【コラム】大原雄の流儀

若者は荒野を行く。 「双蝶々曲輪日記」から
〜舞台を凝視すると、時空を超えて、世相が見える〜

                         大原 雄


このところ、「大原雄の『流儀』」では、歌舞伎・人形浄瑠璃の話題が続いているが、読者には馴染みのない芸能だとして敬遠する人が多いだろうから、敢えて、日本の伝統芸能の「実相」(400年を越える歴史の波に洗われてきた庶民の芸能、歌舞伎・人形浄瑠璃には、人生の課題は、ほとんど取り上げられている、というのが私の想定)を知っていただく意味でも、この連戴コラムでは、現代との関係(単なる私の「深読み」、「読み過ぎ」という面もある)を軸に時々取り上げたい。今回は、歌舞伎・人形浄瑠璃・地域という三題噺である。歌舞伎・人形浄瑠璃で「地域」と言えば、「伊賀越道中双六」を連想する。

日本三大仇討ちの舞台のひとつ、「伊賀上野」を外題(タイトル)に入れ込んでいるばかりでなく、通称「沼津」、通称「岡崎」などの場面が、それぞれ上演され続けている名作である。通称があるという演目は、それだけ庶民に親しまれているということの証拠だ。今回取り上げる地域とは、京都南西部(八幡、橋本、山崎)である。俎上に上げる演目は、ひとつ。上方世話ものの名作「双蝶々曲輪日記」。

国立劇場は、最近、同じ演目を歌舞伎と人形浄瑠璃で続けて興行する試みをしている。(14年)10月の国立劇場では、高麗屋一門の出演で歌舞伎「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」が上演された。9月の国立劇場小劇場では、人形浄瑠璃「双蝶々曲輪日記」を観たばかり。

1749(寛延2)年7月に大坂・竹本座で人形浄瑠璃の演目として初演された「双蝶々曲輪日記」は、二代目竹田出雲、三好松洛、並木宗輔によって合作(当時の流行の執筆方法で、分担して書く)された全九段の世話もの浄瑠璃。従って、浄瑠璃の床本が原本ということになる。濡髪長五郎、放駒長吉というふたりの相撲取りの達引(たてひき。最近の流行語なら、ネゴシエーション)とその結果としての男の友情(義兄弟になる)を描いた物語。それにふた組の若いカップル(山崎の豪商山崎屋の若旦那の与五郎と遊女の吾妻、八幡の郷代官の息子の与兵衛と遊女の都)が絡む。大坂で出逢った6人の若者たちの青春譜。「君の行く道は、果てしなく遠い だのになぜ 歯をくいしばり 君は行くのか そんなにしてまで…」という世界。

人形浄瑠璃の初演(大坂)の評判は芳しくなかったようだが、翌8月、歌舞伎に移されての初演(京都)では、大入りになったという。人形より、生身の役者の方に相応しい演目だったということだろう。歌舞伎、人形浄瑠璃のどっちが原本であれ、それぞれの持ち味を生かして加工しあい、舞台に載せる。共存共栄の芸能。歌舞伎独特の演出(「入れごと」という)も、いくつかある。そういう意味でも、国立劇場が、人形浄瑠璃で上演をし、翌月、歌舞伎でも上演するという試みは、265年前、寛延2年の7月、8月(旧暦)の舞台を再現しているようにも思えて、私には興趣をそそられる。

9月の人形浄瑠璃の場の構成は次の通り。「堀江相撲場の段」、「大宝寺町(だいほうじまち)米屋の段」、「難波裏喧嘩の段」、「橋本の段」、「八幡里(やわたのさと)引窓の段」。五段構成。

これが、10月の歌舞伎になると、次のようになる。序幕「新清水(しんきよみず)の場」、二幕目「堀江角力小屋の場」、三幕目第一場「大宝寺町米屋の場」、三幕目第二場「難波芝居裏殺しの場」、四幕目「八幡の里引窓の場」。こちらも五段(場)構成だが、「新清水」が加わり、「橋本」が省略されていて、段や場の標題も微妙に違うのが判る。国立劇場で「双蝶々曲輪日記」を「通し狂言」として、上演するのは、今回で3回目。過去2回は、1968(昭和43)年、2003(平成15)年。私が観るのは、11年ぶり、2回目で、前回は、「堀江角力小屋の場」、「大宝寺町米屋の場」、「難波芝居裏殺しの場」、「八幡の里引窓の場」の四段(場)構成であった。今回は、前回の演出をベースに「新清水の場」というドラマの発端部分が付加されたことになる。

今回は、歌舞伎の「新清水の場」、「堀江角力小屋の場」=人形浄瑠璃の「堀江相撲場の段」、「橋本の段」、それに、歌舞伎・人形浄瑠璃共通で、「米屋」、「殺し場」、「引窓」に触れながら、「地域」を論じるという趣向にしてみよう。

