【沖縄の地鳴り】

行きつく「琉球併合」を再考する
――最近の政府と沖縄の関係への投影

羽原 清雅

 戦前の沖縄と本土との確執を見ていくと、やはり「琉球併合」に行きつかざるを得ない。そんなことから、関係書を読み直してみた。確執はやはり、歴史の中にあった。本土の為政者たちの、沖縄に対する差別感覚が、今日の基地問題の扱いに引き継がれている・・・端的に言えば、そのような印象がわいてきた。

 ところで、表題を「琉球処分」とせずに、「琉球併合」としたのは、これまで長い間「処分」のイメージが胸にストンと落ちてこず、なにかイメージが湧きにくかったのだが、「韓国併合」「台湾併合」、ひいては「満州併合」といえば、わかりやすく、イメージも共通してくることに気づいた。
 簡単に言えば、「処分」とは、当時の明治新政府の公用語をそのまま使ったもので、当時は「併合」という言葉は用いられず、そのまま教科書でも使われ続けてきたのだ、という。  
 研究者はさすがだ、と思った。というのは、石垣出身の波平恒男琉球大学教授(現名誉教授)が著書『近代東アジア史のなかの琉球併合』(岩波書店・2014年刊)のなかで、すっきりと指摘していたのだ。ということで、この稿でも「琉球併合」とした。

*琉球王国の時代 琉球の前史は、各地に実力者が割拠していたが、それは省略する。1429年、尚巴志(第1尚氏王朝)が首里城を構え、島内、奄美、宮古、八重山(石垣)までを統一して「琉球王国」を築いた。明国側のつけた「琉球」の名称を踏襲している。
 すでに、明国との関係は始まっており、中山王の察度の時代に明から招諭使が来琉(1372年)、その年以降に入貢を始め、初の留学生も送ることになった。冊封体制という明とのかかわりはこの時以来、500年に及んだ。
 ちなみに、明国は1368-1644年、清国は1636-1912年の国家だった。

 この小さな島国は、とくに第2尚氏王朝第3代の尚真の時代には、内政としては武器禁止の刀狩りが行われ、外交面では貿易立国として黄金期を迎えていた。明への入貢は171回(村井章介『アジアのなかの中世日本』)だった。
 もっとも、ポルトガルのアジア進出が始まって、16世紀後半から衰退していく。

 日本とは、琉球が1451年に足利将軍に贈り物をし、その後毎年薩摩藩に物品を贈っていた(ティネッロ・マルコ『世界史からみた「琉球処分」』)。島津による琉球制圧以来、徳川家光の1634年から1850年までに慶賀使、謝恩使の派遣が18回程度と、その関係は明と比べると希薄だった。なお、明国との交易には、琉球産の馬や硫黄、織物などのほか、日本の刀剣、武具、あるいは東南アジア産の胡椒、象牙などが持ち込まれた。

*薩摩藩の征服 王国の存在が危ぶまれるのは1609(慶長14)年。薩摩藩の島津家久は、琉球が賦役や、家康への謝恩使派遣などを実行しないことを理由に侵略、征服する。薩摩藩の狙いは、アジア各地に広がった貿易の利益確保だった、とされる。

 武力政策をとらない琉球は、薩摩藩の附庸(従属)国とされ、各地の貢租や厳しい掟を決められて政治、経済を支配された。徳川幕府には琉球使節として謝恩使、慶賀使を送るが、中国側にはその事実を隠して進貢貿易を続けていた。つまり、「日明(清)両属」の関係が続くことになった。
 琉球はその間、17世紀には羽地朝秀、18世紀には蔡温といった中興の祖ともいえる指導者のもとで、それなりの繁栄の時代も築かれていた。

*外国船の来航 19世紀に入ると、帝国主義化する欧米諸国は、中国はじめアジアへの進出を強め、琉球にも外国船が寄港するようになった。日本本土の黒船騒ぎの始まりだ。
 米国東インド艦隊司令長官のペリーは、首里城に押し掛け、王府は接待せざるを得なかった。3回来島して、1854(安政元)年には琉米修好条約を締結、翌年は琉仏間で、59年には琉蘭間でも条約を結んだ。国際法的には、薩摩藩、そして日本の属国の扱いではなく、琉球は独立の国家として主権を認められることになる。

