【視点】

衆院選に見る「安定志向」

――変革の芽を摘まないために
羽原 清雅

 2021年10月の衆院選は、自民党の安定多数確保、立憲民主党など野党共闘の後退を印象付けて、事前の予想を覆す結果に終わった。
 議席減を織り込み済みとしていた自民党は、予想以上の善戦で岸田政権を持続させた。立憲民主党は、政権獲得の夢を語りつつも、足が地についていない実態をさらした。

 安倍・菅・岸田の3代にわたる政権が継続することになった背景として感じるのは、民意は「安定」を選んだ、という点である。だが、「安定」には「惰性」の側面がある。「惰性」には、「改革・変革」を怠り、忘れがちになるリスクがあり、その状態が続けば、社会は前進しなくなる。

 安倍政権は、国会を軸とする民主主義の原点を揺るがす森友、加計、桜などのいい加減な対応のみならず、歴史や反省を残そうとしない公文書の扱い、国民に語るべき場である議会答弁のいかがわしさなどの「けがれ」を見せ続けた。菅政権は「国民のために働く」と、言わずもがなの政治の大前提を語ったが、国の長期的なあるべき姿については語らなかった。そして岸田政権は、総裁選、衆院選を通じて、一旦は口に出した政治的目標、政策を相次いで後退させた。
 この「安定」にくつろいでいいのだろうか。

 各首相のこれらの姿勢は、「安定」の裏側にあるマイナスの要素が強い。「安定」には二面性があり、この負の部分を見落としてはならない。為すべき課題や迷いの多い国内事情、世界に後れを取りつつある現実などを見ると、短視的な安定にあぐらをかくゆとりなどはない。
 併せて、「安定」に続く社会がどのように展開されるか、という長期的な姿勢も身についていない。視野が狭く、目前の利害ばかりにとらわれる「安定」ではなく、政治には<長期的にあるべき社会とは何か>という視点が求められなければなるまい。

 明22年7月の参院選に向けて、政局はどのように動いていくのか。不安の幕開けでもある。

 <選挙制度の問題> まず、今回の衆院選での、各政党の得票率と獲得した議席数を見ておこう。自民党は、小選挙区では48%の得票率にもかかわらず、議席数では65%もの議席を配分され、比例区でも35%弱の得票率で41%の議席を握った。民主主義という以上、各政党が勝ち取った得票率に従って議席を持つべきだが、自民党の場合、公平公正に言うなら201議席の配分を受けるべきところ、261議席という60議席も多い配分を受けている。

 立憲民主党の場合、小選挙区で30%の得票率ながら20%の議席にとどまり、比例区では得票率と議席の配分は近い数字ながら、それでも20%の得票率で22%の議席配分を受けている。まっとうなら、122議席の配分を受けるところだが、実際は96議席で、26議席少ない配分になっている。
 同じ手法で言うと、共産党は得票率通りに配分するとすれば、16議席少ない。維新の会も7議席、れいわ新撰組は5議席、国民民主党は3議席増えなければならず、逆に公明党は5議席を減らすことになる。

画像の説明

 このように、「二大政党による安定政権」をつくるためという制度によって、大政党は実際の得票よりもはるかに多い配分を受けて、有権者の声に謙虚に耳を傾けようとしない「一強政治」を続けている。野党の実力に問題はあろうが、数字の上からすれば、おかしな民主主義の形を生んでいることになる。

 小選挙区比例代表並列制による衆院選は9回続いた。制度が定着していることは認めざるを得ないのだが、しかし、その矛盾が政治のありようを歪め、有権者の意思を的確に投影していない現実に目を向けないわけにはいかない。ゆがんだ国政の決定が長く続き、あるべき方向から遠ざかる「一強政治」を批判しながら、その拠ってくる選挙システムに目を向けようとしないメディアをはじめ、政界、学界などは歴史的に責任を問われざるを得ないだろう。
 せめて、この制度でいいのだ、という論理くらいは聞きたいものである。

