【視点】
良くも悪くも「ナベツネ」さんを悼む
読売新聞の渡辺恒雄が亡くなった。2024年12月19日、98歳。
筆者は一過的にその周辺を垣間見たが、口をきいたこともない。ただ、断片として見聞きしたことを、ちょっと書いておきたい気分になった。以下、固有名詞は呼び捨てで失礼させて頂く。
ナベツネを見ていると、なんとなく田中角栄なる人物と類似する感想を持つ。田中については、首相の座に就く前から、新潟での駆け出し記者として4年間、その選挙区内のあれこれを見聞きしていたので、政治記者としてその“独演会”を聞き、目白邸などで何度か話を聞いても驚くことはなかった。
ナベツネと田中角栄とは、筆者の印象として<否定しつつも、なにか反発させない一種の魅力>を持たざるを得ない。ひと言でいえば、ともに格別の才覚を持ち、「権力」を求め、それぞれに政治のかじ取り、あるいは新聞のありようをいささか踏み違えた、そんな印象である。
何の関係もない、つまらぬことながら、このふたりはともに5月に生まれ、12月に他界している。
*ナベツネ本が教科書に 筆者よりひと回り12歳年長のナベツネは1950年に読売新聞に入社、2年足らずで政治記者になる。その6年後には「派閥―保守党の解剖」(58年)を執筆、「大臣」(59年)、「政治の密室―総理大臣への道」(66年)などを矢継ぎ早の 刊行している。
筆者は 政治部に行き、政治家というものに近づくことになって困ったのは、新聞記事になったこと以上に 話題がなく、質問すべきことが見つからないことだった。
そのとっかかりを教えてくれたのが、ナベツネが足で稼いだ(であろう)くわしい政治の内情を書いた上記の3冊だった。いわば、教科書だった。「すごいなあ」とばかりに読みまくった。朝日新聞にとってはライバル紙の記者の書だが、そんなことはおかまいなしで、信頼した。
朝日新聞では、5年ほど地方支局などで記者修業はしたものの、いざ政治部の 放り込まれてみると、何を話したり、どう質問したらいいものか、政治の入り口が皆目わからない。しかも、最初の持ち場が基本技を身につけやすい首相官邸ではなく、国会の記者クラブだった。国会法など大学時代の書物などをめくっても、なんの足しにもならない。
日が経つにつれわかってきたのは、夜になるとみな食事に行き、必ずと言っていいほど酒を飲む。いろいろの話が出、あの時この時の成功、失敗話に耳を傾けることだった。政治家の人物月旦、派閥の人脈、仲不仲の関係とその事情などアトランダムな話を聴いた。それを裏付け、わかりやすく説いてくれるのがナベツネ本だった。
*スゴイ学習意欲 ナベツネと同世代の河上民雄(元社会党衆院議員)は東京大学文学部に在籍した。戦時下では、二人の地域は離れていたが、新潟県に学徒動員されていた。河上によると、ナベツネは動員先にカントなどの哲学書十数冊を持ち込んでいたといい、その勉強ぶりを話してくれた。ただ、「朝から晩までの過酷な農作業中に読む時間があったかなあ」とも。
晩年まで、読売新聞社の自室には、大量の書籍が並び、それにはたくさんの付箋が付けられていた、という。
また、政治部時代には若手の記者を集め、勉強会を開いていた、と「渡辺恒雄回顧録」にあった。「情」で生きる自民党副総裁の大野伴睦に食い込み、派閥経営にまで「参加」する一方で、「理」に強い中曽根康弘には初め「勉強会」を以て食い込んでいる。
*平河クラブで 筆者が、ナベツネを見たのは自民党本部の記者室で、だった。読売と朝日のスペースは、党本部、国会内ともに背中合わせだった。狭い場所だから、両者 の記者は皆、いつも仕事の話はヒソヒソ話だった。
ナベツネは時折姿を見せた。アルバイト原稿を書いていることが多かった。ナベツネの 政治部デスクになったのは1968年というから、「政界入門」(キャノン編、中曽根との共訳)、「大統領になる方法」(ホワイト著、小野瀬嘉慈と共訳)、「大統領への道」(著者、共訳とも前著と同じ)を翻訳、自著「派閥」を刊行した後で、「政治の密室」「派閥と多党化時代」を執筆していた頃である。こうした翻訳や執筆を仕事の合間にし遂げるということはめったにできることではない。
こうした合間に、「なんで各社と一緒に聞くんだ。ひとりで聞け、サシで!!」などと若手の記者を怒鳴っていた。朝日の席でも、同様の“指導”があったが、こちらの席では怒鳴られることはまったくなかった。ただ自民党を初めて担当した駆け出しの身では、ナベツネの声がわが身に襲い掛かるように思えていた。これは、非常に印象的で、今も忘れることはない。