*沖縄(琉球)の特異性 沖縄の人々は形質人類学、遺伝学で日本人起源説とされる(『沖縄県の歴史』山川出版社)。言語も日本語の一分枝、とされる。だが、歴史的、外交的には「日清(中)両属」、対中国には儀礼的、形式的な朝貢関係を持った。日本との関係はあったが、本来は主体的な琉球王国で、薩摩藩が武力による重圧を強いて以来、属国化されることになった。
 経済をはじめ生活環境は、本土の資本主義的生産と分業による収益分配型に対して、沖縄は比較的長かった自給自足型。教育文化環境も同様に、本土とはかなり異なる個性を築いてきた。

 異郷として開発の遅れた北海道と比較すると、北海道にはアイヌとの抗争はあったが、狩猟や資源、広大な土地に恵まれており、それを重視した幕府は松前藩を設けて、開発に乗り出した。
 一方の沖縄。人口は多く、土地は狭く、資源、産業などに恵まれず、貧しい島ちゃびの状態にある。したがって、薩摩藩だけに任せていたのではなかったか。
 そこに、北海道との扱いの格差があっただろう。

 つまり、富国強兵、産業報国の指針のもと、外地の半島、大陸に関心を深めつつあった為政者たちは、この辺鄙な島国を軽視したに違いない。土地は狭く、人口は増え続け、発展の可能性は厳しかった。まだ軍事拠点としての重要性を認識する状況にはなかった。

*差別許容の併合措置 明治維新を超えて生まれた新政府は1869(明治2)年6月、朝廷への版(土地)籍(領民)奉還に成功、さらに71(同4)年7月、廃藩置県を実施し、当初の3府302県を、11月には3府72県に減らした。
 その11月には、台湾に漂着した宮古の船の乗組員(琉球人)54人が台湾原住民に殺害されるという事件が勃発するのだが、この件は後述することとして、政府と琉球との話を進めよう。

 翌72年9月、政府は<琉球国の呼称を廃止し、琉球藩とする><国王の呼び名を藩王とする>ことを命じる。だが琉球側には、清国との両属問題があり、進貢船の交流もまだ続いており、対外3国との条約締結の事実もあった。しかも、台湾での琉球人殺害の事件も抱えていた。

*台湾征討と清国関係 明治政府内では当時、韓国征伐推進、つまり征韓論の西郷隆盛、板垣退助、副島種臣、後藤象二郎らの主張と、欧米視察で国際情勢に刺激を受けた大久保利通、岩倉具視らの慎重論が対立していた。この対立した為政者たちは、「併合」に進む時期について折り合わなかったもので、征韓論の思いは基本的に共有されており、従って、明治政府はその後韓国併合の動きに突き進んでいく。
 ただ当初の時点では、西郷らの動きは封じられ、下野して西南戦争(1877、同10年)となり、さらに自由民権運動、士族の反乱を誘っていく。そして、対外的にはまず、韓国に向かわず、琉球人を殺害した台湾に向けられる。

 台湾への出兵は1874(同7)年2月、内務卿(内相)の大久保利通らが、職を失って新政府政策に不満の士族への対応策という配慮もあって計画、強硬な西郷従道がこの年5月、3,600人の陸海兵士を出兵して原住民を制圧した。これが、日本最初の海外戦争でもあった。

 当然、清国は台湾が自国の領土だとして反発する。細かな交渉は省略するが、結局、英国の駐清公使の仲介もあって、清は「化外の地」、つまり自国の政治や文化の及ばない、実効支配していない地と認めざるを得ず、10月には日清互換条款に調印、日本の出兵を「保民の義挙」として、約67万円の補償金を支払った。
 清は当時、アヘン戦争、アロー号事件の後始末もあって国力は疲弊、先進国侵略の前夜の状態にあり、そこを突かれたものだ。

 日本側のこの勝利は、琉球人は日本人であり、琉球は日本の領土だ、と国際的に認めさせることにもなった。では、米仏蘭3国と琉球王国との条約はどうなるのかというと、3国の関心は巨大な中国大陸にあり、琉球のメリットは極めて小さく、沈黙されることになった。

*強硬な「併合」要求 こうした背景のもとで、明治政府は内務官僚(内務大丞)の松田道久を「琉球処分官」に任命し、1875(明治8)年7月に琉球入りした松田は処分の内容を強硬に伝えた。政府としては、すでに「琉球藩」「藩主」の扱いにしていた。

