【視点】

沖縄戦時下の本土著名人の戦争観

 ――朝日新聞寄稿に拾う
羽原 清雅

 1945(昭和20)年6月23日。第2次世界大戦での沖縄戦終焉の日である。

 この年3月から6月にかけて、米軍の沖縄攻撃は物量ともにすさまじいものがあった。国民の生命、財産を守るべきはずの国家が「本土防衛」を優先するために、沖縄県民に日常的な戦時動員と耐久生活を強い、時に集団自決を迫るなど、厳しい環境に置かれていた。

 そのころ、敗色濃厚となっていた戦時下の本土で、著名の知識人、あるいは新聞記者たちは何を考え、何をアピールして、世論喚起に寄与していたか。あるいは、戦時への言及を避けていたか。当時の朝日新聞には連日、彼らのコラムが掲載されていた。
 戦争賛美を声高に叫び民衆を鼓舞する者が目立つ一方、稀ながら戦争へのコミットを避けるかの人物もいた。そして、その人々が新憲法下の戦後をどのように生き延びたか。おのれの言動の「責任」をどう示したのだろうか。本来、戦前の罪過の責任を追うべき戦犯的政治家、官僚らが簡単に戦後の社会に生き延びた事実こそが問われなければならないが、ここでは知識層や記者たちを取り上げた。

 それぞれの戦後の社会での生きようを追うと、その「責任」はかすれて見えにくい。戦争にのめり込んだ言動、民衆に訴えたセリフと与えた影響はかき消され、けじめをつけることなく、様変わりした新たな社会のなかで、またも堂々と活動している。戦後、朝鮮戦争を機に、戦犯容疑者までが政界への復帰を果たし、日本の新たな進路に多大な影響をもたらしたが、「戦争責任」を問わない風潮は政界にとどまらず、知識層にまで及んでいた。
 彼らにとって、戦争とはいったい何だったのか。戦争当時の言動に、恥じらいはなかったのか。いや、それが彼らの、たくましい生きる力だったのかもしれない。

 そしていま、記録の残りにくいテレビ等の電波電子による報道界では、知名度を武器とするお笑い芸人、いわゆるタレント、スポーツマンたちが個人的・挑発的・時流迎合的なコメントを横溢させている。そればかりではなく、社会的に知名度を持つ、いわゆる知識層に組み込まれる学術界、あるいはメディア界の人々の間にも、その傾向が見えることがある。その言動の責任はいずれ、将来の歴史の中で見直され、評価、批判されるだろうが、活字以外の映像文化が広がるなかでは、大量かつ一過性のデータから問い直すことは容易ではない。
 言論の自由の時代とはいえ、その軽薄度はともあれ、時流に乗ったその場限りの発言が大きな社会の潮流を形成して、政治など権力構造に組み込まれ、利用されていくことは怖い。

 戦前、各界の知識階層の、世論を形成する人々が、狭い視野で世相迎合の旗を振り、あるいはその旗は振らないまでも時流に逆らわず、追従する姿を鮮明に見せてきた。そうした時代の流れと言論人の姿勢を、もう一度ゆっくり見つめておきたい。
 本土の敗戦もまじかに迫り、大量の命を失いつつある沖縄戦のさなかに、なおも状況を見ない言論がまかり通った現実を見なければなるまい。「水に流して」いいものか。以下はすべて、日本国内で唯一の戦争現場となった「沖縄」を抱えるなかでの言論の姿である。
   <文中に○○○としているのは、新聞縮刷版の文字が読み取れない部分>

【識者の戦争激励論と消極論】
 まずは、戦争遂行に力を込めた右翼、運動家、作家、理論家、教育者、軍人の思考から見ておきたい。当時の世相を啓発、リードした主要な人びとであり、このトーンがごく一般的な社会感覚だった、と言えよう。終戦を迎える寸前の、あえぎながらの時期にして、なおこの発言である。「旗を振る人」に追随しやすく、同調圧力に捕捉されやすい国民性は、民主主義の社会に脱皮した現代とはいえ、ほんとうに過去のものになっているのだろうか。

*四元義隆 「国民義勇隊の構想」 (1945年3月22日付)

 『敵が、我等の郷土、我等の職場に侵入し来るときに、銃を執り、剣を提げて、郷土を守り戦場を死守して戦ふことは、老若男女を問はず、総ての日本国民の光栄ある責務であり、痛切なる願望でもある。今や、その願望は国民義勇隊結成の運動として、自然成長的に台頭しつゝある。・・・「正規陸海軍」の編成の外に「国民義勇隊」なる者が、国民の自発的なる憂国運動として発展し、遂には有力なる「国家の制度」として認めらるべきものと考へてゐる。』

 『本土作戦といふが如き秋<とき>には高齢の名士であれ、学者であれ、文人であれ、悉くが剣を提げ一兵士としての戦死を覚悟すべきである。最後の段階においては、政治家も学者も芸術家もただ一本の剣に全生命をうちこんで戦ふ義勇隊の一兵士たるべきである。(翼賛壮年○○○○○主任)』

 ::四元(1908-2004)は、旧制高校時代から国家主義運動をはじめ、東京帝大時に上杉慎吉(天皇機関説の美濃部達吉を攻撃、右翼思想の指導者)教授主宰の帝大七生社の同人になる。大学を中退し、安岡正篤(後述)の金鵄学院に入るが、井上日召(血盟団を結成し前蔵相井上準之助、財界の団琢磨暗殺、5・15事件に関与)を知り血盟団に参加。牧野伸顕の暗殺未遂で逮捕、懲役15年の判決を受けたが、恩赦で5年ほどで出所。右翼指導者として翼賛壮年団理事となり、首相の近衛文麿、鈴木貫太郎の秘書を務め、緒方竹虎にも接近。

 戦後、公職追放。左翼から右翼に転身した田中清玄(戦前の非合法共産党委員長で、転向後右傾化し実業界入り、戦後全学連に資金提供するなど話題をまく。田中愛治早大総長は子息)経営の三幸建設工業を引き継ぐ。拓殖大学理事の時、総長に中曽根康弘を起用。中曽根、細川護熙首相の「指南役」ともいわれ、歴代の吉田、池田、佐藤、福田、大平、竹下、宮沢の歴代首相とも親しかった。

 このような前科ある人物が、戦前戦後を通じて、政治権力者に重用される背景は何か。日本の政治の影に付きまとう右翼、暴力組織の関係者との関係には、つねに相互依存の利益、弱みの攻守のもたれ合いがあって、保守権力内に根を張り続ける。児玉誉士夫、笹川良一、田中清玄らもその一人といえよう。
 不都合なときには一人一殺を説き、いざとなると国民皆死、をいう。人間の死の重さへの思いがない。政治権力者も、時に同じ発想に陥ってきた。

*加藤完治 「学童に農耕訓練」 (1945年4月12日付)

 『私は以前より大都会地の学童はたとひ彼らが高等科の生徒であっても軍需工場に動員することはよくないと考へてをった。国民学校高等科生徒は未だ身体が十分に発育してをらぬ発育盛りの子供である。むしろ田畑において汗を絞らせることが彼らの発育を促進し彼らの心身を頑丈にする。内原の義勇軍では特に小さな子供を集めて錬成中隊を作り一年間訓練して○○○せる。・・・政府は是非適当な組織を作り、指導者を設けて彼らを最も合理的にこの方面に動員し高畦作りと簡易開墾を徹底的に教育訓練し、未来の忠良なる臣民を要請すべきである。(内原訓練所長)』

 ::加藤(1884-1967)は、東京帝大農科大学を卒業後、内務省、水戸市の農業訓練所長、愛知県の農業学校などの勤務を経て、茨城県友部町の日本国民高等学校で農民の教育に当たった。剣道家で、キリスト教から古神道に改宗して農本主義を主張。張作霖爆殺(1928年)の実行犯だった東宮鉄男(軍人・満州国軍政部顧問)とともに、満蒙開拓移民を提案、関東軍の同調もあり国策として推進した。

 東宮は「武装農業移民」を主張し、のちに「満蒙農業移民の父」と言われたが、終戦時に多くの犠牲者を出すことになった。加藤は茨城県内原(現水戸市)に満蒙開拓青少年義勇軍養成所を開設し、8万人の若者を現地に送り込んだ。
 戦後、公職追放され、A級戦犯と目されたが、罪状は問われず、戦前に初代校長を務めた日本国民高等学校に再度校長として復帰した。その後は日本農業実践学園(私立)となっている。

 若者を農業に向かわせる教育的意図は戦前戦後を通じて一貫していたようだ。だが、満州侵略を図る軍部の支援のもと、大陸に多数の青少年を送り込み、多数の犠牲者を生んだことも事実。戦後も、その罪状を問う声が続き、賛否は二分した。

*山岡荘八 「あゝ神機遂に到る」 (1945年4月20日付)