 今回の衆院選での得票率と議席数を上の表に示したが、各政党の得票率が衆院の議席の数に反映されず、結果的に大政党が実態以上の数を握り、議会運営、政策決定、論議のありようなどに発言権を持って、非民主的ともいえる方向に動かすことになっている。20年近い施政下でのメリットも勿論あるが、一方でマイナス面も少なくなかったことは、日常の報道に示されている。ここでは具体的に触れるまでもあるまい。

 各政党の得票数に従って、純粋に議席数が決められていない以上、二大政党化による政局の安定といった「神話」的言動を、教条的に受け入れるわけにはいかない。
 社会の複雑化、多様化に伴って、民意も多様になるのは当然である。政治による社会の方向付けも容易ではなく、より多くの意見を求め、反対の意見には極力説得、納得のプロセスを持たなければならなくなっている。
 二大政党化の「神話」は、すでに形骸化、崩壊化してきている。現に、維新の会の台頭、国民民主党の維持状態など、大小8党もの政党が消えることなく、持続している現実がこのことを裏付けてもいる。

 自民党が、その権力基盤に根差し、地域社会を組織的に捉え、存在感を示しつつ政権維持に結束を見せる姿は、政党として確立されたすごさがある。しかし、一方で多くの意見に配慮するよりも、一定方向に向く政治家を集め「数」によって狭い方向に権力を行使する権力者が跳梁するというマイナス面も強まっている。対する野党は、権力批判も当然必要ながら、地に足を着けたような説得力ある政策的な提言が乏しい。

 権力に追従して、おこぼれを待ち、内部批判の弱まる政党も出る。あるいは、政党として小型にすぎ、社会をトータルにカバーしきれない政党もある。多様な意見の存在や論議のプロセスを見せない政党もある。
 それぞれの可もあり、不可もあるのが政党である以上やむを得ないが、政治家個人として組織に従属するだけではなく、政党として決定に至るまでは個々の持論を展開できるほどの力量ある政治家を生み出してほしい。

 <民主主義の底流> 衆院選の論点を見るとき、各政党とも論議を深めただろうか。表層をなぜるだけで済ませていなかったか。長期的に課題を打開する方向で論議をしただろうか。
 政権の長期化に伴って、自民党が鮮度凋落、狭隘化、マンネリ化していくことに慣れてしまい、謙虚に脱皮していくことを忘れてしまう一面がある。今回の選挙での、思わぬ“健闘ぶり”はさらにそうした傾向を強める可能性がある。

 たとえば・・・
 国会―臨時国会開催の野党の要求は、一強の自民党によって黙殺された。国会での首相答弁に百数十ヵ所もの虚偽がありながら、放置された。将来につなぐ公文書類の隠ぺい、改ざん、未記載などがあった。こうしたことは、民主主義を揺るがす事態だが、「安定」志向のなかで改善策が十分に取られなかった。また、その論議もされることがなかった。

 コロナ禍―ワクチン導入の遅れ、手配のまずさ、無駄に巨費を浪費したアベノマスク、不足した医療関係者と医療施設など、対応の遅れが病死者らを拡大した現実。だが、公約でこそ今後の対応が語られたが、具体策は講じられたのか。選挙直前、急激に感染者が減少したことで、これ幸いとばかりに、課題をネグレクトしてはいなかったか。

 経済政策―新しい資本主義、とは何か。岸田首相の打ち出した新施策であるが、内容がわからない。生産と分配という言葉のみが踊って、具体策は示されることはなかった。政権掌握早々であって無理、とはいえ、総裁選以前に練ろうとはしなかったのか。
 岸田首相の発言を追うと、選挙公約から消えたものが多い。「健康危機管理庁の創設」「令和版所得倍増」「金融所得課税の強化」、「子ども庁の検討」、さらに言うなら「森友問題の公文書改ざんの再調査」などは消え、「選択的夫婦別姓制度実現議連」の呼びかけ人ながら、この制度に反対を表明、LGBT(性的マイノリティ)への理解増進法案にも反対、などの言動不一致も目立った。
 国民に対応する選挙の取り組みとしては、不誠実であり、準備不足というだけでは済まされない。コロコロ変わる政策言及や姿勢は、「政権取り」だけの便法であったのか。