 わかりやすくいえば、①朝貢使、慶賀使の派遣禁止 ②清からの冊封(称号、印章、任命書を授受し、宗主国と朝貢国・名目的君臣関係を示す外交措置)の禁止 ③謝恩使として藩主(尚泰)の上京 ④明治年号の使用、年中儀式など本土他府県並みの布告順守 ⑤官制、職階制などの藩政改革実施 ⑥鎮台(軍政機関)の分営設置 ⑦少壮の10人ほどの上京による学事修行と諸事情習熟の推進、といった本土化政策で、「旧慣保持」の打破を求めた。

 しかし琉球側も、歴史的な「日清両属」の立場は譲れないうえ、国の姿を変えることへの賛否もあり、結論は出せなかった。琉球から、政府への嘆願が繰り返され、あるいは清国に訴えようと要人を派遣するなど、琉球と日清両国の外交交渉が続いた。
 政府も、熊本から軍隊を派遣し、司法権を接収するなど、併合への既成事実を進めていった。

*「処分」の決行 このようなもつれは3年以上続いたが、政府もこれ以上待てないと判断、1879(明治12)年3月、松田は警察官、軍隊数百人を従えて那覇に到着、27日には首里城に出向き、琉球藩廃止・沖縄県設置、「廃琉置県」を最終宣告した。4月4日、内外に布告され、国王尚泰は東京に連行される。ちなみに、琉球という明時代からの呼称はやめて「沖縄県」と呼ぶことになり、日本としての一体性を示す狙いを見せた。
 ここに琉球王国は、1429年の国家統一から450年にして終焉した。

*沖縄分割論は立ち消え 清国はこの事態に同年5月以降、琉球が清国の属邦で内政上の一自主国であり、一方的な廃絶は日清修好条規違反だ、と抗議した。日本側は、島津藩による征服以来の関係、台湾出兵と北京議定書をもとに廃琉置県が正当であると主張した。
 両国間の緊張が高まる中、折から米国の前大統領グラントが北京訪問後に来日し、琉球諸島の分割論を提起した。グラントと日本の間では一時、奄美は日本、沖縄本島は琉球、先島は清、の3分割案も検討されたという。

 これを機に、双方の交渉が始まり、翌80(同13)年10月、沖縄本島以北を日本領、宮古・八重山(先島)以南を清国領とする琉球処分条約案で妥結した。
 だが、交渉の当人である李鴻章がこの案の延期、反対論を唱え出し、いわば宙ぶらりんの状態になったままで、日清戦争(1894-95年)に至る。この結果、分割論自体が消えて、沖縄は完全に日本領として定着することになった。

*「琉球併合」の残したもの 以上のように、琉球王国は琉球藩となり、さらに今の沖縄県になった。そのような名称などの変化はありうることで驚くこともない。
 だが、政府と現地沖縄の間には、その扱い、付き合い方に見えない深い溝が残る。戦前と戦後の様相は大きく変わったものの、その溝は旧態依然と感じざるを得ない姿勢、風潮として続いている。それは、歴史の流れが実証しており、今に語り続けられ、今後も変わりうる兆しはまだ見えてこない。そこに、沖縄の人々があきらめるわけにはいかない、持続的な思いがある。
 本土政府の為政者の姿勢が改まらない限り、この溝は消えず、「琉球併合」時の記憶は好転することはないだろう。「歴史」は過去ではなく、今も生き続け、悩ましさや反発の根源として持続していく。

権力の専断 明治政府の為政者たちは「琉球併合」にあたって、現地や関係筋から事情、意向、条件などを十分に聴くことなく、上意下達、一方的な裁断で決定した。中央の権威によって、一地方を思いのままに動かせる、といった感覚だったのだろう。琉球王国という特異な地域への配慮が十分ではなかった。

 今日の辺野古基地建設についても、併合時の明治政府の対応と酷似して、地元との協議を尽くそうとせず、県側との対立のままに強硬に建設を進める。たしかに、仲井真知事時代に選挙前のどさくさに紛れて了解を得てはいるが、それを奇貨としてその後の事業変更などについては協議の姿勢もない。むしろ、120年前の明治政府は、時間を費やして再三の協議の場を持ったうえで併合を強行したが、今はその協議もない。

外交交渉の黙殺 「琉球併合」時に、明治政府は清国との外交交渉に応じ、また琉球分割論にまで足を踏み入れた。衰退する国と、発展途上の国という力関係はあったが、ともあれ交渉に臨んだ。