 『花吹雪神州を蔽ふの時、神機遂に到る。決然至誠の血統に輝くわが海軍に、蹶然春風を断って○光肌に迫る底の大訓令が発せられたのはついこの間のことである。「皇国の隆替繋つて本戦闘に在り――」に始まる(豊田副武<そえむ>)連合艦隊司令長官の声がそれである。時に百雷のとどろきに似て、われ等一億の心耳にとほる。・・・国民も固唾をのんで沖縄を眺めてゐる。が、この訓令にあらはれた全海軍の「断―」に接しては、まだまだわれ等身辺の拘泥を省みて、秘かに恥なきを得ないのである。この大訓令の意味するものは、百万の敵に対して昂然と胸を張る全軍必死の意気であり、勝利のあとの光栄に、一切わが身の連なることを考へない切ないまでに清らかな純忠の姿なのである。』

 『(日露戦争での東郷元帥によって皇国は救われた、との指摘のあと)そして再びこの一戦にありとの凄愴胸を抉<えぐ>る大号令に接したのだ。・・・その子孫のわれわれに、この美はしい伝統守る人々の、哀しいまでにつゝましい「死にゆく武器――」の補給がつかない筈があらうか。・・・あゝ神機遂に到る、これを勝利に導く道は一つ!一切の生活を只々戦争一筋の熱い○りに置きかへよう。われ努むれば勝ち、怠れば敗れるのは総力戦の鉄則なのだ。(作家、海軍省嘱託)』

 ::山岡(1907-78)は、新潟県の高等小学校を中退、上京して文選工として働きながら逓信省の研究所に学ぶ。その後、文筆業の道に入り、1942年から従軍作家として活動。戦後、公職追放となり1950年解除。「徳川家康」がベストセラーに。
 軍隊への郷愁があってか、60年代に自衛隊友の会会長になる。保守的な政治家、文化人との交流があり、福田恆存、田岡一雄、田中清玄、市川房枝らと麻薬追放運動を進める。また74年、「日本会議」の前身の「日本を守る会」を生長の家の谷口雅春、崇教真光の岡田光玉(良一)、戦時中従軍布教に務めた鎌倉円覚寺の朝比奈宗源らと結成した。

 彼の美文調の檄は、戦時の実態を見ずに、論拠のないあおり演説の口調だ。従軍経験が軍事への関心となり、戦後は対立国への挑戦的な「日本を守る」姿勢を保持する。
 それなりの一貫性があるのだろう。だが、底の浅さが付きまとう。時流に乗り、文筆によって民意をあおる。別の言い方をするなら、状況判断に比較検討がなく、したがって失敗から学び反省する訓練ができない。自己中心的な正義をもって主張を続ける。
 ごく一般的に言うなら、人間には筋目とか一貫性は大切だが、おのれに溺れ続けて周囲、全般の状況をチェックしえないタイプも少なくない。

*安岡正篤 「生者の招魂をこそ」 (1945年4月29日付)

 『戦敵は今後愈<いよいよ>、日本の死命を制せんとして肉薄すればするほど、逆に日本国民は激昂して続々決起し、神秘的な猛威を触発することを知るであらう。たとへば琉球における特攻隊の猛撃の如き、敵は一歩本土に近接する毎に一段とその凄愴を加へることに戦慄せねばなるまい。また敵はこれ以上帝都の中央諸官庁を爆破し、交通の要衝を破壊すれば、全国の政治機能は停止し、国民生活は混乱に陥るものと思ってゐるであらう。しかるに事実は中央諸機関がたとひ機能を停止しても、地方自治機能はそのために却て勃然として活動を盛んにするであらう。・・・この未曽有の国難危局に天長節を迎へて、何人も先ず自ら臣節といふことを、大臣たる者(必ずしも現在大臣大官に限らぬ)は果して輔弼の責に恥無きやといふことを、名も無き民も各々匹夫責有りといふことを真剣に反省し奮発したい。(金鶏学院学監)』

 ::安岡(1898-1983)は、大阪出身の陽明学者。素封家の生まれで、小学校で四書「大学」の素読、中学時代に陽明学者に影響を受ける。東京の安岡家の養子になり、一高、東京帝大法学部政治学科卒。大正デモクラシーに対して、伝統的日本主義を主張し、「日本精神の研究」などを発表して一部華族、統制派系軍人などに心酔者を得る。

 1926年、伯爵酒井忠正の援助で私塾「金鶏学院」設立、後藤文夫、結城豊太郎ら政治家らが幹事となる。松下村塾、藤田東湖私塾の再現を目指し、右翼権藤成卿らが儒教、国体、制度学などを論じた。日常闘争、当面の課題よりも、日本改造の原動力となるよう精神強化に重点を置いた。三井、三菱財閥の支援で「日本農士学校」も設立。学院は、近衛文麿ら政財官界の指導者たちも支持し、対象の軍人、官僚、華族ら以外に、右翼の井上日召、四元義隆ら、のちの血盟団のメンバーも参加した。2・26事件を首謀した西田税らにも影響した、と言われる。1944年大東亜省顧問。終戦の詔勅(玉音放送)にも関与した。戦後は公職追放。

 追放解除前年の49年、「師友会」を結成、講演、講話などで時代指導者の育成にあたった。吉田茂首相と対談するなど、政財界とのつながりも復活。58年に岸信介、安倍源基、木村篤太郎らとともに「新日本協議会」を結成、改憲、安保改定などに努め、政界の黒幕、首相指南役、陰のご意見番、精神的指導者などと言われ、体制派右翼の長老として政財官界に大きな影響力を持った。葬儀では、委員長岸信介、副委員長稲山嘉寛、大槻文平ら、委員江戸英雄、平岩外四らが並び、中曽根康弘、田中、福田、鈴木の歴代首相も参列した。
 佐藤、福田、大平首相らの施政方針演説について推敲を頼んだ、と言われる。

 なにか優れた指導性や帝王学があったのか、または伝説的ないわく因縁があって歴代の権力者らの参拝を招いたのか、あるいは右翼的枯れ尾花に怯えるようになびかざるをえなかったのか、それはわからない。わからないからこそ、黒幕たり得たのか。

 この朝日掲載の原稿を見ても、精神的に感銘を受けるような「なにか」は読み取れない。アジテーターとしても、これといったパンチはない。日本の前途を考える、といった示唆もない。いたって平凡な右翼にしか思えない。琉球の特攻隊の猛撃、と書くが、米軍上陸から1ヵ月近く経ち、ただ追い詰められるばかりの現実だったのだ。
 これが、戦前戦後の政治家、財界人らを動かす黒幕だったのか。こうした得体の知れない存在は、少なくとも民主政治を進めるうえで阻害こそあれ、必要ではあるまい。

*玖村敏雄 「皇国民の大信念」 (1945年6月26日付)

 『神国は不滅である。神が永劫であるからその主宰したまふ国もまた当然永劫である。・・・然<しか>るに独りわが国においては天祖以来歴世相承けたまひ天祖の御遺体を以て天祖の御事為し継ぎたまへるこの地上国家をそのまゝに神国といひ独立不羈三千年の歴史を為して今日に及んだ。・・・神国日本に生を享けた人は皆神民であり、神兵であるべきに、さはなくて地上国家に有りがちな堕落した形相をあらはし、あさましく汚く悲しむべき事象が充満するとき国家は衰へる。今戦争のさ中にあって一人々々の本人のしてゐることが、実はこの衰へ行く方向に拍車をかけてゐないといへるであらうか。「こんな事で勝てるであらうか」といふ疑惑を生じ、「こんな事で国は亡びはせぬであらうか」といふ心配が起る。・・・義憤、配慮、羞恥の情を日々の生活、自分の職域に於て皇運扶翼の一途に生かして行く。さうして自分の生活が「皇神の御誓」を現成するやうに努める。自分を精神的に救っていたヾいた方向に自分がつとめると共に人をも努めさせるのが悟後の修行である。・・・(文部省教学官)』

 ::玖村(1896-1968)は、広島高等師範学校卒後、同校教授を経て文部省入り。彼の出身地山口輩出の吉田松陰に傾倒、その全集の編纂にも参加。戦後は山口大学教授のあと、福岡学芸(現福岡教育)大学学長も務めた。
 この記事が掲載されたのは、沖縄が陥落した直後で、1ヵ月余には終戦を迎える時期であった。皇国教育の勧進元の社会感覚は、じつはこのように抽象的な精神主義であった、という率直な例証だろう。いま読めば、お笑い草にもなるまい。名前と肩書を示しての原稿であるから、まじめな思考だったに違いない。

 彼は吉田松陰の研究者だが、松陰はたしかに明治維新後の日本のありように大きな影響を与えている。彼がペリー来航の際に密出国をはかり投獄された、その海外への意欲は評価されようが、しかし朝鮮、満州、旧北方領土への進出、あるいは琉球の領土化などの構想はその後の日本の海外侵出の論拠ないし挑発することにもなった。
 玖村は、松陰を神格化して、狭隘な松陰像を打ち出し、日本の針路を誤らせる方向で戦争を美化する教育に寄与した。これに踊らされて戦火に散った若者、そして沖縄戦に巻き込まれた県民たちは哀れである。

