【コラム】神社の源流を訪ねて(35)

現人(あらひと)神社

栗原 猛

◆神武天皇は新羅人?

 現人神社は香春三ノ岳の東麓にある。現人神社とは敦賀市の角鹿神社の祭神、都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)のことで、「阿羅斯等」が「現人」(あらひと)に転化したとされる。

 社殿の近くにある「現人神社略縁起」の説明板を見ると、「お申(さる)様」と呼ばれ、「御祭神は、都怒我阿羅斯等命、原田五郎義種。第一座の大神は、意富加羅国(おおからこく、大加羅国、朝鮮半島南部)の王子で垂仁天皇の時代に、新羅の姫神(比咩語曽神、ひめこそ、赤留姫命)の跡を慕ってこの地に鎮座しました。第二座の大神は筑前三笠城主原田種直公十三代の子孫で、香春岳城主でしたが、永禄四年豊後大友義鎮に攻められ討ち死にしました。没後、この国に疱瘡、疫痢が流行した時、神霊のお告げ『今より阿羅斯等神の許に鎮まり、猿を使いとして万民を救う』があり、現人大神と合祀しました…」とあり、「阿羅斯等」が「現人」になっている。土地の有力者がその地に古くからある神社に合祀されるケースは、これまでもいくつかあった。

 さらに原田義種が書いた「現人神社略縁起」にはこうある。「現人大神は都怒我阿羅斯等命なり。命は神倭磐余彦天皇(神武)の兄にましまして、新羅の国王となりました御毛入野命である。命は磯城瑞垣宮(しきみずかきのみや)の御代(崇神天皇)、比売神(比売許曽神、赤留姫命)を追い慕い参来たり、越後国笥飯(けひ)の浦にて泊まった。その人の額に冠を戴けるを、人々は見誤りて角と思い、額に角といいこの浦を角鹿と云い、その人を都怒我阿羅斯等(角がある貴人)と呼んだという。かの比売神は吾が豊国に至り、比売許曽神となった。また姫神を慕い追ってきた阿羅斯等命もここ豊国に至り、この香春岳の麓に鎮まった云々。原田種直」とある。

 原田氏がこの略記を残した理由は不明とされるが、着目されるのは現人大神とは都怒我阿羅斯等命のことで、命は神倭磐余彦天皇(神武)の兄で、新羅の国王となった御毛入野命であるという点である。出羽弘明氏は『新羅の神々と古代日本』で、「神武天皇の兄が神武より九代も後の崇神天皇の時に新羅から帰国したのでは時代が合わないが、神武から開花天皇までが存在しなかったとすれば、話しの辻褄はあう」とする。

 この話は少し入り組んでいて、日本書紀の垂仁天皇三年春三月の条には、新羅の王子、天日槍とあり、古事記の応神天皇(誉田)の条では、新羅の国王の子で、天之日矛が阿加流比売(赤留比売)の後を追って、難波に渡来したとなっているので、天日槍と都怒我阿羅斯等は、それぞれ同じ姫を追ってきたことになる。

 一方『新撰姓氏録』は、天日槍は新羅国人、都怒我阿羅斯等は任那国人となっていて、神社も別なので天日槍と都怒我阿羅斯等とは別人になっている。

 記紀によると神武には3人の兄がいて、長男の五瀬命は、神武東征の途中で戦死し、次男の稲飯命は、新撰姓氏録には「新羅に出ず。即ち国主なり」とある。三男の三毛入命は、現人神社の拝殿の説明書きでは「新羅に渡り新羅王となり、帰国して都怒我阿羅斯等になった」とある。こう見ると出羽弘明氏が『新羅の神々と古代日本』で指摘するように、新羅人の兄を持つ神武天皇も新羅人ということになるのではないか。

 (元共同通信編集委員)

(2021.12.20)
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