【コラム】神社の源流を訪ねて(48)

渡来系神社の日本化

栗原 猛

◆ 新羅色を薄めた

 朝鮮半島から人々の渡来は、気候の変動や高句麗、新羅、百済の間で争いが起こるたびにあった。大きな渡来は四回あったとされる。海流にうまく乗ると、釜山から対馬まで約50キロだから以外に簡単に来られた。律令制が確立すると、渡来の人々は歓迎されたが、人間社会のことだからその逆もある。              

 大和朝廷が新羅系の人々に改名させる政策を取った時代もあった。記紀によると、691年、持統天皇5年8月13日の条に十八の氏、大三輪(おおみわ)、雀部(さざきべ)、石上(いそのかみ)、藤原(ふじわら)、石川(いしかわ)、巨勢(こせ)、膳部(かしわで)、春日(かすが)、上毛野(かみつけの)、大伴(おおとも)、紀伊(き)平群(へぐり)、羽田(はた)阿部(あへ)佐伯(さえき)、采女(うねめ)、穂積(ほずみ)、阿曇(あずみ)各氏に詔勅を出して、祖先の系図や墓記を献上させ没収したとされる。 
 708年(和銅元年)元明天皇の時代には、禁書を差し出すよう命令が出ている。出羽弘明氏は著書「新羅の神々と古代の日本」で、気多(けた)、気比(けひ)、出石(いずし)―では渡来系と知られている社号を消したという記録があると紹介している。
 このほかに神社創設時から続く祭神に、記紀神話の有名な神を加えたり、他の神社に合祀するということもあったようだ。本来の神社はその地域を最初に開発した祖先を祀っているものだから、例えば中央との結び付きを誇示するために、有名な神を合祀すると、往古からの祭神は忘れられていく。記紀などに疫病が猛威を振るったり、地震や天候不順などで凶作が続くと、祖先神の祟りだという記事があるが、これは祖先神が粗末にされ怒っていることをいっているのであろう。
 新羅系神社の分布を見ると、北は岩手から福井、石川、三重県、大阪府、広島、福岡、熊本など列島の広い範囲にわたっている。例えば県や市町村史などには、例えば石川県小松市は往古、高麗津(こまつ)、佐賀県の唐津(からつ)は加羅津という字が当てられている。交流が深かったということだろう。       
 素戔嗚尊は渡来系の人々にも人気が高かったとされる。源氏の武将、新羅三郎義光は三井寺の新羅善神堂で元服している。源義経は滋賀県竜王町にある新羅の皇子と言われる天日矛を祀る鏡神社の境内で元服しているが、どちらも新羅系の祭神である。新羅と源氏は何かかかわりがあるのかもしれない。
 新羅の神々は対馬や筑紫地方から列島に上陸し、日本海沿岸地方を開拓して、そこから内陸の開発に広がって行く。その中でも大きな集団だった天日槍の一行は、筑紫から日本海地方に広がり、兵庫県出石市の出石神社に祭られた。     
 古代日本の成立に新羅人もかかわったが、一方で排斥された記録もある。791年(延歴10年)年桓武天皇の9月の太政官符に「伊勢、尾張、近江、美濃、紀伊、越前、若狭などの国々の人民が牛を殺して天を祭るのを禁ず」とある。牛を殺して天を祭る儀式は、中国の古い道教の祭りにあり、渡来人の風習とされている。     

 また北畠親房が「神皇正統記」の中で「昔、日本は三韓と同種なり、と云事のありし、かの書をば、桓武の御世に焼き捨てられしなり」という記録もある。ちなみに桓武天皇の母、光仁天皇のお后の高野新衣笠は、百済系の天皇(「続日本紀」)で天智天皇の子孫とされる。また百済、新羅はよく戦争をしたが、争いのあるたびに、大和政権の内部で働いている百済、新羅系の人々の間にも争いが起きたと言われる。

◆以上

(2022.11.20)
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