1)歌舞伎に付加された序幕「新清水の場」は「生身の役者」が顔を揃える歌舞伎の「顔見世」的な意味がある。「新清水」と言っても、京都の清水寺ではない。清水(きよみず)観音という大坂三十三観音のひとつ。「曾根崎心中」の観音巡りで出て来る。京の音羽山清水寺から勧請した観音像を本尊とし、新清水寺とした。四天王寺が近い。舞台は、観音の近くにある料亭「浮無瀬(うかむせ)」。新清水寺の古くからの門前の茶屋という老舗。上手に料亭の入口。下手に清水観音の石段。石段の上手に「有栖山(ありすざん)清水寺」という杭。後ろにブッシュ(薮)がある(これは、早替りのための大道具)。下手奥に朱塗りの「清水の舞台」が望める。舞台中央は、満開の桜があちこちにあり奥に山々が見える遠見。

この場面は、京都郊外の豪商山崎屋の若旦那・与五郎(染五郎)と大坂の遊廓・新町藤屋の遊女・吾妻(高麗蔵)と与五郎の親友・南与兵衛(なん・よへい。染五郎)と吾妻の姉格の遊女・都(後の、南与兵衛女房・お早。遊女姿のお早は、なかなか見られない。私は初見。人形浄瑠璃では、「おはや」。芝雀)のふた組の若いカップルを巡る人間関係が判るという仕組みだ。

山崎屋の与五郎は、淀川を上り下りして京と大坂を結ぶ三十石船の川港(時代により「津」、「河岸」という)があった山崎(いまの京都府長岡京市)の豪商の息子。山崎宿は「大山崎」と呼ばれ、京と西国を結ぶ西国街道(「山崎街道」ともいう)の宿場町で、博多や堺同様の自治都市であった。石清水八幡宮の神領なので、自治都市となったという。商人たちは油の専売権を持ち、羽振りが良かったらしい。山崎屋も、そういう商売をしていたのか。淀川には京の伏見、淀(いまの京都市伏見区。城下町であり、宿場町でもあった)、橋本(山崎の対岸)、大坂の枚方、平田、三栖、大坂などの船番所があった。

山崎宿は、西国街道の京から最初の宿場。西国街道は、淀川を渡らずに右岸を進むと、次が芥川宿(いまの大阪府高槻市)。郡山宿(いまの茨木市)、瀬川宿(いまの箕面市)、いまの池田市、昆陽宿(いまの伊丹市)などを経て西宮宿(いまの西宮市)へ到る。その先は、「山陽道(広義の西国街道)」となる。大坂を通らずに西国へ行ける脇街道。山崎は、本能寺の変の直後、光秀と秀吉が戦った「山崎の戦い」の戦場となった「天王山」(標高270メートル。「天下分け目の天王山」)の麓にある。淀川(琵琶湖を源とする瀬田川から名前を変えた宇治川と桂川、木津川が合流して淀川となる)には、3つの河川が合流した下流辺りに「渡し」(3ヶ所あり、「きつねの渡し」、「広瀬の渡し」、「山崎の渡し」)があり、川幅の狭い山崎と橋本の間は、舟で行き来することができた。

与兵衛の実家のある八幡(淀川を挟んで天王山と対置する男山にある石清水八幡宮の門前町。いまの京都府八幡市)、隣の橋本は、京と大坂を結ぶ京街道沿いにある。京の伏見から、淀宿を通り、宇治川、木津川を渡り、八幡、橋本を経て、淀川左岸沿いに、大坂の枚方宿(いまの枚方市)、守口宿(いまの守口市)を通って大坂の京橋とを結ぶのが「京街道(あるいは、大坂街道)」という。京街道を橋本から京都方面に向かうと南方十次兵衛(なんぽう・じゅうじべい。町人南与兵衛の、 代官任用後の名)の家がある八幡がある。大坂寄りの宿場街である橋本は、石清水八幡宮の参拝客が利用する遊廓街でもあった。

伏見と大坂間は淀川を利用した三十石船(上方落語の演目にもある)などの舟運が盛んだったので、京から大坂へは、舟で下り、大坂から京への上りは陸路を利用したようである。西国街道は、淀川の右岸、京街道は、淀川の左岸を通る。山崎の渡しは、淀川を挟んで並走する西国街道と京街道(大坂街道)の結節点となる重要なポイントであった。最後まで残っていた山崎の渡しは、1962年に廃止となった。

吾妻、都のいる藤屋のある大坂・新町遊廓は、江戸の吉原、京の島原と並んで、日本の三大遊廓の一つ。いまの大阪市西区新町の辺り。西国街道の山崎宿出身の与五郎、京街道の八幡宿出身の与兵衛たち若者はそういう地理的、歴史的背景の地域で生まれ育ち、大都会の大坂に出て、新町遊廓や清水観音近くの料亭で遊女と遊んだり、堀江の角力小屋で遊び、力士を贔屓にしたりしていたのだろう。この芝居の背景には、そういう事情が隠されているように思う。