*桜井忠温 上「飛機、戦車、わが肉」 (1945年5月8日付)
      下「勝利の人間砲弾」   (1945年5月9日付)

 上『死のない戦争はない。呉氏は「兵戦の場、死屍の地」といってゐる。人間の死なない戦争を考へた時代があった。・・・人間が死ななくて戦争ができるものなら、戦争も面白いものだらうが、遂にさやうな時代は来さうにもない。「必死にあらず、必殺」の時代が来ても、人間は依然として戦争の主人公たるに変りないと思ふ。・・・かうして肉弾の人は、肉弾の飛行機と共に戦ひ、肉弾の戦車と共に戦ふのである。孫子には「敵を殺すものは怒りなり」とある。怒りの眦を決して、敵にブツかって行くのである。「全員斬死―」と令するとき、飛行機も戦車も諸共に花と散り行くのである。』

 下『昔、右の道を行けば、必ず敵弾に中るが、左の道を取れば中らぬといふところがあった。右を地獄道といひ、左を極楽道と呼んでゐた。しかし、行くものも行くものも、地獄道を選んだ。そちらへ行けば百人が百人やられるが、やはり行く。極楽道は安全だが行かない。特攻隊も、斬込隊も、空艇隊も、いつでも地獄道を真っしぐらだ。・・・死は何でもない。たヾ勝ちたいのである。敵の最も恐れるものをブッつけようといふところに日本式肉弾の戦法があるのである。・・・その人間砲弾、人間飛行機、人間魚雷式戦法が戦法として、敵に弱点を衝いてゐるのである。敵にはこれがやれない弱点がある。・・・肉弾といふ言葉で、旅順戦をゑがいた私だが、今日の特攻隊、空艇隊などを思ふと、昔の「肉弾」だけではいひ尽くせないことをしみじみと思ふのである。(陸軍少将)』

 ::桜井ただよし(1879-1965)は、愛媛・松山市の出身で、陸軍士官学校卒。乃木将軍のもとで日露戦争に従軍、「全身蜂巣銃創」の負傷のうえ右手首を失う。その療養生活中にベストセラーになった「肉弾」を執筆(1906年)、海外10数ヵ国で翻訳され、戦記文学として名を馳せた。陸軍省報道班長となり、「銃後」「草に祈る」「将軍乃木」や、晩年に自伝「哀しきものの記録」を刊行。
 戦後1952年まで公職追放。松山の教師時代の夏目漱石の教え子、ということから、松山坊ちゃん会の初代名誉会長となり、画才もあって戦後の愛媛新聞に「坊っちゃん」再掲の際に挿画を描いている。

 桜井の従軍記は、戦場の苦闘、戦友への気遣い、家族への思いなどを伝えて評価を得たが、一方で天皇のもとの戦争を美化し、若者を戦場に駆り立てるプロパガンダにもなった。
 上記の記事にあるように、「死」への地獄道に突進させる心理的な誘導の役割を果たすことにもなった。異常、というしかない。目を覆って走る馬車馬のように、である。亡き漱石も啞然とし、不遜の教え子に怒り、嘆いたに違いない。

【対応多様な文学者】
 人の心を知り、文字に表す人々は、「戦争」にどう取り組み、どうアピールしたか。この項では、時流に流された人、どことなくのめり込めなかった人、クールに対応した人などを、順に見ていきたい。

*火野葦平 「あゝ火箭の神々」 (1945年6月5日付)

 『そはまことその昔の日の/緋縅<ひおどし>の鎧凛々しい若武者の出陣の姿。/しかもこれら紅顔の若人たちは/ひとたび出撃してゆけば/たれ一人還って来なかった。/汚濁にみちた地球のうへ、/ひとり燦然たるは日本民族、/その血脈の凝りてふきいでたるもの、/神々の伝承を瞬間に顕現し、/神話の規模を一撃に圧縮し、/生もなく死もなく/誇りと愛と怒りとをこめ/奔放溌溂に散りて咲く兵隊の花。・・・凛冽の闘魂をもって/突入の寸前まで熟睡し/戦友の遺骨を胸にいだいて/嗤ふべき目標に会心の笑みをうかべ、/噴射推進の魔法に乗って/壮麗の攻撃を開始する。/碧眼獣心の夷<えびす>ども茫然たるなかに/神の雷<いかずち>落下して/海洋は○然たる花園となり、/かくて鉄屑はさらに海底に堆積された。/・・・沖縄戦場に凄愴の血闘つづけられ/本土新戦場となって/いまわれら硝煙の巷に立つ日/瞼と心に灼きつくものに追従しよう。・・・あゝ神雷特別攻撃隊 (作家)』 (註:火箭<かせん>は、戦いなどで火をつけている矢のこと)

 ::火野(1907-60)は、福岡県の現北九州市若松の沖仲士玉井組の親方の長男に生まれ、早大を中退。37年満州事変で応召、その後陸軍報道部に転属となり、軍部との関係を深める。その間、「糞尿譚」で芥川賞を受ける。戦闘下の兵隊を描いた従軍記「麦と兵隊」が好評を博し、退役後も「兵隊作家」の人気を得て「文化報国会」を結成する。
 戦後、公職追放となるが、自伝的な「花と龍」、戦争責任に触れた「革命前夜」などを書いて流行作家になった。病死とされたが、13回忌に睡眠薬自殺とわかる。
 戦争作家としての業績はともあれ、この記事を読む限り、名文とは言えない。言葉だけがむなしく踊る。時流に乗って若者に死を賛美して追い込むかの挑発の文にすぎまい。

*川田順 「神は民の心に在す」 (1945年5月25日付)

 『(サイパン島、ルソン島、硫黄島敗退のあと)今又、沖縄列島に血戦しつつある状態は、正に六百年以前の歴史を想はせる。建武の中興は千早(城)の戦ひを経過した。大東亜建設の鴻業に昭和二十年の防御戦あるは、一億国民覚悟のことであらねばならず、又、歴史の必然でもある。<神国の土に血の足踏み入るか○来けものら撃ちてしやまむ> 米鬼の血の足は既に彩帆<サイパン>島を踏みあらし、硫黄島を蹂みにじり、今や、南西諸島にも歩み入りつつ、やがて神州の本土をさえも覗<うかが>はんとする。彼等は僭越至極にも我等日本人を「太平洋の野蛮人」と呼ぶ。焉<いずく>んぞ知らん、物質を以て精神を征服し、破壊せんと企てる彼等こそ「大西洋の野蛮人」なのである。・・・日本の神々は国土のいかなる処にも遍在し給ひ殊に国民各個の心の奥に○かれ給ふ。・・・勝つぞ、戦争。この国を台無しにしてたまるものか。(歌人)』

 ::川田(1882-1966)は、東京出身で、東京帝大法学部卒。初めは文科で小泉八雲の指導を受けた。住友財閥の総本社常務理事にまで昇進するが、退職。在職中も佐々木信綱門下の歌人として、新古今集を研究するとともに歌集を出し、戦後は歌会始の選者にもなった。

 実業界の要人として国際情勢を知り、歌人としての繊細な思いを抱くはずの人物がなぜ?と感じるような記事である。時流への迎合か。だが、真に迫る思いをこめる。このような学歴、社会的経験のある知識人にして、このような原稿を書くほどの狭隘な情報能力、判断力、バランス感覚なのか、と驚く。いかに愛国の情を叩きこまれたとしても、公的なメディアに書く以上、多様な観点から状況を判断しながら説得力を持とうとするのではないか。戦時下で攻められ、本土攻撃に迫られる怒りがあるとはいえ、理解しがたいのだ。

 このような社会的な指導者層が、単純な一枚岩に育てあげられ、判断の選択肢を持ちがたい一般の国民に対して大きな影響力を発揮する。その傾向は、今日の民主主義といわれる社会にも通底しており、それが怖い。

*高村光太郎 「平常心を豊かに」 (1945年5月10日付)

 『敵機の空襲による兵火に家を焼かれてからもう程なく一箇月になる。・・・自分一個が罹災したのとは違って同時に数万の人々が同じ厄に遭ひ、わけて区役所、郵便局、銀行、水道施設等の公的存在が焼失したことであるから、おのづから欠陥補充の速度は甚だ緩慢とならざるを得ない。・・・精神は罹災の如何に拘らず、自己独自の運動を縦にして各人相応の高さ低さに活躍する。高きものは罹災という物的関係をはるかに超越して、自己の罹災そのものをも一個の人生的好風景として享受し、心魂の健康を更に一段と推進せしむる。・・・願はくは此の未曽有の国難たる戦争を完遂すると同時に、国民の生活そのものの内外に未曽有の鍛錬が加へられ、国民各自の内外生活が革新的に根源的に見上げたものとなってもらひたい。そして上下大義に徹して真に眼もさめるやうな面目一新の大日本国を実現せしめたい。』

