【コラム】
神社の源流を訪ねて(15)
若狹・越前の神々② 新羅神社と白鬚神社
◆敦賀は重要な地だった
若狭地方は若狭湾に面し、湾内は敦賀半島、内外海半島、大島半島をはじめ多くの入江や島などからなり、静かな良港だ。
敦賀から福井行の特急に乗ると、隣の今庄(いまじょう)との間に立ちふさがる木ノ芽峠という山塊がある。今は北陸トンネルができて一気に通過してしまうが、それまでは雪の間は人の通行が何か月も途絶えたこともあった。
これが北陸七ヵ国、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡の開拓が遅れた理由とされる。もっともそれは近代に入ってからのことだ。
若狭地方は北九州、山陰、北陸とともに、大陸や朝鮮半島と向き合う。若狭(わかさ)は、朝鮮語の「わかそ」(来る行く)に由来するとされるほど、先進文化が真っ先に入る玄関口だった。琵琶湖を経て京都、奈良にも近く、古来、地勢学的にも重要な地だったのだ。
若狭湾に入った渡来人たちは、山塊が閉ざしているにもかかわらず、どんどん内陸部に広がった。それは木ノ芽峠を越えた敦賀地方にも、新羅神社や新羅仏、新羅鐘などを保存している寺院が少なくないことからもうかがえる。
敦賀から北陸トンネルを越えた隣の今庄町では、渡来人が信仰した新羅神社と白鬚神社を見たかった。福井県神社誌によると、今庄町の新羅神社は上宮さんと呼ばれ、神紋は右三つ巴紋。白鬚神社の方は下宮さんと呼ばれ、神紋は左三つ巴紋で、2社の神紋が対になっているところは面白い。
今庄駅から、宿場町の面影を残す街道を歩いてすぐに、歴史がありそうな「郷社 新羅神社」と深く刻まれた石柱が立つ。鳥居をくぐって参道を進み石段を上がり、これを何回か繰り返して本殿にたどり着いた。祭神は素戔嗚尊である。白鬚神社もここから歩ける距離にあった。
『今庄町誌』をみると「敦賀郡松原村沓見にある信露貴彦(しろきひこ)神社は、南条郡今庄町今庄の新羅神社・白鬚神社、堺村荒井に鎮座する新羅神社と同じである」とある。ということは祭神も同じということになる。神紋が対であることも一体性を示唆しているようだ。新羅、白木、白城など同じ音だが、新羅と書かれ中世になって白木とも書かれるようになったらしい。山中襄太氏の『地名語源辞典』も「白木」は「新羅来(しらき)」とする。水野祐氏は「日本神話を見直す」のなかで、新羅を白城として白の色をあてたのは、新羅が西方の国で五行思想では西方が白色であることによる」とされる。
『南条群誌』には「今庄町は古くは今城と書けり。これ白城の誤する乎。此の町の東に河あり、日野川と云う。此れ即ち古の叔羅川なり」とある。日野川、叔羅川はともに新羅川であったことから、斯羅、白木、新羅、白城、新良、新良貴などの表記は同じものを指しているように思われる。
(元共同通信編集委員)
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