序幕「新清水の場」。上手の料亭から幇間(宗十郎)が出て来る。下手から出てきた山崎屋の番頭(松江)と落ち合って、悪だくみの相談を始めた。若旦那の与五郎を貶めようとしている。幇間と番頭はつるんでいて、贋小判を用意して店の金を横領する気でいる。若者たちは、遊び暮しているようだ。若旦那・与五郎(染五郎)、遊女の吾妻(高麗蔵。与五郎と恋仲)、都(芝雀。与兵衛と恋仲)が料亭「浮無瀬」で昼間から酒宴を開いている。幇間と番頭は、揃って、下手に入る。花道より、いまは、笛売りをしている南与兵衛(なん・よへい。染五郎)が登場。柄の長い赤い大きな傘の縁に鳥などの形をした多数の笛をぶら下げている。南与兵衛は、八幡の郷代官の息子なのだが、後妻を迎えた父親への反発か家を飛び出し、大坂で与五郎らと遊んでいて、いまは、笛売り(フリーターのアルバイトか)をしている。

与五郎と与兵衛は、いまなら、社長の息子と役人の息子として、山崎、八幡という田舎町的な地域で知り合い、山間部にあるコミュニティの閉塞感に耐えられず、大都会の大坂に出てきて、クラブのホステスたちと遊んでいるというところか。与兵衛も都を身請けしたいと思っているが金がない。今回は、染五郎がふた役早替りで与五郎と南与兵衛を演じ分けるのも、歌舞伎ならではの趣向。人形浄瑠璃では、できない芸当。

料亭より都(芝雀)が出てきて、「逢いたかった」と、与兵衛に甘える。料亭から吾妻(高麗蔵)の声がしたので、与兵衛は、与五郎に会わせる顔がないと舞台中央の薮の裏に隠れる。吾妻が出て来る。やがて、与五郎(染五郎)が出て来る。染五郎の早替り。与兵衛と与五郎は、草履が違う。笛売りの与兵衛は、帽子を被って★ずた袋を首から下げている。このほか、若旦那の与五郎は羽織を着ている。

そういう衣装の違いでふたりの違いが判る(こうした小道具を替えると早替りがし易いのも判る)が、染五郎のキャラクターでは、ふたりの人物を演じ分けているようには見えにくい。薮の後ろに隠れた時は、「吹き替え(代役)」が演じる与兵衛の足元、後ろ姿などが見える。与五郎は、料亭から仲居を3人連れている。やがて、与五郎は料亭に戻る。薮の後ろから後ろ姿のまま、与兵衛が出てきて、正面を向くと染五郎だ。こういう仕掛けで、染五郎は、与兵衛と与五郎を早替りして演じ分ける。

下手から、平岡郷左衛門(錦吾)という侍が仲間の三原有右衛門と一緒に出て来る。通称「二人侍」。吾妻を身請けしようとして対応策を話し合っている。清水観音の石段を上ろうとしていた与兵衛は、石段の上で二人侍のヒソヒソ話に聞き耳をたてている。

平岡郷左衛門らが、山崎屋の番頭と幇間が仕組んだ贋小判を与五郎が使ったと言いがかりをつけに来る。与兵衛が与五郎を助ける。ここも、先程同様の仕掛けで、早替り。贋小判の計略露見をおそれて幇間と番頭は郷左衛門らにも協力を求めて、与兵衛殺しを計画する。

番頭のこうした動きから推測すると、西国街道の山崎宿に本拠地がある山崎屋は、大坂の市内に支店でもあるのかもしれない。いまなら、山崎のある長岡京市辺りは、京阪電車に乗って大阪のオフィースに通う通勤圏だろうが、当時は、山崎から渡し舟で淀川対岸の橋本に渡り、京街道を枚方宿、守口宿を経て、大坂の京橋に辿り着き、大坂市内の店まで行くわけだから、日帰りということはないだろう。そうだとすると、若旦那の与五郎は支店長(あるいは、名前ばかりの支店長か)で、番頭は総務部長か営業部長というところだろうか。無業のまま、若旦那は田舎から大都会に出てきて遊んでいるだけか。商売そっちのけで、遊び回っている若旦那の支店長を陥れようと部長は、金の管理を含めていいように支店を仕切っているのかもしれない。

舞台は、場面展開。書割が舞台上手と下手にそれぞれ曳かれ、さらに大道具が廻って、清水観音の舞台の上にある本堂が現れる。舞台には、与兵衛(染五郎)が一人で立っている。静止した清水の舞台の手前は、満開の桜である。舞台は、桜の木の上に見えるという設定だ。与兵衛は舞台で幇間ら3人(ふたりは幇間が呼び入れたならず者)に襲われるが、与兵衛は弾みで幇間(宗之助)を殺してしまう。さらに平岡郷左衛門ら「二人侍」が与兵衛を襲う。侍のひとりが舞台に置いてあった与兵衛の傘を武器にしている。

与兵衛は、傘を取り戻し、郷左衛門らと立ち回りになるが、劣勢と見て与兵衛は傘を差しかけたまま、ふわりと清水の舞台から飛び降りる。実際の大道具の段差はそれほどない。舞台手前にある満開の桜の大道具の後ろで、本舞台の床に降りた染五郎に黒衣が「宙乗り」用のフックを付けると清水観音の舞台が大せりに載ってせり上がって来る。舞台手前にあった桜の大道具(引き道具)は、上手と下手にそれぞれ曳かれて行く。傘を差したままの与兵衛は、せり上がる清水の舞台と共にワイヤーで吊りあげられ、舞台の上手下手へと「宙乗り」のまま遊泳する。天井近くの一文字幕の辺りまで昇る。やがて、与兵衛は本舞台に着地をし、黒衣にフックを外してもらい、花道へと逃げて行くと、幕。この場面での「宙乗り」は初めて観たが、このような飛び降りの場面を以前に観た記憶がある。どの「清水の舞台」で観たのだろうか。