 『戦歿報道戦士にささぐ
 かくの如きを何にたとへん。/胸の和毛<にこげ>にたまをうけた/あの伝書鳩のけなげさは物の数でない。/獰猛、果敢、挺身、決行。/そんな漢字も役に立たない。ほとんど不敵の魂が、/身に寸鉄を帯びずして、最も語るに足る第一線を見て突込む。/君の持つはカメラ、無電、ペンと紙。/十行の報道は君の血によって印刷され、/銃後の民悉く硝煙の現実を知る。/死してなほ放たぬ君の筆は/故国の津々浦々に皇軍の息吹を送り、/世界の電波縦横に輪をゑがいて、/君の通信の真にをののく。/兵にあらずして兵火に斃る。/そは鳩の如くいたいけにして、/又すさまじき護国の鬼。(詩人)』

 この後者の文は、日本新聞会編集の「報道戦士」なる冊子に、高村光太郎が寄せたものである。1942年8月、すでに敗色が見え始めており、冊子の序文には「報道戦士として国に殉ずるもの、満州事変に五名、成都事件に一名、支那事変に四十四名、今次大東亜戦に於ては僅か半歳の間に十五名――実に六十五柱を数へるのである。」と書かれている。その1頁には大きく、「思想戦は現代戦の重要なる一面なり 皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝欺瞞を破摧するのみならず、進んで皇道の宣布に勉むべし」との「戦陣訓」の一節を掲載している。

 日本新聞会は報道界中軸の機関で、その姿勢もさることながら、高村の詩のむなしさには言葉を失う。だが、これが当時の大勢であり、ここまで追い込まれればものは言えない。とはいえ、それまでのプロセスを許容してきた責任を、政治権力・軍・官僚・財閥などに負わせるだけで、報道機関として逃げおおせるものなのか。

 ::高村(1883-1956)は、彫刻家高村光雲の長男として東京に生まれ、東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科、西洋画科に学ぶ。米英仏に3年余滞在し、彫刻、絵画を学ぶ。在学中から与謝野鉄幹の新詩社同人として文筆にも才能を見せた。死別した妻を詠う詩集「智恵子抄」によって、戦後も多くの愛読者を擁した。1937年の「秋風辞」以降、戦争支持的な傾向を強め、真珠湾攻撃を讃えるなど、戦時下に戦意高揚の詩を数多く発表、大政翼賛会の中央協議会議員や、日本文学報国会の詩部会長になっている。

 『日本が神の国だといふことを/敵アメリカは否定する。/天壌無窮の寶祚<あまつひつぎ(天津日嗣=天皇の継承)>といふことを/敵アメリカはせせら笑ふ。/海を船で埋め、/空を飛行機でいっぱいにして/日本本土へ上陸し、東京へ入城し、日本人を思ふ存分侮辱しようと/敵アメリカは公言する。・・・』(「週刊少国民」1944年10月15日刊)

 『神聖オモロ草子の国琉球、/つひに大東亜戦最大の決戦場となる。/敵は獅子の一撃を期して総力を集め、/この珠玉の島うるはしの山原谷茶<やんばるたんちゃ>、/万座毛<まんざもう>の緑野、梯梧<でいご>の花の紅に、/あらゆる暴力を傾け注がんずる。/琉球やまことに日本の頸動脈、万事ここにかかり万端ここに経絡す。/琉球を守れ、琉球に於て勝て。・・・ああ恩納ナビの末孫熱血の同胞等よ、/蒲葵<くば>の葉かげに身を伏して/弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ。』(朝日新聞1945年4月2日付)
 これは「琉球決戦」と題した詩で、なんと米軍が本島に上陸した日に、猛爆撃を前にした島民に、死を決して戦え、と鼓舞する。机上の空文で、悲惨への想いがない。

 終戦直後の8月17日付には、「一億の号泣」を朝日新聞に掲載する。
 『綸言一たび出でて一億号泣す/昭和二十年八月十五日正午/・・・玉音の低きとどろきに五体をうたる/五体わななきてとどめあへず/・・・微臣恐惶ほとんど失語す/ただ眼を凝らしてこの事実に直接し/苟<いやしく>も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん/鋼鉄の武器を失へる時/精神の武器おのずから強からんとす/真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ/必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん』

 天皇から発せられた言葉は消すことはできない、その言葉はひれ伏して聴き、ほかに言葉もない。この言葉は曖昧模糊ではいけない。武器を失っても、精神はある、真と美によって新たな分間に挑んでいこう―といいたいのか。天皇のもとにあって、という点を「綸言なのだからちゃんと聞こう」と呼びかけ、武器を精神に替えて、という。天皇礼賛、精神主義という点は、戦争遂行時と全く変わっていない。

 戦後の混乱はこのあとに始まっていくのだが、朝日新聞はなぜ岩手に籠る高村に書かせたのか。予想される戦後の社会的混迷を、高村の詩のように導こうと狙いをつけたのか。朝日新聞の戦争直後の記事をトレースすると、米軍のもとでの大改革の前に、一時期だが穏やかに天皇のもとでことを収めたい、といった動きがあった。そうした社内の空気が、高村の起用に向かったのではあるまいか。高村も、新聞社も、戦争遂行の及ぼしたマイナスの大きさに目をつむろうとしたのか。あるいは、高村の一貫した姿勢のように、戦争の必要を当然視していたのか。戦争に踏み切った際の政治権力への追従、そして反省ないままの転換、いとも簡単な心変わり、そして国民を引きずっていこうとする姿勢、これが怖いのだ。

 その高村は沖縄の詩を発表して10余日後に、空襲で東京の家を焼かれている。疎開先の花巻でも被災、その後辺鄙な山小屋で農耕自炊の7年間を過ごす。48(同23)年、自己反省の告白連詩「暗愚小伝」を出版している。その中の「真珠湾の日」の抜粋である。
 「・・・天皇あやふし。/ただこの一語が/私の一切を決定した。/…身をすてるほか今はない。/陛下をまもらう。/詩をすてて詩を書かう。/記録を書かう。/同胞の荒廃を出来れば防がう。私はその夜木星の大きく光る駒込台で/ただしんけんにさう思ひつめた。」
 天皇が頭にあってもいい。ただ、海外留学3年を経験した知識人が詩文に戯れ、時の国際関係、国民生活、人間の生死などへの感覚を失うこと自体が不思議である。

*富安風生 「“命涼しき”境地」 (1945年5月6日付)

 『南溟(南の海)にはてなん命涼しけれ 那覇 千文/鴻毛の身もスマトラに来て涼し スマトラ ○葉 敵兵のいふ「不可解且つ神秘的なる日本兵の心理」玉砕の精神、特攻魂、美しい言葉で「不惜身命」これを俳句で現せば「命涼し」となるのである。「不惜身命」は同時に「但惜身命」であることもいふまでもない。・・・かういふ句―生死の関頭に立って静かに明るく風月に懐をやる―が、海山越えてはるばると母国に届き、又この雑誌(ホトトギス)がいつの日か前線に配られた時の将兵の心持を考へると、何ともいへずただ胸が一ぱいになるばかりである。(俳人)』

 ::富安(1885-1979)は、愛知県豊川市出身。東京帝大法科から逓信省に入り次官にまでのぼった。1919年ころ、福岡勤務で高浜虚子に出会い投句。省内の句誌「若葉」の選者、さらに主宰する。ホトトギス同人。戦後に日本芸術院会員。
 富安は高級官僚ながら、太平洋戦争以前に退任したこともあり、戦争へのコミットは薄かったようだ。したがって、この記事も戦時下としては穏やかにみえる。とはいえ、命を失おうとする若い俳人を讃えることは、とらえようによっては玉砕、特攻を「命涼し」と美化するようにも受けとれる。

*山口青邨 「平静な句の力」 (1945年6月1日付)

 『転進やたヾ秋風を聴きながら (ビルマ<現ミャンマー>の友人が)呉れた俳句には転進といふ気になる言葉が一つ入ってゐる。俳句では歌や詩のやうにその戟情をあらはには歌はない。却って抑へ抑へて表現するのでものの表面的などの烈しさなどはむしろ隠れてしまふのである。転進やたヾ秋風を聴きながら――無念骨髄に徹する心を抑へ抑へて転身する様も想像されないこともない。今、平君(句者)は一兵卒として烈しく戦ってゐることだらう。或は敵を撃退して、一服しながら一句手帳に認めてゐるかも知れない。そんな一句が辞世の句となり、遺言にもなった例は少くない。この淡々たる心境は却って人を静かにし、逞しくしてゐるとも言へる。・・・・
 敵艦沈黙波は熱風をはこぶのみ/かへり来て見れば母港も葉桜に/弾痕の薔薇より紅し春暮るゝ どこかへもう出動して来たらしい。この熱情家田子君(句者)にもこの静けさがあった。ものを象徴的に沈潜して見ようとする俳諧修錬が出来てゐた。・・・・
 ありがたや義肢に馴れゆき麥を踏む (銃後に触れる数句を挙げて)少し元気な人達は畑を耕したりして少しでも吾々の食糧の補ひにだけでもしたいとしている。・・・・
 張られゆく翼に照れる夜業の灯 (産業人の数句を挙げて)かうして今、日本は一丸となって敵撃滅に邁進してゐる。美しい国土があって、そこに美しい自然諷詠詩が生まれた。然し国滅びて何の山河であらう。何の詩であらう。はげまう!たたかはう!(俳人)』