ついでながら思い出したのは、当時の古参記者の態度。ナベツネの記者会見での質問は、追及型の厳しさがあった。政治家とは対等以上の口調や姿勢だった。
さらに忘れがたいのは、外相を退いた藤山愛一郎の懇談の場での西山太吉記者の態度だった。言葉使いが荒く、「あんた」呼ばわりし、駆け出しの筆者に はビックリすると同時に、<このような強気の身構えはできない、政治記者には成りきれない>などと思ったことがある。西山記者はのちに、沖縄返還交渉時の機密を見事に暴いたものの、外務省の女性事務官との関係もあって裁判沙汰になり、佐藤首相らから非難を浴びせられた人物である。
*宇都宮徳馬とナベツネ 日中関係の改善に尽くした宇都宮徳馬は京都大学時代、当時の戦争に向かう政府、軍部に抵抗して退学処分となり、治安維持法で投獄され、転向した経験がある。陸軍大将で朝鮮軍の司令官だった宇都宮太郎の子であったから、話題になった。
裁判では「共産党に入党」とされ、当時の“仲間”の田中清玄も同じように言っているが、本人に聞くと「共産党には入党していない」と言っていた。
ナベツネも終戦直後に共産党に入党、短期間で除名されている。そんな経験があってか、ふたりは戦後まもなく、数人でマルクス経済学の「国家独占資本主義論」の読書会を持つなど、ひところは近い関係にあった。1954年にナベツネは女優でもあった夫人と結婚するが、その仲人が宇都宮だった。宇都宮から聞いた話だが、彼は郊外の自宅付近に広大な土地を有し、その一部を夫妻に贈ったほど。その土地をかなり後に見たが、家は建てられておらず、空き地のままだった。
読売新聞が特ダネとして、宇都宮と福田篤泰の両衆院議員が売春汚職に関与した、との誤報騒ぎを起こした際(1957年)、ナベツネは足繁く宇都宮邸に通い、同紙は結局大訂正記事を出したことがある。
ナベツネは宇都宮を「なかなかの人物」と書くが、宇都宮に聞くとひとこと「彼は新聞記者としては違う方向に行ったね」と述べた。
それでもデスク時代のころには、宇都宮を中心にナベツネをはじめ、毎日の細島泉(のち編集局長)、朝日の松下宗之(のち社長)たちと定期的に勉強会を持っていた。
横道にそれるのだが、宇都宮は自らも原稿を書き、新聞記者と話すことが好きだった。筆者も1982年のころ、戦前の反戦活動に努めた桐生悠々の話が出たのを機に、朝毎読の政治部記者たちと一緒に政治家らを招く勉強会を持った。いわば、第2次の勉強会でもあった。
数年間にわたる35回の「悠悠会」なる集まりに、三木武夫、宮沢喜一、石橋政嗣、土井たか子、不破哲三、井出孫六、松岡英夫といった人々を招き、質疑した。勉強会の軸でもあった宇都宮もほぼ出席、彼の主張や質疑を聞くことも面白かった。宇都宮はよく「一匹狼」と言われたが、「それは違う。私の周りには多くの国民がいるのだ」と言い続けた。
*仕切る人事 ナベツネは次第に昇進する。それとともに、社内人事への関心を強めていく。政界は人事が大きな要素であり、この関心が当然社内に持ち込まれ、政治部長、取締役・論説委員長、副社長、主筆、社長・主筆と階段を上るにつれて欲望は高まったようだ。
社会部との対決なども辞さない。周辺には同調者やイエスマンがそろう。筆者が支局、自治省、自民党、松野頼三の番で親しくなった堀川吉則はその一人。確か政治部長から出版局長、副社長、さらに読売巨人軍社長へと上昇した。ちょっとつかみにくいタイプだが、しっかりした人材。
一方、当然だが、反発が出る。これも直接耳にしたのだが、ナベツネの1年ほど先輩だった多田実は、新聞記者のありようとしての彼に反発した。多田は米軍の猛攻撃で玉砕、壊滅した硫黄島から九死に一生を得て帰国、その後「何も語らなかった青春―学徒出陣五十年、歴史を創ったわだつみの青年たち」「海軍学徒兵、硫黄島に死す」などの記録を残している。
多田はその経験から「戦争のあくない 非条理」とし、徹底的に反戦の立場を示して、ナベツネ的な悪い戦争、良い戦争と区別するような姿勢を批判していた。
また、論説委員を務めていた前沢猛は、ナベツネが論説委員長になると論説からはずされた。前沢は司法担当としてかなりの論説を書いており、ナベツネはこの論調が気に入らなかった。前沢は社を離れたあと、東京経済大学などで教え、「表現の自由が呼吸をしていた時代―1970年代の読売新聞の論説」「新聞の病理」「マスコミ報道の責任」などの著作で、メディアのあるべき姿を描き、ナベツネ主導の読売新聞のありようを批判した。ほかにも、政治部ではないが本田靖春なども首をかしげていた。