贅言;今回は、大坂の「清水観音(新清水)」が舞台だが、「新清水」と言えば、京の清水寺や江戸の新清水寺。歌舞伎では、「新清水花見の場」。「新薄雪物語」や「桜姫東文章」などの冒頭の場面が知られている。いろいろな演目に出て来るさまざまな「清水の舞台」を私は、8回観ている。

2)歌舞伎と人形浄瑠璃で、演出が違う。歌舞伎の「角力小屋の場」(角力場)と人形浄瑠璃の「堀江相撲場の段」。歌舞伎が、役者の魅力を十分に引き出そうと、人形浄瑠璃にはない「入れごと」という歌舞伎独自の演出で膨らませているのが、ここのポイント。

山崎屋の若旦那・与五郎(染五郎)が、新町の遊女・吾妻(高麗蔵)と相愛の仲になっている。与五郎は、上方歌舞伎の和事の役柄で、「つっころばし」という異名がある人物造形が、見どころ。「ちょっと突けば、転びそうな柔弱な優男、ぼうとした、とぼけた若旦那」、濡事師である。柔弱ゆえに、恋は盲目で、遊女とともに、明日なき恋路を無軌道に突っ走るが、ここでは、長五郎・長吉の対立劇の脇を埋めるチャリ場(笑劇)の主役を演じる。

上方での相撲興行は、1702(元禄15)年、大坂の南堀江(難波の西)で勧進興行が催されたのが発祥と言われる(南堀江公園には、「大坂勧進相撲発祥の地」という幟が立っているという。江戸・東京と大坂・大阪では、昭和初期まで相撲興行がふたつに分れていた)。「堀江」は、大坂相撲所縁の地。

人形浄瑠璃では、冒頭から取り組みは無し。相撲の取り組みも終わったという設定で、相撲小屋の木戸口から濡髪が姿を見せる。人形浄瑠璃の芝居進行は、歌舞伎とはちょっと違う。早々と濡髪は、小屋から出てくるし、放駒も、小屋の下手にお休み所から、出てくる。それぞれが交渉の代理役を務める遊女・吾妻の身請け話を濡髪が早速切り出す。吾妻については、濡髪が与五郎派。長吉は、同じく吾妻の身請けを狙う郷左衛門派(「二人侍」のひとり)となっている。相撲と遊女の身請け争いの代理というふたりの達引が、ベースとなる場面。人形浄瑠璃のシンプルな演出の方が、本来の原型なのだろう。

人形浄瑠璃の舞台上手には、相撲の小屋掛けがある。相撲取りへの贔屓筋からの幟が、6本(濡髪長五郎、放駒長吉には、2本ずつ。ほかの名前が、あわせて2本。いずれも、「ひいき寄り」とある。「寄り」とは、相撲の勝ち手「寄り切り」を連想させて、ゲンが良い。小屋の入口横には、取り組みを示す12組のビラ(上段6枚、下段6枚だが、どういう順番なのか。上段の最後が、山響対陣幕。下段の最後が、濡髪対放駒と書いてある。上段と下段の間が、中入りの区切りか。下段の最後が結びの一番なのだろう。というのは、下段にある濡髪たちの取り組みを書いた張り紙の上手にある張り紙は、剛栄道対白鳳山(豪栄道対白鵬? 人形浄瑠璃の演出の遊び?)とあり、剛栄道も白鳳山も名前を書いた幟が、相撲小屋にもかかげられているから、濡髪と放駒に並ぶ力士なのだろう。舞台下手のお休み所。上手に向かって柳、背景は堀江の運河。人形浄瑠璃では、この場面では、与五郎はまったく出てこない。出て来る人形は、濡髪長五郎、放駒長吉のほかは、茶屋の亭主のみ。

歌舞伎では、冒頭、大勢の客が小屋(木戸、取り組みの貼紙、5本の幟など、人形浄瑠璃とほぼ似ている)に入り込む場面が丹念に描かれる(客が小屋の木戸から入った後、舞台裏を廻って、舞台上手、下手から再び入り直しているのだろう。やがて、「客留」の紙が貼られて木戸が閉まる。遅れてきて小屋の中には入れず隙間から中を覗こうとする連中がいる。茶店の亭主も覗き込む。相撲の取り組みが始まり、歓声が聞こえてくる。地元「堀江町」推薦、セミプロの相撲取りの放駒が勝ち、観客たちは「長吉勝った、長吉勝った」と大喜びで出てくる(先程同様に観客はグルグル回る)……、という場面になる。暫くしてから、負けた濡髪(幸四郎)が、角力小屋の木戸口から現れる。歌舞伎の角力小屋の幟。「濡髪関江 堂島ひいきより」「勧進元さん江 ひゐきより」「放駒関江 堀江ひいきより」とあった。なぜか、「ひいき」と「ひゐき」という表記が混在していた。地元堀江を強調しているのが、判る。

