【オルタ広場の視点】

岩手・大槌町再訪

被災8年余「復旧」の明暗

羽原 清雅


 この原稿締め切り直前に、取材先の町も、台風19号に襲われた。
 災害続きの方々の生活を思いつつ、この稿をもってお見舞いの気持ちをお伝えしたい。

 東日本大震災(2011年3月11日14時46分)で大きな被害を受けた岩手県大槌町を、2019年9月半ばに再訪した。災害後2年半ほど経った13年夏に大槌町に行って、復旧初期の様子を見た(同年9月「オルタ」掲載https://bit.ly/2VU43k5)。それから6年。復興ぶりはどうか。心に残された傷跡は知る術もないが、町中の生活を壊した災害から抜け出し、新たな環境と生活を取り戻す対応はどうなっているのか・・・せめてその「時間」の力を見たかった。
 町の歴史は古く、3村合併による町制から今年4月、130年の歴史を刻んだ。

 ちなみに大槌町の吉里吉里地区は、井上ひさしの小説「吉里吉里人」想定の地であり、海辺の砂地を歩くとキリキリと鳴ることからの命名とか。さらに、テレビで知られた「ひょっこりひょうたん島」だが、これを仮想したごく小さな蓬莱島が大槌湾内にある。

 8年間不通だった釜石駅から大槌駅までの三陸鉄道リアス線が走り、瀟洒な駅舎が建ち、復興の牽引車にもなった新設の釜石・鵜住居のラグビースタジアムが見える。堤防建設中で、まだ海がのぞく海浜を抜けていく。
 一方、穀倉地帯だった花巻―釜石―大槌への9月の車窓からは、刈り入れ近い黄金色の稲穂が広がる。だが、あちこちに地表が見えたり、緑の雑草が覆ったりする色違いの土地がある。農業人口の減少―高齢化、地元からの流出などの証明だろう。また、大槌駅に降りると、近くの山地に墓石がびっしりと立ち並ぶ墓地が眼に入り、強烈に「被災地」を感じさせる。

 あちこちの新しい様相が「明」だとするなら、まだらな田の肌色や立て込んだ墓地の姿は、復興に伴う「暗」の部分だろうか。垣間見ての印象に過ぎないが、大槌町のまとめたデータをもとにまとめてみた。
 小さな町の失われた8年間を見ることによって、これが大都市であったらどうなるのか、どう復旧・復興するのか、そのことを考える契機とヒントになれば、と思いつつ筆を進めたい。

          ――― <明>の世界 ―――

<当時の被害状況> まずは、災害直後の被害を振り返っておこう。敢えて数字で示すのは、人口や建造物などの密集する大都市の被災例を想定した場合、その被害状況、復旧・復興にかかるエネルギーやコストについて、行政や研究機関などの算出する予測の数値や、行政が想定する取り組みの各種計画は極めて甘いものがあり、壊滅に近い事態も考えておく必要を感じるからだ。この規模の小さな大槌町でさえ、下記のような被害を受けていることを深く考慮しておかなければなるまい。
 ここでは触れないが、死者、不明者の親族、関係者の心の痛みは、今も続き、想像もつかない重いものがある。これまでの戦争と同じようにその傷は個々の人々が負う、ということで済まされるのか。事前の想定の範囲を知ることはむずかしいが、あれもこれも想定外とすることなく、国家、そして行政の追う公的責任を考えておきたいのだ。
 ただ、足で歩いてもわからず、数字上で示す方がいいか、と思ったのだが、その分、面白さがなくなったことは残念だ。でも、具体性ある思いで、読み進んでいただければ、と思っている。

 ・浸水 この地の震度は5弱、地震そのものよりも、海に面した町として高さ約22(吉里吉里地区)~10メートル〈町役場付近〉ほどによる「津波」の被害が大きかった。地盤沈下は6センチほどで、市街地面積の半分が浸水した。

