【コラム】
大原雄の『流儀』

歌舞伎で観る「まつろわぬもの」考

大原 雄


★クロニクル・1
マスメディアは「まつろうもの」たちか?

 2017年2月27日、「首相動静」(朝日)という記事が4面の隅っこに載っている(各紙もタイトルこそ違え、同種の記事掲載)。

 このページのトップ記事は、「森友学園問題 衆院委で追及」。

 委員と安倍首相のやり取りの一部。「(今井委員)(学園問題)海外メディアは関心が高い。(略)国益を損ねているのではないか。(首相)間違った報道だ。間違った報道を前提に議論する考えはない」。よく似ているな!→ 「間違った報道(安倍)=フェイクニュース(トランプ)」。

 以下「首相動静」記事より引用。

 【午後】(略)7時5分、東京・赤坂の中国料理店「赤坂飯店」。内閣記者会加盟報道各社のキャップと懇談。9時55分、東京・富ヶ谷の自宅。

 これについて、若干の注。「内閣記者会」とは、総理大臣官邸の敷地内にある記者クラブ。各社の官邸担当の政治部記者の集まり。19社加盟。新聞11社、通信2社、テレビ6社。「キャップ」とは、各社の官邸担当記者グループの長のこと。「懇談」とは、オフレコ(オフ・レコード。直接的には記事にしないが、意向はメモにして、各社の幹部に伝える)という取材方法。安倍の帰宅時間を差し引いても、各キャップは2時間半以上、懇談という名のもとに安倍の「意向」を聞いていたということになるのではないか。「飲み食いした」費用は、どっちが払ったのだろう? 通常、この種の懇談の費用は、官邸側(つまり、行政や財界など主催側)が税金で支払っている、という。それならば、私たち国民から徴収した税金を使って国民の耳目を覆っていることになる。

 同じ紙面のトップ記事より、隅っこの「首相動静」の方が意味深に思えるのは、マスメディアの力量低下の象徴的な現象ではないか。この事象については、大手新聞では扱っていないが、インターネットの世界では、いろいろな情報が漏れだした。官邸による急な懇談の設定。「動静」日程のリアルタイムの漏洩。出席したあるキャップ筋からの「懇談」内容の漏洩。オルタナティブファクトかどうか。いまの私には、残念ながら複数の情報のクロスチェックができないので、新たに発信ができないが、情報収集は続けて行きたい。大手マスメディアの真価が問われている。

★クロニクル・2
トランプの「流儀」

 トランプがアメリカの大統領になって以来、「○○ファースト」というキャッチフレーズが、いちだんと声高に語られるようになってきた、ように思われる。特に、トランプのフレーズでは、「アメリカ・ファースト」「アメリカ・グレート・アゲイン」などと繰り返しながら、白人至上主義という呪文を唱えているように聞こえてくる。「アメリカ・ファースト」と百万遍唱えさえすれば、実行をともなわずとも、それが実現するかのように吠えまくっているようである。
 就任から2ヶ月近くの手法を見ていると、例えば、外交問題でトランプが吠え、大統領スタッフ実務担当の責任者たちが、軌道修正可能なものは、「従来通り」と修正し、それで何か実績でもあったかのようなイメージ作り、という印象があるが、如何なものか。これが、自己ファースト、「トランプの『流儀』」なのか。それにあやかろうという便乗組も多いようで、「○○ファースト」は、ハンバーグショップのように巷を席巻している。

 ところで、「○○ファースト」という呪文の裏側には、「△▽ヘイト」という呪文が引っ付いているから質(たち)が悪い。自己ファースト、自己優先は、自分と違う「異類」を見つけては、異類ヘイト(憎悪)、異類蔑視が付いて回ることになる。異類とは、己にまつろわぬゆえに、己と違うとして憎しみを抱き、蔑みを抱き、攻撃するようになる対象のことである。アメリカの大統領になった、という男には、この2ヶ月ほどの言動を見聞きしていると、そういう異類の造反を許さない(あるいは、多様性を認めない)、という「不治の病」のようなものがあるようである。こういう男に核のボタンを押させてはならない。

●「まつろわぬもの」考

 「まつろわぬもの」考。という外題にしてみた。つまり、服従しないもの。抵抗するもの。レジスタンス。最近は、「レジスタンス」は、死語のようになってしまい、なんでも「テロ」とひとくくりにしがちであるが、いかがなものだろうか。