与五郎を演じた染五郎は、喜劇的な役柄でチャリ場の上方味を出していた。贔屓の濡髪を茶屋の亭主にほめられて、金、煙草入れ、紙入れなどの持ち物や羽織を脱いで次々と上げてしまう件(くだり)や、亭主とふたりで長五郎の大きな褞袍(どてら)を着てみせる(いわば、「二人褞袍」か)場面などの笑劇は、印象に残る。

上方育ちでもない染五郎は、上方歌舞伎の典型的な「つっころばし」を好演していた。与五郎は、濡髪から肩を叩かれると、崩れ落ちる。「なんじゃい、なんじゃい、なんじゃい」。与五郎の弱さが、濡髪の強さを浮かび上がらせる。このほかにも、何度もつっころばされては、場内の笑いを巧みに誘っていた。今回は、さらに、染五郎は、与五郎から放駒にふた役早替りを見せてくれる。茶屋の亭主とふたりで長五郎の大きな褞袍を着て花道から引っ込んだ後、長五郎に呼び出されたという設定の放駒になって、花道から再び登場し、長五郎の所へ駆けつける。

そう、与五郎は、軟弱息子で、一人で立っていられないような青年だ。与兵衛は「若い頃」は与五郎同様に身を持ち崩していた無軌道な青年だったが、「成人」して、新しい殿様のお眼鏡にも適い、父親が勤めていた代官の職位に十次兵衛として復帰した(但し、芝居では、序幕と四幕目には、そういう時間経過は曖昧なままのようだ。同じ時空で演じているようだ)のに対して、与五郎は、吾妻を身請けした後も、妻のお照と妻妾同居の生活に甘んじる放蕩息子のままだ。軟弱ゆえに、与兵衛は、与五郎を見捨てられなかったのかもしれない。与五郎が、「兄貴、兄貴」と、与兵衛にまとわりついている様が、目に浮かんでくる。染五郎は、与兵衛(家出息子) → 与五郎(若旦那。「つっころばし」) → 放駒(相撲取り)→ 十次兵衛(裁き役。与兵衛、後に、代官・十次兵衛となる)へと役柄が替わる。それぞれが、キャラクターの違う人物に見えなければならない。なかなか難かしい役どころ。染五郎も同じ公演で、この3役を演じ分けるのは初めてという。

放駒長吉の登場で、歌舞伎、人形浄瑠璃とも吾妻の身請けに絡み、勝手に勝を譲った濡髪長五郎に怒りをぶつける放駒長吉の物語となる。相撲取りが八百長相撲で勝を譲られたとなれば、放駒が怒るのは当然、ふたりは喧嘩別れをする。長五郎と長吉の達引(たてひき)は、「角力場(相撲場)」から、「米屋」に持ち越される。

歌舞伎では、喧嘩別れの前に、湯呑茶碗を握り潰す濡髪の実力を見せる。握り潰せない放駒。プロとアマの力の差を見せつける濡髪の態度にも、ますます怒りを強める放駒。長五郎と長吉の物語だから、外題のように「双蝶々(長・長)」で、「ふたつちょうちょう」なのである。「曲輪日記」は、「曲輪」、遊廓。遊女の都や吾妻に関わる新町遊廓の「日記(クロニクル)」というわけだ。

3)通称「米屋」は、歌舞伎も人形浄瑠璃もほぼ同じ。歌舞伎の「大宝寺町米屋の場」。大宝寺町は、いまの島之内・心斎橋の辺り。両親が死に、姉と弟の長吉で営む米屋。長五郎と長吉の間で、相撲の技や米俵を巧みに使った立ち回りが、演じられる。その後、戻ってきた姉のおせき(魁春。人形浄瑠璃は、「お関」)は、同行衆(地域の信仰仲間)の協力を得て弟に濡衣を着せる一芝居を企んでまで、弟を改心させようとする。おせきを初役で演じた魁春は、母親、女房、妹には見えないように苦労したという。「達引」のため長吉から呼び出され店に居合わせていた長五郎は、蔭で姉弟のやり取りを聞いて長吉に意見をする。その上で放駒長吉が盗みをするとは思えぬという長五郎。喧嘩の続きをしに来たはずの、喧嘩相手の長五郎にここまで言われて、長吉は、改心する。モドリ(悪人や対立する人物が善人に戻る)というパターン。長五郎、長吉は、これ以降、終生の義兄弟となるなど、人形浄瑠璃とほぼ同じ展開で演じられる。そこへ、吾妻と与五郎が郷左衛門らに難波裏で見つかり、騒動になっているという知らせが長吉の仲間から届く。長五郎は、与五郎らをを助けるために難波裏へと駆け出す。

「米屋」の場面で、長五郎、長吉が相撲を取る立ち回りは、「双蝶々曲輪日記」初演より、2年前の夏に上演された「菅原伝授手習鑑」の三段目「佐太村(賀の祝い)」の、松王丸と梅王丸の喧嘩の場面そっくりに再現されている。人形浄瑠璃も、歌舞伎も立ち回りの場面は同じようなものだった。歌舞伎では、濡髪が持つ米俵が放駒の刀で斬りつけられて、俵から米がこぼれ出る場面(人形浄瑠璃には、無い)が付加されていた。