ナベツネは自分の主張に沿う記事にこだわり、具体的なケースまではわからないが、好みの方向の紙面作りをする傾向が言われていた。
社長、主筆の1994年以降、「提言報道」として憲法改定案、総合安保政策大綱、行政機構改革政策大綱などを打ち出した。それはそれとして、これらの構想を練るにあたって、十分な広い範囲での意見聴取、討議などができていたのかなど多彩な意見の集約とは受け取られず、一過的に忘れ去られていった。ナベツネの政府権力の思考を受け止めたかの背景が予測され、その安定感がアピールされなかった。当然、納得のいく部分も打ち出されながら、結果的に彼の政府、自民党的なポジションがイメージされ、彼の期待ほどの成果は示されなかった。メディアに対する多様な反応が軽視され、大新聞ゆえに世論の追従に期待をかけすぎたのではなかったのか。新聞というメディアは、読者を啓発、順応させうる、というほどには甘くはない。
*新聞記者とはなにか ナベツネ的なメディアのありようの可否は、二分されるのではないか。筆者はかつて、所属する朝日新聞の取材に答えたことがあり、それが「小和田次郎」の名でマスコミを論評し続けた原寿雄(元共同通信編集局長、社長)の著書「ジャーナリズムの可能性」(岩波新書)に取り上げられた。
原はその著書で、毎日新聞記者、政治評論家として多くの政界記事を書いていた岩見隆夫の「ナベツネさんの憂国の情は単なるマキャベリストのものではない」などの論を取り上げ、「自民党に代表される保守的な政治理念に同調する記者は渡辺的活動スタイルを高く評価しても、政治に革新を求める多くの記者たちのモデルにはもはやなり得ない」として、「朝日新聞の政治部時代に自民党担当だった羽原清雅は、『政治家と一体になってしまう人間と、記事と付き合いとは峻別する人間と二種類いた。渡辺さんは、前者がそのまま新聞社のトップにまで上った特異な例』と評している(朝日新聞、二〇〇七年一二月八日付)」と引用している。
わがごとだが、この思いは変わっていない。
ナベツネの学究力、取材の食い込みとその取材力、政治家への影響力などはすごいし、とても追いつけるものではない。それを承知で言うのだが、新聞記者が政治家と一体化する姿を、通常の読者に見せたら、おそらく大半の読者をしらけさせるだろう。もちろん、評価される向きも少なくなかろうが、新聞記者はそれでいいのか。本来は、冷静に、極力客観的に記事を書き、あとは読者が個々に判断し、自分としての意見を持つために、その材料を提供すればいい。その可否なりの判断は、個々の読者に任せるべきで、もっともらしく押し付けるべきではない。
新聞記者が、特定の政党や政治家たちに同感し、その意向を客観風に報道することはフェアとは言い難い。確かに新聞記者は、相手の懐に飛び込み、ネタをとらなければならない仕事である。ときに、二重人格的に誘いをかけ、同感の風を装うとしても、いざ原稿にするときには本来の記者の姿に戻らなければならない。
ナベツネはその著書「渡辺恒雄回顧録」に書く。
「特に政治記者時代の私の手法については、各種の批判があるだろう。一言弁じさせてもらえば、自由で民主主義的な国の新聞の政治記者は、できるだけ真実に迫った大量の情報を不断に入手する努力を続け、かつ最も有効、適切なタイミングで読者に提供しなければならない。その場合、共同記者会見取材というものは必要ではあるが、十分なものではない。真相に迫る取材には、取材対象との一定の信頼関係が必要であり、一回だけの取材で、時には直接取材もせずに記事を書き、ひたすら相手を傷つけ、読者を楽しませさえすればよいと考えるイエロージャーナリズムとは全く異なる。また一流新聞であっても、書くことによって事実と反した展開をするような報道は、しばしば結果的に誤報となる。報道したことが事実となって展開するとき、初めてその報道は『特ダネ』となる可能性を持つ。」
その通り、と言いたいところだが、ナベツネの言う「取材上の信頼関係と“癒着”とを区別する最も大事なものは記者自身の倫理観にほかならない」との姿勢は、彼の著作である「回顧録」や「私の履歴書」「天運天職」などに示された具体例からすると、逸脱を感じざるを得ない。
それにしても、ナベツネの存在は大きい。彼を継ぐような第2、第3の人物は当分出てくることはないだろう。
(元朝日新聞政治部長)
(2025.1.20)
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