 日本では古来から、海に鬼、山に天狗(あるいは鬼も)、地に土蜘蛛などが、「まつろわぬもの」の象徴として、異類の存在を人々は意識していたらしい。それが、歌舞伎の舞台からも時々私には見えてくることがあるので、このコラムでは最近の舞台から異類にからむ部分だけを取り出しスケッチしてみた。系統立てた分析はしないが、歌舞伎という舞台に「窓」を開けて覗いて見ると、おや、なにやら面妖な光景が見え始めたようである。

●「桃太郎」の場合

 海に鬼、といえば、絶海の孤島。鬼が島。桃太郎が侵略した島だ。「門出二人桃太郎(かどんでふたりももたろう)」は、桃太郎の鬼退治という昔噺をベースにしていることは、誰もが承知している。歌舞伎好きには中村屋(中村勘三郎一統)の御曹司の初舞台の演目としても知られているだろう。2017年2月歌舞伎座の「猿若祭」。幼い三代目勘太郎と二代目長三郎の初舞台。ふたりが桃太郎の兄弟を演じる。就学期前に子ども役者が役者の卵として、「海のものとも山のものともつかない」(口上でそのように紹介)段階で、将来を期待される歌舞伎役者として、梨園に、いわば住民登録するようなものだ。鬼を退治して、桃太郎前途洋々という図が描き出される。それではおもしろくもないので、舞台から離れて、ちょっとひねってみた。

 芥川龍之介の短編に「桃太郎」という作品がある。その中に、次のようなくだりがある。

 「鬼は熱帯的風景の中に琴を弾いたり踊りを踊つたり、古代の詩人の詩を歌つたり、頗(すこぶ)る安穏に暮らしてゐた。その又鬼の妻や娘も機(はた)を織つたり、酒を醸(かも)したり、蘭の花束を拵(こしら)へたり、我々人間の妻や娘と少しも変らずに暮らしてゐた。殊にもう髪の白い、牙の脱けた鬼の母はいつも孫の守りをしながら、我々人間の恐ろしさを話して聞かせなどしてゐたものである――。『お前たちも悪戯(いたづら)をすると、人間の島へやつてしまふよ。人間の島へやられた鬼はあの昔の酒顚童子のやうに、きつと殺されてしまふのだからね。え、人間といふものかい? 人間といふものは角の生えない、生白い顔や手足をした、何ともいはれず気味の悪いものだよ。おまけに又人間の女と来た日には、その生白い顔や手足へ一面に鉛の粉をなすつてゐるのだよ。それだけならばまだ好いのだがね。男でも女でも同じやうに、嘘はいふし、慾は深いし、焼餅は焼くし、己惚(うぬぼれ)は強いし、仲間同志殺し合ふし、火はつけるし、泥棒はするし、手のつけやうのない毛だものなのだよ……』」。

 「日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹と、人質に取つた鬼の子供に宝物の車を引かせながら、得々と故郷へ凱旋した。――これだけはもう日本中の子供のとうに知つてゐる話である。しかし桃太郎は必ずしも幸福に一生を送つた訳ではない。鬼の子供は一人前になると番人の雉を嚙み殺した上、忽ち鬼が島へ逐電した。のみならず鬼が島に生き残つた鬼は時々海を渡つて来ては、桃太郎の屋形へ火をつけたり、桃太郎の寝首をかゝうとした。何でも猿の殺されたのは人違ひだつたらしいといふ噂である。桃太郎はかういふ重ね重ねの不幸に嘆息を洩らさずにはゐられなかつた。
 『どうも鬼といふものの執念の深いのには困つたものだ。』
 『やつと命を助けて頂いた御主人の大恩さへ忘れるとは怪しからぬ奴等でございます。』
 犬も桃太郎の渋面を見ると、口惜(くや)しさうにいつも唸つたものである。
 その間も寂しい鬼が島の磯には、美しい熱帯の月明りを浴びた鬼の若者が五六人、鬼が島の独立を計画する為、椰子の実に爆弾を仕こんでゐた。優しい鬼の娘たちに恋をすることさへ忘れたのか、黙々と、しかし嬉しさうに茶碗ほどの目の玉を赫(かがや)かせながら、……」。

●鬼・酒呑童子の場合

 酒呑童子(しゅてんどうじ)も、鬼の同類。2008年8月歌舞伎座で「大江山酒呑童子」を観た。配役名は上演当時。萩原雪夫作品で、先々代の十七代目勘三郎のために書き下ろされ、1963(昭和38)年6月歌舞伎座で初演された新作歌舞伎。能の「大江山」など源頼光による酒呑童子退治伝説がベースになっている。演劇構造は、「土蜘」(土蜘蛛)に似ている。