人形浄瑠璃の「大宝寺町米屋の段」。竹本の語りで「我が子の様に弟を思ふは姉の習ひなり」とあるように、姉は、地域の人たち(同行衆)の協力も得て、弟に盗みの濡衣を着せる一芝居を企んでまで、弟を改心させようとする。長吉に意見をする場面が、歌舞伎よりもこってり描かれる。人形浄瑠璃の見どころの一つ。姉が弟に着せる「濡れ衣」劇の、ごたごたで、同行衆のひとり、尼僧の妙林の頭巾が取れると、コブが出来ていて、観客席の笑いを誘う場面がある(歌舞伎でも尼僧が出てくるが頭巾は取らないから、歌舞伎には、無い場面)。コブ付きの「首(かしら)」ゆえに、この首は「妙林」と言い、この場面にしか使われない。

4)殺し場。歌舞伎では、「難波芝居裏殺しの場」。「殺し場」は、「双蝶々曲輪日記」の4年前に初演された「夏祭浪花鑑」の「長町裏」という殺し場に似ているというので、初演時は、不評だったという。人形浄瑠璃では、「難波裏喧嘩の段」と、微妙に表記が違う。「殺し場」は、「仮名手本忠臣蔵」の「五段目」のようなシンプルな大道具。背景の黒幕の前に、稲藁干しの棚と薮。黒幕の背景に月が出たり、月が隠れて「だんまり」(パントマイム)になったりした後、「二人侍」は闇の中で相打ちとなる。苦しむふたりに長五郎はとどめを刺す。いわば、幇助罪。

黒幕が振り落とされて、七つの鐘の音とともに、夜明けになる。この場面の書割は、上手奥に「今宮天王寺」あたりの芝居小屋の遠見の景色が描かれている。数本の幟がはためき、正面に櫓を掲げた2棟の芝居小屋が遠望され、風に載って本当に黒御簾の鳴物が聞こえてきそうな場所である。江戸時代には芝居は夜明けと共に開演された。

闇の中で相打ちになった「二人侍」のとどめを刺して、人を殺したとことに責任を感じた長五郎は切腹しようとするが、駆けつけた長吉が止めて、長五郎に逃げるようにと勧める。吾妻と与五郎は、自分が預かるから心配ないと長吉は言う。長五郎は、手拭いで顔を隠し、「引窓」の舞台となる実母の再婚先の八幡の里(いまの京都府八幡市)へと逃げ延びて行く。つまり、ここからは、濡髪長五郎の物語として展開される。ここまでは、舞台はいずれも大坂の難波周辺、つまり、ミナミの各地だった。以下、京都に移る。

5)あまり演じられない愁嘆場。人形浄瑠璃だけで観た「橋本の段」。私は歌舞伎では、この場面は観たことがない。これは、3人の父親たちの物語。与五郎、吾妻(愛人)、お照(妻)・治部右衛門(お照の実父)、与次兵衛(与五郎の実父)、甚兵衛(吾妻の実父)。3人の子どもたち(息子ひとりに娘ふたり)と老爺3人。3人の老け役が、ほぼ同等の格の立役とならなければならない。歌舞伎では3人も揃いにくいのも、上演が稀な原因の一つだろう。

与五郎の妻・お照の実家。お照は、夫の身持ちの悪さを心配した父親によって西国街道の山崎から淀川の対岸、京街道の橋本の実家に連れ戻されている。そこへ、駕籠が届く。狭い駕籠の中には、吾妻と与五郎が、仲良く差し向かいで乗っている。「相輿(あいごし)」という駕籠の乗り方。自己中心性の与五郎は、吾妻を連れてきたことを嘆くお照の気持ちも斟酌せず、自分たちの窮状を訴えて、吾妻を連れて「関破り」(廓抜け)をしてきたので匿って欲しいと言う。実家を頼らずに妻のいる実家に来たのだ。与五郎のことを父親に言えば叱られるので、吾妻だけなら匿うとお照は言う。

それを奥で聞いていた父親の治部右衛門は、ふたりを匿ってやるが、その見返りに、お照への離縁状を書けと与五郎に要求する。お照が、与五郎と別れたくないために吾妻を匿ったと誤解されたくないと言う。仕方なく与五郎は、離縁状を書く。吾妻は、それを取り上げ、自分が預かるという。女同士の情。お照の気持ちを忖度している。

そこへ、与五郎の父親・豪商山崎屋の主・与次兵衛が訪ねてくる。嫁のお照を迎えに来たのだ。ふたりの父親は、皆を奥に追いやって、お照の今後についてふたりだけで談判する。口論の果に脇差を抜き合う。吾妻と与五郎を乗せてきた駕籠かきの甚兵衛が、何故か外で家うちの様子を見ていたが、老父同士の刃物沙汰を見て仲裁に入る。「自分が吾妻に意見して、身を引かせる」と言うではないか。

