激戦が始まる1945(昭和20)年4月1日以前の、3月28日に米軍の捕虜になったので、そうなるのかもしれない。

 *米軍との交流 捕虜の名は、旧海上挺進基地第1大隊第3中隊に所属した岩橋一徳。
 3月28日、座間味島で捕虜となり、豚小屋を改造した収容所に入れられた。ほかに浜松、鹿屋から飛んで米軍の高射砲で機が炎上、海上で捕まった海軍飛行兵2人がいた。隣接する鉄条網に囲まれたテントには100人ほどの朝鮮人軍夫が捕われ、岩橋の食事は彼らが作り、米兵が運んだ。当初は飛行兵が多く、次第に座間味島で捕まった兵士が増えていった。

 岩橋は、米軍の軍医の通訳兼衛生兵のような仕事をしており、警戒的だった番兵らも次第に話しかけてくるようになった。4月に入ると、「小磯内閣が鈴木内閣に変った」「日ソ不可侵条約の更改をソ連が拒絶した」「ソ連軍がソ連国境に集結中」などのニュースを教えてくれるようになる。小屋のそばの空き地での水浴、洗濯も認められた。イタリア系の番兵と親しくなると、ラジオニュースのメモ、米兵用のニュースなどをくれて、もらったリーダース・ダイジェスト誌で日本への対応として無条件降伏、無倍賞、軍備の完全撤廃、戦犯処刑、国内民主化、軍事占領、といった記事を読み、びっくりした、という。ヒトラーの苦境も知った。

 *交流の前提 このような関係ができるには、それなりの前提があった。
 ひとつは、岩橋は44年6月の召集前の2年間、東大卒業後の勤務先から、一橋大の中山伊知郎教授主宰の調査機関に派遣されてインフレの研究をしており、国際情勢が把握できたこと、英語の使い手でコミュニケーションができたことが大きい。
 このような人材が、当時の軍隊に多くいるはずもなく、この事例はかなりのレアケースだった。ただ別の角度から見れば、相互の立場や考えが理解し合えれば交流が進む、ということだろう。戦争現象に煽られたままの、一方的な正当性主張、むき出しの敵対意識、疑心暗鬼が生まれる土台をなくせば、相互理解は生まれる、という証しでもある。

 そうしたなかで、収容所の捕虜が増えてくると、まだ島内になお多く潜み、餓死を前に米側に斬り込みを狙う兵士たちを説得、救出したい、という声が出て来た。ただ、米軍の協力なしには対応できない。
 重大な事情でもあり、部隊長、副官にその旨を伝えるが、米軍の同行が条件だ、という。だが、そうなれば、警戒心の強い日本兵は気を許さないし、彼らの生命すら危ぶまれる。
 結局、岩橋が副官宛てに英文の手紙を書くことに。

 まずは、日頃の食糧供給、加療と健康の回復への謝意を述べ、日本人の心情への理解の齟齬、米軍同行の不安を説いた。残された兵士の餓死を待つばかりの状態、「生きて虜囚の辱を受けず」の心情、生への執着、家族への愛着などを考えれば、「人間本来の感情に訴えることによって、彼等を説得するしか手段はない」として日本人だけの出動を願った。
 併せて、48時間の発砲停止、チョコレート、缶詰などの食料の提供、傷病者、栄養失調者の十分な保護、白旗の合図で救済用の車両や船の準備、なども求めた。

 *米側の理解と救出 これを受けたのはプラット少佐。学んだオレゴン大学では、松岡洋右(元外相・日独伊3国同盟主導)と同窓で、賀川豊彦ら日本人の友人も多い、という。
 岩橋らの希望はほぼ認められ、ただ岩橋は責任上、救出の現場に行かずに残ることに。ところが、こんどは日本の捕虜側にひと騒ぎ起きたのだ。収容所では、座間味島部隊の兵士と海軍特攻隊員らが言い争っていた。特攻隊の中には、日頃の挙措動作が粗暴で、理解力の貧弱なものがいて、岩橋らは事前に説得していなかった。そのため、「なぜ上官に秘密にして独断でやったのか」などの罵声が飛んだ。
 たしかに、部隊長の命令に反して、戦友に投稿勧告をしたら、「抗命罪」となる。だが、「法律は畢竟、政治の子」であり、こんな法律は反故同然、「ここ迄、生きるか死ぬかの境地に追い込まれれば、自らの判断で事を処する他はなかった」。さいわい、南京渡洋爆撃5回の金鵄勲章持ちの温和な上官が、これを治めた。