 ・死者 2018年・町復興レポートなどによると、死者817行方不明417災害関死52計1,286人。震災前の人口1万6,058人の8%が亡くなったことになる。

 ・喪失家屋 流失、全半壊、一部損壊の合計4,325棟で、全戸の7割に近い。

 ・火災 火災を受けたのは、東京ドーム3個分にあたる約16ヘクタール。

 ・公共・産業 物的な損害額を見ると、水産、農、林、商工、観光などの産業面で217億円余。役場、消防、道路、海岸、上水道、学校、社会教育・社会福祉などの公共施設では578億円余にのぼる。

 ・廃棄物 ボリュームの想像はできないが、災害廃棄物の総量は66万トン。多かったものから見ると、コンクリートがら25.6万トン、津波堆積土20.6万トン、不燃系廃棄物11.1万トン、可燃物5.3万トン、金属くず2.8万トンなど。

<復旧・復興の道のり> 復旧・復興には、あたりまえのことだが、大きな資金が必要だ。だが、それ以上に重要なのは、人々の協力だろう。心の通う遠隔地からのカンパ、と同時に、人間の気持ちと力が結集できること。大槌町を支えたのは、この人間力が大きい。
 同町が最近刊行した震災記録誌「生きる証」を中心に見ていきたい。

 ・ボランティア 震災直後の2011年4月は5,768人だったが、5~8月は8~9,000人台もの人々が参加し、9月の5,000人台を機に徐々に減少、それでも翌年も春から夏季休暇のころには支援の手は増えた。町の人々落ち着くにつれて減るのだが、この瞬発力が町の人々の生活を支えた。
 また、町役場への他の自治体や民間の派遣職員は2016年4月の130人をピークに、今年4月時点でも62人が派遣されている。ちなみに、プロパーの職員は123人。

 ・復旧・復興事業の進捗 8年の歳月は、ひと言でいえば、物的には落ち着いてきているように感じた。
 復旧事業の進捗から見ると、建物の撤去(2013年12月)、災害廃棄物処理町道再生(14年3月)、農地農業用施設復旧(17年2月)、下水道施設復(18年3月)、と順調、と言えよう。残ったのは橋梁が67%にとどまったこと。その後の復興事業の方は、漁業集落の防災(17年7月)、換地(19年1月)は完了、災害公営住宅は同年4月現在ほぼ完了だという。数字の上では、まず順調な8年だったように見える。ただ、個別的には、それぞれに忍耐し、不満もあり、かといって「自然災害」という以上、文句の持って行きようがない厳しさが残る。そんな声を聴いた。

 ・住宅の現状 寒気の季節の長い東北。最もつらい課題のひとつだ。応急仮設住宅の提供の遅さは、前回の訪問で多く聞いたのだが、2012年5月と直近の19年4月を比べると、仮設の団地は48→41、入居者4708人→418人、入居戸数2,088→218で、入居率は97.3%から11.2%にまで減っている。7年間の回復力を評価すべきか、いまだに残された1割に及ぶ人々の高齢化、窮乏状態、健康問題などを抱えた境遇を考慮すべきか、に迷う。行政の努力と、個々の置かれた生活環境の変えようのない現実――
 また、防災のための集団移転は7団地の232区画が実現。災害公営住宅は今年度中には戸建て、団地を含めて878戸が完成して、ほぼ最後になるという。
 町によると、住居はすでに9割は完成し、今年中には100%の予定だ。

 ・ライフラインの確保 上水道は当初、給水車などに頼ったが、漏水止め、送配水施設の復旧などに2ヵ月余を要して5月16日に全町に通水。下水道の浄化センターは電気設備が津波で全壊、復旧は2年近くかかった。雨水ポンプ場3か所の稼働までには3年を要した。
 停電が終わったのは4月に入ってのことで、とくに困ったのは多くの遺体を抱えた火葬場の対応で、他地への移送や土葬に頼らざるを得なかった。ボイラー用の発電機による対応が可能になったのは10日を経た3月20日以降だった。携帯電話が通じるようになったのは4日後で、これにより県庁との連絡ができ、被害状況、必要物資などの情報が流れるようになった。

