【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

自治区成立50周年式典を巡るチベットの状況

荒木 重雄


 チベットで、今年、2009年以降、中国政府の宗教抑圧に抗議して自殺を図ったチベット住民が140人を超えた。僧侶による焼身自殺が多くを占める。
 じつは今年がチベット自治区成立50周年であった。すなわち、チベットは1951年に中国に編入されたが、59年、大規模な武装反乱が起こり、鎮圧されて、当時24歳の聖俗両界の最高指導者ダライ・ラマ14世はインドに亡命。高僧・貴族など旧支配層の多くもその後を追った。こうして中国政府による支配が確立された65年、チベットは正式に自治区に位置づけられたのである。
 自治区成立50周年の節目の年の動きを中心に、最近のチベットの状況を見ておきたい。

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◇◇ 後回しにされた記念式典
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 祝賀ムードが演出された記念式典は、9月8日にチベット自治区区都ラサで開催された。
 自治区が成立したのは9月1日。しかし、祝賀式典が開かれたのは7日遅れであった。これには次のような事情が指摘される。

 中国では9月3日、約30カ国の首脳や高官を集めた「反ファシズム戦争勝利70周年」記念式典と軍事パレードが大々的に催された。世界の注目が集まるこの式典の直前に自治区成立記念行事を実施して、欧米からの、中国のチベット政策への批判の視線をことさら招きたくない。万が一、これを機にチベットで大規模な抗議行動でも起これば、折角の国家行事が台無しになる、との配慮からであったといわれる。

 自治区成立50年を祝う式典では、約2万人の参加者を前に、兪正声・全国政治協商会議主席が共産党指導部を代表して、この50年でチベットは「天地がひっくり返るような」変化を遂げたと述べた。チベットの財政の95%を中央が負担し、住民の収入は毎年10%以上ずつ伸びたという。
 今後も成長政策に力を注ぐとしつつ、ダライ・ラマ14世勢力との対決を強調し、「ダライ集団による分裂活動を挫き、チベットは持続的な安定を保つ新段階に入った」と述べた。

 信仰の自由については「充分尊重されている」としながら、「中華民族としての共同体意識を発展させる」と述べている。
 兪氏はまた、チベットを「国の安全を守る重要な障壁」と位置づけ、安全保障戦略上も重視していく姿勢を示した。

 これらの兪主席の発言に政府側の意志は明らかである。

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◇◇ 寺院管理をさらに強化
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 政府の意志をより端的に表したのは、8月、記念行事に先駆けて開催された中央チベット工作座談会とそこでの習近平国家主席の演説であった。
 この「座談会」とはチベット編入以来6回しか開かれたことのない重要会議で、李克強首相ら党指導部の他、自治区とチベット族居住地域がある四川、雲南、甘粛、青海の各省のトップや、軍、武装警察の幹部が居並ぶ中で、習主席は、「共産党のチベット統治の方針を堅持し、断固揺らぐことなく反分裂闘争を展開せよ」と指示している。
 座談会出席者らに配られた解説文書には、「寺院の管理を強化し、国を愛し教えを愛する宗教界の代表者を育成し、チベット仏教と社会主義が互いに適応するよう促進しなければならない」とされている(『選択』2015年10月号)。

 寺院は人々の心の拠り所である。その寺に国旗を掲げさせ、毛沢東や小平の写真を飾ることを強要し、監視カメラを設置し、付近に警官を常駐させるばかりか僧に変装した警官を送り込んでいるとの情報まである寺院の管理を、さらに強化しようというのである。

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◇◇ 「チベット問題」の根の深さ
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 ここでチベットの歴史の諸相を少し振り返っておきたい。一面的な思い込みを避けたいからである。

 チベットが中国の領土であるか否かの歴史的解釈は中国側・チベット側でまったく異なるが、清朝の保護下にあったチベットは、清朝崩壊後の中国の混乱期、英国の力も借りて独立を策していた。そこに、共産党政権を樹立した新中国が1951年、国土の回復と農奴制下に呻吟する民衆を解放するためとして軍を進めた。
 「使用人は主人に忠誠心をもち、主人は使用人に責任感をもっていた」という留保つきながらダライ・ラマ14世自身も認めているように、「解放」前のチベットは、貴族と僧院の支配下に民衆が農奴として従属する特異な社会であったことは事実である。
 ダライ・ラマ14世がインドに亡命することになった59年の武装反乱も、宗教の否定に加え、土地改革などによる既得権益喪失に危機感を抱いた旧支配層が起こしたものであり、ダライ・ラマを追った亡命者も高僧・貴族など旧特権層であった。