 安全保障―近隣諸国との関係について、政党は「緊迫」を強調して、軍事化の必要を説く。だが、本来必要な日常的な外交努力の影が薄れ、軍事力の強化に走りすぎていないか。 近隣諸国それぞれの風習や習俗、歴史、宗教や文化、衣食住の生活様式、ものの考え方など、互いの違いを理解し、共通点を共有し、相互理解を高める。その日常性が薄らいでいないか。このような民間を含めた相互交流のうえに外交を築く、そんな努力はなされているか。
 軍事というものは、外交を前面に立てて一歩下がり、本来の「緊迫」に備えればいい。軍事が外交の前に出っ張ることは、「緊迫」を増すことになる。昨今の日本の政治は、軍事を前面に押し出してはいないか。相手を知らずして、知る努力も怠って、「軍事」を弄んではいないか。

 学術・教育―菅政権の日本学術会議問題に象徴されるように、日本の政治は学術、とくに社会科学系を軽視、排除したがっている。社会科学は、権力が社会のあるべき枠をはみ出さず、マイナス面があればそれを正しつつ、理想に近づけるためにある。自然科学が社会の合理化、発展、前進に役立つ先陣の役割を担う任務とは、異なる使命がある。
 だが、政権は社会科学が口をはさむことを嫌う。また、最近の政治は、基礎科学を軽視し、予算を削減し続けるなど、未来への投資を惜しむ傾向にある。未知の世界を不断に考究することを怠れば、社会の進歩は遅れる。そのことを、政治は、選挙は配慮しているか。政治の、基礎基盤のもろさを物語っている。政治には、この気づきがなく、哀れでさえある。
 学術は、思考や物質の発展の芽だとすれば、教育はこころ、道義、ルールやマナーを育て、社会規範に寄与する芽でもある。こうした意義を理解しない政治の横行は、人間も文化も社会も停滞させて、未来への夢を削ぐことになるだろう。

 社会状況の一部を取り上げただけではあるが、政治は、選挙は、これらの問題に大きく取り組む姿勢を見せただろうか。選挙は、民主主義の土台であり、社会はその節目に見直してみる恰好な場である。だが、昨今の小さな政治は、この大きな試みに取り組んでいるとは言い難い。
 政権が代えがたい以上、長期に続く政権には、視界をこうした大きく広げることを望みたい。

 <政権を握るということ> 衆院選は政治の刷新、政治権力の交代の機会である。だが、そうはならないところに対抗勢力の非力さがある。対抗勢力の刺激を受けない権力集団は、改革、改善、刷新などを試みようとはせず、権力者の好みに添って狭い範疇をさらに狭め、思考を停止させ、ついには腐敗していく。経済の世界は政治に従属しがちであり、一般大衆も権力の狙いには甘く、政治権力は従属の発想を拡大させる立場にある、と言っても言い過ぎではない。

 刺激と教訓を与えるべき報道などの勢力が機能しなければ、権力は結果的に退廃の道を進み、日本の社会を発展から遠のかせ、いずれ堕落させていく。
 その権力を狙う野党勢力もまた、権力の意味する理解が乏しく、おごりに乗りがちであり、権力に「絶対」はないことをわきまえる権力者はあり得ない、ということであるかもしれない。

 そのようななかで、野党共闘を率いた立憲民主党の枝野幸男代表が引責辞任となった。多数を占める中小企業等の労働者を代表していない連合と、意思決定機能が党幹部の間で閉じこもったままの共産党を結びつけることに挑戦した枝野氏の役割は評価すべきだが、選挙の敗北によって「左傾傾斜」と批判を浴びることになった。
 だが、本来反省すべきは、力量を蓄える努力の乏しいままに、「政権」という重い任務を安直に語りすぎていたことではなかったか。有権者の多様な思いを読めておらず、何を求めようとしているか、あるいは課題を打開する道筋を求めていることにすら気付いていないように見える。