 ・交通網などの整備 山地を大きく中央部に抱え、内陸と海岸沿いに人口を擁する岩手県にとって、交通網は命綱だ。震災による三陸鉄道の寸断は、この大槌町に大きな打撃を与えた。したがって、大船渡市の盛駅から久慈駅までの太平洋沿いの総延長163キロの存在価値は大きく、その途中の釜石駅―宮古駅まで8.5キロを失った影響は大きかった。2014年春の一部復旧に続く今年3月の全線開通は、地元全体に心理的な明るさをもたらした。
 また、道路は浸水とがれきによって町内の往来は寸断され、国道の開通は比較的早かったが、被災から2か月余りがたったころでも県道の開通は20%、町道は10%だった。復興道路は開通(19年1月)したが、トンネルと、ふたつの橋梁はやっと年内の完成待ちで、8年がかりということになる。災害の怖さ、である。
 ガスはプロパンガスだけだったので、 怪我の功名というか、その復旧は早かった。

 ・各施設の復活 町の中心部には、新築でこぎれいな店舗や住宅ができている。かつての仮店舗の姿が消えて、居酒屋、喫茶店、スナック、焼き肉店、など、観光客を期待するかの店舗が見える。また脱サラの人物が書店を開店した。ひとつの文化の拠点だ。駅周辺はまだ空き地も広がり、ところどころに新築中の建築物が見える。

 被災死した人たちの遺骨66体を納めた納骨堂は2017年2月に完成して、近くに「鎮魂の森」を造成する計画もある。また同じころに、今後の津波対策として、山手の高台に逃げられるように、長さ255メートル、幅1.5メートルの鉄製の階段が作られた。
 被災後5年余の16年5月、県立病院(内外皮眼整形5科、50床)が新設された。医の拠点の復活は高齢者の多い町をおおいに明るくした。かつての町には、民間の診療所7か所、歯科6か所、調剤薬局6か所があったというが、今はどうなのか、つかみきれなかった。
 もうひとつ、木造3階建ての瀟洒な町文化交流センターが、駅の近くに目を引く。全壊した従来の図書館、集会場など3つを複合新築させた施設だ。2018年6月に立派な図書館、震災伝承展示室、会議室、スタジオなどを備えるもので、町や県産の木材が使われた。

 ・生まれかわる学校教育 被災前の大槌町には、小中学校が7校あった。これを統合して、大槌学園と吉里吉里学園の2校に集約するとともに、小中一貫の4・3・2制を導入した。大槌学園のそばには、県立大槌高校がある。災害がなかったなら、容易ではなかった改革を実現した形だ。
 教師の専門性を生かそうという教科担任制を採用、全学年で「ふるさと科」の特別授業を持って地域・防災・生活と進路の3大柱を学ぶ試みを始めた。
 また昨2018年11月には、小中一貫教育全国サミットが大槌町で開催されるまでになり、全国から約1,600人が集まって、熱心な議論が展開されたという。

 ・元気の背景 8年間にわたる厳しい復興への取り組みと耐久の日々、失われた家族や多くの知人たちへの悲痛の中で、なんとか大震災を乗り越えてきた。まだ課題や思いは多く残されるが、大槌町1万数千人のこれまでの苦闘は、全てを犠牲にした第2次世界大戦後の日本の立ち直りの実相を思わせる、いわばミニチュアの姿だったのだろう。違いは、戦争が人為的な行為なのに対して、この災害は人為性のある福島の原発被害とは異なり、自然による猛威だ、ということだろう。

 人気のない大槌の町を歩いていて、何が復興を支え続けたのか、と考えた。この町に着く前に花巻に立ち寄り、たまたまそこで秋の祭り、鹿踊でにぎわう街中を見ていたこともあって、郷土の祭りというものが地域結集のカギになったのか、と思った。この旅の途上、宮古、盛岡でも折から祭りの賑わいや家族連れの笑顔、山車を引く人々の雄姿を見ることができて、あらためて「祭り」の重さを感じることになった。大都市にはない活力を感じさせた。
 大槌の祭りはこれから、という時期ではあったが、虎舞、鹿子舞、神楽など地域に根差した伝統芸能のあることを知った。