奥から出て来た吾妻に甚兵衛は、「お豊」と声を掛ける。甚兵衛は、幼い時に生き別れした吾妻の実父だったのだ。お豊は、吾妻の実名。父親は、親の情を全面に出して(封建的な、余りに封建的な!)、身勝手にも吾妻に身を引かせようとする。与五郎を見捨てられないからと、自害しようとする吾妻。お照の父親・治部右衛門が、飛び出して来て、子を思う親の気持ちは、皆、ひとつ、重宝の刀を売って、自分が吾妻を身請けする金を作る、と言う。金ならあるはずの与五郎の父親・豪商山崎屋の与次兵衛は、頭を丸めて出家の姿で奥から出てくる。与五郎のためにお照の実家に負担を掛けて、申し訳ないというのだ。

封建時代の解決策は、お照を本妻に、吾妻を妾にして、妻妾同居というアイデアだった。与五郎は、吾妻と「相輿(あいごし)」、つまり駕籠に同乗して来て(簾を上げると場内から笑い声)、お照への離縁状を書かされただけで、奥に引き込んだまま、何の役にも立たない。この無能ぶり? 全て親がかりの軟弱息子か。つっころばしの与五郎。芝居の中でも、存在感が薄い。いつまでも、妻妾同居生活なのか。いまなら、「ニート」、無業のふたりの老後は、などと考えてしまうが、老婆心? 余計なお世話。それにしても、与兵衛は、何故、与五郎と親友になったのだろうか。

橋本(いまの京都府八幡市)は、お照の実家のある所。つまり、橋本宿は京街道の淀宿と枚方宿の間にある遊郭を備えた「間(あい)の宿」(副次的な宿場)という位置づけだった。お照が嫁いだ与五郎の家のある山崎(いまの京都府長岡京市)は、京と西国を結ぶ西国街道の宿場。山崎と橋本の間の淀川には「渡し」があり、対岸と舟で行き来することができた。与五郎やお照らは、山崎と橋本を往復するために淀川を越えるのに、この渡しを利用したことだろう。京街道を橋本から京都方面に向かうと郷代官(10回目を観る「引窓」の場面を前に、俄かに浮かんできたのが、郷代官とは西部劇の保安官のイメージかということ)・南方十次兵衛(南与兵衛)の家がある八幡(淀川を挟んで天王山と対置する男山にある石清水(いわしみず)八幡宮の門前町。いまの京都府八幡市)がある。八幡の与兵衛と山崎の与五郎とは、若い頃、橋本で落ち合い、橋本の遊廓で女遊びを覚えながら、交流を深めたのかもしれない。

6)良く演じられる愁嘆場。通称「引窓」。歌舞伎も「八幡の里引窓の場」。人形浄瑠璃も「八幡里引窓の段」という。日本三大八幡宮(大分の宇佐神宮、京都の石清水八幡宮、3番目は福岡の筥崎(はこざき)宮、あるいは、鎌倉の鶴岡八幡宮)のひとつ、「やわたのはちまんさん」(里からの標高差が、80メートル程の男山にある)で知られる。歌舞伎で「引窓」を観るのは、私は10回目。

八幡の里は、近くにある石清水八幡宮の門前町。時は、陰暦の八月十五日。八幡宮恒例の「放生会」(殺生を戒めるために、生き物を放してやる儀式)が盛大に行なわれる中秋の名月の前夜、「待宵」。人を殺して逃げてきた濡髪長五郎は実母が後妻に入った先の南(南方)方に実母を訪ねて来る。大坂から京街道を上って来たことだろう。「待宵」とあって門前町を賑わす大勢の人々の人目を避けるように、頬被りをし、茣蓙で身を隠してやってきた。

「引窓」は、優れて心理劇という近代性を持っていたため、江戸時代には、あまり上演されなかった。「角力場」、「米屋」の二幕が良く上演された。いわば、早く来過ぎた芝居というわけだ。長らく演じられなかった場面だが、1896(明治29)年に初代鴈治郎によって復活上演され、1926(大正15)年には、初代吉右衛門によって工夫を重ねられて、いま、上演されるような形に心理劇としても洗練された。

歌舞伎も人形浄瑠璃も大筋同じだが、与兵衛が、郷代官に任命された様子を仕方話で演じる場面は、歌舞伎の「入れごと」。与兵衛が、家族らとのやり取りの中で、町人(南与兵衛)と武士(南方十次兵衛)を世話(町人)と時代(武士)の科白も含めて演じ分けるのも見どころ。

南与兵衛、後に、南方十次兵衛は、領主の交代で、父親の代まで勤めて来て、父親の死後,空席となっていた郷代官を世襲することがやっと認められて、南与兵衛(なん・よへい)も南方十次兵衛(みなみかた・じゅうじべい)という家代々の名前を襲名することになった。舞台は、その晩の話である。

新清水の場面で、親友の与五郎のために、幇間を殺して逃げておきながら代官に就任する与兵衛。難波裏の場面で、郷左衛門の身請けを嫌う与五郎と吾妻を助けようとして、郷左衛門ら「二人侍」にとどめを刺して逃げ、侍殺しのゆえか、人相書きを持った追手に追われている長五郎。