 そこに深い影を落としたのが東西冷戦である。
 たとえば、1955年、中国政府の「鉄砲狩り」に反発して四川省のチベット住民が蜂起したとき、CIA(米中央情報局)は中国の西部側面の不安定化を狙って、「チベット抵抗戦士」を何百人も極秘に米国に輸送して軍事訓練を施したことが知られている。
 ここにはじまるように、「チベット」は、東西冷戦の間、西側諸国によって反共・反中国のコマとして使われてきた。
 また、映画俳優のハリソン・フォードやリチャード・ギアのような声高な宣伝者に導かれ、欧米流の人権や民主主義の観念のみを正義とする自文化中心主義の欧米人の妄信によっても、チベットへの視線は歪められてきた。
 日本においても、これらの影響を免れていない。多くの支援や共感が反中国の意図を背景に行われてきた。

 祖国を逃れてインドをはじめ世界各国に散る亡命チベット人は、これらの反中国の戦略や運動に依拠せざるをえず、過激化を深める現実もある。たとえば北京オリンピックを控えた2008年、この時期を宣伝の好機と捉えた、インドの亡命チベット人の若い世代の活動家たちが、ダライ・ラマ14世の自制要請を振り切って、国境を越えてチベットを目差すデモを企てたことがあった。
 デモ自体はインドの官憲によって阻止されたが、チベット内でこれに呼応した抗議行動が08年のラサでの大規模な騒乱の発端となり、その騒乱が、これ以降、多くの抗議自殺者を生むことにもなる中国政府による宗教弾圧強化の引き金にもなった。

 他方、チベット域内社会も一様ではない。
 中国政府は90年代以来、経済を底上げすることで分離独立要求を抑え込む政策を採り、「西部大開発」の一環として青海チベット鉄道の敷設をはじめインフラ整備に開発投資を注ぎ、漢族の投資を誘った。
 いまだ他地域とは大きな格差があり、また、恩恵に浴しているのはチベット族ではなく大量に移住してきた漢族であるところから、チベット住民の不満が鬱積している面もあるが、一部とはいえ、この政策で豊かになり、現状を肯定するチベット人が増えていることも確かである。

 チベットについては中国政府による宗教抑圧・人権抑圧が強調され、そしてそれは事実であり真摯に向き合わねばならない問題であるが、上に触れたような多面的で複雑な実態にも目を向けねばなるまい。

 さて、最近の状況に戻ろう。

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◇◇ 「活仏転生」が大きな火種に
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 記念式典を翌々日に控えた9月6日、住民の反発を和らげようとの意図からか、自治区幹部が、パンチェン・ラマの後継者に認定されながら消息不明のままの男性について、「普通に暮らしているが、干渉されることを望んでいない」と述べた。
 チベット仏教では高僧の後継者は、その生まれ変わりとされる「転生霊童」が就き、これを「活仏」とする。パンチェン・ラマはダライ・ラマに次ぐ宗教指導者であって、59年のチベット動乱後も中国に残ったパンチェン・ラマ10世が死去すると、95年、ダライ・ラマ14世は亡命先から転生霊童を認定するが、中国政府はこれを認めず、別の少年を後継者に認定し、ダライ・ラマ14世が認定した少年は消息を絶った。その男性が、当局の監視下でともかくも生存していると明かしたのである。

 この「転生制度」がいま中国政府とチベット住民との間に大きな緊張をもたらそうとしている。中国政府は、2007年に、転生霊童の認定に当たっては当局の事前承認が必要とする「活仏管理規定」を制定した。

 政府が50周年に合わせて発行した白書によると、チベットには現在、転生による活仏が358人おり、うち60人は政府がこの活仏管理規定を定めた07年以降に新たに転生した活仏である。
 そして、いま、中国各地の寺院では、新たに転生した親中国派の活仏と、ダライ・ラマ14世に後継指名された亡命政府派の活仏の対立が目立つようになってきているというのである。

 だがこの転生規定の真の狙いが、80歳を数えるダライ・ラマ14世に向けられていることは明らかである。
 共産党は、ダライ・ラマ継承の決定権は「中央政府以外の誰にもない」として、民族政策を担う統一戦線工作の強化を図り、党最高指導部が直接チベット政策の舵を取る態勢を固めている。

 「ダライ・ラマXデー」がチベットとチベット問題の行方に決定的な契機をもたらすことは、間違いない。

 (筆者は元桜美林大学教授)


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