         ――― 「暗」の世界 ―――

 「明」の世界を見てきたが、単純にそう言い切れるものではないことを承知しつつ、あえて「暗」の世界との対比において、仕分けてみた。というのは、なんとか復調の兆しを喜びながらも、ひとたび受けたダメージは今後に尾を引き、不安定な部分をこれからの若い人々に残さざるを得ない印象も消えないからだ。

 ・人口の減少 震災の前の町の人口は1万6,058人(2011年2月)だったが、19年7月の人口は1万1,735人。毎年徐々に減少の道をたどっている。日本全体の傾向と同じ、と言えばその通りだが、災害という非常事態が招いた結果ということから離れるわけにはいかない。
 念のため、1~9月までの人口動態を月刊の「広報おおつち」に見ると、高齢者を中心に死去90人、出生41人で、毎月死亡が倍以上に多く、また15組の結婚は喜ばしいが、減る人口に歯止めをかける状況ではない。

 ・産業の沈滞 水田や畑15ヘクタールが津波の被害を受けた農林関係(被害額8億8,000万円)では、農家は20年前より150戸、林業では10年前より180戸も減っている。人口減、高齢化と後継者難などの趨勢を、災害が加速させたことは間違いない。
 ただ、農業と畜産の産出額については、救いとまでは言えないだろうが、いくらか伸びている、という。
 商業で71億円、工業で61億円など損害額150億円超という商工業はどうか。商業では、事業所、従業員、販売額は、震災前と2012年とを比較すると8割減、徐々に回復はしているが、まだまだ追いつかないのが現実のようだ。工業も被災前と被災翌年とを比べると、事業所は6割超、従業員は7割弱の打撃を受けたが、次第に増加の傾向にあるという。
 商工会には442事業所が参加していたが、8割が被災、まだ戻っておらず、回復の途上にあるようだ。

 町の中心産業でもあった水産業はどうか。被害は、漁船672隻を含めて総額51億円の損害が出たが、まだまだ追いつけないでいる。漁協の組合員も昨年3月時点で、往時の859人が3分の1の259人までに減っている。
 漁場にも厳しさがある。地球温暖化による海水温度の変化などもあろうが、この地の名産とされる鼻曲がりサケは5分の1に減った。ほぼ100%まで復活できたのはカキとワカメ。
 被災前の2010年と18年とを比べると、上記のほかの海産物の状況は次の通りだ。
  ウニ 75%、アワビ 46%、コンブ20%、ホタテ 14%

原発のデメリット 原発被害による福島中心の被害と、東北各県の被害の様相は明らかに性格を異にする。だが、放射能汚染は、大槌の産物のシイタケ、干しシイタケの出荷に影響し続ける。検測の数値が規制の基準を超えたことと、風評被害などによるものだが、日韓関係の悪化のあおりまで加わって、影響は続いている。

定住希望の低迷 町の発展を悩ませるのが、将来のありようだ。
 2018年9月の町民アンケートによると、「定住したい」が60%にとどまり、「町外に住みたい」が10%で、「わからない」が4分の1の25%だという。ただでさえ人口が減るなかでのこの傾向に、どんな歯止めができるのか。町内に働く場ができればいいのだが、水産業は低迷、商工業の職場も減少、農業は不人気、若い人の都会へのあこがれ、など町に引き留める肝心の「仕事」を生み出せるかどうか。復興に伴う仕事が減ってくると、さらなる流失を招かないだろうか。悩ましさは続く。
 ついでながらに、町外への避難者は、被災後間もない2012年9月時点は2,826人だったが、18年10月には逆に増えて3,070人だった。

財政事情 2019年度の町の当初予算は、歳入、歳出とも201億円規模。歳出の半分以上の57%は復興費で、民生費9.4%、衛生費5.7%、総務費4.8%、教育費3.4%などだが、公債費も3%ある。
 町の広報誌は、依存財源(地方交付税28.7%、国と県支出金各5%余、町債3.9%など)と示す一方、自主財源については1,11億円、その内訳は「町税10億4,690万円」(5.2%)のほかは「諸収入など100億5,969万円」とあるだけなので、財政的な将来展望は読み取りにくい。自主財源が多いことは望ましいのだが、この内訳は手数料、使用料、寄付金、財産収入、分担・負担金、収益事業収入などが、どのような比率で収入化しているのか。住民には具体的に示して、将来的な財政的課題が何か、を語っていった方がいい。
 まだ復興予算に頼っていられる時代はいいが、今後は2020東京五輪後の不況が想定されること、復興がらみなどの収入は次第に削減されざるをえないこと、などで、年々厳しいフトコロ具合になってくるに違いない。長期的な思案のしどころである。

