【コラム】
神社の源流を訪ねて(19)

滋賀県新羅善神堂(しんらぜんじんどう)

栗原 猛

 京阪電鉄石山寺で降り、夕照で有名な瀬田の唐橋を見て、新緑の中を新羅善神堂に向かって歩いていたら、いつの間にか広大な三井寺(園城寺)の境内に入っていた。
 いったん大津市役所前に戻り、少し先の弘文天皇陵の右手にある大きな鳥居の奥に新羅善神堂があった。三井寺の北院にあたる。かつては新羅神社、新羅明神とも呼ばれ、三井寺の鎮守社である。「堂」と呼ばれるのでお寺を思わせるが、建物は流造(ながれづくり)の神社の本殿で、祭神は素戔嗚尊である。「源義光」がこの社前で元服をして「新羅三郎義光」と名乗ったことでも知られる。
 寺に神社があるのは不思議に思われるかもしれないが、長い神仏習合の時代には寺には神社が、神社には寺が祀ってあるのは普通のことで、お互いに厄を祓ったり清めたりする役割があったとされる。

 三井寺の中院にある金堂には観光バスがひっきりなしに着いて、観光客で賑わっているのに、北院にある新羅善神堂の門は閉じられている。建物も中にある新羅明神座像も国宝だが、正面の石段には枯葉が散らばり、手入れされていない様子だった。
 この北院には明治維新の廃仏毀釈から、仏像の海外流出を防いだフェノロサや新羅三郎義光の墓、弘文天皇陵などもあるが、ここも人影はまばらだ。

 「園城寺龍華会縁起」によると、三井寺と深い関係のある円珍は、唐で密教を修行して帰る途中に夢に新羅明神が現れ、持ち帰った経典類を三井寺に保管するよう勧めたとされる。その三井寺は、大友皇子(弘文天皇、天智天皇の子)の子、大友与多王が、皇位継承をめぐる壬申の乱(672年)で大海皇子(後の天武天皇、天智の弟)に敗れた父の霊を慰めるために創建、天武天皇が「園城」という勅額を与えたとされる。
 さらにその昔は、この地を新羅系の豪族大友村主(すぐり)氏が開発し、大友郷と呼ばれ大友氏の氏寺もあった。弘文天皇が大友皇子と称したのはこの地で育ち、そこで陵もこの地につくられたのではなかろうか。

 琵琶湖の西側、つまり比叡山側は広く新羅系渡来人によって開発された。三井寺と関係の深い比叡山延暦寺の開祖、最澄も坂本に生まれ新羅人とされる。琵琶湖を少し北上した高島町の白鬚神社は全国の白鬚神社の総本社で、百済、高句麗系の渡来人からも崇敬される。背後に続くなだらかな比良山一帯には渡来人の古墳が多く、小野妹子の墓も近くにある。

 国宝の新羅善神坐像は秘仏で、見ることはできないが、博物館の展覧会で公開された写真をみると、坐像の顔は白く塗られ目尻が下がり、手の指も細長く異様な形だ。山型の帽子は新羅の両班(やんばん)の帽子という。大津市歴史博物館には、珍しいミニチュアの韓かまど(新羅で使われた炊飯具)が展示され、近くでオンドルも出土した。
 往時、朝鮮半島の百済と新羅は絶えず緊張関係にあった。新羅善神堂が、新羅に攻められた百済救援に船団を派遣するなど親百済策をとった天智天皇の子、弘文天皇の陵のすぐ近くにあることは、何か因縁を感じさせるのだ。

 (元共同通信編集委員)

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