 さらに言うなら、権力者たらんとする以上、日本や国際社会の抱える長期的な課題について先手を取ってものを言うべきだろう。「少子高齢化」は長くいわれていながら、具体的な取り組みに言及していない、地球温暖化や脱炭素化の対応策の分かりやすい提言がない、期待と現状維持の絡む脱原発問題には具体的な論議をせず、中途半端にかわす、まじかに迫る噴火による軽石問題ですら、選挙時点にもかかわらず発言が乏しい・・・・未来に発展を託すこともできず、わびしいではないか。

 今度の選挙に当たって、野党の中軸にある立憲民主党に対して、前号、前々号の「オルタ広場」に書いたことに補足を加えつつ、要約しておこう。

 1>野党の連携も必要だろうが、まず党内の運営ぶりを替える。
 2>まず目標としては、衆院、参院での与野党伯仲の状況をつくること。即政権と言えない姿を有権者は見ている。
 3>勢力拡大のめどをつけられる段階で、野党側の政権として具体的に、何を掲げて政権を目指すか、を国民目線で示す。いっきに政権を取り、ただちに夢のような社会をつくる、などといえば、いよいよ政権から遠のく。単なる「ことば」とはいえ、国民をなめてはならない。
 4>さまざまな障壁の克服への方策とその実現を可能にする力量、まっとうな官僚基盤の活用、日本の置かれた特性のもとに考える対外政策のありよう、などの地道な姿勢を身につける。

 5>万年野党の遠吠えではなく、民主党時代の3代3年の政権挫折の過ちを総括し、具体的に反省する。身内の反省ではなく、外からの反応、受け止め方を知ることが第一。
 6>党外各層の専門家を集めたブレーンシステムを持ち、短期、長期のあるべき内外の政治の姿について侃々諤々の論議を求め、党関係者の知力、判断能力を拡げる。
 7>イデオロギーにとどまらない思考を党内に蓄積し、個々の所属議員の素養を高める。
 8>自民政権にすぐに取って代わるわけにはいかない。自民党的政府の政策や取り組みをよく学び、どの時期までを踏襲し、どうなれば変革の時期が持てるのか、などの検討を進める。

 9>党組織の充実。国民との接触能力を持たない限り、頭数があれば政権が持てるものではない。 (自民党の地縁的後援会、公明党の宗教的一枚岩組織、共産党の同志的結束に学ぶべき。有権者の啓発の機会とその内容、受け止められる以前の自己主張の配慮を)
 10>国からの政治資金を党中央部が使うだけではなく、党幹部は極力、資金集めに努め、地方のネット作りとキャンペーン活動を活性化させる。
 11>週1回、月1回は全ての国会、地方議員が街頭に立つくらいの意欲を見せる。
 12>政権を自民党から引き継ぐ以上、日本の置かれた現状を認識しつつ、本来の主張の実現に向けて徐々に改革していく余裕が必要。国民各層は、突然の急変は望まないから、2段階、3段階の施策の変化対応も必要。

 立憲民主党の枝野氏は選挙中、興奮気味に政権奪取を述べ続けた。だが、有権者はこの党の政権担当の能力を信じてはいなかった。毎回の新聞社による世論調査は、この党の支持率の継続的な伸び悩みを示しており、そこに政権を握るのは無理、との気配を伝えていた。
 党首がガナッても、自民党批判には同調するにしても、政権までの信頼はない。そこに気づいて出直さなければなるまい。要は、アジテーターの弁を聞きたいのではない。自民党政権の「非」の部分を指摘しつつも、有権者の望む点はなにか、を感じ取り、「なにをしようとするのか」をじっくりと説明、納得することが必要だろう。

 政権を握る自民党ばかりではなく、野党各党も、まずは来夏の参院選に向けて、衆院選での反省と教訓をどのように生かすことができるか、そうした点での大きな挑戦が待ち受けている。 (11月4日現在)

 (元朝日新聞政治部長)

(2021.11.20)
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