難波から八幡までは、北東に直線距離で30キロから40キロぐらいか。人相書きの長五郎が継母の息子だったと判り、長五郎を逃がす。与兵衛が、父親の職位と名前を引き継いで十次兵衛に生まれ変わった日の夜半から未明、義理の弟の長五郎も逃げ切り、生まれ変われと、逃亡の手伝いをすることになる。石清水八幡宮の「放生会」の日。お早は、「昨日今日までは八幡の町の町人。生兵法大疵の基」と代官面をしないようにと夫・与兵衛をたしなめる。義母と嫁は共同戦線を張る。与兵衛らは、義理の弟を生かすために、逃がす。「引窓」とは、そういう芝居である。お早は、元々大坂・新町遊廓の遊女・都だから、町家の主婦にまだ馴染まない、節々に色香も残している。お早を演じた芝雀は、父親の雀右衛門をなぞるように演じていた。

義理の兄の南方十次兵衛が義理の弟の長五郎に大坂の河内に向かう逃走ルートを教えるときの科白。室内では、「河内へ越ゆる抜け道は、狐川を左に取り、右へ渡つて山越え(し)に、右へ渡つて山越え(し)に」。その後、南方十次兵衛は、外に出ると、声を張り上げて、「長五郎はいずれにあるや」と、聞こえよがしに大声を出す。

「八幡狐川」という地名が、京都府八幡市には、いまも本当にある。いまなら、八幡市から府道13号線を左に曲がり、北上し、木津川、宇治川に架かる御幸橋を渡り、右へカーブする辺り、宇治川と桂川に挟まれた辺りが、「八幡狐川」である。北側にある桂川に大山崎方面から流れ込む小泉川の別名が、かつては狐川と言ったと伝えられている。小泉川の河口の泥ケ浜にあった渡しが「きつねの渡し」と呼ばれたとか。京都寄りには、淀宿(いまの京都市伏見区。城下町であり、宿場町であった)がある。大坂・東部の河内方面に行くには、逆方向であるが、芝居の科白通り、狐川(いまの小泉川)を「左に取り」(つまり、右に見て)、川の上流へと遡上し、右岸に沿って道なりに「右へ渡つて山越え」をする。その上で南下(いまの大阪府の島本町辺り)すると河内方面に向かえるという。標高270メートルの天王山の北方を廻る感じだ。

八幡宿の隣の橋本から大坂寄りの楠葉方面の京街道は、長五郎に殺された郷左衛門の兄と仲間の有右衛門の弟のふたりが、南方十次兵衛の助言に基づいて長五郎の人相書きを配りながら「詮議」に向かっているので、京街道を行くことは止めて、難儀でも山越えをしろと密かに伝えているのだろう。

こうやって、「山崎」(東海道新幹線の車窓からもお馴染みの通り、いまはウイスキー工場がある場所として知られている)、「八幡」(石清水八幡宮で知られる)、「橋本」という狭隘な山間部を流れる淀川両岸にある集落、これらと京街道で繋がる大坂という大都会。こういう地理関係、歴史事情、経済などの要素を調べながら、「時空を超えて苦闘する若者たち」の姿を思い浮かべ、加えていまを生きる役者たちが作り上げた舞台を思うと感慨深いものがある。

若者たちは、どうなったか、というと…。与兵衛は、遊女・都をしっかりと身請けし(身請けの金は、どう工面したのか)、亡き父親の郷代官職を継いで、役人・南方十次兵衛として社会人の仲間入りをした。笛売り(フリーターか)、幇間殺しで逃亡したにもかかわらず、実家に戻り、その後、役人へ。与兵衛に身請けされて、結婚した都は、郷代官の女房になった。遊女から女房へ。ふたりは夫婦愛を育む。長吉は、姉を助けながら家業の米屋に専念することになった。

米屋上がりのアマチュア力士から米屋専業へ。3人は社会復帰。長五郎は、与五郎と吾妻を助けようとして、吾妻にご執心だった侍らを殺し、逃亡犯として追われる身だ。プロの力士から殺人逃亡犯へ。荒野を歩き続けている(最後は、捕縛となる)。実家には金があるはずの与五郎は、吾妻を身請けしないまま「廓抜け」して、こちらも荒野を逃げてきたが、父親たちが身請けの金を払ってくれて、実家の山崎で、妻妾同居の、放蕩若旦那のままの生活をしている。与五郎は、最後まで甘やかされたままだ。吾妻は、遊女から妾へ。ふたりとも、「無業」のままで、社会復帰とは言えないだろう。

こうして、いまの舞台であっても、じっと凝視していると、遠い時空を超えて、江戸時代から発信された、現代の世相に通じるメッセージが、私には透けて視えてくる。265年前の原作者(合作者のうち、二代目竹田出雲は大坂の人、三好松洛は松山の人、並木宗輔は、備後(いまの広島県三原の人)を含む芝居者たちが、いかに京都の山峡の地の地理などファクトを詳細に調べ上げ、名場面作りでは先行作品(但し、ほとんど自分たちの作品)を下敷きにしながら、舞台装置(大道具)の新たな「工夫魂胆」も取り入れて、演劇的工夫も重ねて、得意の作劇術に磨きをかけながら執筆したかが、良く判るような気がする。

(筆者はジャーナリスト、元NHK記者、元日本ペンクラブ理事)


最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