【コラム】
神社の源流を訪ねて(25)

滋賀県 苗村神社(なむら)と長寸神社(なむら)

栗原 猛

◆ 2つの「なむら」神社

 東海道本線の近江八幡駅から、鏡神社のある竜王町へバスで約二十分、川守停留所で降りると、目の前に苗村神社と長寸神社が道路を挟んで東西に向かい合っている。漢字は違うが共に「なむら」と読む。「なむら」とは「あなむら」の訛伝で、鏡山も近くで、天日槍が住んだ吾名邑(あなむら)とされる。

 東本殿の祭神は事代主神、大国主神、素戔嗚尊と並ぶ。いずれも出雲の神である。向かいの西本殿は、「苗村神社御由緒略記」によると、祭神は那牟羅彦神(なむらひこのかみ)、那牟羅姫神、国狭槌命(くにのさつちのみこと)の三神で、今井啓一氏の『天日槍』によると、前の二柱の神は天日槍夫妻だとする。東本殿の素戔嗚尊にも渡来説話があり、渡来人が尊崇している。
 段煕麟氏は「冒頭の祭神名は天日槍夫妻のことであり、平安時代以降の和風化の習慣によって和風の名に改められたもの…」と説く。

 境内には6世紀ごろの東苗村古墳群があり、境内の丸く盛り上がっているところも円墳のように思われた。神社の由来から考えると、この古墳に祀られている人を祭るために、神社が建てられたのだろう。

 一方、長寸神社は大日本地名辞典によると、「長寸神社は、吾名邑の新羅人の祭れるものにして、後世牛頭大王に混したるなり。また按ずるに、延喜式長寸神社の「寸」は「村」の古字なれば長寸は那牟羅とよみて、吾名邑の略なるべし」とある。長寸神社も吾名邑に定着した天日槍の一行によって祀られたものではないか。

 近江の神社をめぐっていて感じたことは、新羅系の神社が多いことだ。またそれに関係するかはともかく、古事記や日本書紀は、天日槍一行について、かなりのスペースをさいている。渡来人の一行は、それだけ朝廷にとって注目される存在だったのだろう。

 岡谷公二氏の『神社の起源と古代朝鮮』によると、近江の式内社は142社の約二割が渡来系で、そのうち八割が新羅系」と分析している。ただし寺院では、湖東三山で有名な百済寺や石塔寺などは百済系という。
 新羅は朝鮮半島南部で、距離的にも海流の関係からいっても、半島西部の百済よりも日本に近い。朝鮮半島南部からは、当時は海流の関係から福井、新潟など日本海側の良港には来やすかったのに違いない。

 天日槍一行は、陶器、鉄生産、農機具、稲作、灌漑、養蚕、医療など高い技術を持った職能集団だったようだ。新しい土地を開拓するのに、まず大事なのは鉄であった。木を切るのも田を耕すのも鉄は不可欠である。天日槍の一行が通った地域には鉄や銅の開発、生産が関係している地域が多いいことからもそれがうかがえる。稲作に適した地域を開拓しながら、縄文時代から弥生時代に移行したのではなかろうか。

 (元共同通信編集委員)
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