 だが、日米地位協定に大きな課題を抱える現在、両国間では運用上の小さな修正はあっても、日本政府は不平等解消に向けての協議を申し入れようともしない。米兵の不法行為を調べることも、取り締まることもできない。不平等な問題を話し合うこともせずに、日米「同」盟というのはおかしくはないか。ドイツ等の対米関係と比較してみても、現状の不平等がもたらすデメリット、差別、屈辱をそのまま放置していいのか。

 ちなみに、明治政府は幕末の不平等条約の改定にどれほどの努力を重ねたことか。右大臣の岩倉具視が欧米使節団を派遣し、条約改定の予備交渉を始めたのが1871年。
 以後、最終的に米国との新通商航海条約(改正)調印によって関税自主権を完全回復したのは、実に40年後の1911(明治24)年だった<英国とは1894年調印>。
 その間の外相は9代にわたり、関税自主権については井上馨、青木周蔵の一部回復、陸奥宗光、さらに小村寿太郎のもとで解決、また領事裁判権(治外法権)の撤廃については井上、大隈重信、青木を経て、陸奥の時代になってやっと解決した。

 当時の日本は国際的に発言権を増大させていたとはいえ、歳月をかけて、粘りの外交交渉に取り組み、その不合理を主張し続けた努力が実らせたものだが、昨今の政権にはその苦労が全く見られない。地位協定は、ドイツなどの対米条件に劣ることが明白でありながらも、ごく一部の運用上の手直しでお茶を濁して、米国に対して本格的な交渉を持ち掛けることすらしようとしない。国粋的な論調を掲げる立場の人々は、沖縄問題に限っては愛国的とは思えないほど、あきらめたか、見切りをつけたかのようだ。
 この政治姿勢への怒りが、今の沖縄にはある。

引き継がれる軽視、差別感 北海道では民族として異なるアイヌを力ずくで排除したが、広大な領土、豊富な物産や資源といった経済的メリットから重視した。
 沖縄は、同じ民族として、古くからの関わりや歴史、文化を有しているにもかかわらず、「併合」といった事態では配慮を見せていない。土地は狭く、資源が乏しく、生産力も低く、経済的見地から魅力なし、としたのか。異なる習俗になじもうとせず、権力的支配に徹してきた感が強い。

 そこに通じているのは、本土に劣る、といった軽視感、蔑視感であり、その感覚が定着するがままになじみ切ってきたのが本土為政者らの姿勢であり、それが今日までも持続されているのではないか。少なくとも、新たな恒久基地建設の動きや日米地位協定の存続などを見る限り、そのように思えてくる。仮に、沖縄県側に甘えや過当な要求があるとしても、政府はまっとうな協議に臨み、筋を通しつつ譲歩の要件を詰める責任がある。沖縄側も、そうした責任を果たすところに最低の要求があるのではないか。

軍事的視点 北海道の軍事的というか安全保障的な視点は、対ロシアにある。沖縄は、基本的には中国、あるいは朝鮮半島だろう。地政学的に見れば、沖縄に防衛線を求める姿勢もわからないではない。第2次世界大戦での米国側の攻撃も、アジア方面から沖縄に及んだように、沖縄は重要な前線だろう。
 軍事的予算が増額され、軍事防衛論が政治の焦点になる。パワーポリティクスが常道の国際政治上としては、やむをえまい。個人的には納得してはいないのだが。

 ただ、軍事の前段には、外交がある。
 外交の本筋は、相互理解と問題解決への協議だろう。背後の軍事力をちらつかせるのは、よほどトラブル打開が難航した場合であるべきで、最初から軍事ありき、ではあるまい。為政者がアピールするように、回数多く会って、にこやかに握手し、ファーストネームで呼び合うのをもって、和平外交が成功しているわけでもない。

 じっくり互いの立場を考えつつ話を進め、理解し合い、譲り合い、それぞれの国民に耐えるべき部分をよく語り掛け・・・というのが本来の外交であり、軍事や安全保障は本来ひそやかにあるべきものだ。そうはいかないことも承知しつつ、ありようだけは言いたい。
 軍事力を威嚇に使うことも、望ましくない。外交を重視するかどうかは、国家としての品位の問題でもあるだろう。
 そうした観点からすると、日本政府にとっての沖縄は外交の枠から外され、軍事の視点からばかり取り上げられているのではないか。

 (元朝日新聞政治部長)

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