 幕が開くと、大江山の山中の体。墨絵の山水画のような趣のある3枚の絵が、吊り下がっている。上手と下手は、雲の墨絵の趣向か。「有明の月の都・・・」で、「勧進帳」の義経主従のようないでたちで、源頼光(扇雀)、独武者の平井左衛門尉保昌(橋之助)と四天王(亀蔵、勘太郎、新悟、巳之助)の山伏姿での一行。やがて、酒呑童子の住処、鬼ケ城を見つける。城に戻って来た体の、酒呑童子(勘三郎)は、一行の背後から、せり上がって来る。童子頭は若草色の衣装を着けている少年だ。少年が、にんまりしながら、酒を呑む場面が、意外と、不気味である。一行が持参した酒は、神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)という、鬼が呑めば神通力を失うが、人間が呑めば、精気を増すという都合の良い酒である。その酒を呑ませるという約束で、一夜の宿りを乞う。双方同席で酒宴を開き、舞を肴に酒を呑みあう。やがて、酔いが深まった酒呑童子は、開いていたせりの穴から、飛び下りる形で、城の奥に姿を消してしまう。下手に吊された山水画風の絵の背後から、黒衣が操る童子の絵姿が、大から中、小へと替えながら、小さくなり、やがて、小さな人形は、突然、火を吹き、炎上してしまう。

 「間(あい)狂言」風に、濯ぎ女の若狭(福助)、なでしこ(七之助)、わらび(松也)が、やって来る。いずれも、都から酒呑童子に勾引されて来た女たちと判る。頼光一行は、酒呑童子を退治したら、女たちを都に送り届けようと申し出て、女たちに酒呑童子の寝所へと案内させる。

 酒呑童子の寝所である鉄の館がせり上がって来る。二畳台に載せられた「土蜘」(という演目)に出てくる巣のような館である。こちらは、半畳のせり台に設えられた館で、幅も奥行きもない。やがて、館が、まっぷたつに割れると、なかから、大きな盃で顔を隠し座ったままの酒呑童子の登場となる。鬼神の正体が顕現する。やがて、毒酒の効き目もあらたかとなり、倒される酒呑童子。黒衣がサポートをして、勘三郎が横たわったまま、所作舞台に設えられた足場に両足を乗せると、所作舞台が、立上がって来て、勘三郎は、立上がった舞台の中間に浮いているように見える。上から、血のような赤い砂が、滝のように流れ落ちて来る。鬼退治終了。鬼も土蜘蛛も、まつろわぬものとして、本質は同じということなのだろう。

●天狗の場合

 山に天狗、では、2017年1月新橋演舞場。「雙生(ふたご)隅田川」を初めて見た。近松門左衛門原作、1720(享保5)年、大坂竹本座初演。久しく上演が途絶えていたが、1976(昭和51)年10月、新橋演舞場で、三代目猿之助(二代目猿翁)が256年ぶりに復活上演した。以後、三代目猿之助は、歌舞伎座で2回上演した。2017年1月は、市川右近改め、三代目右團次襲名披露のメイン演目として、23年ぶりに上演された。

 京都の公家・吉田少将家のお家騒動(双子の梅若丸、松若丸が絡むという趣向)とその関連の吉田家元家臣・猿島惣太が犠牲となって生まれ変わった「善役」の淡路七郎天狗と「悪役」の次郎坊天狗の、天狗同士のバトルが基本構造となる。

 発端「比良が嶽山中の場」。吉田少将家の執権勘解由兵衛(かげゆひょうえ。猿弥)が山中に引き寄せられる。引き寄せたのは比良の天狗・次郎坊天狗(廣松)。山王権現の鳥居造営に大量の比良杉を伐採した吉田家に祟りをなそうとしている。悪役の次郎坊天狗の主張は、今なら、「自然破壊に反対」すること。「祟りをなそう」という方法が問題で、非難されるのか? その実、次郎坊天狗は、執権の立場を利用して吉田家横領を企む兵衛の悪心と共闘しようと申し入れる。権力側の悪の一員と通じる、ということか?

 後半では、花道から善役の七郎天狗(右團次)が4人の子天狗を引き連れて現れる。母が梅若丸と勘違いした松若丸(二代目右近)が現れると、班女御前も正気に戻り、天狗に保護されながら3人は都を目指して飛び去る。ここで、七郎天狗、松若丸(二代目右近)、班女御前(猿之助)の3人がひと組となる、珍しい宙乗りが披露される。この演目では、天狗は悪か善か、判りにくい。異類という認識で異端視していることには間違いない。

