【コラム】
宗教・民族から見た同時代世界

脱宗教化・脱イランに進むのか、レバノンの反政府デモ

荒木 重雄

 この秋、イラン、イラク、レバノンなどで、激しい反政府デモが起きている。イランではガソリンの値上げがきっかけになったように、いずれの国も、厳しい経済不況や失業と、エリート層による政治支配への反発が背景にあるが、これらの影響を引く中東の混乱・不安定化が、国際社会の介入と併せて、来年、2020年の国際問題の焦点となりそうな気配である。

 とりわけ注目されるのがレバノンである。18もの宗教・宗派によるモザイク国家とされるこの国では、従来、宗派の利害に基づく宗派ごとの行動や合従連衡が政治を動かしてきたが、スマートフォンのアプリを使った無料通話への課税案を引き金に若者たちの不満が爆発し、ハリリ首相を辞任にまで追い込んだ今回の抗議運動では、宗派を超えた連携や統一行動が目立ったという。
 レバノン市民は宗派国家を脱しようとしているのだろうか。そもそもモザイク国家はどのようにして成り立ったのだろうか。

◆◆ イスラム世界の多宗教国家

 第1次世界大戦後、オスマン帝国から中東の地を奪い取った英仏は、地域の多数派であるイスラム教徒の間に楔を打ち込み影響力を保持する橋頭保として、自らの意に沿う少数派の国をつくることを画策した。そのひとつがユダヤ教徒によるイスラエル(英)であり、もうひとつが、マロン派キリスト教徒によるレバノン(仏)である。すべてはここから始まった。

 この地に住むマロン派とは、5世紀に西アジアで成立した独特な教理をもつキリスト教の一派で、十字軍時代にローマ・カトリックに帰属したが、アラビア語やシリア語による固有の儀礼を今日まで維持する宗派である。
 レバノンを委任統治したフランスは、マロン派キリスト教徒を優遇し、1944年、マロン派中心のキリスト教共和国を樹立する期待をこめて独立させるが、この国には、マロン派以外に、キリスト教では正教会、プロテスタント、ラテン典礼のカトリックにアルメニア系の諸派、イスラム教ではスンニ派、シーア派、アラウィー派、ドルーズ派と、一般に18を数える宗教・宗派が存在する。
 その間の均衡を図るため、独立に際しては、国会議員の数はキリスト教徒側とイスラム教徒側に半々の割合で配分し、大統領はマロン派キリスト教徒から、首相はスンニ派、国会議長はシーア派から選出すると、権力配分を定めて、固定化した。

◆◆ 続く内戦と対イスラエル戦

 第2次世界大戦後の一時期、レバノンが金融、観光の国際センターとして隆盛をきわめ、首都ベイルートが「中東のパリ」と謳われたのはこの微妙なバランスのうえであったが、しかし、イスラエルの建国とそれにともなうパレスチナ難民の流入がその基盤を根底から覆すことになった。とりわけ1970年代、PLO (パレスチナ解放機構)がここに本拠を構え、そのためイスラエルからの攻撃に曝されるようになると、パレスチナ難民の処遇をめぐって各宗派の武装勢力が対立しあうようになり、そこに周辺諸国や米国、ソ連(当時)、欧州諸国も介入して、75年から90年までの間、15万人以上の犠牲者を出す内戦が続いた。
 対立の構図は、一応、反PLOのマロン派=イスラエル=米国 vs 親PLOのイスラム各派=シリア=ソ連と描くことができるが、やがては各民兵組織が宗旨も主義主張も離れて、利権を求めて争いあう泥沼に落ち込んでいった。

 内戦は、90年、湾岸戦争への協力で米国の承認を得たシリアによって終結に導かれ、以後、2005年まで「パックス・シリアナ(シリアによる平和)」がもたらされた。
 しかし、平和は続かない。舞台は廻り、対立の構図は、親米反シリアのスンニ派・ドルーズ派・一部キリスト教徒=親米アラブ諸国=イスラエル vs 親シリア反米のシーア派(ヒズボラ)=シリア=イランと変わっていった。

 シリアが撤退したあとのレバノンは、2006年にイスラエル軍の大規模な侵攻を受けるが、その間、シリアとイランに支援されるシーア派組織のヒズボラ(神の党)が、イスラエル軍と正面切った戦闘を通じて他派を圧する軍事力を備えることになり、他方、学校、病院など貧困層への福祉ネットワークも拡大して、以後、ヒズボラが、レバノンの社会と政治に大きな存在感を持つ勢力となった。

◆◆ 脱宗教支配・脱イランの風が吹く

 さて、最近のレバノンに戻ろう。11月の首都ベイルート。「革命だ」と叫び、大音響で音楽を鳴らし、肩を組んだ若者たちのデモが首相府に向かった。注目されたのは、そのデモが宗派別ではなく、さまざまな宗教・宗派の若者たちが混ざりあっていたことだ。
 35歳未満の若者の失業率が40%に及び、上位1%の富裕層が全国民所得の4分の1を占める格差社会。若者の不満は目下の経済状況にあるが、矛先はエリート支配の政治システムと、それを支える宗派主義体制に向かう。

 独立時に定められた宗教・宗派別の権力配分は一定の変更があったとはいえ大枠はそのまま維持され(たとえばシーア派の国会議長ナビーフ・ベッリ氏の在任期間は27年間に及ぶ)、内戦を経て各宗派の利益優先の結束や縁故主義はさらに強化された。若者たちがめざすのはその打破である。その中で、レバノン社会・政治の主流派となったヒズボラとそれを支えるシリア、ひいてはイランへの批判の声も高い。

 そういえば、イラクで450人以上が犠牲になった反政府デモでも、イラン総領事館やイランに近い政党支部が標的になった。イラン国内においてさえも、200人に及ぶ死者が出るかつてない激しい反政府デモが起こっている。いずれも直接の原因は経済的逼迫にあるが、体制批判、宗教支配打破の思いがそこにこめられていることは推察するに難くない。

 40年前の革命が世界に鮮烈な衝撃をもたらしたイランも、対米・対イスラエル戦略を重ねる過程で、自国政権のありようと併せて、イラク、シリア、レバノン、イエメンなど他国関与の肥大化・硬直化がすすみ、ある評者の言を借りれば「帝国」化が進んで、当初の清新さが失われつつあることは確かである。

 (元桜美林大学教授・『オルタ』編集委員

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