 ::山口(1892-1988)は、岩手・盛岡出身。東京帝大採鉱科卒の鉱山学者。古河鉱業、農商務省のあと、東大工学部助教授から教授に。高浜虚子に師事し、水原秋櫻子、山口誓子、富安風生、高野素十らと東大俳句会を作る。ホトトギス同人。写生文、随筆でも著名。
 学生らを戦地に送り出して、俳句のつながりと共に彼らの生死を気にかける。敵国との戦いに勝とう、といいながらも、どこか平穏を追い、自然を貴ぶ俳句の世界に託しつつ若者を想う気持ちがにじむ。本音はどうだったのか。好戦的な風潮に一歩距離を置く姿勢がただようあたり、当時の知識人としてのぎりぎりのところか。

*坪田譲治 上「南の島の守りへ」 (1945年5月26日付)
      下「出征く子達の心」 (1945年5月27日付)

 『私はこの子供たちをモデルにした訳ではないが、正太、善太、三平といふ三人の子供を作中に描いて、二十年ばかりになった。すると、世間が家の子供をモデルにしてゐるときめてしまひ、本紙(朝日新聞)からも善太、三平のその後について書けといふ話である。』

 上下2回の長い記事なので要約する。3人の息子の軍隊での現況を淡々と描く。ガンジー好きで、養育院に勤めた長男は海軍予備学生を志願、一等水兵として南方前線の島に。
 大学ヨット部の選手だった二男は学徒出陣で海軍を志願したが、陸戦隊に。予備学生だったので、こちらは少尉。二人は南の島で出会う。ニ男と、21歳の三男は学徒動員で一緒に海兵団砲術学校にいて3、4日に一度は会っていた。三男からの手紙に「家の楽しかったことを夢に見るのは毎日です。目がさめて、吊り床が沢山列んでゐて、自分もその中にゐるのを発見して、つい変な気になり、これではいかんと発奮して居りますよ」と織り交ぜている。  
 また、三男が病院通いをし、航空隊志願の予備生に落ちた時に、二男と「練兵場の一隅で逢ひ、久しく泣いて(ニ男を)困らせた」といった兄弟の話を盛り込む。
 ニ男が「いよいよ前線に行くといふ。私はその前から海軍刀に用意してゐた古刀の一口を彼に与へた。彼はそれを抜いて一振り二振りして見て、『これは軽い。軽くいゝ。』と喜んだ」などと紹介する。「(三男も)今命令を待っているが、何処へ行くことであらうか」と締めている。

 ::坪田(1890-1982)は、岡山市出身の童話作家。大学時代に小川未明に会って影響を受け、早大童話会を作る。童話一筋で、「風の中の子供」「子供の四季」「善太と三平」などを書く。
 この記事では、軍隊入りした3人の子どもの姿を淡々と描く。国に捧げた命、生きて帰れ、国家の勝敗、などといった戦時下の思いには触れない。いわば、本音がどうか、を見せない。時流である戦争というものに背を向けたわけではなかろうが、かといって戦争遂行の現実に同調しない毅然さのような気配も読み取れる。流される時代に流されることなく、踏みとどまる姿勢なのか。

*高見順 「嬉しい転手古舞」 (1945年5月31日付)

 『久米正雄氏と川端康成氏と私の三人で、はじめ、鎌倉在住の文士等の本を集めて貸出図書館を開かうと相談をした時、私は番頭役を買って出、私ひとりの店番ぐらゐで結構やれると思ったのだが、いざ開いて見たらとても私ひとりの手におへるものではなかった。鎌倉の文士達は挙って、自分から愛蔵の本を店へ毎日のやうに次々と持ちこんで来てくれるだけでなく、奥さん連や子供まで動員して店の手伝ひをしてくれて居る。番頭面してかういふ文章を書けた義理ではないが。・・・隣で、久米さんが特攻隊に贈る本を選んでゐる。報道班員として基地に行ってゐる川端康成氏から、隊員の為に本を送ってほしいと言って来たのだ。(作家)』

 ::高見(1907-1965)は、福井県で私生児として生まれ、東京帝大英文科卒。左翼芸術同盟に参加するなど、左派系雑誌などに執筆、33年には治安維持法違反で検挙されるが、転向を表明した。だが、文筆業に入ったその後も、思想犯保護観察法のもと、疑似転向者とされる。そのころ、「故旧忘れ得べき」「如何なる星の下に」などを発表。
 41年、陸軍報道班員として現在のミャンマー、さらに中国に派遣され、日本文学報国会にも参加した。本人の意思とは別に、国家のために、との名分による強制が働いた。
 戦後、「わが胸の底のここには」「あるリベラリスト」「昭和文学盛衰史」などの作品を出す。

 記事はこんな調子で、戦争自体には触れていない。あえて、戦闘的な話題を避けているようだ。どのような気持ちで書いたか。新聞社から与えられたテーマは、おそらく戦争末期に国民を奮い立たせるような注文だったと思われるが、高見はそれを避けつつ戦争の「へり」の部分を書いたのではないか。左翼の一員とされ、逃げ道としてはこの記事のような内容でかわそうとしたものだろうか。

 終戦4日後の8月19日、「高見順日記」を見ると、「新聞は、今までの新聞の態度に対して、国民にいささかも謝罪するところがない。詫びる一片の記事も掲げない。手の裏を返すような記事をのせながら、態度は依然として訓戒的である。等しく布告的である。政府の御用をつとめている。敗戦について新聞は責任なしとしているのだろうか。度し難き厚顔無恥」と書いた。

 高見の戦時下での弾圧と抵抗は全うされてはいない。しかし、そういう弾圧と少数意見の圧迫される時代に、かろうじて自己主張の言動を続けることは容易ではない。思想統制は、ひとたび許容すれば、一層重くのしかかってくる。言論の自由は、言論弾圧の気配を感じる第一歩から声を上げ続け、広い範囲での抵抗活動がなければ、権力との闘いは続かない。歴史はそれを証明している。「個」としての、せめてもの抵抗であり、それがたとえ中途挫折したとしても言論の世界にある者としての責務だ、という感性があったに違いない。

*川端康成 「川端康成氏 “神雷兵器”語る」 (1945年6月1日付)

 これはコラムではなく普通の記事である。海軍報道班員として沖縄方面に派遣された、作家川端についての雑報である。この掲載された記事の下段に、前述の山口青邨のコラムがあって、そのトーンの違いからここに取り上げたいと思った。しかも、この前日の朝日新聞には、先に触れた高見順の「戦争」に距離を置く記事が掲載されていた。
 人間の個性は本来自由である。だが、自由であるべき個性が、権力や制度によって「自由」に扱われたら、この本来の自由は成り立たない。川端の心理は、その言動と思考によって許容される範疇にあるか、権力への迎合であるか、単に時流に乗るだけか、そのいずれであろうか。ノーベル賞の価値、とはそこに至る軌跡まで問われなければなるまい。
 文学者の繊細は、軟弱、虚弱であってはならない、はずだ。

 川端は「作家として海軍報道班員として南西基地(鹿児島・鹿屋航空基地)に従軍、数日前帰還したばかり・・・眼のあたり見た神雷の凄絶さをつぎのやうに語った」として、以下のように報道されている。
 最初に説明を加えておくと、「神雷」部隊(第721海軍航空隊)とは特攻新兵器「桜花」の実験訓練の部隊として、沖縄前線で対艦特攻に従事する。そして、この「桜花」とは車輪などの降着装置を付けない爆弾搭載の小型飛行機を、母機である陸上攻撃機に吊り下げて飛び、目標に接近したところで投下するもので、乗員の生還は望めず、いわば人間爆弾である。空からの人間魚雷で、神風特攻隊である。川端は、語る。

 『神雷こそは実に恐るべき武器だ、この新鋭武器が前線に来た時、わが精鋭は勇気百倍した、これさへあれば沖縄周辺の敵艦船群はすべて海の藻屑としてくれるぞ!神雷特別攻撃隊の意気は今天を衝いてゐる』

 『ある日の攻撃のこと、基地を進発した親飛行機は沖縄周辺の洋上に遥かに敵艦船を発見、間髪を入れず神雷を放った、放つと同時に旋回したが、この時神雷いかにと振り返った乗員の眼に映ったのは天翔ける神雷の姿でもなく打ちあげる敵の対空砲火でもなく、あっという間に巨大な煙を引きかぶって波間に没して行く駆逐艦の姿だった。・・・神雷さへ十分に威力を発揮できたらすべての敵艦はことごとく葬り去られ神風の再現ができる、いまや神雷による敵撃滅の勝機が我々の眼前にある・・・親飛行機と戦闘機の増産、これが今神雷に一番大切なことだ、これさへできれば神雷は数百数千の稲妻のごとく敵艦に殺到してすべてを沈め去るであらう、飛行機を作れ、飛行機を作れ、神雷による勝機は今眼前にある、必勝を信じて神雷にまたがり、淡々と出撃する勇士等に恥づかしくない心をもって生産戦に戦ひ抜こう、爆撃に断じて屈するな、私は心からかうお伝へしたい』

