【コラム】
神社の源流を訪ねて(21)

滋賀県 鬼室集斯神社(きしつしゅうし)

栗原 猛

◆百済人が祭神の鬼室集斯神社

 琵琶湖の東側を南北に走る近江鉄道を日野駅で降りて、通行人を探して「鬼室神社はどう行くのですか」と尋ねたら「しゆうしさんですか」と、バス停などを親切に教えてくれた。さん付けで呼ばれていることは、人々に親しまれているということだろう。
 バスで日野町大字小野(この)の田園地帯を20分ぐらい走ると、田畑の奥にあるこんもりした森に鳥居と小ぶりな本殿だけの簡素な神社がある。鬼室集斯神社とは珍しい名前だが、亡命百済人が祭神になった神社で、父親が百済で鬼神のような活躍をしたのでこの名がつけられたという。昭和30年に鬼室神社として登録されているが経緯がやや複雑だ。

 鬼室集斯の生まれた百済は663年、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に滅ぼされるが、日本書紀によると、665(天智4)年2月に「佐平鬼室集斯等、男女七百余を遷して近江の国蒲生の郡に居く」とある。当時は近江朝で都は大津にあり、一行は蒲生野に定着する。鬼室集斯は百済で学識頭だったことから、近江朝も学識頭として遇している。
 学識頭とは、後年、律令制度の「大学頭」とされ、今で言うと文部科学大臣のような立場だろう。鬼室集斯が相当な学者であったことがうかがえるが、そういう人を本国にいた時のまま受け入れた近江朝とはどういうものだったのか。近江朝廷は朝鮮半島と相当密度の高いかかわりを持っていたことがうかがえるのではないか。

 社殿の後ろの杉の根本に立つ石屋の中に集斯の墓石と伝えられる葱頭状の石が保存されている。八角形の柱の形で、高さは48センチ、葱頭状の部分は八角形でその面の幅は約8センチ。「滋賀文化財だより」(NO204)によると、これまで墓碑は朝鮮半島からもたらされたとされていたが、平成6年度の調査で、地元の近くの石小山から切り出された花崗岩であることが分かったという。
 碑文は <右面…庶孫美成造 正面…鬼室集斯墓 左面…朱鳥三年戊子十一月八日歿> とあり、人々はここに社を立てて祭礼を怠らなかったとされる。

 庶子とあるから嫡子嫡孫がつくった墓もあるはずと、八日市市の郷土文化研究会長塚本義一氏が、滋賀県が出版した『滋賀県の養蚕』の中に、「近江の養蚕を起こした鬼室集斯の本墓は野洲郡大篠原にある」という記事を見つけた。野洲郡は渡来の百済系氏族と関係が深い地とされ、ただしそこに神社があったかは不明である。
 庶子がつくった墓石の近くに神社がつくられ、人々に崇敬され、こちらが有名になったのかもしれない。明治時代の神仏分離令で鬼室神社は一時、祭神を「軻遇突智命」とする西宮神社に改められた。

 さて700余人の子孫がどれくらいになっているかだが、金達寿氏の『日本の中の朝鮮文化』(3)の、鹿児島県の「苗代川ノ沿革概要」に、秀吉によって連れてこられた40余人の陶工は、三百数十年後に1,650余人になったという記録がある。700余人は、その後の百済からの渡来の人も含め、さらに1,000年近くさかのぼるので、相当な数になるだろう。今でも毎年、命日にはゆかりの人々が各地から観光バスなどで集まって、境内で食事をしたり民族舞踏をしたりして一日を過ごすという。

 (元共同通信編集委員)

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