【コラム】宗教・民族から見た同時代世界
総選挙から首相指名まで3カ月余のタイ政界の混迷
自由で公正な選挙が行なわれても、その結果が政権づくりに反映されなければ、それはなんの意味があるだろう。今回のタイの総選挙から首相指名までの事態である。
今号では直接、仏教には触れない。だが、代表的な仏教国の一つとイメージされる国で起こっていたことの経緯を振り返っておくことも無駄ではあるまい。
◆貢献党と前進党の成り立ち
5月14日に実施された、2014年のクーデター以来2回目のタイ下院総選挙。定数500の内、「前進党」が151議席、「タイ貢献党」が141議席と、反軍政を掲げた野党が圧勝し、親軍勢力の「国民国家の力党」と「タイ団結国家建設党」は合わせて76議席と惨敗した。民意は明らかであった。
まずはこの二つの政党の由緒に触れておこう。
第二次大戦以降のタイ政治は、保守的エリート層内の権力争いに軍と王室が介入・調停する繰り返しであった。ベトナム戦争の影響を直接受けた東西冷戦期、仏教勢力が反共の先兵として動員されたこともあったが、全体の基調はそのようなことであった。
ところが、今世紀に入る頃から、新たに「タイ愛国党」を興したタクシン氏が、これまで無視されてきた地方の農民や貧困層の利益誘導で力をつけ、01年の総選挙で勝利し政権を立てると、エリート層や中間層など都市の既得権益層との間に深刻な摩擦が生じた。05年の総選挙でもタクシン派が圧勝。すると、翌年、軍がクーデターを起こしてタクシン政権を排除し、タクシン氏は汚職の廉で訴追され国外に逃れた。以後、タイ政治は、タクシン派と反タクシン派の抗争が基調となった。
大衆が動員された街頭行動で、赤シャツを着たタクシン派と、黄色のシャツを着た反タクシン派が、衝突を繰り返したことを記憶される読者もおいでだろう。
タクシン派の支持基盤は堅固で、08年の総選挙でも勝って、元バンコク市長が首相となるが、憲法裁判所によって失職させられ、後を継いだタクシン氏の義弟も憲法裁判所の命で失職。いずれも、もっともらしい口実はあるが、反タクシン派の力が働いた「司法クーデター」と呼ばれている。11年の総選挙では、タクシン氏の妹インラック氏が首相に就任するが、14年、またも、クーデターで崩され、クーデターを主導したプラユット陸軍司令官が軍政の暫定首相に就任した。
この、悲運のタクシン派の政党が、今回の選挙で二位につけた「タイ貢献党」である。
一方、首位の「前進党」は、19年の民政移管総選挙で、最も厳しく軍政を批判して人気が高かったが、それゆえ翌年、憲法裁判所によって解党させられた「新未来党」の後継政党である。
◆選挙に勝つも政権取れず
さて、この反軍政の2党を中心に連立覚書を交わした野党8党は、下院第一党・前進党のピター党首を候補に、7月13日、首相指名選挙に臨んだ。8党の議席は、定員500の内、計313。過半数をゆうに超える。
ところが、ここで働いたのが、軍政が17年の憲法に仕込んだ、軍政後も軍の支配を担保する「安全装置」である。首相指名選挙には、下院議員500人に加え、非公選の上院議員250人が参加する。この250人は、軍政が19年に事実上指名した面々。彼らが前進党を拒んで、野党側の戦略は阻まれた。
じつは、前回、19年の総選挙後の首相指名選でも、この250人全員が、親軍政党が首相候補に擁立したクーデター首謀者プラユット氏に投票し、貢献党が下院第一党を取りながら、涙を飲んだ。その「安全装置」が再び作動したのだ。
「安全装置」は他にもある。軍の影響下にある選挙管理委員会は、ピター氏が、メディア企業の株を保有したまま立候補した疑惑があると憲法裁判所に提訴した。「司法クーデター」の発動である。
ピター候補を擁立する野党8党はさらに多数派工作を進めて7月19日の第二回指名選挙に臨むが、保守派が出した「一事不再議」の動議で阻まれる。
ここに至って、野党連合はピター氏擁立を断念し、第二党のタクシン元首相派・貢献党から首相候補を擁立する方針に転換した。
では、なぜ、前進党は、これほど親軍派や保守派から嫌われたのだろう。選挙で主要政党はバラまき的な経済政策や生活支援を競った。だが、前進党は、大胆な公約を掲げた。徴兵廃止、規模縮小、将軍の減員などの軍改革。憲法に、公務員はクーデターに従わない義務を規定。さらに、不敬罪の改正を打ち出し、王室を中傷や侮辱した場合に科される3~15年の禁固を1年以下とする。不敬罪の恣意的運用は、これまで民主化運動を弾圧する格好のツールだった。
いずれもタイではタブーに挑むに類する公約である。だが、ゆえに、若者たちはじめリベラル派市民の熱狂的な支持を集めた。
不敬罪については、野党内でも濃淡があるため、8党の覚書には盛り込まなかった。だが、保守派、親軍勢力は、決して前進党を許容しない。
◆民意に背いたタイ政治はどこに漂流するのか
首相擁立権を手にした貢献党は、一転して、前進党を連立から排除し、代わりに、なんと、2度もクーデターで政権を潰されたことをはじめ、これまで受けてきた軍からの理不尽な扱いも不問に、親軍勢力の国民国家の力党、タイ団結国家建設党を含めた、11党の大連立に走った。そして、8月22日、ついに、自党の実業家セター氏を首相に押し上げた。
これには、タクシン氏の帰国許容を見返りにした軍との密約が最初からあったとの噂もある。
事実、セター氏が指名獲得した同じ日、タクシン氏は帰国。収監はされたが禁錮8年が恩赦で1年に減刑され、仮釈放も見込まれている。
下院の6割近くを占めた反軍政表明の議員に票を投じた市民の失望に加え、自党支持者からも、公約を覆した「変節、裏切り」の烙印が押された貢献党が政権の主力を担う今後のタイ政治は、どこに、どのように、漂流するのか。目を凝らして、見届けたいものである。
(2023.10.20)
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