 この作家は、戦闘は重視するが、人ひとりの「いのち」への思いがない。兵士という一個の人間を戦争の一部品として捉える。文学本来の意味から逸脱していないか。

 ::川端(1899-1972)は、大阪市に生まれ、東京帝大英文科に入り、のち国文科卒。文筆の道に入るが、当時盛り上がったプロレタリア文学には進まず純文学を志す。神風特攻隊には関心があり、この執筆で戦記文学賞を受けたこともある。志賀直哉の推薦で海軍報道班員(少佐待遇)となり、山岡荘八らとともに鹿屋航空基地に1ヵ月ほど滞在、のちに「生命の樹」を書いた。

 戦後に「沖縄戦も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰った。特攻隊について一行も報道は書かなかった」(「新潮」掲載「敗戦のころ」1955年8月号)と述べている。たしかに、上記の記事はみずからの執筆ではなく、朝日記者に語ったものである。ただ、鹿屋で川端の世話をした杉山幸照予備少尉は、川端が予備士官には特攻の非人道的暴挙を非難し、軍上層部には笑いながら特攻を賛美していた、と記して、その「小心、卑屈、狡猾」な言動を批判している。真相はわからない。ただ、特攻礼賛の報道記事は現に残されており、捏造ではないとすれば、川端の二枚舌的、二重性という杉山の指摘を信じざるを得ない。

 川端は、この記事の掲載後、終戦を経た1年余り経って「生命(いのち)の樹」(「婦人文庫」46年7月号)なる短編を発表している。だがその後、この短編が10種ほどの全集、選集、自選集などが公刊される中で、採録されたのは1回のみで、没後に出された全37巻の新潮社刊全集(1980-84年刊行)に残るだけである。ご本人に、掲載を逡巡するものがあったのだろうか。

 この「生命の樹」は、特攻隊員仲間2人が生死を分かち、戦後、亡くなった男の恋人だった女性と、生きたほうの男が亡き隊員の遺族のもとに訪れる、という筋立て。こんな筋のみを纏めると情緒も何もないのだが、文体は川端流の沈潜した静かな趣のあるものだ。まさに新聞掲載の「神雷」のような、死を覚悟する、あるいはさせられる特攻隊を描いた、えげつない露骨な文体とは天と地の違いがある。ただ、その文中に、言い訳というか、発想の転換というか、しっくりしない表現が使われている。

 「特攻隊員である植木さんには、死は定まったことだった。・・・強ひられた死、作られた死、演じられた死ではあったろうが、ほんたうは、あれは死といふものではなかったやうにも思ふ。ただ、行為の結果が死となるのであった。行為が同時に死なのであった。しかし、死は目的ではなかった。自殺とはちがってゐた。・・・飛行機に乗ってしまへば、まして突入の時には、死など念頭にないとは、皆さんのおっしゃることだった。」
 「(植木さんの)そのやうな死は、複数であり、連続であった。植木さん一人ではなく、植木さんに続く人は絶えなかった。戦争の波の起伏による、前線の刺激と戦場の興奮とに、私も揺すぶられて、異常な躍動と麻痺とにある私の心は、さう一人の死を見つめてもゐられぬやうだった。」
 このあたり、戦時に興奮した川端の「反省」であり、「特攻の死」というものをはぐらかすかの修辞(レトリック)のようにも思えてならない。

 次に紹介する女性研究に影響力を持った高群逸枝は、戦後に刊行した全集に載る日記から、朝日新聞への寄稿の部分が削除され、掲載されていない。事情はなんだったのだろうか。

*高群逸枝 上「伝統の護持心」  (1945年6月2日付)
      下「五百子刀自の心」 (1945年6月3日付)

 上『醜敵の沖縄上陸に際し、その一拠点に対して、わが琉球婦人が斬込を行ったといふことが敵側から伝へられたとき、私はさすがに日本女性であり、琉球婦人であると血の共鳴を禁じ得なかった。・・・元来母心を持つ女性が、家族愛から延<ひ>いて祖国愛に強いことは当然なことでそれはわが国史にはっきり現はれてゐる。・・・琉球は、この古代日本のおもかげを伝へてゐることが多く、女性の護持心も強いといはれる。・・・(神功皇后の)この大祓は・・・国内の矛盾醜汚を別抉一掃し、もって民心を純一清浄ならしめ、戦争一本に結集されたことを意味するが、かやうな敵前革新は、日本が大事にのぞんで護国のために常にとるところで、唐の脅威に対して大化改新となり、幕末の外寇に対して明治維新あるの先蹤をなしたものといへよう。・・・大化改新でも、明治維新でも大祓として私物の奉還といふことが下から盛り上り、浄化作用が行はれたことを思へば、私たちは未曽有の国難を前に、まだまだ省みねばなるまい』

 下『大東亜戦の今日あるを直観、逸早くそれに備へ国防体制の一環をかためようとした人として私たちは身近かに奥村五百子を知ってゐる。彼女の護国の信念とその事業とは、あまねく私どもに理解されてゐるやうでゐながら、案外さうでない。欧米の東亜侵略に敏感となった幕末、黒船の出現を一契機として起った尊皇攘夷運動に、五百子はすでに妙齢の身を投じてゐるが、これが彼女が生涯を通じて護国的情熱から物を考へ、画策し、実行したことの最初の出発点であった。・・・彼女はこれ(近衛篤麿らの興亜論)に共感し、まづ最も紊乱してをり、我国の直接的悩みとなってゐる朝鮮に着目し、近衛公らの斡旋を得て彼地に渡り、光州の一寒地に日本式の村を作り内地の農法を伝へるとともに、実業学校を起して半島青年を教育しようとした。・・・彼女はあくまで日本女性の伝統である強い護持心―母獅子の逞しい本能をもった人であった。・・・時艱にして人を思ふ。五百子をして今日あらしめばとは筆者ひとりの思ひであらうか。(女流作家)』

 ::高群(1894-1964)は、日本の「女性史学」を創設した民族学者であり、作家だった。熊本県に生まれ、熊本師範を中退し熊本女学校を修了。教職を経てアナーキズムに影響を受けて女性史研究に向かい、平塚らいてうとともに無産婦人芸術連盟を結成するなど女性運動に取り組んだ。「母系制の研究」「招婿婚の研究」などを記している。。
 女性の権利への着目は正しいし、男性優位の日本社会での嚆矢として、その業績は評価されるだろう。だが・・・と言わざるを得ないことが残念である。上記に紹介した高群の寄稿の内容は、男性社会への迎合でもあるまいが、母たる女性の立場として言うなら、戦場での声明を惜しむ立場に立つこと、戦争の根源を断つ主張を展開しなかったこと、を惜しむ。

 高群のもう一つの疑問は、1960年代から刊行された10巻の高群逸枝全集(理論社)にある日記には、終戦時や、その頃の記述が削除され、当時の経緯なり、反省の弁なりは読むことができないのだ。言い訳でも、反省でも、転換の気持ちでも、学究として残してもらいたかった。共産主義の宣伝者が官憲の圧力に屈して転向すること自体、やむを得なかったり、あるいは極端に右翼に転換したりしたように、人間の心や理性の変化はありうることで、その軌跡は消し去ることができない以上、まして文筆業なら削除してはなるまい。仮に恥ずかしさはあっても日記をさらす以上は、学究たる者なら削除すべきではあるまい。
 このような姿勢が、ウィキペディアで「自説に都合の良い恣意的な文献解釈を行っていると批判されている」と指摘されることにつながるのではあるまいか。惜しいことだ。

【朝日記者の姿勢】
 沖縄戦が急速に敗退していく中で、このコラムには朝日新聞の幹部級、あるいは一線の記者たちがペンを執っている。外部筆者を取り上げた以上、そのメディアに登場するプロたちの論調にも触れておかなければならないだろう。これは、批判ではなく、後継の記者たちにとっての戒めである。

*佐佐弘雄 「焦土をめぐりて」 (1945年3月18日付)

 『遠い空を見渡す。大虚の真空に面壁するの思ひだ。秦の始皇の、ネロの、また数多き侵略者や覇道者流の罪悪史が念頭をかすめては過ぎる。この眼前の姿は、それらを超ゆるとも決して劣らぬ。人道の、道義の、歴史上○極限の恥辱だ。この廃墟に立ち啾啾の鬼哭を聞く。・・・真実を凝視して止まぬ誠実なるわれらだ。現実の前にはいさゝかもたじろがぬわれらでもある。現代国民戦争の実情も知ってゐる。戦争手段が道義的には進化するよりも、寧ろ残虐に残虐にと退化しつゝある機械的唯物的傾向をもとくと臍に収めてゐる。・・・だが、ここに衷心からいひたいのは、かゝる実情を公然世界に公表すべし、ありていに国民に周知せしむべしとする唯一点である。・・・噫、あの無告の声が聞えないのか。あの無限の劫火が見えないのか。全国民 が真面目に立ち返り各各自らを粛正して敢然蹶起すべきの秋は今だ。妄想する勿れ、敵襲何ものぞや。(主任論説委員)』