二分した被災役場の解体論議 6.4メートルの防潮堤を超えた10メートルもの津波は、2階建ての役場を襲い、町長はじめ28人、駆けつけようとした11人の計39人の職員を飲み込んだ。破壊され残された庁舎を巡って、保存か、解体か、の論議が割れた。結論から言えば、2019年1月に解体され、そこには空き地が広がった。

 保存論は、亡くなった人たちの鎮魂のため、防災教育徹底のため、記憶を風化させないため、などと主張。一方、解体論は、見るたびに絶えず苦痛を覚える、地域アイデンティティ上後世に恥ずかしい、保存にコストがかかる、などの点が挙げられた。結局は、町議会の多数決もあって解体となった。
 もう取り戻すこともできないが、筆者の印象からすると、確かに保存されれば心に痛みを感じることはあろうが、長い将来からすると、各自治体に被災の象徴がひとつ残されていいのではないか、と思う。写真などの展示では感じられない強いアピールを、後々の若い人たちに訴えるのではあるまいか。短視的に当座をしのぐ姿勢は、日本ではありがちなことではあるのだが。ヒロシマの原爆ドームは今も、海外から来る人々にも、人類の生存を脅かす非の印象を強烈にアピールし続けている。

地元の生活からの印象 震災後に地元でひとり新聞社を立ち上げ、復興の姿を見続けてきた「大槌新聞」の、菊池由起子さんはこれまでの経過について次のように見る。

 「復興のハード面では、工事中の防潮堤以外はほぼ完成した。それはそれでいい。ただ、震災直後に制定された東日本大震災復興基本法は『基本理念』<2条>として『単なる復興にとどまらない、21世紀半ばにおける日本のあるべき姿を目指した復興』をうたい、さらに『地方公共団体の責務』<4条>として基本理念と復興基本方針に基づいて『計画的かつ総合的に復興に必要な措置を講ずる責務を有する』と、21世紀半ばという期限を設け、日本のあるべき姿を目指すとまで、明確に示している。
 しかし、今後もありうる災害について、将来へのあるべき姿が考えられているだろうか。大槌など被災地で経験したまずかった点などの教訓が生かされたといえるだろうか。政治、行政、専門家、メディアなども、のど元過ぎれば、で時間の経過とともに、次の被災にどのように生かしていくべきか、という視点や課題への取り組みが薄れていっている」

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 リアス海岸の続く大槌町の周辺は、津波の常襲地帯。明治以降の大津波は・・・・

 1>1896(明治29)年6月15日  明治三陸沖地震津波
      死者7027人中598人、被災1,172戸中525戸
 2>37年後 1933(昭和8)年3月3日  昭和三陸沖地震津波
      不明を含め62人死亡、家屋倒壊流失622棟
 3>27年後 1960(昭和35)年5月24日  チリ地震津波
      死者ゼロだが、被災6,542人、全半壊223棟、流失44棟、床上浸水345棟
 4>8年後 1968(昭和43)年5月16日  十勝沖地震津波
      物損約3億円 
 5>43年後 2011(平成23)年3月11日  東日本大震災津波
      死者870人、不明416人、全半一部損壊4,375棟

 この再三繰り返される震災・津波に、その被害状況を、市民はどのように受けとめるか。しかし、国家や自治体の行政は、計画性と市民を守るために課税する以上、その責務は重く、「予想外」は逃げ言葉として許されない。ごく小さな大槌町に学ぶことは多く、この8年間の同町の苦闘を思い、国のかじ取りのありようを感じ、短視的な日本の風潮に怒りを感じつつ、この稿を終わりたい。

 (元朝日新聞政治部長)

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