●土蜘(土蜘蛛)の場合

 地に土蜘(土蜘蛛)。能取りもの(原作の能を歌舞伎化した作品)の演目「土蜘」は、1881(明治14)年、河竹黙阿弥の原作で、初演された新歌舞伎だ(幕末以前が、古典歌舞伎。明治から戦前が、新歌舞伎。戦後が新作歌舞伎)。こちらも、源頼光一行による妖怪退治の話。土蜘蛛も、酒呑童子も、妖怪(異類)、つまり、人間の理解を超えたものである。理解を超えるとは、権力にまつろわぬものゆえ、ということだろう。鬼も土蜘蛛も趣向が違うだけで、芝居の本質は同じである。異端視、蔑視が、そこにはある。「土蜘」に対するのは、源頼光、独武者の平井左衛門尉保昌と四天王ということで、「大江山酒呑童子」の登場人物たちと基本的に同じだ。似ているわけだ。

 土蜘蛛では、2017年1月国立劇場で「しらぬい譚(ものがたり)」を観た。
発端「若菜姫術譲りの場」。時は室町時代。足利義輝将軍の治世。筑前・鐘の岬沖。釣鐘が沈んでいる。舞台は天地左右とも海の中。青い光の中で不気味な不知火(怪火)が浮遊している。舞台中央に天から綱が降りて来る。海女のすずしろ(菊之助)が綱に掴まっている。海底の鐘を引き上げるための綱を結ぼうとしている。釣り上げに成功したら藩主・菊地貞行から褒美が出るのだ。

 海底に着いたと思ったら、そこは錦が嶽の山中だった。海から山へ。紗の幕と書割で幻想的(ファンタジック)な海底と現実的(リアル)な山中を仕分けた巧い演出。気を失ったすずしろに土蜘蛛の精(彦三郎)が語りかける。すずしろは大友宗麟の忘れ形見の若菜姫だと教える。およそ20年前に大友宗麟家が菊地政行に滅ぼされた。大友家の重宝の釣鐘を守るために海底に沈めたのだという。造船のために山の大木を切り出す菊地家は土蜘蛛にとっても怨敵だという。年老いた土蜘蛛の精は菊地家への復讐成就のために大友家の遺児・若菜姫に妖術のノウハウを授ける。ただし、この妖術は菊地家の重宝・花形の鏡に照らされると破れてしまうという弱点があることを忠告して死んでしまう。

 2015年1月歌舞伎座「蜘蛛の拍子舞」は、源頼光と家臣の四天王による土蜘蛛退治の話の女形版(バリエーション)である。1781(天明元)年の初演。当時の人気女形・瀬川菊之丞の主演で、葛城山の女郎蜘蛛の精が、妻菊という名の白拍子姿で現れ、病気療養中の源頼光を慰めると偽り、艶やかな舞を披露して、色仕掛けで頼光をたぶらかそうとするのが、受けたという。その後、長唄は伝承されたが舞踊は絶えてしまっていたのを、およそ60年前、六代目歌右衛門が復活上演した。以後、歌右衛門が磨き上げ、芝翫、福助(3人とも成駒屋代々)、玉三郎らが、受け継いで来た。最近は、人間国宝・玉三郎が、熱心に磨いている演目だ。「拍子舞」とは、鼓一挺の拍子に合わせて、唄いながら舞う舞踊のこと。「蜘蛛の拍子舞」では、白拍子だが、刀鍛冶の娘でもあるという妻菊を含め、頼光、綱の3人がトンテンカンと「刀鍛冶づくし」を、掛け合いで唄いながら踊るくだりが、拍子舞になっている。拍子に乗って唄うように科白を言いながら踊るのである。

 舞台は、廃御殿となっている花山院空御所。二重舞台の上は、金地に黒塗りの柱の御殿だが、二重舞台の下は、廃屋で、崩れている。夢と現の二重写し。紅葉の時季。物の怪(異類)の現れそうな、おどろおどろした舞台。発病中の頼光(七之助)の杯に映る異形の影。御殿の天井から宙吊りで降りて来る蜘蛛の姿だ。蜘蛛は、一旦、天井に消える。

 暗転の舞台。花道向う揚幕からと舞台下手袖から、ふたりの黒衣が持つ差し出しの面明かり(古風な照明器具)が、暗闇に光りながら、近づいて来る。花道スッポン(花道に作られている独特のセリ=昇降装置)から、なにやら……。竹本の「かかるところへ、妻菊が」の文句が被さって、というところで、玉三郎が白拍子姿で現れる。

 表裏が、金地と銀地になっていて、そこに5つの花丸が描かれた扇子を持つ白拍子・妻菊(玉三郎)。金地に赤を散らした中啓を持つ頼光(七之助)。天紅ならぬ天金で無地の白い扇子を持つ綱(勘九郎)。この後、見せ場の、3人による拍子舞「刀鍛冶づくし」となる。中央に集まった形で、踊る3人の所作は、バランスが良く、すれすれで、交差しながら、ジグソーパズルのピースのように、それぞれの空間に見事に収まる素晴らしさ。