 この記事が書かれたことには、当時の説明がいるだろう。この紙面掲載の1週間前、3月10日未明から米機B29による東京大空襲があった。夜間の偏西風下、超低空爆撃、木造家屋密集という悪条件の中で、東京35区(当時)のうち軍需物資生産の町工場も多い深川、本所、浅草など、3分の1以上が焼き尽くされた。死者8-10万、負傷者4-11万、被災者100万、焼失家屋27万戸の被害、といわれる。佐佐には、この憤りがあった。

 ::佐佐(1897-1948)は、衆院議員の佐佐友房の3男。東京帝大政治学科を出て大学で助手、外務省嘱託として英仏独に2年間留学したあと、九州帝大教授になるが赤化教授として追放にあう。1934年朝日に入社、近衛文麿を囲む昭和研究会に、朝日の論説委員笠信太郎、記者の尾崎秀実らと参加、近衛新体制運動の政治理論面を担当。近衛の秘書になる血盟団事件の四元秀隆(先述)を近衛に紹介するなどして、東条英機ににらまれ、ゾルゲ事件では追及される。入社当初からライターとして注目され、新官僚時代の始まる岡田啓介政権時に「新官僚論」を、近衛内閣発足時には「新内閣の人々」などを連載し、広い人脈を持った。
 42年緒方竹虎主筆のもとで副主筆(のち主任論説委員)、終戦前の45年3-11月論説主幹を務める。終戦後の47年参院選全国区で当選するが、翌年病没。

 終戦の8月15日付紙面に、「一億総哭の秋」の社説を執筆したのが佐佐だった。
 「今や不幸にして事志と違うものあり、君国はしばし過酷なる現実の制約の下に梟されることになった。恐らくは今後幾年か、はたまた幾十年か並々ならぬ苦難の時代が続くことを予め覚悟してかからねばならぬに相違ない。しかし如何に困苦の時が続こうとも、険阻の途が続こうとも断じてこれを意とすべきではない。挙国一家、国体の護持を計り、神州の不滅を信ずると共に、内に潜熱を蔵しつつ冷静以て事に当たるならば、苦難の彼方に洋々たる前途が開け行くのである。加うるに、被抑圧民族の解放、搾取なく隷従なき民族国家の再建を目指した大東亜宣言の神髄も、また我国軍独自の特攻隊精神の発揮も、ともに大東亜戦争の経す中における栄誉ある収穫というべきであり、これらの精神こそは大戦の結末の如何にかかわらず双つながら永遠に特筆せらるべきわが国民性の美果としなければならない。」

 さらに、9月17日の社説「東条軍閥の罪過」では、「まことに恥多き戦争であった。」と書きだして、①支那事変の名分が浮動的だった ②暗闇の如き事変に、木に竹をつないだように起こった大東亜戦争、と分析、「手先官僚を通じて、国内的にも耐へ難き圧制を強化し、漸次奴隷制的様相をさへ呈し始めた。・・・それらの傾向を先鋭化し、極端なものにしたのは東条的軍閥に外ならなかった。・・・平和国家新日本としての信を外に立て、内にまた新発足の起点を明確ならしめなければならない」と書いた。

 こうした見解は朝日新聞を代表するもので、見境のない爆撃の不当性の指摘や、その怒りは当然であるし、米側への反発もその通りだろう。だが、長期にわたった戦乱から再出発するには、日本の責任などについていささか甘すぎるし、変革の方向とその理念がなさ過ぎよう。佐佐の経歴からすると、新聞のあり方としては権力者へのコミットがありすぎ、戦争の発端までの経緯や名分への思いが希薄過ぎた、と思わざるを得ない。
 その後の占領軍の仕打ちが厳しかったというよりも、戦争の引き金を引いたことへの日本の姿勢に対する反省が浅すぎた、というべきではなかったか。

*宍倉恒孝 上「死に場所へ赤線」 (1945年5月4日付)
      下「必殺の片道燃料」 (2945年5月5日付)

 上『私がここを訪れたのは出撃前6時間であった。下手曹長(広島県)と渡部曹長はそれぞれ地図を拡げてその上にかぶさってゐた。・・・地図の上にはっきりと描かれたたった一本の細い赤線こそ、晴れの死に場所への道筋であった。・・・この4人の若鷲は数時間後に出撃するのである。4人にとってこの基地を出発することは、すなはち“必ず死ぬ”ことである。これから死地に突入するのだといふ気配が、この部室の雰囲気に、あるひはこの4人の動作や言葉にちょっぴりとでも漂ってゐたら、それは私たちの感覚からいっても当然のことであり、従って私もこれほど深い感銘と強い衝動は受けなかったに違ひない。4人の姿にはそれらの俗人的感情が綺麗に拭ひ去られ、死に直面してゐるきびしさは微塵もなかった。無雑作な征でたつ人の姿であるだけに“国のために死んでくれる人”だといふ印象が、かへって私の神経にビシビシと鋭く響き、一層激しく私の心の底まで揺さぶるのであった。((陸軍)報道班員、本社報道第2部員)』

 下『渡部曹長は「(特攻隊が)ほかのものと気持はおなじだといひましたがね。たったひとつ違ふ点があるのですよ、それは、燃料が片道しかないことです。だからといって必死だといふことは当らないと思ひます。さう考へることは自殺することと同じです。決してさうぢゃないのです。燃料を半分しか持たぬといふことは、その方が攻撃するのに都合がよいからなんですよ」といった言葉がいまでも耳底にこびりついて忘れられない。(同上)』

 ::宍倉の出身などはわからない。ただ、戦後の1951年に「日本における戦後犯罪の考察」を表題とする、朝日新聞調査研究室による社内用報告書を残している。
 そのあとがきに「戦争は、聖戦という言葉によって称賛されたが、その間に行われたのは、殺人、強盗、放火、詐欺、破壊の連続であった。そして敗戦後、民主主義革命の進展するなかで、自由と人権を満喫したのは、独善的利己主義の横行であった。」と書き、戦前を批判的に総括しつつ、戦後の、特に若者らの犯罪の増加を嘆いている。
 また、その「青少年特有の心理を揺さぶったのは、戦争であり、敗戦後の社会世相であった」とする。犯罪青少年群は「大人の過失によるギセイ者である」とし、ただ「青少年にも自己研磨の努力が欠け」、「精神的支柱を失ったことを口実に、うぬぼれと甘たれ根性に頼り切り、自己の真価が判らぬまゝ、社会の自然の拘束に反抗したといえよう。豊かな常識と的確な判断力に欠けていたことは事実のようである。」と、特攻組の若者を見る目と違って、より冷静な見方を示している。

 また、53年刊の「秘録大東亜戦史、原爆国内編」には、「雨の面会日」なる思い出話を残していた。終戦直前の6月、予科練に入った弟に会おうと福知山市の施設に充てられていた小学校に行く。弟は特攻隊に2度志願したが果たせなかったことなど、兄の筆は軍隊で成長した弟の姿とそのやり取り、あるいは面会風景などを書いて、前述の記事とは違ったやさしさ、穏やかさを見せている。「公」と「私」なのか、筆を曲げてはいないが特攻隊への思いが変化している。

 ところで、宍倉の記事にある4人の特攻隊員はどうなっただろうか。
 彼等はこの記事が掲載される数日前に出撃しており、すでに生存していなかった。残酷である。4人の所属した第6航空軍の振武隊は、沖縄戦が苦境に陥るなかで編成された。1945年4月26日に橋本、27日に3人が鹿児島・知覧飛行場からそれぞれに出撃し、当日に沖縄周辺の洋上で没したようだ。ちなみに、特攻隊の死者は約4,000人に上る。4人の実像だけでもとどめておこう(ウィキペディアなどによる)。

 下手豊司 曹長 徴兵   24歳(1922年生)  広島出身
 渡辺正興 同      28歳(1918年生)  愛媛出身 (記事では「渡部」)
 橋本栄亮 軍曹 少年飛行兵 22歳(1924年生) 福井出身
 武田次郎 同  徴兵   23歳(1923年生)  静岡出身

*斎藤信也 上「桜も匂ふ出撃行」  (1945年5月11日付)
      下「物静かな学鷲士官」 (1945年5月12日付)