 第1回の行動で連れ帰った戦友は18人。成功だった。そして教訓は・・・
 「恐怖と飢餓に直面して、すっかり理性を失った人々には理詰めの話方は全然効果はなく、専ら妻子、親兄弟への愛情に訴えて気持を解す他はなく」、また相手と軍隊にいたころ昵懇か、面識のあることが絶対の必要条件、と実感した。
 あるとき、数十人が集団投降することになった。だが、その何人かが岩橋に、「小隊長だけは収容所につれてこないように」といってきた。聞けば、人格者だった中隊長が戦死のあと、指揮をとった小隊長は横暴残虐な人物で、部下たちが反抗したことで山奥に逃げ込んだのだ。すでに保存食糧は底をつき、夜間に海辺で米兵が捨てた食糧などを拾っていたが、この小隊長はこれらを独占、収穫が少ない者にはムチで打つなどしたという。したがって、同じ収容所に連れてきたら、撲殺される、というのだ。
 岩橋は書く。「軍隊の組織はこういった徒輩に歯止めをかける機能が甚だ弱く、反って厚顔無恥な者を益々増長させる傾向すらあった」。

 5月8日ころ、ドイツ無条件降伏、ヒトラー自決のニュースが伝わった。
 沖縄本島の戦闘は、日本軍最後の総攻撃が一夜で完全に失敗し、5月中旬以降は米軍占領地域が南部に向って日毎に急速に拡大していった。
 座間味の収容所は2ヵ所になり、中に調理施設を作って、自由に料理していいことになった。夜間のトイレ行きも許された。
 そのころ、捕虜は沖縄本島に集結のうえ、ハワイ、米本土に移送されると通告された。

 *話せばわかる! 収容所では、岩橋たちの座間味での“抗命”の事態があちこちに伝わっており、まだ山中に隠れる部隊長の梅沢少佐が「不忠者がやって来たら斬れ」との命令を出している、という。
 岩橋は、米軍に交渉して、こんどの梅沢らへの投降勧告は、これまでと違って、米軍が発砲し、次第に距離を狭めて梅沢らを壕内にとどめて、自決前に捕えようとした。
 これは成功して、足を負傷した部隊長は捕われ入院、見舞いに出かけた岩橋がそれまでの戦況を伝えると、「米軍は敗者に対して実に寛大だ。中国人も寛大だが、日本人はその点大変恥かしい位狭量だ」と、感慨を込めたという。
 さらに頼むと、梅沢は山中をまだ彷徨している部下に対して「降伏勧告」を記し、実印を押した、という。
 6月10日過ぎ、梅沢部隊長らとともに、岩橋も沖縄本島に移された。

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 この岩橋の手記を活字化したのは富村順一という沖縄出身の人物。1979年に刊行された『隠された沖縄戦記』(JCA出版)に掲載されていた。そのあとがきには、岩橋の話を聞こうと、元衛生兵の大宮市に住む関根という方を訪ねると、その手記を関根さんが保管していた。
 富村はこの本を出す9年前、東京タワーの展望台で米人宣教師を人質に取り、天皇の戦争責任を叫ぶなど、きわどい言動のあった人物。彼についてのネットを改めて見て、掲載をやめるか、と迷った。

 しかし、富村のコミットする前に書かれ、戦友たる関根さんに預けてあったこと、執筆自体には富村の関与がないこと、岩橋の文章は固有名詞、日時などが細かく書かれ、正確であること、などから、この手記が信頼できるものと判断、掲載することにした。
 ただ、なんとなくしっくりしないのも事実である。すでに関係者は皆、いない。もし何かわかることがあるなら、事実関係をご教示いただきたい。

 (元朝日新聞政治部長)
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