 やがて、妻菊が花道スッポンへと消えると、替わりに、件の蜘蛛が大蜘蛛になって、本舞台にせり上がって来る。「操り」の大蜘蛛。上手の長唄連中を霞幕で、隠す。16人の軍兵と大蜘蛛との立ち回り。やがて、大蜘蛛は、舞台奥の瓦燈口(かとうぐち、幕のある出入口)から、幕のうちに追いやられた後、更に大きくなった大蜘蛛(着ぐるみ。中に、人が入っている)が、幕の下から出て来る。見得をしたり、立ち回りをしたりした後、御簾(みす)うちに消える。

 御簾が開くと、茶色の隈取りをした険悪な蜘蛛の精の後ジテ(玉三郎)が登場する。頼光主従(七之助と勘九郎)を相手に千筋の「蜘蛛の糸」を盛んに四方に撒き散らしながら、大立ち回り。瓦燈口の幕も取り払われると、そこは大蜘蛛の巣。二重舞台の廃御殿の上も、幻覚であったことが判る。花道の向う揚幕から、荒事衣装の金時(染五郎)が登場し、蜘蛛の精を本舞台「押し戻し」で、蜘蛛退治の大団円へ。

贅言;「土人」論

 見てきたように歌舞伎や能では、「土蜘(つちぐも)」という演目もある。歌舞伎では、土蜘蛛も天狗も鬼も異類として、時に「御政道」に反抗するものとして描かれる。政治批判がしたい観客の庶民の気持ちを代弁することもある。「土」といえば、最近も「土人」「虫ケラ」という発言もあった。沖縄の基地強化(ヘリパッド増設)工事に反対する市民活動の警備業務に従事するために出張した大阪府警の機動隊員が、市民らに浴びせたヘイトスピーチの文言であった。

 土(つち)=土地=領地をめぐる争いこそ、戦の本質。敵対するもの、己の意向にまつろわぬものは、皆、「敵」。敵はこれまで生きてきた領地=生活の場を守ろうとする。当然だ。だから、抵抗するのである。領地とは、土地、土地は、土、そこの民は、土(つち)の人。土人(どじん)、あるいは、もっと侮蔑して土蜘蛛(つちぐも)=土に拘(こだわ)る虫ケラ、という発想があるのではないか。しかし、その土地に拘るとは、そこで生き続けるということだろう。沖縄・高江のヘリパッド計画の現場で抵抗する住民や市民を侮蔑した機動隊の警察官の言動(映像を見たが、「土人め!」という憎しみを込めた発言)の源泉も、この辺りから流れ来ているのではないか。「まつろわぬもの」への蔑視、憎悪。異常な長期勾留が続く沖縄平和運動センターの山城博治議長は重篤な病身という。「まつろわぬもの」への蔑視という人権無視がなければ、いくら権力側とはいえ、普通は、こういうことはできないはずだ。山城さんへの不当な勾留は、土人発言と同根である。

 室町時代末期に作られたという鬼退治の物語。鬼、天狗、土蜘蛛などの「異類」は、皆、人外の、「まつろわぬもの」(権力者には理解不能なもの)。「まつろわぬもの」は退治(仕置き)される。背景にあるのは、中国の「王土王民思想」。つまり、地上にある土地は天命を受けた王のもの(王土)であり、そこに住む全ての人民は王が支配する民(王民)である、という。支配に従うものだけが、「まつろうもの」。

 今回覗いてみた歌舞伎の舞台に登場した「まつろわぬもの」たち。若い女性たちをさらって監禁していた酒呑童子はレジスタンスも虚しく破滅(「仕置き」)させられた。御政道批判禁止の封建時代。まつろわぬものたちは、皆、破滅させられる場面が多いが、せめて、彼らの動機を記録しておこう。代々の「お家」をつぶされた若菜姫は土蜘蛛の精から術譲りを受けて、怨念を晴らそうとした。山に棲む天狗と海底に棲む土蜘蛛の精は、それぞれ自然破壊を阻止しようとした。

 御政道批判は、徳川幕府から許されないため、そのままでは、上演禁止になる恐れがある。表の芝居(まつろわぬものたちへの「仕置き」)の裏に流れるまつろわぬものたちの「抵抗」(レジスタンス)の物語が、歌舞伎の舞台から私には透けて見えてくる。

 (元NHK社会部記者・ペンクラブ理事・オルタ編集委員)


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