 上『急勾配を上りきると広々とした飛行場である。僕はなにげなくこの坂を歩く。だがふとその中途で佇んでしまふことがある。祖国の念に馳せ参じた特別攻撃隊員の無数の足跡で固められたこの赤土。3月18日以来実に数百に達する神鷲達は、必ずこの径を大○に踏みしめて行った。感なきを得ないのである。・・・桜かざして特別爆装機にうち乗った数々の面影に、「日本武夫<やまとますらお>」の匂ふばかりの伝統を見た。・・・生国がどこであらうと海鷲達は好んで九州弁を使いたがる。それがますます神鷲たちの雰囲気を賑やかにし、又男性的にする。こゝでは眼前に横たはる「死」もちっとも暗いものではなく、明るい透明なものに感ぜられる。「何でもない普通のこと」をやるに過ぎないもののやうにさへ思はれる空気である。((海軍)報道班員、本社特派員)』

 下『こゝでは士官も下士官も雑居である。同じ隊で同じく死んで行くことが、階級を超えて一つの雰囲気にかれらを結びつけてゐる。・・・一冊の大型ノートをペラペラやってゐるのが、ふと目にとまる。「なんですか?」ときくと、恥づかしさうに「イヤー雑記帳です」といふ。お願ひしてそれを拝見する。黒表紙で白紙が貼りつけられ「省みの記」と記されてゐる。厚いノートに綺麗な万年筆の字がいっぱいつまってゐる。僕はいつか再び起き出してゐた。許しを受けてそれをほの暗い燈下(火)の下で僕のメモ帳に写しはじめた。神の言葉とは言ふまい。正しく(その)兵曹といふ一人の若い日本人の言葉であった。だが神はすでに其処に宿っていた。国を護って神となる人の言葉であった。(同上)』

 ::斎藤(1914-87)は、福岡県出身で、東京帝大美学科卒。社会部で海軍報道班員となる。戦後は東京裁判、英エリザベス女王の戴冠式を取材し、名文家とされた。「人物天気図」(夕刊朝日新聞1949-50年)を「葉」の署名で連載し、インタビュー記事の新境地を開いたとされる。のち論説委員としてコラム「素粒子」(1959-77年の19年間)を執筆。
 「死」に赴く若者たちを追う仕事はつらい。前述の宍倉恒孝とは趣の異なる雰囲気を醸すが、ほぼ同世代の記者が死に臨む隊員たちを否定的には書くわけにいくまい。国家の拘束下の、しかも軍の報道班員の名をもっての取材である。若い死を惜しみながらも、その強制や苦境、あるいは徒死とは書けまい。いきおい、それは美化するしかない。

 新聞記者という職業は、否定的な思いでありながらも、特攻死を美化する筆を持たせる。記事のどこかに、その気配を閉じ込めているようにも思えるところがせめてもの救いだろう。とはいえ、狭隘な愛国精神、戦争に持ち込む権力、国民総動員や敵国攻撃の挑発などを 率先垂範して旗を振る権力者側の論者よりはましかもしれない。でも、読者からすれば五十歩百歩、結論的には同じ責めを受けざるを得ないだろう。
 ひとたび戦火を交える事態になれば、「国家」は民意を束ねてくる。敵憎し、の情をかき立て、概して多くのメディアの論調は国家の方向になびき、反対や消極論者は徐々に阻害され、縮小されていく。その渦中に巻き込まれれば、大方は追随せざるを得ない。

*有竹修二 「美しい皇土の姿」 (1945年5月22日付)

 『この美しい国土、この美しい日本風景を醜国の賤足をもって汚さしめてなるものか。(論説委員)』

 これは、このコラムの末尾の締めの文章だが、これ以外に「戦争」を一切語っていない。検閲の軍部には不快な文章だっただろう。
 書き出しは『今年の花は、いつにもまして美しかった、といふ人が多い。』で、梅、沈丁花、木瓜、海棠、椿、つゝじ、花蘇芳の花を讃える。
 中ほどに『花は美しかったが、花どきは、いつにもまして、あわたゞしかった。』とあるので、次は時局話か、と思いきや、続いての文は『しかし、花のあとには、花よりもまた一段有難い新緑が、むせぶが如く地上を蔽ふ。』として、こんどは桑、雑草、林檎、梨、柿と若葉の「緑の合奏」を続ける。そして「目には青葉山ほととぎす初鰹」を挙げて『残念ながら初鰹は、容易にわれわれの膳にのらぬ。』と物資難の世相を嘆いてみせる。

 ::有竹(1902-76)は、兵庫県出身、慶応大経済学部卒。1926年朝日入社。政治部、経済部記者、学芸部長など。42年論説委員になり「天声人語」前身の「神風賦」を担当。46年退社し、時事通信社で政治部長、編集局長、常務。斎藤実、岡田啓介などの伝記、経済関係など執筆は多数にのぼる。

 有竹は、42年6月の「有題無題」のコラムで、各地を行脚する首相東条英機を取り上げ、「宰相は大体を抑ふべきものだ。その宰相をして、忙中に細事を憂へしむるのは、下僚一般の責任であらう」として、西漢宣帝の名宰相丙吉の故事を紹介する。東条は在職中に築地市場を視察してごみ箱の状況を調べたり、農家の老婆から練炭の配給の苦情を聞いて即座に手配したりしており、細事に手を付けていたことから、「東条首相一流のテキパキしたやり口は気持いい」と皮肉ったものだ。東条はこれに激怒した、という。

 このことからすれば、有竹の終戦前のコラムが戦争黙殺の原稿になるのも当然だろう。激動期にこのような記者が存在できることは望ましいが、平穏時の今、縦、あるいは横になびきやすいメディア、あるいは個々の記者気質はどうなんだろうか。期待はするのだが。

*高田晴彦 「鮮やかな“街の政治”」 (1945年6月15日付)

 『駅伝輸送の初荷が出る日の午前4時であった。焼け残った警察署のまへに山と積んだ戦災者荷物を捌く数人の署員の中に、顔の長い老巡査が額に汗をにじませ、せっせと重い荷を馬車にかつぎ上げてゐる。・・・』少し要約しておこう。
 独り住まいのおばあさんが大きな鉄砲風呂を戦災の猛火から救い出したが、馬車には積めず往生していたところに、老巡査がこれを担ぎ、馬車に積み込んであげた。
 これを見ていた記者の高田は、警察署長に老巡査の素性を聞いた。64歳、28年勤続で、家を空襲で焼かれたが休まずに、殺到する被災の家財荷物の輸送係を務めている。

 『曽て泣く子もだまるといはれたお巡りさん。民衆に接しながら民衆に遠ざかってゐた警察官が、ちかごろ急に民衆に親しまれ、民衆の中で光を増してきた。私は新しい警察官の性格を突止めたいと思った。』さらに高田記者は、焦土の街で任務に急ぐ警察官が、道端に置かれた赤ちゃんの遺体に目を止めると、突然直立不動の姿勢を取り、ポケットから乾パンを取り出し静かに遺体に供えて合掌した、との女学生の投書を紹介した。

 『警察官は「人間性」を失ったのではない。「人間性」の機微に徹してゐればこそ、自らの「人間性」をなげうっても民衆のために一身を捧げるのである。・・・これではいけない。俺たちがやらないで誰がやるのだ――警察官に新しい自負が生まれたのである。民衆に接し、民衆の中に融け込んでゐるお巡りさんが、身をもって体得した誇りだったのである。かくて「法規」のがんじがらみを活かして、あざやかな「街の政治力」を現しはじめたのに違ひない。率先垂範は生きた政治の表現であった。(本社報道第2部員)』

 ::高田記者については、今のところなにもわかっていない。戦時下で、角度を変えた「いい話」だ。街の話を紹介しつつ、戦時下の権力がすべての時代に、ささやかながら温かい話で一矢報いたのだろう。先述の有竹修二のコラムと同様に、物言えぬ時代に角度を変えて物を言おう、との姿勢。権力から独立して監視の目を持たなければならない新聞記者。大きな流れとなり、リスキーな道を急ピッチで進む世相に物申さなければならない新聞記者。
 ささやかに生き残った先輩に学ぶところは大きい。

           ・・・・・・・・・・・

 ①世相の流れを作り上げようとする権力者とその周辺にうごめく層、②あるいは時流に積極的に乗るか、批判はあっても反旗は掲げられずに右往左往する知識人層、③そして社会を広く見ているが故におのれのスタンスに戸惑いがちになるマスメディア層・・・この3つの動向を、戦争末期の朝日新聞の寄稿から見てきた。平穏と思われる時期に、危険な兆候がひそやかに育まれ、次第に潮流となって追従を強いられ、時すでに遅く抗うことができない。おのれの意見を言おうにも、論議の場はなく、とはいえ少数意見の側に組み込まれることも潔しとしない。
 こうして多数意見が作られ、事態の悪化に気づくころにはブレーキはかからない。

 自由と人権の理念を掲げるだけで、「個」としての情報判断、自己の意見が不十分な社会は、民主主義の社会とは言えない。邪になりがちな権力になびかず、流されない、そんな地に足のついた姿勢は容易ではない。
 とかく長いスパンで考える習性に乏しく、短期の視野、目先の利害に目の向きがちな日本にありがちな姿勢だが、この3つ範疇にある先人たちの思考、対応から学ぶところは大きい。

 (元朝日新聞政治部長)

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